切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

源信 地獄・極楽への扉・・・・これは恐怖か、夢か?

2017-07-22 00:07:19 | 日記

 

 猛暑の中、興福寺の境内をめぐって多くの写真を撮り終え、帰ろうかどうしようかと思いつつ、すぐ隣の奈良国立博物館の方へ足が向いて行った。
 「原信  地獄・極楽への扉」と題された展覧会が始まったばかりだった。出展物は絵図や古文書の資料などが中心ということで迷っていたのだが、「地獄・極楽への扉」に惹かれ博物館内へ。そして結果的に、この展覧会は必見の価値ありの素晴らしいものだった。


 まず源信とその著作「往生要集」について以下の引用を載せておく。

『源信(942―1017)
 平安中期の天台宗の学僧。大和国(奈良県)葛城郡当麻(たいま)郷に生まれる。伝えによれば、7歳で父と死別、その遺命により出家し、9歳のとき比叡山に登り良源(慈慧大師)に師事、13歳のとき得度受戒したという。横川恵心院(よかわえしんいん)にあって修行と著述に従事したので、横川僧都(そうず)、恵心僧都とも称された。
 978年(天元1)37歳にして『因明論疏(いんみょうろんしょ)四相違略註釈(ちゅうしゃく)』を著す。因明とは仏教論理学であり、この著作が今日知られる限りでの源信の処女作であるから、この年から彼は学僧として出発したことになる。
 985年(寛和1)主著『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著す。彼はここで多くの経典のほかに、インド、中国、日本の諸師の論疏を引用して、人間は穢土(えど)を厭離(おんり)し極楽(ごくらく)に往生することにより初めて、仏陀の悟りに分け入ることができると述べ、「往生の業は、念仏をもって本となす」と説く。
 『往生要集』はこの後、宋人の手により中国の天台山国清寺にもたらされて賛仰の的となり、源信の名は中国の仏教界にも知られるに至った。
 986年(および988年)に著された『二十五三昧式』は、『往生要集』の教説に基づいて念仏三昧を勤修する三昧会(さんまいえ)の結衆の指針となるもので、三昧会が25人の発起衆の呼びかけにより結成されたので、この名称がある。
 正暦年中(990~995)、霊山院を造営、また華台院に丈六弥陀三尊を安置し、迎講(むかえこう)を始めた。1005年(寛弘2)には、大乗仏教概論ともいうべき『大乗対倶舎抄(くしゃしょう)』を完成させ、また翌年には、一切衆生の成仏を説く『一乗要決(いちじょうようけつ)』をまとめた。
 1007年撰述の『観心略要集』は、理観の念仏を強調した書として『往生要集』と並び称される。さらに1014年(長和3)には『阿弥陀経略記』を著し、生涯を学問と修行に終始して、寛仁元年6月10日、76歳で示寂した。彼の伝記は『楞厳院(りょうごんいん)源信僧都伝』のほか多数あり、さらに往生伝、説話集などにも採録されている。[広神 清](日本大百科全書(ニッポニカ) より、一部略)』

『往生要集
恵心僧都源信の著。3巻。寛和1 (985) 年成立。現実の苦悩や汚穢を直視し,念仏を勤めて,西方極楽浄土の阿弥陀如来の国に往生すべきことを説いたもの。
 「厭離穢土」「欣求浄土」「極楽の証拠」「正修念仏」「助念の方法」「別時念仏」「念仏の利益」「念仏の証拠」「往生の諸行」「問答料簡」の 10章から成るが,各章はさらに細分されて整然とした体系をなす。
 百六十余の仏典からの 900条に近い引用文によって構成されたものであるが,日本浄土教を確立した貴重な著述として,のちの宗教,文学,美術などに多大の影響を与えた。往生の事実を示す慶滋保胤 (よししげのやすたね) の『日本往生極楽記』と密接な関係にあるが,本書は地獄の精細な記述など,往生の願いを人々に起させようとするところに力点がある。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 より)』

 源信と「往生要集」については学校の授業では多分、高校辺りで出てくるものと思うが、一般的にも日本の歴代の有名な僧侶の名前をあげてと言われて、源信の名前は出てくるということはあまりないと思う。親鸞・法然・空海・最澄・道元あたりが有名どころとして知られているくらいで、源信については普段から話題になることもほとんどないと思われる。
 しかし今から千年も前に難しい仏教の教義を、いわばイメージが湧くようにわかりやすく示した書物として「往生要集」がまとめられた。なかでも地獄の件は極めてリアルな描写で、当時文字が読めた貴族たちは、その描写に戦慄を覚えたという。そして単に地獄だけではなく極楽も含めて、これらの分かりやすいイメージが後の文学や絵画、そして仏教の教義へも、法然や親鸞に至る浄土思想の元になっていった。
 そういった意味では彼の示す浄土思想の元になる教えというのは、後世に極めて大きな影響を与え、それらは今現在の人々の生活の中での、いろんな観念や思想にもつながっているものと言える。

 展覧会では「往生要集」の写本の他、源信の存在を示すさまざまな古文書が展示され、後に影響を受けた絵師によって描かれた往生極楽の絵図、極めてリアルな地獄の様子、或いは人間が亡くなってその後、身体が朽ち果てていく様子が残酷なほどに細密に描かれた絵図もある。これらの凄まじい絵図のほとんどは国宝。その絵の前で思わず立ち止まって見入ってしまう。「往生要集」は文字で書かれたものだが、このように具体的な絵画という形で描かれると、その影響は強烈なものがある。
 もちろん地獄が注目を集めがちだけれど、実際にはひたすら仏への信仰を念ずることによって、往生極楽への世界が広がることも絵図として描かれており、その両者の対比というのは当時の人々ならずとも、今現在見ても強烈なインパクトを与え、普段の生活の中での戒めともなり得るほどの説得力がある。後に法然や親鸞が、仏教の信仰に大きな影響を与えた人物としてこの源信を選んでおり、浄土宗や浄土真宗の基礎になったことは、歴史的な事実だ。
      

 自分自身も正直なところ、源信と「往生要集」の名前は知っていたが、その内容についてまでは特にきちんと調べたこともないし、知らなかったと言っていい状態だった。しかし改めて、こうして展示されたさまざまな古文書や絵図などを見ていると、単に日本の仏教史にとどまらず、当時の貴族から庶民、さらに後の武士たち、そして仏教界全体に絶大な影響を与え、今の我々が知らないうちにイメージしていることや、使っている言葉やお寺などで見聞きすることなどにも、この原信の思想がもたらしたものがたくさんあるんだろうと思われる。
 展覧会は始まったばかりで、9月半ばまで続く。多くの国宝や重要文化財の展示があり、文字通り必見と言える。ある意味、人生観が変わるかもしれないほどの訴求力があった。

 (画像の一部は他HPより転用)
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