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企画院=経済安定本部の役割~1940年体制と官僚制度~

2005年03月16日 18時47分00秒 | 研究ノート
この文章は、1995~96年くらいに、NHKの特集番組をもとにして、「現代社会」の授業のために書いたものである。どういう題名の番組だったかは忘れてしまったが。野口悠紀雄さんの『1940年体制~さらば「戦時経済」』(東洋経済新報社、1995年)をもとに書いたとずっと思っていたが、内容からしてちがうようだ(野口さんは官僚の役割を重視していないから)。いずれにしても、日本の経済システムが戦時中につくられ、戦後も連続してきたという内容である。




1.企画院=経済安定本部の役割
 日本では、中央官庁が日本全体の経済戦略を立て、私企業を指導・監督してきた。日本の高度経済成長はこれによって実現したとも言える。この中央官庁と私企業との官民協調体制は、世界的にみてもたいへんめずらしい。ここでは、戦中に設置された企画院と戦後に設置された経済安定本部をとおして、その成立を見てみたい。

2.国家総動員体制と「資本と経営の分離」
(1)国家総動員体制
 日本は1945年の敗戦まで、1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争と、15年間にわたって戦争を続けてきた。この戦争遂行のためにつくられた国家総動員体制が官民協調体制の原形となった。
(2)企画院の設置
 日本政府は戦争遂行のため、経済の全面統制をめざし、1937年に企画院を設置した。企画院は1938年に、電力の国家管理を行い、すべての電力会社を「日本発送電株式会社」に統合した。そのとき問題となったのが、「私権」と「公益」のどちらを優先させるのか、という問題であった。日本政府は「私権」よりも「公益」を優先させた。
(3)資本と経営の分離
 笠信太郎(りゅうしんたろう 1900-67)は『日本経済の再編成』を1939年に刊行し、「資本と経営の分離」を唱えた。企業には、私的利益(利潤)を追求する側面と、生産によって公的利益に奉仕する側面とがある。このうち、利潤追求の側面を統制によっておさえ、生産力増強のため経営担当者に公的人格を付与する(企業の重役に経済官吏の身分を与える)のである。つまり利潤より生産を優先させるのである。

3.経済安定本部と傾斜生産方式
(1)経済安定本部の設置
 1945年、日本は戦争に敗れ、アメリカ軍の占領下におかれた。日本の生産設備の多くは空襲によって破壊され、経済復興が急務とされた。1947年に成立した片山内閣は、経済安定本部を設置し、経済復興の中心においた。経済安定本部の長官は企画院で活躍した和田博雄(1903-67)であり、副長官には経済学者の都留重人(つるしげと 1912-)と、後に日本商工会議所会頭をつとめる永野重雄(1900-84)を起用した。
(2)傾斜生産方式
 この経済安定本部が採用した生産方式が傾斜生産方式である。これは、当時の基幹産業であった石炭と鉄鋼に、資本と労働を集中的に投入する方式であった。また復興金融金庫をつくり、基幹産業に積極的な融資を行ったが、この資金を大量の紙幣の増刷で補ったため、インフレーションが起った。
(3)ドッジ=ラインと大蔵省
 日本のインフレーションを憂慮したアメリカは、アメリカの援助と補助金という2本の「竹馬の足」を切るドッジ=ラインを実施した。同時に赤字歳出をまったく許さない超均衡予算を要求した。当時、予算編成権を誰が持つか、ということをめぐって大蔵省と経済安定本部の間で対立があったが、このとき大蔵省が予算編成権を握り、以後「官庁の中の官庁」としての地位を得ていく。

4.官民協調体制と「高度経済成長」
 1950年代になると、経済安定本部の機能は縮小され、現在の経済企画庁となっていく。かわって企業を監督・指導する権限は通商産業省(通産省)など各省庁に移っていく。こうして官僚が私企業を監督・指導する官民協調体制が完成し、1960年代に日本は高度経済成長に成功したのである。




 日本の経済システムが戦時中につくられ、戦後も連続してきたという話をいちばん最初に聴いたのは、日本現代史の藤原彰先生(『昭和史』[岩波新書、新版1959年]の作者のひとり)の集中講義だったが、当時はその意義をまったく理解していなかった。
 都留重人さんは、伊東光晴先生の先生だったんで、『都留重人著作集』(講談社、1976年。全13巻)のうちどれか1冊を買って読んだはずなんだが…。
 えらい先生の授業を受けている割に、ダメポ人間だな。w

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