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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~江戸期から明治期の「河辺の農業」の歴史~

2020-06-06 22:25:11 | 日記
江戸時代になって佐竹氏を迎えた秋田地方は、開墾事業も急に増えたようである。佐竹氏は藩の苦しい財政を賄うのには、増反により多くの米を収穫させる方法が近道と考えたのであろう。
天保4年(1684)の石高調によると、河辺町全域の村々15ゕ村(岩見、三内、赤平、大沢、大張野、高岡、諸井、神内、式田宮崎、前田黒沼、野田高屋、松渕、白態沢、畑谷、豊成)ではその総計が、5796石7斗1升9合であった。
それから130年後の享保14年(1729)に調べたものでは、6509石4斗4升となっており、712石も多くなっているから、これだけ田地が拓かれたこととなるであろう。

石高は、村高ともいうが、その算出方法は石盛に面積を乗じてでてくるので、石盛は大体田畑の一反歩の生産高をいうから、仮に当時1反歩(10アール)の生産高を一石とみると、天和の頃の当地耕作面積は579町6反歩(579.6ヘクタール)で、享和の頃の総面積は651町歩(651ヘクタール)余となり71町歩(71ヘクタール)も開拓されたこととなる。

農地を拡げると反対に時々洪水によって田畑が流されたり荒らされたりして収穫の皆無になったことは今も昔も変わらないところである。この荒廃した土地をまた開墾し直して復旧することを当時「起反(おこしがえり)」と呼んでいた。
洪水の被害とそれの対策や影響について赤平村に貴重な記録がある。それによると、
宝暦のもので、宝暦から6、7年ばかり前の元禄のころから岩見川筋が悪くなり、附近の田畑、屋敷とも川欠け、砂埋りになり非常に損害を受けてきた。そのうえ冷害のため、上田、中田、下田とも田の平均高一石について上作で稲たば44、5束から55、6束で1升5、6合しかない。そのため農民は貧困の極に達し、家数も減って40軒あったものが30軒になってしまった。そこで竿入れ直し(田地の調査のやり直し)を何遍も願い出ているが、なかなか藩も収入減になることだから応じてくれない。
このような願い出の仕事は被害地の肝煎や、長百姓の大きな仕事の一つであった。

佐竹藩では四ツ小屋附近の大きく湾曲した雄物川の改修工事をしたり、そのあと四ツ小屋、仁井田付近の未開墾地を切り開くために、その用水を岩見川に求めたのである。用水の取入れ口が豊島城の下にある戸島堰堤である。この用水路を普通仁井田堰といっているが、これによって恩恵を受けているのは、四ツ小屋、仁井田、牛島、上北出、川添、広山田、それに上流の豊島など旧七ゕ村に及んでいる。

明治の大改革は農村にも色々な面で大きく響いてきた。
まず領主(殿様)が藩籍を奉還したので、その主従関係は切られて、土地の売買が自由になったし、
物成(年貢)は税金となって金納に改められたのである。
農村には今まで公に姓を称えることが禁じられていたものが、公家や武士なみに佐藤とか高橋、藤原などのように姓が付けられるようになり、明治8年には必ず付けることとなったのである。
男はチョンマゲ頭が斬髪になり、
服装にも昔のような制限がなくなって、
武士だけが特別な上層階級であるということがなくなったのであるから、農民は精神的な大変革をきたした。

この時まで殿様から一定の禄を受けて手飼にされながらも、社会の特権階級であった武士が、禄から離れただの一般住民となったのだから、自分で自分の生計を立てて行かなくてはならなくなったのである。
層の方法の一つに帰農があった。武士の中で、土地の開拓を行った者も多かったのである。
この武士の機能の姿には河辺町に二つのケースがあった。それは小平岱の開墾と、大張野の開拓である。

「小平岱の開墾」
小平岱はもと森林がうっそうと繁っていたところと云われ、開墾当初は土の中から大木の根株がたくさん掘り出されたという。
この十数町歩に及ぶ高原に最初に目を付けたのは秋田藩士小鷹狩某で、ここは代々差紙地所であった。
しかし小鷹狩は実際に開墾に当たらなかったといわれ、後で旧藩郡方(役所)で開発することとなり、堀松氏、加藤氏、その他数人がこの間、開拓の権利を譲ったり、次の代に伝えたりしている。この間多少の開拓はしたらしいが、殆ど失敗してしまった。
その後江戸末期に差紙返還の命令があって「公地」となった。
その頃には先に開いた溝などすっかり埋もれ、わずかに開いた田圃も荒れ果て「休高(やすみだか)(荒廃地)」となっていた。
明治になり秋田藩士白土礼助とその子、清孚はこの小平岱開拓にかからうとし、地元岩見村と協力してこの事業を始めるため熱心に村民を説いたが、誰もおいそれと応ずる者がなかったので二人で細々とわずかな耕地を経営していた。
この頃、荒川鉱山の復興に成功した盛岡の人、瀬川安五郎がこの開拓の有望なことに目をつけ、巨額の資金を出し用水路を小又川からを祖谷峡通って引き開墾に当ったのである。
瀬川氏は、阿仁方面から開拓者を入れ開拓は順調に進められて、明治15年には戸数30戸余水田40町歩にも達した。
しかし、河岸や低地帯と違って土質が悪く、それに高冷地などのため稲の成長は良くなかった。
最近になって稲の成長ぶりが急に良くなり、低地の稲作に劣らない収穫をあげるようになったのは、採草地に恵まれて堆肥が十分得られ、数十年来の土質改良に尽くした効果もあったが、もっと根本的な原因は戦後の農地改革の効果であろうと思われる。
というのは元来この土地は荒川鉱山の所有であったので、小平岱の大部分の人は小作人であった。鉱山という大地主がしかも近くにいないのに、農業生産によってのみ生計を立てることができなかった小作農民達は、地主に忠実に米の生産を大いに高めようとはあまり考えていなかったようである。小作料(玄米)は人の背か馬によって山や川を越え荒川鉱山まで運んだのあるから、たいして農業に興味を持たず多くは製炭業をしたり、官行公事業(営林署の国有林作業)などに働いた。
したがって農業は主として家庭における女や老人の手によるものであったから生産はあがらなかった。
しかし農地改革はこうした小平岱の農民を一躍自作農に転じさせた。
田地が自分のものになった喜びは農業生産の向上につながるものであったことは言うまでもないことである。


「大張野の開拓」
禄から離れた士族たちの有志の中で、羽生氏熟(はにゅううじなり)を中心に授産事業を起こそうと「秋成社」をつくった人々もいた。
維新によって帰農の士族たちが開墾地として選んだのは将軍野、大張野、北楢岡の下夕野であったが、秋成社が政府から受けた資金の大部分は大張野に注いだ。
そしてここでの事業は、養蚕、機業と開墾が主であった。
明治13年、秋田から50戸の士族が大張野に移住し、これを半分の25戸ずつ南北の両側に分住させ、中央には事務所・農学校・牛馬の厩舎等を置いた。
農業指導には岡山県人の内務属滝田退蔵があたり、西洋最新式の農業技術を取り入れ牛馬耕で開墾を行った。
農学校は明治13年11月1日、私立大張野農学校として開校し、本県実業学校の最初のものである。
生徒は全員寄宿舎に入舎し、農業指導の人材育成につとめた。
開墾に士族が移住した頃の大張野は広々とした寂しいところで、狐や狼が軒下まで来たものであったという。
しかし、一度開拓の鍬を入れて、最も近代的な進んだ農法を取り入れたここ大張野は、県下ひとしく注目の的となった。
移住者の子弟教育のため秋成社は小学校を設けた。のちにこの学校は公立として三内小学校の分校となったが、大張野住民が減っていったことと三内村の財政関係から廃校になった。
大張野の開拓がこのような大事業で、しかも士族が協力し合い自活の道をたどろうとする状況を親しくご覧になるために、明治14年秋明治天皇が東北巡幸の節ここにお立ち寄りになり、秋成社を励まされたのであった。


出典:河辺町発行「河辺町史」(昭和60年10月発行)