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河辺雄和の偉人「石井露月」の紹介

2020-07-05 11:24:04 | 日記
石井露月(本名祐治)は明治6年(1873)5月17日草深い河辺郡女米木村(現秋田市雄和)に生まれた。
女米木は秋田市中心部から南へ約20数キロ離れた地区で、怪奇な伝説を秘め、眺望のすばらしい高尾山の麓にある山紫水明の地である。
生家(与惣衛門)は代々肝煎(又は長百姓)を務めた家柄であったが、彼が生まれた頃は維新で零落の上、戊辰戦争で焼き討ちにあい辛酸を極めていた。また10歳で父と死別。
明治21年秋田尋常中学校(現在の秋田高校)に入学したものの、脚気を患い3年で中途退学。
明治26年秋、露月21歳の時、青雲の志を抱き文学で身を立てようと上京、やがて正岡子規の知遇を得、その斡旋によって新聞「小日本」に入社。子規のもとで俳句の指導を受け、「ホトトギス」の選者として近代俳句革新運動に加わる。
「子規門四天王」と称されたその偉才は、「明治29年の俳句界」で子規から「露月鬼才」と瞠目されたまさにその時、持病の脚気の悪化に苦しみ、子規と別れ、帰郷して医業に転ずる。

明治33年3月、秋田の地に子規が命名した全国俳誌の三大誌「俳星」露月を盟主として能代の島田五空等と創刊。
こうして地元秋田に日本派の俳風を広める。
地方に在りながら日本有数の俳句王国をなさしめた源流となっている。
一方、故郷では伝染病の猛威に苦しむ無医村の地で農村医療活動に献身した。病む人たちを看まわり、村人に愛され、貧困に疲弊した村で植林や、農村青年の鍛錬や交流の場として「夜学会」、「青年団活動」に取り組み、「女米木文庫」(図書館)を創設するなど、明治、大正、昭和に至る秋田の農村で、村の指導者、青年運動、社会教育のパイオニアとして生涯を捧げた。

代表句に次の一句(大正12年作)がある。
  秋立つか雲の音聞け山の上
露月がこよなく愛した高尾山横長根に昭和52年6月12日露月50回忌記念に句碑として建立されている。
因みに露月の句碑は秋田県内17カ所、県外3か所に建てられている。


出典:秋田市立雄和図書館「秋田市が生んだ俳人 石井露月の紹介」チラシより