切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

正福寺・念仏寺・法園寺 京都府八幡市・・・ご近所さん同士

2019-10-05 23:16:27 | 撮影

正福寺



 八幡市の市街地にある正福寺へ行く。
 ほとんど無名のお寺だが、すぐ北側に単伝庵と言うかなり有名なお寺があるので、しかも幹線道路沿いなので分かりやすい。このお寺に関する資料や情報は皆無に等しく、よくわからない。境内に由緒書等も一切ない。僅かながらにわかったのは、江戸時代初期の建立。明治維新前後の鳥羽伏見の戦いで大半が消失。本尊は阿弥陀如来といったところだ。
 山門をくぐって中へ入ると、すぐにかなり新しい本堂が構える。手前の境内が左右に広がり、草木が丁寧に配置され典型的なお寺としての体裁を整えている。
 向かって左側に、古い墓石がピラミッド状に積み上げられた塊があるが、その頂点に立つ墓石は有名な人の墓石らしい。一見して墓石はほぼ江戸時代のものと思われる。あいにく お寺の人と会うこともなかったので、あちこちの写真を撮らせて頂いて失敬することにした。
         


念仏寺



『淨土宗 念佛寺
 当寺は天慶年間(九三八~九四七)、空也上人の開基による。元は観音堂で、空也はここを不断念仏道場とし、以米空也念仏堂といわれ各地を巡礼する念仏行者がこの地に錫を留めた。
 鎌倉末期の元徳年度 (一三二九~一三三一)、西園寺公衡の未男、中納言宗時が当時の空也緑の観音菩薩の霊験を慕い、出家して無業と名乘り、荒廃していた当時を憂い、四方に勧獎して建て直した。朝廷に奏上して、天照山光明院念佛寺の寺名をいただいたとされる。
 慶長五年(一六〇〇)德川家康から朱印高二石九斗六升を受けた。慶応四年 (一 八六八)、戊辰戦争鳥羽伏見の戦いで当時は幕府軍会津・桑名両藩の本陣となろも、砲弾によって本堂、庫裏とも灰燼に帰した。本堂は明治三十三年(一九〇〇)に再建された。
  八幡市指定文化財
   木造釈迦如来像 (平安後期の作)

      八幡市郷上史会』  (駒札より)

 続いて念仏寺
 先ほどの正福寺からすぐ南側にある。お寺そのものの沿革については上記の駒札の内容の通り。特にこれ以上示すことのできる資料はあいにく持ち合わせていない。
 ここも整然としたお寺で、本堂ももちろん再建のもので比較的新しく感じた。境内もきれいに整備されており、全体としてこじんまりはしているものの、ここも典型的なお寺だ。名前からしてもすぐ浄土宗とわかるようなわかりやすい名前。
 しかし駒札を読んでみると、八幡市の指定文化財があることを知った。平安後期の作と言うからなかなかのものだろう。保存状態によってはあるいは詳細が分かっていれば、重要文化財になる可能性だってある。
 ここでもお寺の方に会うことなくただ撮影するだけだった。もし会うことができれば仏様を拝観させていただけますか、とお願いすることができるのだが・・・ 今までも時々だが何の予約もなしに、たまたまおられた御住職やあるいはその奥様にお話をして拝観させてもらったこともある。あるお寺では国宝の仏像の拝観どころか、ダメ元で撮影させてもらってもいいでしょうか、と尋ねたところ、一枚だけならということで撮らせてもらったこともある。でも嬉しさのあまり手ブレすると言う大失態だった。
 何にしろ国宝であれ市の指定文化財であれ、指定されているものはそのぶんの価値が認められてるということで、そのことを知るとどうしても見たいという欲求に駆られてしまうが、小さなお寺ではなかなかそういう機会はない。一般公開の日が設定されれば是非見てみたいものだと思う。
     


法園寺



『法園寺
 石清水八幡宮の別当田中宗清が健保四年(一二一六)に建立し、五代行清は南都の中道上人を請じて開山とした。鎌倉時代中期以来 石清水八幡宮と相携えて永き歴史を歩いてきた由緒ある寺院である。律宗の総本山 唐招提寺に属する。
 因みに法園寺というのは、この地が八幡宮に供える野菜の栽培地であったことによったものといわれる。
 昭和九年(一九三四)の室戸台風で本堂が倒壊し、下敷きとなった本尊釈迦如来座像(鎌倉時代・重文)の胎内から、当時の建立事情を物語る古文書や経巻(南北朝時代・重文)が発見された。
  八幡市教育委員会
  八幡市郷土史会  (駒札より)

 最後に法園寺へ行く。
 念仏寺から南東方向にすぐだ。幹線道路に面しているので入り口はすぐに分かった。しかし門は閉まっておりあとは塀で囲まれている。塀越に見ても本堂らしき建物も何もない。奧の方は高い樹木で囲まれている。敷地もどこからどこまでかはよくわからない。東側は何か駐車場のようになっていて車が並んでいた。山門のすぐ横に石造物が少し並んでいるだけで結局、東側の方から敷地内部が見えており、ポツンと小さな倉のようなものが建っているだけだった。つまりお寺としては、倉のようなもの以外何もないというところ。わずかに山門とその横に立てられていた駒札がこのお寺の存在を示しているだけだった。
 基本的な沿革は上記の駒札の通り。鎌倉時代の創建だからかなり長い歴史を持つ。もともと八幡市には石清水八幡宮があり、神仏習合の関係からも、その麓の地には石清水八幡宮に関わるお寺が比較的多い。
 この法園寺もその一つだ。その後、戦火や自然災害等で結局お寺のお堂は全てなくなってしまい、敷地だけが残るという状態になった。本尊の釈迦如来坐像はそれらの中、無事に残り続け、重要文化財の指定を受け、上記の倉のような建物の中に安置されている。おそらくお寺そのものとして今後、本堂などが再建されるということはないのではないかと思われる。倉内の釈迦如来坐像もいずれは国立博物館に寄託されるという形になるんだろう。
 歴史的な由緒のあるお寺が、現在このような状態になってしまっているというのは、ある意味珍しいのかもしれない。大概は戦火で失われても江戸時代あたりに再建されているケースが多いのに対して、ここは最終的に昭和の台風ですべてが無くなったらしいが、残念と言えば残念だ。

  
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