切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

宇治市・城陽市の桜 旦椋神社~平井神社~水度神社~久世神社・・・意外にも多くの桜

2019-05-01 23:33:52 | 撮影

旦椋神社



『式内旦椋神社

[祭神]
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
菅原道真公 (すがはらみちざねこう)

[縁起]
 当旦椋神社は、養老四年(七二〇)の日本書紀に栗隈県の大溝(栗隈大溝)の東側(地名旦椋)に、古社としてあったと伝えられていますが、この社は天文一九年(一五五〇)に焼失しました。
 現在の社は、大久保町旦椋の地より永禄九年(一五六六)にこの地に移転再興されたことが、吉田兼右の「兼右卿記」に見えます。また、延喜年間(九〇一~九二三)に編さんされた「延喜式」に記載されている神社を延喜式内社とよび、旦椋神社もその中のひとつです。

 本殿は延宝二年(一六七四)に改築されたもので、京都府登録有形文化財(昭和六〇年五月)に指定されました。
   (境内立て札より)

  
 この日は宇治市内ととなりの城陽市の神社の桜を回ってみた。
 旦椋神社は近鉄大久保駅のすぐ近くにある。周りは幹線道路と住宅街が密集している中で、この場所だけは静かな光景を醸し出している。
 少し長めの参道は一部工事中だったが、まばらに桜の木が花を咲かせており、ゆったりした雰囲気になり、高架橋を走る近鉄電車の音こそ頻繁に聞こえてくるものの、非常に落ち着ける場所だ。駐車場はないので隣接するコインパークに駐める。この日は平日であって、人はぽつりぽつりと来ているだけだった。
 すぐ近くに最近、介護付き老人ホームが完成し、非常に綺麗な建物で、齢をとれば自分も入ろうかと思うほどのいい場所にある。
 ここは以前にブログでも紹介済みなので、詳しいことは省く。
       
 本殿は見事な色に輝いており、京都府の指定文化財となっている。同名の神社がとなりの城陽市にも存在するが、 雰囲気は全く異なる。その辺のところも以前にブログで記載しているので参考にして欲しい 。参道の工事などが終われば、さらに綺麗な桜の景色が楽しめるだろう。



平井神社



『平井神社の由来
 当平井神社は平川地区の氏神として、古くから人々の信頼を集めてきました。参道入口の鳥居には、「貞享二年(一六八五)に牛頭天王の鳥居を再興した」という意味の文字が刻まれています。そこにかいてあるように、平井神社は江戸時代の牛頭天王と呼ばれていましたが、明治二年(一八六九)に現在の名前に改められました。
 両側に杉や桜の植えられた長い参道をぬけると、本殿の前に出ます。一間社流造という様式の本殿は、正保二年(一六四五)に建てられたものです。正面の柱などには、桃山時代風の華やかな彫刻がほどこされています。祭神は、江戸時代は疫病に霊験あらたかな牛頭天王でしたが、明治になって神速須佐之男命(かむはやすさのおのみこと)と八十猛命(やそたけるのみこと)・奇稲田比売命(くしいなだひめのみこと)の三神をおまつりするようになりまし
た。ちなみに京都の八坂神社の祭神も、当社とおなじく江戸時代は牛頭天王で明治以降は素戔鳴尊になっています。また、神紋も同じ木瓜紋です。
 本殿の東側にある境内社は若宮神社で、細部の彫刻技法などから、本殿とほぼ同じ時期の建立と考えられています。ここには、天忍穂耳命をおまつりしています。その南にある石壇上の末社は、北側が大国主神社で中側が天満宮社、南側はがん封じの守り神です。
 なお、本殿と若宮神社は桃山時代の古様を今に伝える貴重な建物として、そして鳥居は時代の明らかに古い明神鳥居として、昭和六二年(一九八七)三月京都府の登録文化財となりました。また、シイ・カシなどの古木の茂る境内は、市街地に残る鎮守の森として同じ時に京都府の文化財環境保全地区となりました。
年中行事
一月一日・・・・・・元旦祭
二月一五日・・・・・春祭(境内の蓮開寺で)
十月定日・・・・・・おいで祭
十二月十五日・・・・お火焚祭平井神社(説明書き掲示板より)

  
 続いて近鉄奈良線の大久保駅から一つ南の久津川駅。駅の横に平井神社がある。
 ここも既にブログで紹介済みなので、由緒等は上記を参照。
 ここも駐車場はなく、かなり離れた道路の隅っこの凹んだ部分に駐めておく。
 駅の改札口の横が参道の入り口となっている。向かい側は小学校。何人かの人が参拝に来ていた。
 長めの参道沿いに桜の木が非常に映えて綺麗だ。近鉄線のすぐ横だが、樹木などが音を吸収するのか、さほど音は気にならない。
 ここも本殿は京都府の指定文化財。やはり鮮やかな色に塗られて非常に目立つ。まるで新築の本殿のようだ。参道から周囲を桜の木が囲んでおり、写真を撮る側からすればどこを撮っても撮影の腕前が上がったような錯覚に陥るほど、いい写真が撮れる。
 しかしこれだけの神社のなのに、地図では示されていない。よほど詳しい住宅地図のようなものにしか載っていないのではないかと思われる。逆に言えば一般にはあまり知られていないかもしれない。
              
 境内はよく整備されており、地域の人達にとってみれば大事な氏神さんであり、普段から大切にされていることもよくわかる。交通の便も良いので、是非訪れてみたいちょっとした桜の名所とも言える。



水度神社



『水度神社
 ご祭神
 天照皇大神
 高皇産霊神
 和多都美豊玉姫命

神社の由来記
創祀の年代は平安時代初期と伝う。史実によれは清和天皇の貞観元年正月(八五九)従五位下の神位を授かり、延喜の制には小社に列せられる。明治六年村社仝一五年郷社に、仝四十年府杜に昇格。現在は社格廃止され、神社本庁に属す宗教法人水度神社と称す。
旧社地は境内領東にある住古、鴻が巣を結んだという鴻の巣山の、その峰つづきにあたる太神宮山であったと伝う。現在の地へは鎌倉時代の支永五年(一二六八)旧地より遷し奉り今日に及ぶ。由来、寺由郷の産土神として氏子の信奉篤く、近年近隣よりの参詣者もその数を増す。
本殿は正面一間、側面二間の変化に富んだ流造破風様式(千鳥正面破風)で簡素にして優美な建築である。
社伝棟札によれば室町時代の文安五年 ( 一四四八)の建立になる。その後、桧皮葺替えの修理を重ねて今日に至る。現在は重要文化財に指定されている。
神社の大祭
九月三十日 例祭 十月二日 大祭
小宮十社
天満宮社 日吉神社
太神宮社 加茂神社
八幡神社 嚴島神社
松尾神社 稲荷神社
春日神社 竜王神社 (境内説明板より)



『水度神社本殿(重要文化財)
 水度神社
 鴻ノ巣山のふもとにある水度神社は、旧寺田村の産土神で、祭神は天照皇大御神・高御産霊神・少童豊玉姫命です。「山城国風土記」逸文に、「久世の郡水渡の社祇社」とあることから、風土記が編さんされた奈良時代には存在したと考えられます。平安時代前期に成立した『延喜式』には、「水度神社三座」と記されています。
 重要文化財の本殿は一間社流造で、文安五年(一四四八年)に造営された市内に現存する最古の建物です。屋根は檜皮葺で、正面に大きな千鳥破風があります。また庇の正面中央には、透彫の唐草と笹りんどうをあしらった欄間がつけられ、意匠を凝らした優美な建物です。
 水度神社には京都府登録文化財の「おかげ踊り図絵馬」と、城陽市指定文化財の「鉄湯釜」、「大般若経」があります。「おかげ踊り図絵馬」は、文政十三年( 一八三〇年)十一月一日に寺田村北東町の人々が水度神社に奉納したおかげ踊りの様子を描いたものです。
「鉄湯釜」は、湯立て神事に使われていたと考えられ、銘文から応永三十二年(一四二五年)
に作られたことがわかります。
「大般若経」は、鎌倉時代前期に本 さかのぼる書写経で、村落における信仰の歴史を知る貴重な資料です。
城陽市教育委員会
 (境内説明板より)

    
 次は城陽市にある水度神社
 城陽市内だけではなく、かなり広く知られた神社であり、このブログでも既に紹介済みだ。ここが桜の名所であることは全く知らなかった。参道の入り口からはかなり長いので、途中まで車で行って第二鳥居の横にある駐車場に駐める。
 ここからまた長い参道を上がっていく。両側は鬱蒼とした樹木に覆われており、非常に静かな雰囲気だ。神社の周りは住宅が密集しており、また中学校や高等学校がある。下校中の高校生達のにぎやかな声が聞こえてくる。
 参道の両脇にも桜の木が並んでおり、境内に入ると本数こそ少ないものの、大きな桜の木が満開の花を咲かせていた。お参りに来ている人は結構いる。
 中央部に立派な拝殿があり、正面に本殿があるが、なんと本殿全体が工事用シートに覆われて一切見えない状態。ひょっとして昨年の台風21号の被害を受けたのかと思ったが、近くにある掲示板には、以前から予定されていた改修工事を行なっているということで、被害ということではなかった。秋には工事が終わるということなので、紅葉の時期にまた来てみようと思う。
       
 本殿は重要文化財であり、歴史的な由緒も深いものがある。神社全体としては中規模になるが見どころも多く、城陽市に来たならば必ず訪れるべき名所だと言える。



久世神社



『国指定史跡 久世廃寺跡
 久世廃寺は、塔を東、金堂を西に置く法起寺式の伽藍配置をとります。寺域は東西約一二〇m、南北約一三五mと推定されており、寺跡の大半は久世神社の境内地となっています。境内には塔跡・金堂跡・講堂跡が、土壇として残っています。
 塔跡は、東西四一二.七m、南北一三.四mの瓦積基壇と推定されています。金堂跡は東西二六.七m、南北二一.三mの瓦積基壇です。講堂跡は、東西二三.五m、南北一三mの瓦積基壇で、基壇上には七間(二一m) ×四間(一〇.五m)の四面庇をもつ建物があったことが確認されています。南門跡は、南北四.三m、東西ハm以上の基底部が確認されています。
 南門跡北側の瓦溜まりからは、像髙六.九㎝(頭頂~足裏)の金銅造の誕生釈迦仏立像が出土しています。
 また東側の市道沿いでは、補修用瓦を焼いたと考えられる瓦窯跡がみつかっています。発掘調査により、奈良時代前期に創建され、八世紀中頃に建物が整備され、一一世紀前半に廃絶したと考えられています。
 寺域北東側の丘陵上には、六世紀に築造されたと考えられている芝ヶ原一~七号墳(前方後円墳二基、円墳五基)があります。

重要文化財 久世神社本殿

 丹塗りの一間社流造、檜皮葺で、柱上部・組物・庇水引虹梁・庇蟇股などを極彩色に仕上げています。内部は内陣と外陣に分かれ、内陣正面には弊軸付板扉、外陣正面に引違の格子戸を四枚たてています。内陣正面の板扉には扉二枚にわたり大きな松を描き、左右の脇羽目板にも草花を描いています。内陣正面の欄間中央に巴紋、左右に六弁の花紋を飾っています。外陣正面には透彫り欄間をいれ、単純化した唐草文様を柱間一間分にわたって彫刻した中に中央に菊、左右に各二個ずつ計四個の桐を配しています。
 建立年代は明らかでありませんが、室町時代中期とされています。
 城陽市教育委員会
 (境内掲示板より)

     

『由緒 記

旧久世村の産土神で、日本武尊を祭神としている。
その創祀年代はあきらかでないが、本殿の建物が室町末期の建築であることからみて、それ以前からの鎮座であることが想像される。
もとは若王社といったが、明治維新の時に今の名にあらため、明治七年郷社に列せられた。
明治三十九年重要文化財に指定された。
末社として竜王神社、稲荷神社がある。
特別祭祀として例祭にさきだつ十月五日・六日の両宵に御旅所(久世南垣内)において迎火として大篝火を献ずる。
 宗教法人 久世神社
 (駒札より)

           
 この日最後に久世神社へ行く。
 上記の水度神社からは比較的近い。少しだが境内に駐車できる。上記の説明書きにある通り、ここは久世神社だけではなく、かつて存在した「久世寺」廃寺の跡でもあり、かつて大掛かりな発掘調査が行われた。久世神社の隣がその廃寺跡となっており、かなり広い敷地を有している。その端にはJR奈良線が走っており、ここにも頻繁に電車が通過している。そして境内には桜の木も多い。
 しかし久世神社そのものの境内については、比較的狭く、しかもを拝殿と本殿がコンクリート壁の囲いの上に建てられており、何かつい最近完成したかのような錯覚に陥ってしまう。簡単に言えば非常にあっさりした雰囲気だ。
  だが、この久世神社は本殿が国の重要文化財に指定されている。祭神は日本武尊であり、これはもう完全に神話の世界の神だ。神社そのものの由緒等については上記に掲載した通り。
 現在の本殿は室町時代の再建と言う。色は何度も塗り直されており、ここも極めて鮮やかな色が周囲を圧倒するかのように、桜との共演が見事というほかない。シーズンでない時に訪れると、本殿がぽつんとあるだけで、ほとんどの人は何も知らずに見過ごしてしまうだろう。しかし桜が周りを取り囲むと雰囲気は一変する。
 ここへは車以外では歩いていくほかないが、それだけの価値はある。
 
 なお城陽市というのは、久世寺廃寺跡だけではなく、様々な発掘で多くの古墳も見つかっており、いわば古代史の宝庫と呼ばれるほどのところだ。古墳巡りというのもいいのかもしれない。




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