以前、「東海道四谷怪談」(以後、「四谷怪談」)のもととなった「四谷雑談(よつやぞうたん)」を紹介しました。しかし、「四谷怪談」については、説明しませんでした。「四谷怪談」は四世・鶴屋南北によって書かれ、1824年に上演された歌舞伎の演目です。ここでは、『お岩と伊右衛門~「四谷怪談」の深層』(高田衛・著)を用いて、その概要を紹介します。長いので2つに分けて掲載します。
「四谷怪談」の初演は、1702(元禄15)年の赤穂事件*1を題材とした「仮名手本忠臣蔵」(以後、「忠臣蔵」)*2とともに、2日がかりで演じられました。ストーリーがわかりにくかったので、再演からは1日上演になりました。ストーリーがわかりにくいにもかかわらず、そのようにしたのは、「忠臣蔵」が義士の話であるのに対して、「四谷怪談」は不義士の話として、裏表の関係にあるからです。
「四谷怪談」の初演は、1702(元禄15)年の赤穂事件*1を題材とした「仮名手本忠臣蔵」(以後、「忠臣蔵」)*2とともに、2日がかりで演じられました。ストーリーがわかりにくかったので、再演からは1日上演になりました。ストーリーがわかりにくいにもかかわらず、そのようにしたのは、「忠臣蔵」が義士の話であるのに対して、「四谷怪談」は不義士の話として、裏表の関係にあるからです。
*1 赤穂事件【あこうじけん】
播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(「忠臣蔵」では"塩冶判官[えんやほうがん]")切腹の原因をつくったとして、旧藩士のうち47人が1702(元禄15)年12月14日、江戸幕府高家・吉良上野介義央(同じく"高野師直[こうのもろなお]")邸を襲撃した事件。元家老・大石内蔵助良雄(同じく"大星由良之介")ら襲撃浪士は、翌年2月4日、幕府から切腹を命ぜられた。
*2 仮名手本忠臣蔵【かなでほんちゅうしんぐら】
浄瑠璃。11段。時代物。2世竹田出雲・三好松洛・並木千柳(宗輔)合作。1748(寛延1)年8月14日より11月中旬まで大坂竹本座初演。赤穂義士の仇討事件を太平記の世界に移して脚色、先行の義士物を集大成した。全段を四季に配し、時代と世話が調和し趣向に富み、人物の配置と造型が秀逸で、忠義と恋と金銭の葛藤、人情・世態風俗の描写に優れ、浅野家臣に対する世間の共感を得て、上演回数は極めて多い。興行中、人形遣い吉田文三郎と竹本此太夫が対立して、此太夫が豊竹座へ移り、竹本・豊竹両座の芸風が混淆した。同年12月歌舞伎でも初演。以後小説・実録類の一系譜となった。