●序幕(初日序幕)
(一)浅草境内の場
江戸町人の信仰を集める浅草観音の境内は今日も賑わっている。とある茶見世では、参詣客の通人やら商人やら、風態のわるい地廻りまでが、茶を飲みながら、あれだこれだと勝手な事を言っている。ここで目立つのは、上手(右手)の楊子店で楊子を売っているお袖(お岩の妹、塩冶浪人・四谷左門の娘)の美貌であった。しぜんにその娘の話題になるが、茶見世の「かか」の話では、その娘も人に隠れて売春をしているという。騒然となるところヘ、参詣帰りらしき、供を連れた身分の高い老武士の一行がやってくる。供の医師・尾扇(びせん)との会話で、彼が当時権勢筆頭の、高野師直の家老で、伊藤喜兵衛といい、声高に塩冶の家の失脚をそしり、おのれの栄華を誇っているが、孫娘のお梅がある待にぞっこん惚れて、何が何でも、たとえ妻子ある人であっても、その人が忘れられずに、気鬱の病となっていること、伊藤喜兵衛がその孫娘のためなら、「たとえ金に飽かしても(その男を)聟に取る」という気でいることがわかる。
折しも、そこへ藤八五文(とうはちごもん)の二人の薬売りが来かかる。一人は帰ったが、残る直助は、実は元塩冶藩の奥田家に仕える中間であったが、四谷家娘のお袖に片思いして、今は楊子店で売子をしているお袖に盛んに言い寄る。しかしお袖には、まったくその気はなく、にべもない応答。
伊藤喜兵衛が、お袖の店から楊子を買おうとすると、先程の塩冶家への侮蔑のことばを聞いたお袖は、はねつける。伊藤はさては塩冶のゆかりかと悟り、言いがかりになり、直助が止める。
その時、反対側で騒ぎが起きる。見ると四、五人の乞食が、彼らの縄張のなかで、ことわりなしに物乞いをした老武士を捕えて、その老武士こそ、塩冶浪人・四谷左門だが、貧に迫られて乞食をしたのだった。詫びを入れてもきかず、踏んだり蹴ったりの乱暴。その騒ぎのなかヘ、人だかりを押し分けて、一人の浪人姿ながら、りりしい男が仲に入る。金を乞食らに渡して、四谷左門を救い出し、その上で、丁寧に妻と復縁させてくれと頼む。この水ぎわだったいい男こそが民谷伊右衛門で、四谷の娘お岩と好き合って結婚したのだが、親の左門によって仲をさかれ、お岩を取り返された男であった。
伊藤の孫娘は、その伊右衛門をただうっとりと見惚れており、「これは」と悟った喜兵衛は伊右衛門の挙動をじっと見ている。
さて、四谷左門は伊右衛門の頼みをすげなく拒絶する。その理由は、伊右衛門が、塩冶家の資金を横領した不義士だからである。伊右衛門は否認するが、左門は証拠まであげる。ここまでくると、伊右衛門は開き直って、左門の無礼を怒り罵倒する。
「もう頼まねえよ。とにかく舅だと思うからことばを尽し手を下げて、丁寧に話してあやまりもしたんだぜ。それにつけ上って何だ。手前は往来の人に物乞いをして、食うこともならねえ癖に、心が違うとか気に入らぬとか、やせ我慢の貧乏を助けてやろうと思うたのに、身のほど知らぬ老いぼれめが」
左門は無視して去って行くが、自己の旧悪まで知られた以上は(生かしておけぬと)伊右衛門は見えかくれにその跡を追う。
ここまで伊右衛門のしぐさを見ていた伊藤喜兵衛は、「これは」と思う。どうやら孫のお梅が恋うている、あの男(伊右衛門)は、塩冶に敵対する強力な味方になりそうだ。「それならあの男を、身うちにしてもいいのではないか」と思うとき、乞食に扮した塩冶浪人奥田庄三郎が、物乞いとして近づき、屋敷の移転を聞き出す。「さては、此奴は塩冶か」と喜兵衛は気づく。庄三郎の持つ廻文状が手に入って、「しめた」と思うが、そこを通りかかった小間物屋、実は佐藤与茂七が、廻文状をとり返す。その与茂七は、お袖の許婚者だが、この浅草境内で評判の楊子屋のお袖(おもんと称している)が、夜は地獄(売春宿)に出ると聞いて興味を持つ。先の直助も茶見世の「かか」から、お袖は隠れ売春をしていると聞いて、それはと喜び、出かけてゆく。
(二)薮の内地獄宿の場
按摩の宅悦が経営している表向きは灸点所に見せかけた地獄宿が、お袖が、親姉にかくれて売春する家である。そこへ茶見世の「かか」に案内されて、直助がやってくる。直助の注文はもちろんお袖。やがてお袖がやって来て、客が直助と知って驚く。じつは客に呼ばれても、帯紐とかず、親の困窮、姉の病気とわけを話し、少しの志をいただくのがわたしの仕事と、お袖は打ちあける。そんならなおのこと、昔と違って商人になった自分には稼ぎがあるゆえ、世話をしたいと直助はくどくが、お袖は従わない。直助は金の入った胴巻をわたし、形だけでも共寝しようとお袖を寝所へ連れこむ。
そこへ、今度は佐藤与茂七が女買いに来た。お袖は直助の部屋から呼び出され、喜んで与茂七の部屋へ来る。暗くしてあるので二人はお互いが分らない。お袖は、「これこれしかじかの仔細あって、恥しながら身は売らず、お客様のお気持だけの喜捨をいただきたい」と訴える。与茂七は、親のためなら吉原へ身を売るがよいと、お袖をなじる。屏風が倒れて明るくなり、「お袖ではないか」、「あれ、与茂七どの」と二人は驚き、お袖は恥ずかしがる。与茂七は許婚者(女房)の身売りを怒るが、お袖は逆に、そういう貴方はなぜこんな所で女買いをしているのかとなじる。痴話喧嘩じみた言い合いの後、それでも好いた同士、久しぶりの二人は抱きあう。
直助は隣室で聞いていて、たまらず「泥棒め」と大声たてて騒ぐ。宅悦が出ると、「女の二重売りだ」と言う。与茂七、お袖も、見れば昔の下郎・直助ゆえ、叱りつけるが、直助はお袖に金を渡したのに、俺とは寝ずに、亭主といちゃつく。これが泥棒でなくて何か。なんならお袖を俺にちゃんと抱かせるかと、開きなおる。金の入った胴巻を、お袖から取り返した上、さんざんに二人を侮辱する直助の憎々しさ。
そこへ藤八(薬売りで直助の相棒)が来て、直助の金を取り上げ、着物までまきあげて退場。宅悦も迷惑がり、与茂七もこのざまを嘲笑して、提灯を下げてお袖とともに退場。あとに残った直助は何かを決意して、与茂七の後をつける。
(三)浅草裏田甫の場(一)
浅草裏田甫は乞食たちの溜り場である。乞食たちが、今日の出来事(伊右衛門からの貰い金)を喜んでいる。そこへ浪人・秋山長兵衛が登場し、酒屋の若い者にいいがかりをつけて、連行しようとしているが、中間・伴助と出会う。や若い者が消えた後、伴助は、民谷の日雇い仲間の小仏小平が、主家の名薬ソウキセイを盗んで逃げたという話をする。それはけしからぬ、探し出さねばと、二人は退場する。
姿の奥田庄三郎が、先の佐藤与茂七と出会う。与茂七は、庄三郎が伊藤喜兵衛に突っかかり、廻文状を取られたような無用心を戒め、自分は今からすぐにこれを山科に知らせるために旅に出る、と言う。「では用心のため、自分のなり(姿)に変るとよい」と庄三郎は言い、その場で二人は、衣服を交換する。持っていた提灯も、与茂七から庄三郎に―。
この二人が去ったところヘ、四谷左門が通りかかる。伊右衛門のごとき不義士には、娘お岩を渡せないと、ひとり言。ところが、その生垣から伊右衛門が出て、地蔵を蹴倒し、左門がつまずく所を、ばっさりと斬る。左門が立ち上るのを、蹴倒し、刀を振りあげる。
(四)浅草裏田甫の場(二)
富士浅間神社の賽銭箱の見える浅草裏田宙の別な場所。
直助が頬かぶりして、小間物屋・与茂七の衣裳を着た庄三郎を、出刃包丁で刺し殺している。
「与茂七め、宵の遺恨を思いしったか」と言いつつ、「そうだ人に分らぬように、面の度をはいでおこう」と、顔面の皮をくるくると包丁で巻きとる。包丁はかくす。
そこへ左門がよろめき出る。伊右衛門が追ってきて立ちまわり、斬り殺してとどめをさす。
「老いぼれが、刀の錆となって自業自得だわえ、ざまあ見ろ」という。
その声に直助が気がつき、二人は顔を見合わせ、お互いの人殺しを認めあう。そこへ人が来る様子で、二人はかくれる。
お岩が登場する。手拭いを冠り、安下駄をはき、ござを持ち、その姿は夜鷹(よたか=街娼)である。父を心配する台辞がある。もう一人、今度は提灯を持ったお袖である。おたがいに気づき、姉の姿に、一言いうお袖。それに対してお岩も、お袖の「地獄」勤めの噂を言う。だが、二人はともに父のための、しがなく、わびしい勤めであることを、嘆きあわずにはいられない。
やがて倒れている男二人の死骸に気づく二人。提灯の明りで見れば、一人は父の四谷左門、一人は衣類からどうやら佐藤与茂七。姉妹は思わず死骸にすがりついて、泣く。
「夜陰に何やら女の泣き声」と言いつつ、伊右衛門登場、左門、与茂七の死骸に大げさに驚くふり。そこへ直助も登場し、大げさに驚くふり。そして二人の女の前で、やにわに腹を切ろうとする。
「中間の身分で、お袖様を争って、先に喧嘩をした自分。きっと佐藤様殺しの疑いをかけられるであろう。死んでその疑いを晴らすしかない」と言うのである。
伊右衛門はこれをなだめ、「二人を殺した程の相手は、さぞかし腕の立つ奴。とても女では敵討はできぬ。お前にその気持があるのなら、お袖の後ろだてとなって、敵討の助勢をするがいい」と言う。
お岩は、目でお袖に合図しつつ(直助があやしいと知らせつつ)、お袖に直助と仮の夫婦になって、与茂七殺しの犯人を探せという。また伊右衛門は、四谷左門の敵を討つためにも、お岩と元通りの夫婦になろうと言う。それを、複雑な気持で、「嬉しうござんす」と答えるお岩なのである。伊右衛門、直助は、(にったりと)顔を見合せて幕。
●第二幕(初日中幕)
雑司ヶ谷四谷町の場
(五)伊右衛門浪宅の場
貧しい伊右衛門の浪宅では、妻のお岩は初産が済んだばかり。伊右衛門は傘張りの内職をさておいて、仏孫兵衛(小仏小平の父)と、口入れ屋の宅悦を呼びつけ、家宝の妙薬ソウキセイを盗んで逃げた小平を探し出せと叱っている。ソウキセイは足腰の萎えに著効のある妙薬とか、とすればあの正直者の小平が、その薬を盗んだのは、前主人の塩冶浪人・小塩田又之丞が腰膝の疾病で臥っている、それを助けるためかと、孫兵衛は思案しながら帰る。しかし隣人の秋山長兵衛が、深川のあたりで小平を発見し、関口官蔵らと、小平を縛りあげて連れてくる。薬は無事に伊右衛門の手にもどる。だが盗人をただでは許せぬ、指を全部折ってしまえと、宅悦の制止をふりきって、泣きわめく小平に猿ぐつわをして、三人がかりでさんざんに小平をいたぶる。そこへ、隣家の伊藤家から乳母のお槙が沢山の見舞の品を持って、訪ねてくる。伊右衛門らは、とりあえず小平を押入に隠す。お横は、お岩の出産の祝いを丁寧に述べ、数多くの進物や酒肴を持ちこむ。その上、産婦にと、伊藤家伝来の血の道の妙薬を、伊右衛門に渡す。
別室の戸をあけると、お岩が赤子を抱いている。お横はそのまま帰り、お岩や秋山らのすすめもあって、伊右衛門は高野師直の重臣とは知れていて、気のすすまぬ伊藤の家へ、それでも礼を申しに、秋山らと共に出向くことになり、宅悦には飯をたくように命じ、お岩には伊藤の家からの血の道の妙薬だと、薬袋を渡して出かける。
その後、身体具合のわるいお岩は、日頃にまして冷たい伊右衛門を嘆きながら、伊藤の薬を呑む。すると突如として、猛烈な顔面の激痛におそわれる。宅悦があわてて介抱をするのだが、お岩の苦痛は止まない。そのまま、次の場面に舞台はかわる。
(六)伊藤屋敷の場
伊藤の家、美々しい座敷で、伊右衛門、秋山、関口らが、伊藤後家・お弓や乳母お槙らに接待されて酒宴である。二人の若侍が持ってきた吸物椀の中には小粒銀がたっぷり。伊藤喜兵衛は、これ見よがしに小判を盥(たらい)で洗っていたが、折を見て、秋山、関口を別の部屋へ去らせ、民谷伊右衛門に向って、多額の小判を贈ろうとする。これは何ゆえかと驚く伊右衛門に向って、「実は」と、喜兵衛は隣室の襖をあける。
振袖姿のお梅がいる。喜兵衛も、母のお弓も、お梅に今はすべてを話せと言う。喜兵衛、お弓、お梅のこもごもの話では、お梅は過日伊右衛門を見て恋をし、寝てもさめても忘れられず、やがて転宅して伊右衛門の隣家となって、彼が妻のいる侍と知った後も、この恋を捨てられず、せめて水仕女になっても貴方様の側において欲しいとの願い。
喜兵衛もお弓も、妻がいるのは承知の上、孫娘のためには、伊藤の家のすべてをはたいても、伊右衛門にお梅の聟となってほしいと願う。
聞きとった伊右衛門は、「いくら何でも妻のいる身が、その儀はお受けできない」と答えると、お梅は悲しみ、「あきらめます」と剃刀をとり出して、自害しようとする。それは短慮なと、一同で止めるものの、立ち聞きした秋山が、ここに入って、病弱な妻のお岩にこだわらず、この際伊藤の家に入ったらどうかと薦める始末。「世間の手前というものがある。今さらお岩を捨てることはできない」と、伊右衛門は拒む。
と、何を思ったか、伊藤喜兵衛は、「そういう事なら、私を殺して下さい」という。それはなぜか。喜兵衛は続けて、実はお岩に呑ませた血の道の薬というのは、それを呑めばすぐにも面態が醜く崩れる毒薬であるという。生命に別状はないけれども、お岩が醜い姿となれば、伊右衛門の気持も変るだろうと、ただ孫娘の不憫さに、鬼となって、お岩殿に毒薬を盛ったのはこの私、「さあ殺して下さい」と迫るのである。お梅もまた「死にたい」と言う。
あまりの話に驚きながら、考えこんでいた伊右衛門は、ついに「承知しました。お岩を去っても、娘御を貰い受けよう」と答える。「その代りに、高野へ推挙を」、喜兵衛はそれはもちろんのことと喜び、秋山は「それでは、わしが仲人に」と、ここで事態は大きく変って、場面転換。
(七)元の伊右衛門浪宅の場
薄暗くなった室内にお岩が倒れている。宅悦が行燈に灯を入れて、その明りで見ると、お岩の顔貌は一変している。宅悦は腰を抜かすばかり驚くが、あえて口にせず、「油を買いに行く」と言って外へ出る。
入れ替わりに伊右衛門、「喜兵衛はああ言ったが、お岩の顔はどうなったか」と独言しつつ帰る。お岩を見ると、すさまじい顔。伊右衛門もあきれるが、お岩が心細く、「わたしはいずれ死ぬでしょうが、そのあとよもや」と言いかけると、わざと非情に、「持ってみせるわ。新しい妻をの」と言う。お岩は「敵討の約束は」と言うと、「今どき古風な敵討、俺はいやだ」と突っぱねる。お岩が、「お前さんは新しい女に、わが子を見替えるのか」と言うと、「見替えないでどうするものか」。いやなら出て行け。お前が他の男と不義をしたから、俺も見替えると、とにかくお岩を追い出すための無理難題を言う。お岩は否定するが、伊右衛門はお岩の相手はあの宅悦だと言い、女の為に金が要るのだと、お岩の母の形見の櫛、着ていた衣類、それに赤子を寝かしていた蚊帳まで奪って家を出る。しかも途中で油を買ってきた宅悦に出会い、お岩と不義をしなければ斬るぞと、脅して―。
宅悦はやむを得ず、戻ってきた後にお岩の側へ寄り、お岩の手をにぎりながら口説く。お岩はきっとなって、「慮外者め」と、あたりにあった小平の脇差を振りまわす。
宅悦は逃げまわって、「嘘でございます。何を好んでお前のような悪女と不義をするものか」と、懐中鏡を渡して、お岩に自分の顔を見ろと促す。
それまでお岩は自分の顔が、かくも無残にただれ崩れて妖怪めいた変貌をとげているのを知らなかった。今、鏡を突きつけられ、どうにも信じられないが、二度見て、三度見て、自分が伊右衛門と伊藤の悪計のために、ここまで醜く変貌させられたのかと、口惜しがる。
宅悦は、伊藤喜兵衛の悪計、伊右衛門が伊藤の孫娘お梅に入聟するため、今やお岩を追い出しにかかっていることなど、全部をお岩に話してしまう。「間男せねば斬り殺すと脅されても、今のお前と不義などできるものか」と宅悦。
だまされ、踏みにじられ、毒を呑まされた口惜しさ、怒り、お岩はここで変ってしまう。「もうこの上は気をもみ死に、息ある内に伊藤喜兵衛めを」と、よろめきながら出かけようとする。しかし、あまりにひどい自分の姿、「せめて女の身だしなみ」と、宅悦が止めるのを退けて、鉄漿(おはぐろ)道具を取り寄せ、髪を梳(す)き、口を染める。以下は台本の引用。
お岩 髪もおどろのこの姿、せめて女の身だしなみ、鉄漿(かね)など付けて髪梳き上げ、喜兵衛親子に詞(ことば)の礼を
ト思ひ入れあり
お岩 コレ、鉄漿(おはぐろ)道具拵(こしら)へてこゝヘ
宅悦 産婦のおまへが鉄漿付けても
お岩 大事ない。サ、早う
宅悦 スリヤどうあつても
お岩 エヽ、持たぬかいの
トじれて云ふ。宅悦、びつくりして
宅悦 ハイ
ト思ひ入れ。これより、独吟(どくきん)になり、宅悦、鉄漿付けの道具をはこぶ事。蚊いぶし火鉢へ鉄漿をかけ、山水(さんすい)なる半挿(はんざや)、粗末なる小道具よろしく、鉄漿付けあつて、件の赤子泣くを、宅悦、かけ寄り、いぶりつける。この内、唄(うた)一ぱいに切れる。お岩、件の櫛を取つて、思ひ入れあり、
お岩 母の形見のこの櫛も、わしが死んだらどうぞ妹へ。アヽ、さはさりながら、お形見のせめて櫛の歯を通し、もつれし髪を、オヽ、さうぢや
トまた唄になり、件の櫛にて髪を梳く事。赤子泣く、宅悦、いぶりつける。お岩は梳き上げし落ち毛、前へ山のごとくたまるを見て、櫛も一ツに持つて
お岩 今をも知れぬこの岩が、死なば正しくその娘、祝言さするはコレ眼前、たヾ恨めしき伊右衛門殿、喜兵衛一家の者どもも、なに安穏におくべきや。思へば[思へば]、エ、恨めしい
ト持つたる落ち毛、櫛もろともに一ツにつかみ、きつとねぢ切る。髪の内より、血、たら[たら]と落ちて、前なる倒れし白地の衝立へその血かゝるを、宅悦、見て
宅悦 ヤヽヽヽヽ。あの落ち毛からしたたる生血は
トふるへ出す、
お岩 一念とほさでおくべきか
トよろ[よろ]と立ち上り、向ふを見つめて、立ちながら息引き取る思ひ入れ。宅悦、子を抱き、かけ寄って
宅悦 コレお岩様[お岩様]、モシ[モシ]
ト思はずお岩の立ち身へ手をかけてゆすると、その体、よろ[よろ]として、上の屋外へばつたり倒るゝ。そのはずみに、最前投げたる白刃、程よきやうに立ちかゝりゐて、お岩の喉のあたりをつらぬきし体にて、顔へ血のはねかへりし体にて、よろ[よろ]と屏風の前をよろめき出て、よきところに倒れ、うめいて落ち入る。宅悦、うろたヘ、すかし見て
宅悦 ヤア[ヤア]、あの小平めが白刃があつて、思はず止めもコリヤ同前。サア[サア]、大変。
トうろたへる。この内、すごき合方、捨鐘(すてがね)。この時、誂(あつらへ)の猫一疋出て、幕明きの切溜(きりだめ)の肴(さかな)へかゝる。宅悦見て、
宅悦 この畜生め。死人に猫は禁物だハ。シイ[シイシイ]
ト追ひ廻す。猫逃げて障子の内へかけこむ。宅悦、追うて行く。この時、簿ドロ[ドロ]にて、障子べたら[たら]と血かゝる。とたんに欄間よきあたりヘ、猫の大きさなる鼠一疋、件の猫をくはへて走り出る。猫は死んで落ちる。宅悦、ふるヘ[ふるへ]見る事。この時、鼠はドロ[ドロ]にて心火となつて消える
宅悦 コリヤ この内にはゐられぬ
ト袍子(だきご)を捨て、向ふへ逃げ行く。
逃げ出した宅悦は伊右衛門と出会う。伊右衛門、内へ入ってお岩を探すが、見つからない。大きな鼠がぞろぞろと出て、赤子の衣類をくわえて引きずってゆく。伊右衛門は赤子を抱き、お岩の死骸を見つけ、小平の脇差が咽喉に立つのを見て、あわてて押入をあける。小平は最前のまま、猿ぐつわに手足は縛られている。
猿ぐつわを外すと、小平は、「且那様、エエあなたという人は、ひどい人だ」と抗議する。伊藤と腹を合せ、お岩の面体を崩す薬を呑ませ、自分は伊藤の孫娘と祝言して、それが侍のすることか、と言うのである。
伊右衛門の悪知恵は、とっさの機転で此の小平をお岩殺しの犯人に仕立て、「お岩の敵だ、くたばれ」と、ずたずたに斬り殺す。秋山、関口が出てきて、伊右衛門はお岩・小平は不義の成敗によって、斬ったと言う。
「それでは両人の死体を戸板に打ちつけ、姿見の川へ流そう」と秋山、関口が、死骸を戸板に打つと、死んだ小平の両手の指が、蛇になってうごめく。
中間の伴助が、伊藤の一行の到着を知らせるので、秋山らは死体を奥へ運び、喜兵衛は紋服・衿、花嫁衣装のお梅の手を引いて登場する。
喜兵衛・伊右衛門は、いまお岩が死んだ此の家で、内祝言をあげたお梅との、初夜をすませようというのである。さすがに、お梅と乳母のお槙は気にするが、大事ない、大事ないと言うのは喜兵衛、そして伊右衛門。母を失って泣く赤子の乳母代りだと称して、喜兵衛もこの家に泊りこむ。
お槙も供の者も、皆々を返し、伊右衛門はひとりになる。屏風のかげにはお梅が待っている。外から秋山らが、「戸板の二人は川へ流して始末はついた」の声。
「ハテ、ものごとはこうもうまくゆくものか」と、伊右衛門は屏風をひらき、お梅に近づく。
「恥しがらずに、今こそ我が夫(つま)と言ってくれるか」と声をかけると、「アイ」と答えて綿帽子をぬいだお梅は、お岩の顔である。伊右衛門を恨めしげに見て、ケラケラと笑う。
「うわっ」と伊右衛門は刀を抜いて、ポンと斬ると転り落ちた首はお梅。鼠がたかる。
「ヤヽヽ、これはお梅か、早まったか」
と伊右衛門は、喜兵衛に、「これ、舅殿、えらい事になった」と声をかける。ふり向いた喜兵衛の顔は小平の顔で、赤子を喰って口のまわりは血だらけである。
「おのれ、小平め」
と、伊右衛門が刀を振うと、首は落ちたが、よく見ると、それは喜兵衛の首であった。
「ヤ、斬ったのはやはり舅か。こんな所にうかうかとは居れぬ」
と、伊右衛門、出口へ行き、戸をあける。戸はぴしゃりと、ひとりで閉まる。伊右衛門びっくりし、たじたじと後にさがる。ドロドロと幽霊の音のうち、心火が燃え上がる。伊右衛門、ぎょっとして、「はて、執念の」と、どさりと坐る。「なまいだ、なまいだ」と手を合せて拝むうちに幕。