岡田鴨神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/aa/09797c79b40d79d8dc58723e2f6a7227.jpg)
『岡田鴨神社
加茂町の町名由来は、カモ神とその神をまつるカモ氏に関係があります。
「山城国風土記 」の中に、大和国葛城山のふもとにいた賀茂建角身命という神が大和から山城国上賀茂神社に至る途中に山城国の岡田の賀茂を通つたと記載があります。
これは岡田鴨神社を指すと考えられ、加茂町のカモ神の起源の古さがわかります。
正面向かつて右側が岡田鴨神社、左側が天満宮です。
加茂町観光協会
(社)京都府観光連盟』 (駒札より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/0a/d544b611c8ea39c615f12b8c24a8f5a2.jpg)
『延喜式內社 岡田鴨神社
鎮座 と 沿 革 (由緒 )
本社は、「延喜式」神名帳で大社に列せられた古社であり、『日本三代実録』によると清和天皇貞観元年(八五九年)正月二十七日、従五位上の神階を授けられている。 明治六年、郷社に列せられた。
御祭神賀茂建角身命は、『釈日本紀』収載の「山城風土記」逸文によると、日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏がすなわち賀茂建角身命の化身であり、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。 大和平定後、賀茂建角身命は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田の賀茂に移られ、 その際に賀茂建角身命を賀茂氏族の祖神として創祀されたのが本社である。崇神天皇の御世と伝える。そののち、賀茂建角身命は山城川を下り洛北の賀茂御祖神社 (下鴨神社)に鎮まられた。現社地は、元明天皇の和銅・天平時代における 岡田離宮の旧跡を保存するために創祀された天満宮の境内と伝えられる。木 津川(古名 鴨川)は元は岡田山(現 流岡)の北側を流れていたが、後に 南側を流れるように変化して水害が頻繁になった為、岡田鴨神社を旧社地よ り天満宮境内に遷されたと伝える。
本殿御祭神
(かもたけつぬみのみこと)
(すがわらのみちざねこう) 』 (パンフレットより)
岡田鴨神社へ行った。
以前からかなり有名な神社であり相当な古社であることは知っていたので、おそらく調べれば数多くの情報はあるだろうと思っていた。グーグルマップで見てみると、ここを訪れてコメントを寄せている人の数がわずか20数名分しかない。金閣寺や清水寺などは何万人という人がコメントを発しているのに対して、ここはこんなものかというのが正直なところだ。
今現在の住所は「京都府木津川市加茂町北鴨村」となる。以前は加茂町は単独の自治体であったが、市町村合併により現在は木津川市加茂町という風になっている。そしてこの神社の周辺には、地名としてここもそうだが、北鴨村といった名称だけではなく、鴨谷、鴨山の他、岡田ノ荘といった具合に、岡田の名称も残されてもいる。
神社そのものの創建については詳しいことは分かっていない。しかし「カモ」と言う発音が様々な漢字に当てはめられて使われており、加茂町の場合、賀茂神社、岡田鴨神社、などなど色々な漢字が当てはめられている。というのは元々日本に独自の文字がなく、5世紀前後に中国の方から入ってきたとされている漢字に、当時日本で使われていた発音が当てはまるものを当てはめたのではないかという風にも考えられる。したがって単にカモといっても様々な鴨、賀茂、加茂があるわけだ。
いろんな資料を見ているとこのように表記している意見も確かに見られた。もしそうであるならば、この神社は日本に漢字が伝わる以前、つまり弥生時代の末期頃に創建されたとも考えられなくもない。記紀によれば第10代崇神天皇の頃の創建というのがある。もちろん学問的にはあくまでも後世の権力者による作り話の神話であり、確固たる証拠に当たるものではないだろう。
この鴨という名称については、この地域を大王の時代から治めていた賀茂氏であるとされる。岡田鴨神社の祭神は建角身命であり、別名、八咫烏(やたがらす)とも言われる。これも記紀に登場する神話上の人物の名前だ。大和から山城国一帯の平定に武勲があったとのことで高い位に任ぜられた。一説によると同じような場所に、渡来系の「秦氏」が広範囲に居住し活躍しており、その関係もあるのではないかと言われているようだ。
漢字導入依頼、長い間賀茂神社と表記されていたが、平安期の延喜式神名帳によると下鴨神社の元宮とされているようだ。今では下鴨神社、上賀茂神社ともに非常に有名で、格式の高い神社とされているが、この岡田鴨神社についても、かつてはかなり大きな影響力を持った神社であったと考えられる。
神社そのものについては現に存在しているし、過去の様々な文献にも登場しており、それはそれで史実として間違いないものだが、創建時の話になるとこれは一体どう捉えたら良いのか。本当に漢字が伝わる以前の創建なのか。別の説として奈良時代初期に創建というのもあるようだ。いかんせん古代の記録は神話として創作されたものとされているので、この辺り確信的なことが言えないのも事実。
境内はかなり広く堂々たる構え。本殿は二つの祠が並んでおり一つは本殿。今一つは摂社となり、こちらの方は天満宮として菅原道真が祀られている。また、京都府の有形文化財に指定されている。
様々な資料を読んでいると大体似たようなことが書かれてはいるものの、諸説ある部分になってくると、ど素人の私としては頭が混乱するような感じだ。もう少しすっきり簡単に説明できればいいのだが、上記の駒札の内容やパンフレットの記述を参考にしていただきたい。ただしそれには短く表現するために、様々な大事な部分が捨象されているようだ。
このようにしてみると、現在の京都府南部木津川市あたりから、京都市内の左京区~北区あたり。そして西山のあたり、つまり今の向日市や長岡京市にかけて、渡来系有力氏族の秦氏による賀茂氏への影響力が非常に強かったことが分かるようだ。
確かにこれらの地域には古墳が密集して並んでいる。大阪のような巨大古墳ではなく比較的小さな古墳が何百と密集しており、これはこれでかなり珍しい例だと言う。残念ながらそれぞれの古墳の主についてはほとんどがよく分かっていないようだ。
少なくともこれらの地域においては、弥生時代から古墳時代、あるいは遡って縄文時代から人々の生活が営まれ、その中で上下の人間関係が現れ、所謂階級社会が形成される。様々なな地域の争いを通して次第に一つのまとまった大きなムラにまとめられていく過程があったんだろう。こうして 奈良の平城京だけでなく、岡田鴨神社のすぐ北側にかつて恭仁京があったというのも納得させられる事実ではないかと思える。
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白山宮
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/2c/6171a9d3558837b733a05d73202109e1.jpg)
JR 木津駅から西のほうへ少し行くと、街道沿いに小さな敷地、小さな祠が建っている。これが白山宮。
あまりにも小さいので何か取っ掛かりになるものがないかと探してみたが何もない。石の鳥居はかなり新しそうだし、やはり灯篭も新しい。小さな本殿も古さが感じられない。その一方、狭い境内の片隅にかなり古そうな風化した石柱が横たわっていた。
色々と資料を探してみたが、持っている書物にもネット上にもこのお宮さんの資料は皆無。何も分からない。
「白山」の名前からいろいろ探ってみた。北陸の方に白山信仰というのがあることがわかった。北アルプスの2000m級、3000m級の高い山に対して、それを畏怖を持って祀った信仰だろうと思う。しかしそれは場所柄理解できるとしても、周辺に小山しかないこのような場所に、白山と言っても何も連想させるものがない。
というわけでお手上げ状態。もし何らかの情報を知っている方がおられればコメント欄に寄せていただきたいと思います。
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『岡田鴨神社
加茂町の町名由来は、カモ神とその神をまつるカモ氏に関係があります。
「山城国風土記 」の中に、大和国葛城山のふもとにいた賀茂建角身命という神が大和から山城国上賀茂神社に至る途中に山城国の岡田の賀茂を通つたと記載があります。
これは岡田鴨神社を指すと考えられ、加茂町のカモ神の起源の古さがわかります。
正面向かつて右側が岡田鴨神社、左側が天満宮です。
加茂町観光協会
(社)京都府観光連盟』 (駒札より)
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『延喜式內社 岡田鴨神社
鎮座 と 沿 革 (由緒 )
本社は、「延喜式」神名帳で大社に列せられた古社であり、『日本三代実録』によると清和天皇貞観元年(八五九年)正月二十七日、従五位上の神階を授けられている。 明治六年、郷社に列せられた。
御祭神賀茂建角身命は、『釈日本紀』収載の「山城風土記」逸文によると、日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏がすなわち賀茂建角身命の化身であり、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。 大和平定後、賀茂建角身命は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田の賀茂に移られ、 その際に賀茂建角身命を賀茂氏族の祖神として創祀されたのが本社である。崇神天皇の御世と伝える。そののち、賀茂建角身命は山城川を下り洛北の賀茂御祖神社 (下鴨神社)に鎮まられた。現社地は、元明天皇の和銅・天平時代における 岡田離宮の旧跡を保存するために創祀された天満宮の境内と伝えられる。木 津川(古名 鴨川)は元は岡田山(現 流岡)の北側を流れていたが、後に 南側を流れるように変化して水害が頻繁になった為、岡田鴨神社を旧社地よ り天満宮境内に遷されたと伝える。
本殿御祭神
(かもたけつぬみのみこと)
(すがわらのみちざねこう) 』 (パンフレットより)
岡田鴨神社へ行った。
以前からかなり有名な神社であり相当な古社であることは知っていたので、おそらく調べれば数多くの情報はあるだろうと思っていた。グーグルマップで見てみると、ここを訪れてコメントを寄せている人の数がわずか20数名分しかない。金閣寺や清水寺などは何万人という人がコメントを発しているのに対して、ここはこんなものかというのが正直なところだ。
今現在の住所は「京都府木津川市加茂町北鴨村」となる。以前は加茂町は単独の自治体であったが、市町村合併により現在は木津川市加茂町という風になっている。そしてこの神社の周辺には、地名としてここもそうだが、北鴨村といった名称だけではなく、鴨谷、鴨山の他、岡田ノ荘といった具合に、岡田の名称も残されてもいる。
神社そのものの創建については詳しいことは分かっていない。しかし「カモ」と言う発音が様々な漢字に当てはめられて使われており、加茂町の場合、賀茂神社、岡田鴨神社、などなど色々な漢字が当てはめられている。というのは元々日本に独自の文字がなく、5世紀前後に中国の方から入ってきたとされている漢字に、当時日本で使われていた発音が当てはまるものを当てはめたのではないかという風にも考えられる。したがって単にカモといっても様々な鴨、賀茂、加茂があるわけだ。
いろんな資料を見ているとこのように表記している意見も確かに見られた。もしそうであるならば、この神社は日本に漢字が伝わる以前、つまり弥生時代の末期頃に創建されたとも考えられなくもない。記紀によれば第10代崇神天皇の頃の創建というのがある。もちろん学問的にはあくまでも後世の権力者による作り話の神話であり、確固たる証拠に当たるものではないだろう。
この鴨という名称については、この地域を大王の時代から治めていた賀茂氏であるとされる。岡田鴨神社の祭神は建角身命であり、別名、八咫烏(やたがらす)とも言われる。これも記紀に登場する神話上の人物の名前だ。大和から山城国一帯の平定に武勲があったとのことで高い位に任ぜられた。一説によると同じような場所に、渡来系の「秦氏」が広範囲に居住し活躍しており、その関係もあるのではないかと言われているようだ。
漢字導入依頼、長い間賀茂神社と表記されていたが、平安期の延喜式神名帳によると下鴨神社の元宮とされているようだ。今では下鴨神社、上賀茂神社ともに非常に有名で、格式の高い神社とされているが、この岡田鴨神社についても、かつてはかなり大きな影響力を持った神社であったと考えられる。
神社そのものについては現に存在しているし、過去の様々な文献にも登場しており、それはそれで史実として間違いないものだが、創建時の話になるとこれは一体どう捉えたら良いのか。本当に漢字が伝わる以前の創建なのか。別の説として奈良時代初期に創建というのもあるようだ。いかんせん古代の記録は神話として創作されたものとされているので、この辺り確信的なことが言えないのも事実。
境内はかなり広く堂々たる構え。本殿は二つの祠が並んでおり一つは本殿。今一つは摂社となり、こちらの方は天満宮として菅原道真が祀られている。また、京都府の有形文化財に指定されている。
様々な資料を読んでいると大体似たようなことが書かれてはいるものの、諸説ある部分になってくると、ど素人の私としては頭が混乱するような感じだ。もう少しすっきり簡単に説明できればいいのだが、上記の駒札の内容やパンフレットの記述を参考にしていただきたい。ただしそれには短く表現するために、様々な大事な部分が捨象されているようだ。
このようにしてみると、現在の京都府南部木津川市あたりから、京都市内の左京区~北区あたり。そして西山のあたり、つまり今の向日市や長岡京市にかけて、渡来系有力氏族の秦氏による賀茂氏への影響力が非常に強かったことが分かるようだ。
確かにこれらの地域には古墳が密集して並んでいる。大阪のような巨大古墳ではなく比較的小さな古墳が何百と密集しており、これはこれでかなり珍しい例だと言う。残念ながらそれぞれの古墳の主についてはほとんどがよく分かっていないようだ。
少なくともこれらの地域においては、弥生時代から古墳時代、あるいは遡って縄文時代から人々の生活が営まれ、その中で上下の人間関係が現れ、所謂階級社会が形成される。様々なな地域の争いを通して次第に一つのまとまった大きなムラにまとめられていく過程があったんだろう。こうして 奈良の平城京だけでなく、岡田鴨神社のすぐ北側にかつて恭仁京があったというのも納得させられる事実ではないかと思える。
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白山宮
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JR 木津駅から西のほうへ少し行くと、街道沿いに小さな敷地、小さな祠が建っている。これが白山宮。
あまりにも小さいので何か取っ掛かりになるものがないかと探してみたが何もない。石の鳥居はかなり新しそうだし、やはり灯篭も新しい。小さな本殿も古さが感じられない。その一方、狭い境内の片隅にかなり古そうな風化した石柱が横たわっていた。
色々と資料を探してみたが、持っている書物にもネット上にもこのお宮さんの資料は皆無。何も分からない。
「白山」の名前からいろいろ探ってみた。北陸の方に白山信仰というのがあることがわかった。北アルプスの2000m級、3000m級の高い山に対して、それを畏怖を持って祀った信仰だろうと思う。しかしそれは場所柄理解できるとしても、周辺に小山しかないこのような場所に、白山と言っても何も連想させるものがない。
というわけでお手上げ状態。もし何らかの情報を知っている方がおられればコメント欄に寄せていただきたいと思います。
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