つれづれなるままに

今、もっとも関心のある出来事を備忘録としてつづります。2005年から。

宿題 国語(まだ途中)

2008-08-18 | 公開授業

さあ、次のチャレンジは、「国語」です。

さて、この単元を分ければ3つ(指導書による)。
小単元1は共通だが、小単元2と3に関して3種類作られている。
この学校からの依頼は、小単元1の第2時の指導案作成である。

小単元1の展開は(指導書による)
小単元1:(教科書の図にある)猫の分類をそれぞれ考えよう(全5時間扱い)

 (第1時) 図に書かれている22匹の猫を,子ども独自のカテゴリーで分けてね。
      できればそのカテゴリーをいろいろ見つけようね。

 (第2時) 班の中で自分の考えをわかりやすく説明してね。
       もしかしたら違う考えがあるからどこが違うかわかるようにしてね。
  (第3時) 班で話し合ったことを班代表が学級全体へ発表してね。
             班で話し合ったことで同じ分類、違う分類を整理してね。
  (第4時) 資料「分類」を読もう、いろいろな分類方法があることをわかってね
             この資料に出てくる新出漢字や読み替え漢字・難語句の確認はしてね。
  (第5時) この資料の分類をどのように分類しているのか端的にまとめてね。
             猫の分類を見返してもっと分類ができるか考えてね。

さて、 この単元展開で3点疑問です。
1 この展開を見ると第4時がとても不自然に見えます。
2 第2・3時のように、まず班そして学級と発表の手順を踏むことは、中学校のいろいろな教科の教師にも強要することが多いです。果たして子どもは、この第2時や第3時のような発想があるのでしょうか。
3 第1時も疑問です。こう指導書(p216)に書かれています。
『まずは、友達と相談しないで、一人ひとりの力で考えさせる』
うーん、と唸ってしまう表現です。

さて、M先生のブログでは、こういう1文があります。

・・・・・・・・・・・以下M先生のブログより引用・・・・・・・・・
『本時では、すでに自分なりの猫の分け方を持っているということですよね』
・・・・・・・・・・・引用終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、第1時はもう終了しているのだから、
この状態は受け入れましょうということかな?。

さて、これからは私の指導案作成のためのつぶやき。
第2・3時のような手順を踏む必要はないな。
するとM先生の発想になってしまう。
ちょっと、つまらないな~。どうしよう。


宿題 算数

2008-08-18 | 公開授業
小学校5年生、算数の指導略案を作りました。
経過は、M先生のブログをご覧ください。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/OB1989/20080729

また、M先生の授業作りの経過は、
道徳
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/OB1989/20080815
算数
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/OB1989/20080816
国語
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/OB1989/20080817

さて、
本日、休み中の学校当番でしたので、とりあえず算数から取りかかりました。

しかし、小学校は未知の領域です。
いくら理系人間でも、難しさは算数でも同じ。
そこで、指導案を読み始めました。
「わからない」
で、数学科の先生と学び合いました。

・・・・・指導書の引用開始・・・・・・・
○形式的な計算方法の指導のみでなく、被除数と除数の関係から適切に判断し、処理することができるようにしていく。
○整数で用いられた言葉の式が、小数でも用いられることを理解させ、÷(小数)の意味づけを新たにしていく。また、計算のしかたについても整数の計算に直していくという考えで(以下略)
○児童が持っていた「商はわられる数より小さくなる」というイメージをぬりかえることになる。
・・・・・引用終わり・・・・・・・・・・

形式的な計算方法の指導ではないということ。
つまり筆算を先に教えて計算ができればいいという塾ではいけないということ。
計算方法を考え、問題において適切に適応できる子どもでありたいということを願っている。

さて、この小単元の概要は、

(小数)÷(整数)の計算の小単元の次で、
(整数)÷(小数)の計算の小単元である。
この小単元は全3時間扱いである。

与えられた授業時間は、3時間扱い中の第2時である。

第2時は、計算方法をみんなで考え合うところである。

教科書では、計算方法は2通りである。

さて、わたしは、第1時の教科書を読んで、つまづく。
1㍑いくらという計算方法を導くことを整数を例にして小数も同じ立式だというところ。
しかし、ここは子どもが立式できたものとしての次時だから、私のようにつまずいた子どももいるという前提で、『学び合い』をしてもらおうと考えた。

目標は、
320(円)÷1.6(㍑)の計算のしかたはどのようにしたらよいか、計算のしかたとその理由を考え、学級全員が納得できるような説明をしよう
である。
その心は、
単位を入れたのは、理科的な発想で、あくまでイメージを大事にした。
計算のしかたが大事なので、計算方法とはいわないことにした。
である。

しかし、私は数学科の先生と同様、1㍑の値段を考える時には、
0.1㍑の値段を出して、10倍して1㍑を出す方法がよいと思う。
これだと割合の計算で役立つと思っている。

ただ、本時は、どんな方法でもよいけれど、次時は、もう筆算の学習であり、
私がよいと思う計算方法はむげに切られた教科書になっている。
次時が心配だ。どうやるんだろう。

公開授業研究3回目

2007-09-17 | 公開授業
先週、本年3回目の授業公開へ出かけた。

このところ指導案の最初に見かけるフレーズがある。
「実験観察は楽しんでやるのだが、考察を書けといわないと書かないし
考察が書けない」
と言うもの。
だから、いろいろな手だてを講じますよ、それを見て下さい。
と、言う指導案であり、研究である。

かなりの確立で、このような指導案にであう。
と、言うことは、子どもの責任と言うよりも、
今行われている本県の理科授業の欠点ではないでしょうか。

では、なぜそうなるのか。
それは、書く必要がないからです。
 書かなくても子ども同士の会話で結果を出してしまい
 もう考察をしてしまったから書く必要がないです。
 誰のために書くのかが問題でもある。
あるいは、他班との結果を総合的に判断させていないので、
 書けないのです。

総合的な判断をさせていない授業というのは、
今回観た授業がそうでした。

実験は活発で、班内の会話も操作も目を見張る程の追究がありました。
結論を話し合いました。
しかし、それで終わり、
考察を書きやすいようにと考察の文章に穴を開け、
考察が書きやすいようにした手だてもむなしく
子どもらは立ち止まりました。
そして周りを見て、この穴の空いた文章に、言葉を入れる作業を次にしなければいけないことがわかりましたが、
止まっていました。

指導者の指導は
これまた判を押したような指導内容しかない。
これでは、考察が書けないという嘆き節の指導案が
いつまでも減らないわけです。

公開授業参観(本年2回目)

2007-07-19 | 公開授業
ブログも久しぶりです。

公開授業へいきました。中学校、第2分野「動物のからだとはたらき」です。
単元は、消化のところ。
デンプンがだ液によって糖にかわり、
デンプンと糖は、粒の大きさが違い、
それは、
小腸で吸収される時に、
粒子レベルで小さな粒にならなければ、腸壁を通過できないため。

さて、
本時、どこまでねらっているのかが今一歩、分かりづらいものであったので、
考察の書きっぷりがとても悪い。
だから、教師がとても上手に誘導していった。
ただ、全ての学習活動で、教師の指示によって動いていただけの授業である。

こういう授業を観ると、とても疲れる。
もう数回参観したことのある先生だから、
どうもこういうスタイルの授業が好きなんだろうな、と思われる。

一人一実験で、セロハンチューブを用いて
でんぶんと糖が混ざった液から
糖だけが通過する事実を実験で確かめ、上記の目標まで到達したかったようだ。

この一人一実験を売り物にしているとすれば、
その実験をやらざる追えない学習課題にしなければならないのに
なっていないので、大変なのだ。
予想でこういう子がいた「ぬるくなる」
そりゃそうだ、実験をすれば温度が下がるだろうな。
温度計を入れて確かめる実験をさせてくれないので、
(教師にはそんな発想が微塵もない。)
この子は、とてもひどく遊んでいた。

だけどこの子は、
実験が終わり、考察をし、
一斉授業で考察をだし、教師が誘導している間中
意味が分かっていなかったのだ。

唯一最後の方で、「粒に着目して・・」の教師の一言で
「わかった!!粒が小さくなったんだ」
と、つぶやき。それを拾った教師に指名されて、
自説を言い始める。

もっと、自由にやらせてあげる授業を観たいなー。

今年度初の授業参観

2007-06-29 | 公開授業
今年度に入って初めての他校へ出向いての参観授業。

本日は、小学校です。
5年生は、日の光による植物の成長の授業。
子どもの思考は、教師の一歩先を行き、
教師がそれをとどまらせている授業。
ワークシートには四角の穴があいていて、
そこに言葉を入れさせようと言葉がけが入る授業。
最後は、子どもの考えを班の意見として1つに集約させている授業。
公開授業でよくあるパターン、
子どもは、すぐにでも活動したいのに。

しかし、昨年もこの先生の授業を見ていたので、
これは、来る本番を意識しすぎたために起こった授業なんだろうと思う。
この先生の良さを前面に出した授業をすればいいのに。
周りの外野が、よって、たかってこの先生の良さをつぶしているんだろうな。

2番目は、6年生の授業。
うーん。こちらは困ったぞ。
これ以上は書けないなー。

この授業は、来る全県の理科教師が集まる授業のステップ用の授業。
しかし、最後の検討会に残ったメンバーが
ほとんど校長ばかりで、下々がいない、
しかも小学校の先生がいないのはどういうこと?

今回は大きな大会の事前授業のため、主事は2名呼ばれていた。

「○○には段階がある」という話。
ここからは心の中のお話・・・。

おいおい、そんなことはないぞ。
じゃ、キミハ、主事になる前、そんなことを考えて授業していたのか?
違うよね、この実験では、○○はこれである。
この実験では、○○はこれである。
というように、実験にあわせて考えていたよね。
○○は、「するかしないか」しかないのだよ。
段階というより、子どもらがどこまで広げられるかであり、
教師がどこまで広げられる心のゆとりを持って実験をしているか、だ。
ゆとりという表現より、
○○をどんな実験でも導入する教師の一貫した姿勢によって、
子どもらの発想が広がっていく
しかし、教師はなかなかゆとりがなく、
型どおりの実験だけしてしまう。
今回だけとか、見られているだけでやるから
段階という言葉が出ると思われる。

と、主事に文句は全く言いません。