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京阪電鉄宇治線木幡駅の線路沿いを北方向へ行くと、二子塚古墳というのがあり、そこに隣接する形で西方寺がある。
各地にある浄土宗の地域に根ざしたお寺で、本尊は阿弥陀如来。創建その他についてはよく分かっていない。隣の二子塚古墳はいわゆる古墳時代のほぼ終わり頃の物だと言う。古墳の一部が崩れており、かつて古墳に使われていた巨石が西芳寺の境内にもあると言う。このお寺の入り口は一箇所しかなく、古墳の方からは入れず、表の方に回らなければならない。入り口に面する道路は細くどこにも車を停める余裕はない。
細く長い参道を車で入っていく。するとなんと踏切がある。京阪電鉄宇治線の踏切だ。無論ここはれっきとした西方寺の敷地内だ。この中を宇治線の複線が通じており、しかも踏切もある。一般車でギリギリの細い踏切を渡り、慎重に駐車場に入る。大きな車では脱輪するだろう。軽自動車が望ましい。ちょうど踏切の警報機が鳴り始め、すぐに電車が通過する。片側で15分間隔。往復で平均7分半に一本と言うのが昼間時の本数だ。朝夕のラッシュ時は当然もっと多い。お寺の境内に入っている間にも何本も通過していった。いずれにしろ全国の寺の中でもこのようなところはかなり珍しいものだと思う。
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山門は本格的で立派なもので、開放的な境内が広がる。境内はそこそこ広く緑豊かで草木が豊かに配置され計画的に植えられている。手入れもよく行き届いており、非常に好感が持てる。いい雰囲気のお寺だ。
この近くの幹線道路をよく通るが、このお寺の存在を全く知らなかった。宇治市の地図をあれこれ見ている中で、このようなところにお寺があると見つけて訪れた次第だ。撮影し終わってお寺の山門から参道を通って出て行く時にも、車の幅ギリギリで随分慎重に運転しなければならない。
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ところでこのお寺のすぐ北側に小さな川が流れている。この川は少し西側にある宇治川に合流する。名前を弥陀次郎川と言う。人の名前がついた川だ。これには以下のような伝承がある。
昔、宇治川の西側には大きな巨椋池が広がっていた。漁業が盛んで池の西の方に一口(いもあらい)という漁村があって、そこに荒くれ者がいた。そこには毎日のように托鉢僧がやってきて念仏を唱える。荒くれ者は疎ましく思ってその托鉢僧に、焼きごてで顔に火傷を負わせたと言う。僧はそのまま帰っていったが、荒くれ者は気になって後をつけると光明寺へ入っていった。光明寺の僧に事情を話して色々と聞いてみると、光明寺に安置されている釈迦如来が、時々消えてどこかに行っているようだと言うのだ。
その釈迦如来を見るとなんと顔の頬に火傷の傷跡があった。荒くれ者は驚いて自分のしたことを悔いて、それ以後、悪いことするのをやめた。そして自らが善行を行うために修行を続け、宇治川から一体の阿弥陀如来を引き上げたと言う。この阿弥陀如来が、今の西方寺の本尊だと言う。以降彼は様々な善行を行い、悪次郎と呼ばれていた名前を「弥陀次郎」と改め、この地に静かに住み着いたと言う。この伝承が川の名前となって残っているということなのだ。同じような伝説はこの地域の他のお寺にも残っていると言う。
伝承というものは単なる都合の良い作り話というものではなく、おそらくそれの元になる実話があったんだろうと思われる。多少なりとも話の内容が大げさになったり、付け加えたり様々な違いはあるだろうが、これに類するような話はきっとあったのではないかと思われる。だからこそ具体的な名前が川の名前として残っているのだろう。
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これからもよろしくお願いします.