切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

蓮乗寺・・・密集地の小さなお寺だが   京都市伏見区    2024.4.22 訪問

2024-05-04 23:31:08 | 撮影


 蓮乗寺は京阪本線藤森駅から南へ数100m のところにある。一方通行の街道の横道に入り、行き止まりの前に位置するので普段はほとんど目につかない。おそらく近所の人たちしかわからないのではないかと思われる。このお寺に関する資料はほとんど皆無であり、浄土宗のお寺であるということ。そして本尊が阿弥陀如来ということだけだ。

 

 門に行き着くと境内が少し見える。開門されているので中に入ると、かなり狭い境内に緑は結構豊かだ。しかしすぐに目につくのが、石造仏が境内に安置されていることだ。仏様は阿弥陀如来像の形だろうと思う。ひょっとしてこれが本尊なのかどうかわからないが、かなり大きなものであり、しかも石造りのものであって重さも相当なものだろうと思われた。小さな本堂の中にはこれとは別の阿弥陀如来があるんだろうか 、そんなこともふと考えたが、わからずじまい。

 しかし境内にそこそこ大きな石像の阿弥陀如来があるというのは結構珍しいと思い、それを中心に撮影を進めていく。石仏の台座には文字が彫られている。そしてその両サイドの花立ても石像だが、星のマークが彫られていた。いわゆる五芒星と思われる。こう見てくるとこの小さなお寺に何かの謂われがあるのではないかと思えてきた。しかしそれ以上のことは この場では全く何も分からなかった。

 

 このお寺について情報を得るべく少ない書物ととネットで様々調べてみた。一般的な葬式 案内や納骨案内などの紹介しか出てこない。書物には小さなお寺であるだけに全く出てくる 雰囲気すらない。それでも時間をかけてあれこれいろんな角度から調べていると、おそらく京都の歴史研究団体と思われるところが、この 蓮乗寺について言及した部分があり、それを参考に以下に自分の推測も含めて紹介しておく。

 
 
  お遍照寺の創建は江戸幕府成立の少し後くらい。石造阿弥陀如来像の制作は享保7年、西暦1722年だと伝わっている。この石仏はもともとは蓮上寺にあったものではなく、ここから少し離れた帰命院火葬場( 伏見火葬場)に置かれていたものが、昭和36年に連乗院に移されたものだという。

 帰命院火葬場は江戸時代後期に開かれ、昭和35年まであったという。こちらへ移された理由は定かではないが、近くには明治時代に陸軍病院が開設され、軍人だけではなく周辺住民も利用していたのだろう。当然戦時中にも多くの傷病兵が入院し、また多くの人々がこの病院で亡くなっていったと考えられる。この病院は閉鎖された後、現在は「国立京都医療センター」という巨大病院が建てられている。

 石仏の台座には「供養物」と彫られているが、江戸中期まではこのような文字が彫られているケースが多く、以降減少していくという。おそらく江戸時代からの火葬場に関わって亡くなった人々をこのお寺で供養したものと考えられ、と同時に陸軍病院が開設され、またここで亡くなった人々の供養も行われたのではないかと思われる。

 蓮乗寺ではただ単に病院で亡くなった人たちだけではなく、身寄りのない人や生活苦の果てに亡くなった人々の供養等も行われていたと伝わっている。また陸軍病院からも遺骨を預かっていたという記録もあり、そういった点でも供養に際して、石仏の存在はかなり大きな意味があったものではないかと考えられる。

  

 一見何でもないような小さなお寺ではあるが、実のところ様々な人々の思いが込められた歴史的な背景があるというのは、やはりそういった意味でお寺というところが人々の信仰にとっても、極めて重要な場であったことを示していると思う。小さなお寺だからと言って 決して侮ってはいけない。


コメント
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