切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 3年半ぶりの学生5人組同窓会 at 山口県 》②    2024.5.7

2024-05-15 22:08:48 | 旅行

 Y 君の車で出発。長門市を目指す。本来ならば宿泊の宿でみんなで近況を語り合う予定だったが、宿泊先の山口市湯田温泉の宿から Y 君の自宅まで比較的近いということで、彼は2晩とも宿泊せずに自宅に帰るということになった。そのためにみんなで話し合える場というのが必然的に車内ということになった。

  Y 君は以前から古代史研究の本を数多く読み、3年半前にもかなり詳しい解説を運転しながらしていたが、本人の弁によるとさらにパワーアップしたとのことで、かなり細かいところまでよく覚えていて解説を始めた。全く感心するほかない。たまたま私も日本人の精神形成上、古代史を勉強することになり、今様々な書物を読んでいる。もちろん日本人がどこからやってきたのかということも含め、最新の研究結果が掲載されている本なども読み、同時に琉球王国や先住民族としてのアイヌの人たちの歴史も勉強して、さらに大陸から大勢の渡来人がやって来ていることも含め、当時の中国の歴史にも触れなければならない。実態としてはなかなか進まないのが現状で、しかも頭の能力が低下しており細かなところまで、 1回読んだだけでは頭の中に残らない。その点 Y 君はかなり集中力が高いようで様々な名前もさっと出てくる。改めて大したものだと感心した。

 

 そうこうしているうちに長門市の「金子みすゞ記念館」に到着。入館料 500円を支払い 館内に入る。数多くの資料が展示され、また金子みすゞの年譜がある。詩集も数多く置かれていて、一部の詩が看板に大きく書かれ掲示されていた。記念館の建物は金子みすゞの生家であり、この地に再現されたものだという。書店の娘として1903年に生まれ地元の女学校を卒業した後、 20歳の頃から童謡詩を書くようになった。後年それが詩人西条八十に絶賛されることになり、当時の童謡詩の会への入会が認められ、名だたる詩人と交流を持つようになった。しかし後に結婚した夫が女癖が悪く、病気も移されまたみすゞの童謡詩を投稿することも 禁じられ、結婚生活は事実上破綻していく。その際娘の親権を巡って争いとなり みすゞは服毒し死に至ってしまう。享年26歳。 1930年のことだった。
 その頃日本は中国大陸への侵略行為を強め、日中戦争に入っていく。そんな中では金子みすゞの名は忘れ去られ、埋もれた詩人ということになってしまう。戦後一部の詩関係の書物に作品が掲載されたことがあったが、特に世間の注目を集めることはなかった。時が経ち 1970年代になると、一部発掘された彼女の動揺詩がわずかに掲載されることがあった。そんな中、 1人の大学生が「大漁」という歌に衝撃を受け、金子みすゞという詩人を発掘しようと決意し、長い年月をかけ様々な地を訪れ、最終的に金子みすゞの弟が現存していることがわかり、多くの情報を得ることができた。
 そして金子みすゞの童謡詩集を編纂し出版に至ることによって、約50年近く忘れ去られていた金子みすゞの存在が明らかとなる。同時に再評価されることになり一部は小学校教科書にも取り上げられ、また多くのシンガーが曲をつけて歌にして発表されることが増えることとなり、さらにみすゞの代表的な詩が組み合わされ、子供たちが歌えるような形式の組曲の形で演奏されることになった。ちなみに指揮者は今をときめく佐渡裕氏だ。
 今では彼女の歌は近隣諸国の韓国や中国を始め、遠くヨーロッパなどでも各国語に翻訳されて、教科書などに使用されている彼女の代表的な動揺詩は数多くある。中でも象徴的なものは以下のものだ

「私と小鳥と鈴と」
   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが
   飛べる小鳥は私のように、
   地面を速くは走れない。
   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のように
   たくさんな唄は知らないよ。
   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

   

 金子みすゞ記念館を出た後、すぐ近くにある「大津あきら青春音楽館」を訪ねる。彼はこの地の生まれで若くして亡くなっているが、数々の歌手に作詞作曲した曲を提供した人物だ。彼の代表作は数多くあるが、 Y 君が好きだという「 for you・・・」高橋真梨子が歌うこの曲も手掛けている。偶然にも私もこの曲が好きで、カラオケではほぼ必ずと言っていいほど歌う曲だ。音楽館と言っても臨時的に設置されたような形になっており、地元の人の話では金子みすゞ記念館のような立派なものには多分ならないだろうと言われていた。

  

 M 君は 学校教員であった現役時代から。ギターによる作詞作曲を始めた。いわば遅れてやってきたシンガーソングライターだ。生徒たちのために様々な青春や自然を歌った詩をギターで演奏しながら歌う。そういった意味では大津あきらという 作詞作曲家というのは興味が持てるところだろうと思う。尤も M 君自身は歌謡曲やポップスなどにはあまり興味なく、フォーク調の曲を中心に活動しており、定年退職後も小さなホールを借りて発表などしている。これまでに CD を自費で製作し、 3枚出しているというのはこれまた大したものだと思う。

 続いて同じ長門市内にある「元之隅神社」へ行く。1955年に地元の有志 たちの力によって創建された新しい神社で、丘の上から下の海岸に向かって真っ赤な鳥居が123基並んでいる。今では山口県屈指の観光地として人気があるらしい。京都の伏見稲荷も千本鳥居と言って、赤い鳥居が山頂まで密集して並べられているが、それの超小型版といったところだ。山口県を紹介するネット上、あるいは旅行雑誌などにも必ずと言っていいほど掲載される名所となっている。

    

 そしてここから隣接する山口市の湯田温泉にある「ホテルセントコア山口」に入る。このホテルに連泊する。朝食付きという条件なの、夕飯は外で食べなければならない。Y 君は自宅へと帰って行った。 F 君はこのホテルに共済組合員として何度か利用したことがあると言っていた。ホテルの人に聞いてこの辺りで色々と食べられる店を教えてもらい、外に出る。店はあったものの何かそばの専門店のようで、もう少し何かないかと探し F 君先導で居酒屋に入ってしまった。中は賑わっていたがやはり居酒屋。はっきり言って飲んで一品物を頼むようなところだ。狭いし話などできない。 F 君は早速大ジョッキを頼んで飲み干していく。O君と M 君はノンアルコール。私は一応酒 1本。あとは 1品物をいくつか頼んだが、随分高くついてしまった。



 これだけでは足りないということで、近辺をうろつき結局全国チェーンの「ガスト」に入って食べる。私はスパゲティを食べたが、胃もたれを覚えてしまった。ホテルに戻り 4人が泊まるうえでそういう部屋はなく、臨時に2人部屋にベッドを1つ入れて 3人部屋とし、もう1室は1人ということで、 F 君がいびきがすごいので1人部屋に入ることになった。
 少し遅い時間だったが温泉に入る。どんな種類の温泉なのかは全くわからなかったが、温泉特有の匂いはないし、多分単純泉のようなものだったのかと思う。一般の浴場とあまり変わらない感じだった。風呂から上がり時間的にはもう間もなく就寝時間。お互いの話をするような感じではなく、とりあえず M 君が持ってきた写真集を拝見。彼はギターで歌うだけではなく、写真という趣味も持っている。これまでに地元岡山県の地方紙のコンクールで年間最優秀賞まで受けている腕前だ。ここ数年は視野が狭くなる症状があり、撮影の方は少し減っているようだが、これまでに撮り留めた写真を写真集という冊子にして、書店においてもらおうとしたが、いわゆる書物の形式ではなくファイルに閉じるような形だったので、全て断られたという。O君は郷土史関係の会の冊子に原稿を寄せており、自分自身が研究してきた成果を各自に配っていただいた。

 

 O君はコロナ禍になる時に大学院に入り、研究を続け主にリモート授業で時間がかかったものの、昨年修士課程を終えている。今も生まれ育った地域の歴史の掘り起こしを中心に研究・執筆活動をしており、非常に精力的で感心させられる。
 こうして初日はあまり話ができずに終わった。部屋にはO君のイビキが響いていた。


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