(WEBより)
『引接寺 (いんじょうじ)(千本ゑんま堂)
百人一首でも知られる小野篁卿(参議篁802~853)は、この世とあの世を行き来する神通力を持っておられました。昼は宮中に赴き、夜は閻魔庁に仕えたという篁卿は、閻魔法王より現世浄化のため、亡くなった先祖を再びこの世へ迎えて供養する「精霊迎え」の法儀を授かりまし
た。この「精霊迎え」の根本道場として、朱雀大路(現・千本通り)で当時、風葬地「蓮台野」の入口に、篁卿自ら閻魔法王の姿を建立しました。それが当ゑんま堂の始まりです。
その後、寛仁元年(1017)に、比叡山恵心僧都源信の門弟定觉上人が、藤原道長公の後援を得
て、諸人化導引接仏道の道場として引接寺と命名され、開山されました。
本堂は往古の閻魔王宮を模し正面中央に閻魔法王、右脇に司命尊、左脇に司録尊が安置されています。
また壁面は、現存する地獄壁画の板絵としては我が国最大のもので室町・桃山時代に狩野光信等により描かれたものです。
ポルトガルの宣教師ルイスフロイス(1532~97)の著書「日本史」の中にも、閻魔法王とこの壁画の事が記録されています。
・本尊 閻魔法王
高さ2.4メートル 幅2.4メートル 木製
ゑんま様は怖いお顔から、地獄の支配者のように思われますが、実は人間界をつかさどる、私達に最も身近な仏様です。
死んでしまった人間を、あの世のどこへ送るかを決める裁判長の役目を担っていらっしゃいます。ゑんま様は、人間を三悪道には行かせたくない為に、怒りの表情で、地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くと説いて下さるのです。
京の都が火の海となった応仁の乱の為、当初の閻魔法王は焼失され、現在のお像は長享二年(1488)仏師定勢により刻まれ再現安置されています。
・紫式部供養塔
重要文化財
高さ6メートル 幅・奥行き185センチ 花崗岩製
境内西北隅に建立されています。南北朝時代の至徳三年(1386)円阿上人の勧進により建立さ
れたとの刻銘があります。紫式部の不遇な生涯をとむらって建立した供養塔と伝えられています。
・梵鐘
京都市指定文化財
高さ148センチ 口径82センチ 鋳銅製
境内北側鐘楼内にある梵鐘は、毎年八月の「お精霊迎え」の行事には「迎え鐘」「送り鐘」
として、また大晦日の「除夜の鐘」を撞くために善男善女の長い列ができます。
南北朝時代の康暦元年(1379)に大工藤井國安が製作したとの刻銘があります。』
(パンフレットより)
引接寺は京都市上京区閻魔前町にある。閻魔前町という町名が今も残っている。地図で見ると、京都市街地を南北に走る千本通りに面している。この場所はかつて平安京の北の端に近く、上の説明にある通り、風葬地「蓮台野」の入口にあたり、ここに閻魔法王が作られた。
風葬というのは、亡くなった人の亡骸を地上に放置して、雨や風にさらされ、朽ちさせていく葬り方であり、当然カラスなどの鳥にも肉を食べられる鳥葬という面もある。その数は膨大なものになり、数多くの供養塔や石造仏などが作られ、この地に置かれた。その数があまりにも多いので、今の千本通の名前である千本の名の所以となったという。
表門から入り駐車スペースに停める。境内は月極駐車場としても使われており毎年収入源が減っていく寺院としてはやむを得ない実態ではある。
引接寺は有名どころでもあり、平日のこの日も結構多くの人が拝観しに来ていた。特に拝観料などは不要で、オープンな本堂らしい建物に入ると、ろうそくが灯され、その背後に不透明な大きなビニールの膜が架けられ、内側に閻魔大王像が構えている。従って、明確な形では見えないぼんやりした姿が見えるだけというのは、ちょっと残念。
建物の裏側に回ると、数多くの石像墓や供養塔が並んでおり、この場で供養できるようになっている。もちろんこれらもかつて風葬された亡骸に添えられたものの、極々一部であるんだろう。
その横には重要文化財に指定されている十重石塔がある。紫式部の供養の為だと伝えられているが、どこまで本当かどうか。また梵鐘については鐘楼の中にあり、鐘楼の周囲が派手に提灯などで飾り付けられて、肝心の梵鐘自体が見えにくい。
今となっては市街地は大きく広がり、平安京の端だったこの地も、京都市内の中心部に近い一部となってしまった。かつてたくさんの死体が集められて風葬されていたことなど、想像もできない。引接寺と言うお寺の名前の「引接」というのは、人々を導いて往生をさせるという意味があって、このような環境の土地に関わった意味がある名前だったわけだ。
そんなことに思いを馳せながら、閻魔大王の前で自分の反省すべきことや課題を改めて見直すのも大切なことなんだろうと思う。
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