永久保貴一さんの実録マンガ、これが最終回です。永久保貴一『検証 四谷怪談 皿屋敷』(朝日ソノラマ、1996年)は、「四谷怪談」と「皿屋敷」について検証しています。このうち、今回は「皿屋敷」の検証を紹介します。
永久保さんは、これ以外にも、前回紹介した『永久保怪談 恐怖耳袋』の2巻で、「累ヶ淵」の検証をしています。「四谷怪談」と「累ヶ淵」については、つぎの記事を見てください。
「皿屋敷」の怪談にはさまざまなヴァージョンがあるのですが、永久保さんはまず馬場文耕の「皿屋敷弁疑録」(1756年)を紹介しています。
盗賊・向坂甚内(さきさかじんない)の娘・菊は、盗賊改・青山主膳(しゅぜん)に縁坐で母とともに捕らえられました。主膳は、菊が下女になるのを条件に許しますが、母を処刑してしまいます。菊は、そのことを知らず、主膳に迫られたうえ、主膳の妻に嫉妬され、イジメられますが、耐えます。しかし、菊は、家宝の皿を割ったことで、母親が処刑されていることを知らされ、さらに指を1本斬られてしまいます。菊は井戸に身を投げるのですが、主膳は事故で死んだことにしてしまいます。やがて、主膳に子が生まれるのですが、その子には指が1本ありませんでした。さらに、、、



毎夜あらわれる菊の霊に、奉公人たちはみな逃げ、主膳も狂ってしまい、青山家は取り潰されました。
この話の舞台は江戸の番町ですが、もともとは牛込での話らしいのです。じつは「皿屋敷」の怪談は全国にあり、菊が水で死ぬ話も多く存在します。その中でも特徴的なのが、菊が、針のために殺され、怨霊となる話です。そのひとつが、新井白石の「白石先生紳書」(1719年)にあります。
加賀藩の小幡播磨という人が、飯の中に針が入っていたことを理由に、菊という女中を殺しました。その際、菊は、身に覚えのないことで殺されるのはとても恨めしい、小幡ゆかりの者たちに思い知らせてやりたい、と言いました。その後、小幡の家は死に絶え、縁続きの者も多く亡くなったのです。そして、有賀平三郎という者がいたのですが、その兄弟もみな死んでしまいました。彼は、江戸の上屋敷で病に倒れ、どんどん悪化していきます。そんなある日、屋敷内に馬士が現れ、女を乗せてきたので、駄賃が欲しいというのです。役人は、ここには女などいないし、どうやって屋敷の中に入ったのだ、と問いつめます。ところが、、、



それから数日後に平三郎は死んでしまいました。
姫路にも「播州皿屋敷」という話があります。小寺則職(こでらのりこと)が姫路城主だった戦国時代、家老の青山鉄山が主家横領を企てました。忠臣・衣笠靭負之助(きぬがさゆきえのすけ)の愛人・菊が下女となって陰謀をあばこうとします。しかし、青山は主家の横領に成功し、家来の町ノ坪(ちょうのつぼ)弾四郎は、菊をモノにしようと、重宝の皿を隠します。弾四郎は、菊に責任を問うが、思いどおりにならないので、責め殺してしまいます。その後、菊の霊が現れ、青山は失脚し、小寺則職は城をとりもどすのです。
この話の元ネタが「竹叟夜話(ちくそうやわ)」にあります。姫路市西郊の青山に住んでいた太田垣小殿佐(おおたがきこどののすけ)には花野という愛人がいました。



永久保さんは、「針で殺される菊」の話と「花野とアワビ貝」の話が、姫路で融合したのではないかと考えます。
ところで、「針で殺される菊」の話は、祐川法幢(すけかわほうどう)の「幽霊・妖怪考」によると、戦国時代に群馬県西部の甘楽郡を支配していた小幡氏に関係するのです。小幡氏、そう白石の話に出てきた小幡氏です。甘楽町の曹洞宗宝積寺には菊の墓があり、つぎのような話が伝わっています。
小幡信貞は菊という美しく聡明な腰元を寵愛していました。しかし、奥方は、それを快く思わず、信貞の留守のとき、陰謀をめぐらします。奥方は、菊に給仕を命ずるのですが、、、




菊は1586年9月19日に殺されました。それから、4年後の1590年、小幡氏は、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、北条氏についたため、没落してしまいます。
小幡信実は、旧友の真田氏を頼り、信州上田に移動しました。さらに、真田氏が松代に移封されたので、それに同行しました。その際、カゴがひとつ余計について来たといいます。運賃を請われ、中を見ると、誰も乗っていませんでした。どんな者が乗っていたのかと聞かれた人足は、21か22のたいそうやつれた女の方が乗っておりました、と答えたそうです。信実は、息子を家康に仕えさせ、その子孫が旗本になりました。その一族の墓が牛込にありました。これが最初に紹介した話のもとになったようです。
小幡の一族・彦三郎は、本隊が小田原にろう城した際、留守を守っていました。前田利家に攻められたのですが、彦三郎はあっさり降伏し、そのまま前田家に仕え、重臣となりました。これが白石の「馬士」の話につながるのです。
滋賀県の彦根や埼玉県の行田にも「皿屋敷」の話があります。彦根の初代藩主・井伊直政は、小田原の戦いの後、小幡領を支配し、多くの家臣を新たに取り立てました。その後、彼が彦根に移ると、菊の怨霊の話が彦根に伝わったのです。さらに、彦根藩の重臣で小幡氏に仕えていた岡本半介が、徳川家康の孫・松平忠明(下総守)に小幡氏の人間を推挙しました。この松平家(下総守)が姫路に移封され、菊の怨霊の話が姫路に伝わったのです。さらに、松平家は埼玉県の忍(行田市)に移ると、ここにも菊の怨霊の話が伝わりました。
このようして、全国に「皿屋敷」の話が伝わったのです。
しかし、永久保さんは「皿屋敷」の起源はこれ以前にもさかのぼれると考えています。民俗学者・折口信夫は、菊のモデルは菊理姫(くくりひめ)ではないか、と指摘しているのです。菊理姫は、日本書紀でイザナギとイザナミが泉平坂(よもつひらさか)で争ったときに登場するのですが、謎の多い神です。白山神社の祭神ですが、それとは別に処刑にたずさわったから崇拝されていました。永久保さんは、菊理姫が関係するものとして、水(菊は水で死ぬ)、ヘビ(ヘビ責めにあう菊、ヘビは、脱皮するので「死と再生」を意味し、農耕神でもある)、針(磔[はりつけ]と関係する?)、バンという音(番町、播州、彦根の番場町など、ばんという音と関係がある?)からこう結論づけます。



う~ん、飛躍しすぎ、、、かな? 最後の結論はともかく、なかなかおもしろいマンガです。ていうか、マンガの領域をすでに超えていて、とても読みごたえがあります。
永久保さんは、これ以外にも、前回紹介した『永久保怪談 恐怖耳袋』の2巻で、「累ヶ淵」の検証をしています。「四谷怪談」と「累ヶ淵」については、つぎの記事を見てください。
●「累ヶ淵」
→「累ヶ淵」補論~羽生村事件の概要~
●「四谷怪談」
→「四谷雑談」~「四谷怪談」の実録小説
→「東海道四谷怪談」の概要(はじめに)
→「東海道四谷怪談」の概要(前半)
→「東海道四谷怪談」の概要(後半)
→於岩稲荷に関する考察
「皿屋敷」の怪談にはさまざまなヴァージョンがあるのですが、永久保さんはまず馬場文耕の「皿屋敷弁疑録」(1756年)を紹介しています。
盗賊・向坂甚内(さきさかじんない)の娘・菊は、盗賊改・青山主膳(しゅぜん)に縁坐で母とともに捕らえられました。主膳は、菊が下女になるのを条件に許しますが、母を処刑してしまいます。菊は、そのことを知らず、主膳に迫られたうえ、主膳の妻に嫉妬され、イジメられますが、耐えます。しかし、菊は、家宝の皿を割ったことで、母親が処刑されていることを知らされ、さらに指を1本斬られてしまいます。菊は井戸に身を投げるのですが、主膳は事故で死んだことにしてしまいます。やがて、主膳に子が生まれるのですが、その子には指が1本ありませんでした。さらに、、、



毎夜あらわれる菊の霊に、奉公人たちはみな逃げ、主膳も狂ってしまい、青山家は取り潰されました。
この話の舞台は江戸の番町ですが、もともとは牛込での話らしいのです。じつは「皿屋敷」の怪談は全国にあり、菊が水で死ぬ話も多く存在します。その中でも特徴的なのが、菊が、針のために殺され、怨霊となる話です。そのひとつが、新井白石の「白石先生紳書」(1719年)にあります。
加賀藩の小幡播磨という人が、飯の中に針が入っていたことを理由に、菊という女中を殺しました。その際、菊は、身に覚えのないことで殺されるのはとても恨めしい、小幡ゆかりの者たちに思い知らせてやりたい、と言いました。その後、小幡の家は死に絶え、縁続きの者も多く亡くなったのです。そして、有賀平三郎という者がいたのですが、その兄弟もみな死んでしまいました。彼は、江戸の上屋敷で病に倒れ、どんどん悪化していきます。そんなある日、屋敷内に馬士が現れ、女を乗せてきたので、駄賃が欲しいというのです。役人は、ここには女などいないし、どうやって屋敷の中に入ったのだ、と問いつめます。ところが、、、



それから数日後に平三郎は死んでしまいました。
姫路にも「播州皿屋敷」という話があります。小寺則職(こでらのりこと)が姫路城主だった戦国時代、家老の青山鉄山が主家横領を企てました。忠臣・衣笠靭負之助(きぬがさゆきえのすけ)の愛人・菊が下女となって陰謀をあばこうとします。しかし、青山は主家の横領に成功し、家来の町ノ坪(ちょうのつぼ)弾四郎は、菊をモノにしようと、重宝の皿を隠します。弾四郎は、菊に責任を問うが、思いどおりにならないので、責め殺してしまいます。その後、菊の霊が現れ、青山は失脚し、小寺則職は城をとりもどすのです。
この話の元ネタが「竹叟夜話(ちくそうやわ)」にあります。姫路市西郊の青山に住んでいた太田垣小殿佐(おおたがきこどののすけ)には花野という愛人がいました。



永久保さんは、「針で殺される菊」の話と「花野とアワビ貝」の話が、姫路で融合したのではないかと考えます。
ところで、「針で殺される菊」の話は、祐川法幢(すけかわほうどう)の「幽霊・妖怪考」によると、戦国時代に群馬県西部の甘楽郡を支配していた小幡氏に関係するのです。小幡氏、そう白石の話に出てきた小幡氏です。甘楽町の曹洞宗宝積寺には菊の墓があり、つぎのような話が伝わっています。
小幡信貞は菊という美しく聡明な腰元を寵愛していました。しかし、奥方は、それを快く思わず、信貞の留守のとき、陰謀をめぐらします。奥方は、菊に給仕を命ずるのですが、、、




菊は1586年9月19日に殺されました。それから、4年後の1590年、小幡氏は、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、北条氏についたため、没落してしまいます。
小幡信実は、旧友の真田氏を頼り、信州上田に移動しました。さらに、真田氏が松代に移封されたので、それに同行しました。その際、カゴがひとつ余計について来たといいます。運賃を請われ、中を見ると、誰も乗っていませんでした。どんな者が乗っていたのかと聞かれた人足は、21か22のたいそうやつれた女の方が乗っておりました、と答えたそうです。信実は、息子を家康に仕えさせ、その子孫が旗本になりました。その一族の墓が牛込にありました。これが最初に紹介した話のもとになったようです。
小幡の一族・彦三郎は、本隊が小田原にろう城した際、留守を守っていました。前田利家に攻められたのですが、彦三郎はあっさり降伏し、そのまま前田家に仕え、重臣となりました。これが白石の「馬士」の話につながるのです。
滋賀県の彦根や埼玉県の行田にも「皿屋敷」の話があります。彦根の初代藩主・井伊直政は、小田原の戦いの後、小幡領を支配し、多くの家臣を新たに取り立てました。その後、彼が彦根に移ると、菊の怨霊の話が彦根に伝わったのです。さらに、彦根藩の重臣で小幡氏に仕えていた岡本半介が、徳川家康の孫・松平忠明(下総守)に小幡氏の人間を推挙しました。この松平家(下総守)が姫路に移封され、菊の怨霊の話が姫路に伝わったのです。さらに、松平家は埼玉県の忍(行田市)に移ると、ここにも菊の怨霊の話が伝わりました。
このようして、全国に「皿屋敷」の話が伝わったのです。
しかし、永久保さんは「皿屋敷」の起源はこれ以前にもさかのぼれると考えています。民俗学者・折口信夫は、菊のモデルは菊理姫(くくりひめ)ではないか、と指摘しているのです。菊理姫は、日本書紀でイザナギとイザナミが泉平坂(よもつひらさか)で争ったときに登場するのですが、謎の多い神です。白山神社の祭神ですが、それとは別に処刑にたずさわったから崇拝されていました。永久保さんは、菊理姫が関係するものとして、水(菊は水で死ぬ)、ヘビ(ヘビ責めにあう菊、ヘビは、脱皮するので「死と再生」を意味し、農耕神でもある)、針(磔[はりつけ]と関係する?)、バンという音(番町、播州、彦根の番場町など、ばんという音と関係がある?)からこう結論づけます。



う~ん、飛躍しすぎ、、、かな? 最後の結論はともかく、なかなかおもしろいマンガです。ていうか、マンガの領域をすでに超えていて、とても読みごたえがあります。