切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

八坂御供社・・・祇園祭発祥か?  京都市中京区    2024.1.22

2024-04-28 22:51:57 | 撮影


『由緒

八坂神社御供社

鎮座地 京都市中京区御供町
御祭神 素戔嗚尊 梅稲田姫命 八柱御子神
祭典日 七月二十四日(御供社泰銀祭)
由緒
貞観十一年(八六九)都に疫病が流行した時、平安京の広大な庭園であった神泉苑に六十六本の矛を立て祇園社(現、八坂神社)の神輿を送り祇園御霊会が行われた。 当社は往古の神泉苑の南端にあたり御霊会祭日である六月十四日(明治以後は七月ニ十四日に変更)には斎場が設けられ祇園社の神輿三墓を安置し、 神饌を御供えする、社名町名はこのことに因むものである。
明治六年村社に列格し明治三十九年には村社を廃し八坂神社の境外末社となる。 当社は、四条京極にある御旅所に対して又旅所ともいわれている。』
  (駒札より)



 八坂御供社は三条大宮の交差点にある。三条通りアーケード商店街の通りに面している。 元々は平安時代に何度も起こった疫病に対し、神泉苑では御霊会が行われていたが、貞観十一年の疫病については大々的に祇園社の神輿を送って、祇園御霊会が行われた。この神輿三基はそれぞれ後供社の祭神に対応している。このことが後になって祇園信仰と重なり「祇園祭」の大元となっていく。

  元々祇園社というのは、釈迦が誕生したインドにおける祇園精舎の地の守り神であった牛頭天皇が、中国から日本に入りスサノオノミコトと一緒に信仰されるようになり、神仏習合の神とされるようになった。平安京においてはその祇園社が周辺に広まり、疫病退散の役割を果たすようになり、三基の神輿をこの地に集める儀式とともに、信仰の形態が形作られるようになった。

 

 このような経過をたどって祇園祭りが延々と続くようになり、祇園社は後年、八坂神社と名前を変え、八坂御供社は八坂神社の境外末社となった。昔からの祇園祭りの習わしとして 今現在においても、三基の神輿が神泉苑からこの地に集められる。神泉苑については今でこそ、二条城南側に比較的小さな境内を有しているにすぎないが、往時の広大な 庭園を彷彿とさせる名所ともなっている。

 八坂御供社は、商店街から見ると狭い敷地に鳥居と少しの建物があるだけで、とても千年以上の長い歴史を有するようには見えないが、京都においてはかつてかなり重要な役割を果たしたところでもある。当時から八坂神社との関係が強く、御旅所とともにに様々な役割を担い、今に至っている。なお御旅所に対してこちらは「又旅社」とも呼ばれる。

 
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