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於岩稲荷に関する考察

2004年11月14日 17時46分52秒 | 心霊
 「於岩稲荷来由書上」は、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」上演の2年後、1817年に文政十年町方書上の「四谷町方書上」の付録として作成された江戸幕府の公文書である。内容は、登場人物の名前などが若干異なってはいるが、以前紹介した「四谷雑談」とほぼ同じ内容である。ここでは、高田衛・著『お岩と伊右衛門~「四谷怪談」の深層』(洋泉社、2002年)から、その主要部分を紹介したい(同書、p.42-44)。


於岩稲荷来由書上

寛文年中に御先手組の諏訪左門様組に成ってから俚俗に、其辺を左門町と称してきました所、其後榊原采女様組に変りました際、貞享年中、同組同心田宮又左衛門(後に伊左衛門と改名)と申す者、五十四歳にて大病に付き、二十一歳になる娘いわへ急養子を探しましたが、同人は年もたげ、重い疱瘡をわずらったせいで片隅はつぶれ、ひどい醜女の上、性質も頑固に付き、養子に来る者とて居らず、よんどころなく下谷金彩辺に住む又市と申す者の口入にて、同組同心秋山長右衛門が媒人となり、攝州浪人で名は不詳なる、三十一歳になる者を聟養子とし、田宮伊右衛門と改名の上、名跡相続させました。この男は元来人品いやしからず、愛嬌もあり、物事器用なので組内での気請もよく、同組与力伊東喜兵衛とは別して入魂に致しまして同人方へ夜分も立入り、同人妾ことと伊右衛門両人とも互に恋慕の情を含みながら打ち過ぎる内、妻ことは懐妊し、喜兵衛は五十有余の老年に及んでの出産を、世評もいかがかと嫌い、平生の両人の様子もあり、妻ことを伊左衛門の妻に押し付けんと姦計を立て、秋山・田宮の両人を招き、密談した所、伊右衛門儀姦侫の性質であって、内心悦喜しながら一旦は断りましたが、喜兵衛・長右衛門両人が再三申し勧める計略に任せ、家附の妻いわを離別するべき手段として、追い追い勤務を怠り、家事も顧りみぬ風に仕立て、博奕を好み、放逸無慙の行い、家財を売り、いわ衣類等まで入質いたし、暫時も在宿せず、いわが異見をすると、怒りにことよせ打ち、擲き、乱暴をし、粮米や資量も家に入れず、いわば飢渇に及び、艱難きわまる頃、隣家長右衛門は妻もろとも、実意ある体にとりなして、いわを喜兵衛宅に呼寄せ、伊右衛門の身持不埒の旨が頭あたりにも聞こえている様子である。このままでは家名断絶もあり得る。かといって聟を離縁するのも人道に背く。ここは一旦そなたが夫から離別を受けて、奉公稼ぎなどにも出、実意の様子を見せれば、伊右衛門の心底も直るであろうと諭すと、いわも其の気になって伊右衛門と対談し、離縁状を貰い請け、兼て知る四谷塩町の紙屋又兵衛を請人に頼み、番町の辺りの某家に下女奉公に出た後、喜兵衛妾ことは懐妊のまま、右長右衛門を媒人にして、貞享四丁卯年七月十八日迎え取り、夫婦睦まじく相暮らし、喜兵衛の妊種女子そめ、二男権八郎、三男鉄之丞、末女きくと次々に出生致しました。ところが、右伊右衛門近辺に住居する刻煙草行商人の茂助という者が、三番町辺りへ渡世に出かけた時、折からいわ奉公先の屋敷へ呼び入れられ、いわと逢い、伊右衛門の様子、本末残らず話してしまいましたところ、いわ、聞き請け、妬心募り、鬼女の如く成り、狂乱いたし、共の儘屋敷を駈け出し、伊右衛門居宅近辺まで罷り越しましたが、更に西の方へ走り行き、終にその行方は知れなくなりました。その後、種々奇怪の儀があり、伊右衛門後妻ことならびに子供、残らず変死し、伊右衛門は業病にかかって相い果て、秋山長右衛門妻子残らず取り殺され、田宮・秋山両家共断絶し、伊東喜兵衛老年につき、池田伝右衛門と申す者を養子とし、喜兵衛と改名、家督を相続させ、養父喜兵衛は土慎と名のったが、その養子喜兵衛に不届きのこと有って、処刑されるという大変があって、こちらもまた家名断絶に及び、その外この件に関係した者共は、夫婦、兄弟、親子の分ちなく、全部でかれこれ十八名の者が、次々に変死し、家名断絶に及んだのであります。其の後、田宮伊右衛門跡は、元禄年中、御先手組浅野左兵衛様御組の頃、市川直右衛門と申す者を抱え入れに相成り、それが辞職後は、其の跡へ正徳五乙未の年、御先手組羽太清左衛門様御組の節、山浦甚平と申す人を召し抱えられ、右田宮跡地に住居の間、種々の奇怪がありまして、田宮の菩提所である、元鮫河橋南町、俚俗千日谷日蓮宗妙行幸へ相頼み、屋敷内へ稲荷を勧請致し、同時において追善仏事、慇懃に営み、其の後自然と祟りや怪異も相止み、後には霊験もいや増し、今に於岩稲荷という小祠が、右組屋敷内山浦甚蔵地面内にあります。前記山浦甚平五代の子孫、同苗甚蔵、今以て同地面に住居して居りますが、おいわ狂走後近々百五十周忌にも相成りますが故に、追福作善の法事を行うつもりです。文政八年乙酉年八月中同人法諱相贈り度き旨、前記妙行寺へ相頼みました所、
  得証院妙念日証大姉
と称し、同寺過去帳に記入してあります。
一 俚俗 鬼横町
   但 組屋敷内東通りより
     西通りへ往返の小巷也
 右はおいわ鬼女の如く成りて此の横町を走りけるによりて、俚俗唱来り候。
右の箇条の簾々私共支配に最寄に付き、取調べ此段申し上げます以上
 文政十亥年十月 四谷伝馬町
      名主   孫右衛門 印
      同     茂八郎 印



 これに対して、於岩稲荷田宮神社は、お岩は実在の人物であったが、怨霊などではなく、「四谷怪談」はまったくのフィクションである、との見解を持っている。つぎの文章は、於岩稲荷田宮神社のパンフレットからの引用である。一部、強調文字を使用したが、内容はパンフレットのままである。


四谷 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)

 この神社の「於岩」というのは「お岩」という江戸時代の初期、江戸の四谷左門町で健気な一生を送った女性のことである。その女性の美徳を祀っているのが、この神社である。ところが、その「お岩」さんの死後二百年近く経ってから、図らずも芝居の主人公になった。「四谷怪談」である。しかも福を招き、商売繁盛のご利益があり、芸能の成功、興行の成功にはことさら霊験あらたか。さらに最近では交通安全、入学試験抜にも功徳がある、という。怨霊と「お岩」さんの関係は、いったいどうなっているのか。
 脚色された於岩 第一幕。時は江戸初期。所は四谷左門町の武家慶敷の一角。
 お岩は徳川家の御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨む仲のいい夫婦だった。ところが三〇俵三人扶持というから、年の俸給は一六右足らず。台所はいつも火の車だった。そこでお岩夫婦は家計を支えるため商家に奉公に出た。お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社を信仰していたおかげで、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。
 お岩稲荷 信仰のおかげで田宮家は復活した、という話はたちまち評判になった。そして、近隣の人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。評判が高くなるにつれ、田宮家でも屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、「お岩稲荷」と名付けて家中の者も信仰するようになった。そればかりではなく、毎日のように参拝に来る人々の要望を断り切れず、とうとう参拝も許可することになった。
 それからは「於岩稲荷」「大巌稲行」「四谷稲荷」「左門町稲荷」などいろいろに呼ばれたが、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神としてますます江戸の人気を集めるようになった。お岩という女性に怨霊のかけらもない。
 第二幕 時は、江戸後期。所は、歌舞伎の作者、鶴屋南北の部屋。
 鶴屋南北はかねてから、「於岩稲荷」のことを聞いていた。お岩という女性が死んでからもう二百年がたっている。それなのに今でも江戸で根強い人気があることに注目した。人気のある「お岩」という名前を使って歌舞伎にすれば、大当たり間違いない、と見当をつけた南北は台本書きに入った。
 お岩があんな善人では面白くない。刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。南北は「お岩稲荷」からは「お岩」の名前だけを拝借して、江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が神田川に浮かんだことがある。よし、これを使おう。主人殺しの罪で処刑された事件もあった。あれも使える。姦通の相手にはめられて殺された俳優がいた。それも入れよう。四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにしよう。江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。
 しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。「お岩」の名前だけ借りれば十分だ。南北が付けた題名は「東海道四谷怪談」。四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを示すことにした。
 天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、お岩の怨霊だった。
 第三幕 時は、文政八年(一八二五)。江戸文化が最も華やかで、文化爛熟といわれた時代。寛政から始まった幽霊物の読み本が最盛期を迎えていた。果たせるかな歌舞伎伎は大当たりした。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の「東海道四谷怪談」は江戸中の話題をさらい、以来、お岩の役ば尾上家の「お家芸」になったほどだった。歌舞伎がますます於岩稲荷の人気を煽った。あまりの人気ぶりに幕府も当惑し、四谷塩町の名主・茂八郎に命じて町内の様子や出来事をまとめさせ、奉行に提出させている。歌舞伎の初演から二年目のことだった。
 第四幕 時は、その後。所は四谷左門町の於岩稲行神社。この歌舞伎の影響力は大きかった。
 最初は出演した役者がもっぱら参拝していた。そのうち上演前に参拝しないと役者が病気になる、事故が起こるといった話にまで発展するようになった。祟りがある、という声もあったが、事故の原因はほかにあった。なにしろ怪談である。トリックを凝り、道具だても複雑になり、多くなる。おまけに怪談だから、どうしても照明は暗い。また天井からの吊し物も多い。そんな中で芝居することになるので怪我が多かった、ということだろう。それが怪談にからめて「祟り」と結びついたのである。
 第五幕 時は、明治以降。所は中央区新川。
 「東海道四谷怪談」を手掛けでは天下一品といわれた市川左団次から、「四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、明治十二年(一八七九)の四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを機会に、隅田川の畔にあった田宮家の敷地内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社で、四谷の稲荷神社とまったく同体の神社だ。その新川の杜殿は昭和二十年(一九四五)の戦災で焼失したが、戦後、四谷の稲荷神社ともども復活して、現在は二つの稲荷神社がある。



 田宮神社は、お岩の祟りで断絶した田宮氏が宮司として存続している以上、お岩の怪談はフィクションである、と主張している。さて、真実はどこにあるのだろうか? この問題については、小池壮彦・著『四谷怪談~祟りの正体』(学習研究社、2002年)で論じられているので、それをここで紹介したい。
 妙行寺に過去帳が残っており、これを一部引用すると、下のとおりになる。なお、数字は説明のため加えたのであって、過去帳にはない。

1・田宮伊右衛門 元和8(1622)没…1
  於岩・得證妙念 寛永13(1636)没
2・田宮伊右衛門 寛永15(1638)没…2
  田宮伊兵衛 没年不詳…3
3・田宮伊織 延宝8(1680)没…4
4・田宮伊左衛門(伊右衛門のモデル) 正徳5(1715)没…5
  山浦甚平 寛保4(1744)没←初代
5・田宮伊左衛門 天明元(1781)没
  山浦忠八郎 天明3(1783)没←2代
  山浦覚左衛門 寛政8(1796)没←3代
  山浦嘉平次 文化6(1809)没←4代
6・田宮氏 文政5(1822)没…6代
  山浦甚蔵 天保6(1835)没←5代
  山浦梅蔵 弘化2(1845)没←6代
7・田宮徳次郎 安政5(1858)没←7代
8・田宮銀太郎 明治33(1900)没←8代
9・田宮房子 大正3(1914)没←9代
10・田宮保松←10代
11・田宮 均←11代


 先頭の数字は、釣洋一がつけた田宮家当主である(『四谷怪談360年目の真実』於岩稲荷田宮神社、1997年)。釣は、没年不詳の田宮伊兵衛は、田宮伊織と同一人物だと考えている。これに対して、三田村鳶魚と綿谷雪は、伊兵衛を3代目、伊織を4代目とみなしている(これは「…1」、「…2」と記した)。
 このうち、2代目・伊右衛門の妻が、田宮家を復活させた「於岩」である。ところが、これとは別に4代目(三田村、綿谷は5代目)の伊左衛門の妻が、四谷怪談のお岩さんのモデルとなった女性ではないかと言われている。事実、この伊左衛門のあと、5代目・伊左衛門、6代目の名称不詳の田宮氏を除き、150年ちかく田宮氏は過去帳から消え、「於岩稲荷来由書上」に登場した山浦氏が続くのである。
 はたして、田宮氏は「お岩の祟り」で断絶してしまったのか、それとも続いていたのだろうか? ところで、日本の「家」は必ずしも血縁で続くわけではない。男子が生まれなかったとき、女子に婿をとるか、あるいは他家から養子をとるのはもちろんだが、それだけでなく、たとえば御手先組同心の場合、金を払って「同心株」を買い、その名跡を継ぐことができたのである。これはあくまでも推測だが、現在の田宮氏もこのような形で、いちど断絶した田宮氏の名跡を継いだのかもしれない。
 ところで、現在、田宮神社の宮司は11代目であるが、この数字は初代・田宮伊右衛門から続いているのだろうか? これについて、三田村は、於岩稲荷を勧請した山浦甚平を初代と数え、そこから6代目・梅蔵まで山浦氏が継承し、7代目・田宮徳次郎から田宮氏が引き継いだ、と考えたほうがよいと示唆している(これは「←初代」、「←2代」と記した)。

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