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祐天の出産に関する呪術と大奥

2004年11月15日 15時08分30秒 | 心霊
 以前、「祐天と『生類憐み』政策」について書いたが、そのとき、「一介の僧侶浪人にすぎなかった祐天を、浄土宗教団の最高位にまで押し上げたのは、桂昌院をはじめとする大奥の勢力であった」と書いた。ここでは、高田衛・著『新編・江戸の悪霊祓い師(エクソシスト)』(ちくま学芸文庫、1994)を用い、出産に関する呪術と大奥との関係を論じてみたい。

 画像は、桂昌院が壇林寺住職に祐天を任じているところ。『祐天上人御一代記』の挿絵。


出産に関する呪術

 祐天が、僧侶浪人として江戸の市井にあったころ、多くの悪霊払いを行ったと伝えられている。しかし、同時に、出産に関する呪術について、語られることも多かった。つぎの3つの例は、いずれも出産に関する呪術の話である。

●山田庄右衛門が妻得益の事
 本所石原に住む武士山田左右衛門の妻が、難産のために臨終を迎えるにさいして、祐天が請願に応じて、臨終の十念を授け、産婦に念仏を唱えさせたところ、多くの医師が見はなしたはずの重症の産婦が、「真夜の子の刻ばかりに男子をうみ、母子共に安全」であった。「元禄3午(1690)年8月3日の事」であった。

●吉田六郎左衛門が妻得益の事
 吉田六郎左衛門は奥平美作守家臣で、剛勇であったが仏心のひとかけらもない人であった。その妻女は松平伊豆守信綱の家臣深井藤左衛門の息女であった。この深井氏が、はやくから祐天の信心者であったという。したがって、吉田の妻となった女性も、「幼少より念仏を信じ、師の名号を拝受して、昼夜身を放さず尊崇」していた。
 ところが、この妻女が妊娠してから病気となり、吉田は医薬をつくして看病につとめたが、臨月に及んで病いは重篤状態となり、万一のことをも予期せざるをえぬという事態になってしまった。憂いのなかの吉田に対して、妻は常日頃の信心のゆえに、死はむしろ仏の救いであるという覚悟を語りつつも、胎内の子は「わらは死しても生るゝ事あるべし。葬式を猶予して、一日は待見給へ」と奇怪な遺言をする。臨終に際して、妻女は念仏を唱えて、合掌したまま息たえたが、「遺言にまかせて、しばらく葬送の沙汰に及ばざりしに、二時斗(ふたときばかり)を過て、一子を出生」した。

●高輪八郎兵衛妻得益の事
 江戸高輪の八郎兵衛(商人か?)の妻女は、品川の名主太兵衛の姪であった。太兵衛は祐天の石原の庵室に通って「師の教を受し但直の念仏者」であった。しかるにこの妻女は元禄3(1690)年に妊娠し、同4年正月7日に産気づいたがたいへんな難産で、6日間も苦しみ抜いたあげくに、子は生まれずじまいで死んでしまったというのである。臨終にあたって伯父の太兵衛にも知らせたが、折あしく公用のため、大兵衛は臨終に間にあわなかった。
 一族が集って葬送の用意などをしているところへ太兵衛がいそいで来て、まず、なきがらに向かって涙を流して言った。「早い遅いのちがいはあるが、貴賤貧富であっても一度はゆく死出の旅ならば、いまさら驚くことではないけれど、息のあるうちに来れたなら、覚悟をさせ、念仏をすすめ、往生できたものを、とても残念だ」と独り言を言った。そして、亡者の枕もとで念仏を唱えたが、師である祐天の書写した「紺紙金泥の名号」を懐中から取り出し、「仏」の一字を切ぬきて押し丸め、亡者の口に含ませ、清水で注ぎいれ、母子ともどもに浄土に導かれるようにと、ねんごろに心から願い、念仏していた。すると、しばらくして寝具の中で、産声が聞えるのをあやしんで、開いて見ると、女子を出生し、産婦も蘇生した。

 最初の話は、死ぬほどの難産の女性が、つつがなく出産したばかりか、母子ともに健全であったという話、つぎの話は「死後出産」の話、最後の話は、死者が出産したのみならず、蘇生した話である。最初の話はありえない話ではないが、つぎの「死後出産」となると、その例はきわめて少ない。最後の、「死後出産」したうえ、産婦も蘇生した話ははたして事実だったのだろうか。
 しかし、このような話は、祐天が羽生村で行った悪霊払いとともに江戸の人々の知るところとなり、やがては江戸城・大奥にも知れわたることになる。


大奥と祐天

 祐天が活躍した時代、江戸城・大奥は、おびただしい流産、死産、難産、産児早世に悩まされていた。それだけでなく、大奥の女性たちの、出産をめぐる陰湿な対立、抗争、陰謀もあった、と高田は指摘している。

 四代将軍・徳川家綱の時代では、寛文7(1667)年、側室お振の方(養春院)19歳が出産したが、難産のため母子ともに死去した。延宝6(1678)年、側室お満(まる)の方(円明院)19歳が妊娠したが、流産した。お満の方は、その2年後の延宝8年にも妊娠したが、この時も流産してしまった。
 結局、家綱は世子が生まれず、弟の綱吉が五代将軍になった。ところが、この綱吉にも子が生まれなかった。御台所・鷹司信子に子がなく、多くの側室にも子がなかった。将軍生母・桂昌院侍女であったお伝の方(瑞春院)に手がつき、延宝5年(1677)、ついに待望の出産があったが、残念ながら女児(鶴姫)であった。お伝の方は延宝7年に待望の男児(徳松)を出産した。しかし、徳松は天和3(1683)年5歳で夭折してしまう。その後、御台所一派は綱吉に京都の水無瀬氏信・女(右衛門佐、心光院)をすすめ、瑞春院側が同じく清閑寺煕房・女(大典侍局、寿光院)をすすめて、子種を争った。結局、綱吉に世子は恵まれず、甥の甲府宰相・綱豊が、六代将軍となり、名を家宣と改めた。
 家宣の御台所(天英院)は、元禄12年に懐胎したが、死産に終った。宝永4(1707)年には家宣側室・右近の方が男児・家千代を産んだが、1歳で死去。翌、宝永5年には側室・おすめの方が男児・大五郎を産んだが、3歳で死去。ようやく、翌、宝永6年に側室・お喜代の方(月光院)が男児・鍋松(七代将軍・家継)を産み、家宣は世子を得たのである。

 前にも書いたが、祐天は、50歳で浄土宗教団を引退し、江戸牛嶋で隠遁生活をおくっていた。その彼が浄土宗十八壇林のひとつ生実(おいみ)の大巌寺の住職に抜擢されたのは、五代将軍・綱吉の生母・桂昌院のはたらきかけであった。江戸小石川伝通院の住職となった後、桂昌院が没し、宝永6(1709)年に綱吉も没している。亮賢や隆光など多くの祈祷僧が失脚したにもかかわらず、祐天は、その地位にとどまりつづけ、正徳元(1711)年には浄土宗総本山・増上寺の住職となり、大僧正に任ぜられた。
 以前、一介の僧侶浪人にすぎなかった祐天を、浄土宗教団の最高位にまで押し上げたのは、桂昌院をはじめとする大奥の勢力であった、としたが、それは五代将軍・綱吉の大奥だけではなく、六代将軍・家宣の大奥もまたそうであった。
 江戸城・大奥が祐天に期待したのは、江戸の市井で多くの女性を救った祐天の出産に関する呪術を将軍の世継を得るために使うことだったのだ。それに、祐天がどう応えたかは記録には残っていない。

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