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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「川添地区」~

2020-06-15 18:37:57 | 日記
【川添(かわそえ)】
町村制実施当時、合併の旧村(椿川、田草川、芝野新田、下黒瀬、平沢、石田、妙法)は雄物川、岩見川の川添に立地していたことから「川添村」としたものである。)
どこの町村でも新町村名の選定には住民の意見が多く、当局者も慎重で、また頭の痛い問題でなかったろうか。
当時旧村の椿川、田草川、芝野新田、下黒瀬、平沢(石田、妙法を含む)の各代表者が昼食持参によって熟議を重ねること一週間、第一次案は各代表が自村名を新村名としたいと主張して譲らなかった。
次案は、抽籤によって各村名の一字を結合させてはとの意見となったが「椿田新瀬平村」という長い珍名となり、これも対外的にどうかとの異論が出てまとまらない。
そこで更に明日改めて参集の動議に川向の下黒瀬の代表から、夜間渡舟の困難に加え徒らに日時を空費するものとして苦情が出されたことからいささか会議も感情的となり、下黒瀬の分離論に及ぶ始末、いやこれまでの7ゕ村合併の支持論等でかなり緊張した場面に、代表の一人が立って7ゕ村とも雄物川と岩見川の川添の村々であり、この際「川添村」としてはとの発言に、最終はいと簡単に僅か三分で満場一致新村名が採択されたものだったと物語が残されている。

【椿川(つばきがわ)】
ツバキは植物の椿と崖(ツバケレは崩る意)の二義がある。
ここの場合は後者で、南方の小河川に添うた集落から椿川の地名としたもので現在河川名は安養寺川という。
昔は「津波岐」と書いている。
永正年代白華城主豊巻備中守の支砦として津波岐館を築き石塚美濃守を配備南の警固としたが永禄年代亡ぶ。

【田草川(たくさがわ)】
タは土地、クサは草原、採草地で、藩政時までは芝野新田とともに雄物川の流路で、河状の付替から川原草原地となり、開田、河川の改修により、地名にそぐわない現状である。

【芝野新田(しばのしんでん)】
シバは芝草、ノは原野、採草地、新田は文字どおり新開田で、田草川と同じく昔は雄物川の流路、藩政時下流の河川の付替により開田が行われ、また河川の改修から今は地名にそぐわない現状で、シバは新発田の新発にも通ずる地名。
なお、開拓地の地名には古代、中世、近世名があって、ここ芝野新田は近世の開拓地名とされている。

【下黒瀬(しもくろせ)】
上黒瀬、楢田は下浜に下黒瀬は川添村にと(地名辞書)ある、クロはフルと同言語で二語化したもの、クロは畔で小高い所の意で、瀬(セ)は早瀬、セセラギ、下黒瀬は雄物川の河岸の段丘でかつては砂、砂利等の川原、平水時は川床が露出し、増水時に浅瀬をなしたが去る昭和22年の大洪水後河床が変動してその面影は見られない。
元和8年 領地交換により亀田藩領となり、当時の交通は境界の山嶺だった。
下黒瀬は亀田藩の内越の黒瀬村との区分説もあり、明治4年亀田県に編入後秋田県の区域となり、旧に復し川添地区となったものである。
なお小字の黒瀬沢に因む集落の総称地名のようであり、「瀬」は「谷」の書替か、雄物川は、藩政時の改修前は対岸(右岸)の芝野新田付近で右折して、東北方小阿地下に曲流していたもので、曲流部の迫るところからの「迫」(せ)=鹿児島県の黒の瀬戸は昔時薩摩の迫門(せと)とある=でないかとも想像され、現状は藩政時に至って小山、石名板間に雄物川の新川を開墾して直流をはかり、急流となったもので、文字どおりの「瀬」であり、課題地名である。

【平沢(ひらさわ)】
ヒラは一般に平坦地、傾斜地で、サワ(沢)はここの場合雄物川に流入する小河川の意ともいうが、耕地の区分整理後の現状では沢とみることは至難であり、対岸にある字水沢の沢との結合地名との連想される今である。
永正年間白樺城主豊巻備中守が対岸水沢の筋脇に館を築き白根七郎昌吉を配備し警固させた。
永禄年代落城、清水館を後日白根の氏姓をもって白根館としたという。

【石田(いしだ)】
イシは礫でタは一般に土地または耕地をいう。
雄物川の右岸沿に現在は立派に水田化されているが、地下2~3米で水があり、地質は砂利層という。
かつては雄物川の流路であったとも推定されている。

【妙法(みょうほう)】
六郡郷村誌、羽陰温故誌に妙法地村とある。
享保年代に日蓮宗の妙法等(尼寺とも伝える。)字槐下の山腹に庵寺の跡地が伝えられており、この妙法寺に因む地名も廃寺に伴い「寺」を省略し妙法としたものである。
の氏姓は全部金家で宗家は水戸から佐竹藩主移封年代に移住を伝え、兄は銅屋に土着。



出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)