切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

大阪市の吉村市長と言うのは、よほどの馬鹿なのか。あるいは自分のメンツのためにやってるのか・・・「全国学力テスト」に関わる異常な発言をめぐって。

2018-08-18 22:29:50 | 社会


(1) 吉村市長の学校教育に対する異常発言とは。



文科省が行っている小中学校の「全国学力テスト」で、大阪市が2年連続で20政令都市中、最下位となったことに対して、感情むき出しにして異常な発言をした。
その内容は、もし次回の学力テストでも改善が見られないならば、教職員の人事や給与に反映させると言うものだ。つまり「がんばっている先生にはそれなりの優遇措置をし、そうでない先生には給料減らす、などの措置をする」と言うものだ。
市長自身が自分で言った限り、自分の夏のボーナスも返上すると発言した。「全国学力テスト」の点数と、教職員の人事や給与と一体何の関係があると言うのか。吉村市長としては「政令都市中最下位」と言うのがよっぽど許せないんだろう。そのようなわけで、誰が考えても極めて危険な方針を出したと言うことだ。

(2) 「教育」は「点数」だと言うのか。



この吉村市長の、大阪市の学校教育における成果の判断基準は、「点数」が低いか高いか、と言うところにあるようだ。
自分も何十年と言う長い年数を、中学校などの教育現場で送ってきたが、点数そのものが良ければ、それはそれで良いことではあるだろう。しかし点数だけによって、一人ひとりの児童生徒たちの、人格や人間性が評価され、判断されると言うのは、そんなものは決して「教育」とは呼べない。

教育と言う取り組みには、実に様々な側面がある。吉村市長は本職は弁護士だが、その仕事を通して様々な依頼人と話をしたり、また法廷で依頼人の弁護をやってきたはずだ。当然のことながら、そういった活動を通して、人間は一人ひとり皆違った側面を持ち、みんなが同じように扱うことができないことなどを、多分知っているはずだ。
それが教育の現場になると状況は単純ではない。教育現場と言うのは様々な活動を通して、人格形成を図っていく場である。その中に知識や学力、想像力、創造力、コミニュケーション力、人間関係、感情のコントロール等々、あまりにも多くの側面からアプローチする中で、一人ひとりの個性を生かした形で、その成長を援助する。つまり育てる支えになる、と言うことそのものが教育の本質と言える。



大人に向けての成長過程にある、揺れやすい精神状況にある児童生徒たちへの教育の課題は実に多様であり、極めて難しいと言える。教職員はただ授業してテストをして、クラブ活動を指導して、それで終わりなんて単純なものでは無い。
ある意味、それ以上に大きなものが「生徒指導あるいは生活指導」と言われるものだ。上記のような様々な課題に対して、それこそ真正面から対応していかなければならない。
児童生徒たちにも十人十色の性格の違いや行動の違い、そして真面目にやっている子もいれば、荒れ果てて暴力に走る子もいる。更に真面目だと思われていた子が、何の前触れもなくある日突然、髪を染め眉毛を剃って、化粧して攻撃的な口調で周囲をはねのけるようになってしまう子もいる。



いわば単純な「常識」というものが通用しないケースが非常に多い。そしてそのような子たちが、40人余り1つのクラスに入る。それだけでも児童生徒たちのストレスは溜まる一方だろう。そんな中で授業を進める事のむつかしさ、理解を図ることの難しさ、というのは並大抵のことではない。今でこそサブの先生が手助けしたりする制度があるが、当時はそんなものはない。授業中に暴れて、授業そのものが潰されることもある。
そして放課後には、そういった様々な課題を抱えた生徒たちにじっくり向き合い、話し合って、どこに課題があるのかを探りながら、解決の方向を探らねばならない。当然、場合によっては保護者を学校に呼んだり夜に家庭訪問をしたり、と言うのはしょっちゅうだ。
少なくとも担任を持っている教員と言うのは、このような対応を余儀なくされる。夜の家庭訪問などをめんどくさいなんて事は絶対に言えないし、許されない。保護者の都合に合わせなければならないと言うことも事実だ。
このような状況に置かれている先生と言うのは普通に見れば、「がんばっている」としか言いようがないはずだ。自分自身の経験から言えば、毎日が「がんばった日」と言うことになる。
当然、勤務時間も無茶苦茶な状態だった。8時ごろに出勤し、学校を出るのは大概夜の10時から11時ごろだった。1日平均14〜5時間の労働時間と言うことになる。土曜日も含めてこんな状態だから、今で言う過労死ラインを遥かに超えた状態となっていた。
文科省が今頃になって、学校教員の勤務時間の問題を取り上げているが、昔からこんなものは当たり前だったし、実際に現職死亡の教員もいた。

このような実態を吉村市長は本当に知っているのか。上辺だけ見て、ものを言ってるのではないのか。これでも「点数」こそが絶対だと言うのか。
一応、大阪市も学力向上のために補助教員を配置したりなどの政策は実際にやっている。他にも予算を回して対策を講じているのは知っている。しかしそれらはあくまでも、「点数」を上げるための対策に集中している。
このように「点数」へのこだわりは、教育全体の本質を見誤らされることになりかねない、非常に危うい感じがする。当然のことながら、感情に任せたこんな言い方は撤回すべきだ。



(3) 全国学力テストの「点数」の結果による、人事評価と給与への反映は、「失敗」が約束されている。

確か自分自身が小学校の頃か中学校の頃か、よく覚えてないが、やはり学力テストというのがあった。後に知ったが、それが教員の「勤務評定」と結び付けられて、全国の教員が大抗議活動を行った。詳しい理由は知らないが、結果的にこれは、この学力テストは失敗に終わっている。
自分が実際に教員になってからも、どこかの県が独自に学力テストみたいなものをやったところ、成績の低い子を休ませたり、障害児学級の子を受けさせなかったり、様々な陰湿な問題が起こった。学力テストの結果が開示されて、各学校の序列が決まってしまう。そういったことが更に当該校の教員の評価に直結するということで、校長以下、あの手この手で点数をアップさせるために、卑劣な手を使ったと言う問題が多発し、これも失敗に終わった。

今、文科省が行っている全国学力テストについても、反対する意見は極めて多い。あえて該当学年全員ではなく、少数を抽出するだけで傾向はつかめると言う統計学上の結果もある。しかも最初は、都道府県別の平均点数を開示しないと言っていたのに、保護者たちからの開示請求に対して一部の都道府県が開示を勝手に始めてしまった。更に学校ごとの平均点数の開示請求もあちこちで行われ、今や文科省の本来狙っていたものとは、質が違うようなものになってしまった。
その結果、何が起こるかはあえて言うまでもない。公立学校であるにもかかわらず、越境したり、わざわざ校区に転居したりして、保護者たちの混乱や不安を招く結果となっている。そしてそのことが更に、学校間格差を序列をつけると言う形で生み出すことになる。
全都道府県の公立高等学校が、その県内において完全に序列化されているのと同じようなことが、中学校などにおいても出てくるということだ。



いろんな資料を調べてると、かつてイギリスで学力テストが行われた結果、上記のような問題が多発し、各地域の教育が崩壊寸前にまでなったと言う実例がある。当然イギリスは学力テストを中止し、総合的な教育のあり方を再検討して、立て直しを図る結果となった。
こういった日本や外国での様々な失敗の事実があるにもかかわらず、そういうことに目も向けないで、学力テストを実施し続け、その結果に市長本人がやきもきしながら感情的になって、点数の低さを学校の責任に擦りつけると言う、あまりにも浅はかな発想にあきれ果てて、声も出ないほどだ。
多くの教育研究者や教育機関によって、学力の差と言う件に、家庭の特に経済的な環境が大きく関わっている、と言う事は事実上証明されている。そのようなことも含めて、総合的に取り組んでいくのが教育であり、テストの点数によって「いい」とか「ダメ」なんて言い放つのは、まさしく部外者の越権行為も甚だしい。
もちろん発言する事は自由だし、それが大きな参考にもなるケースは多々ある。しかしこのような筋違いの論法で、市長独断の方策を明言すると言うのは、教育現場に混乱をもたらし、反発をもたらし、ひいては教育の荒廃にもつながりかねない、極めて危険な発想だとしか思えない。とにかく吉村市長は直ちに、この発言を全面撤回し謝罪すべきだ。



この件に関して、言うべき事はまだまだたくさんあるが、あまりにもありすぎて書くのも正直、ある意味ばかばかしくなってくる。とりあえずはここまでにしておく。


(画像は全てウェブより)
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