彼は注いだコップの一つを高志の前に押しやり、今一度「ゆっくり読んでくれ」と言ってから、
残りの漬物で飲み始めた。
彼の漬物を嚙む音だけが、部屋の中に響いた。
あやは一枚読み終わるごとに、高志に渡し、全部読み終わると、再び高志から一枚目からの便箋
を求めて読み直した。
鉄五郎は半ばうつ向いて、静かにコップを傾けている。
ようやく二人が二度読み終わったのを見届けてから、彼は口を開いた。
「野木和美はわしの子だ。24年前わしは妻と、3歳になる和美を捨てた。二人を置き去りに
して家を飛び出し、以来各地を転々と流れ歩いてきた。
世間じゃ蒸発ということになっているだろう。実に都合のいい言葉だ。
置き去りにされた者にも、姿をくらました者にも、そして世の中にとっても、都合のいい言葉だ。
この言葉は人間の重大な行為を、ありふれた科学用語にすり変えている。
物質の分子レベルの反応には、人間性の入りこむ余地はない。だから何となく納得し、安心して
しまう。
しかし、わしの妻は死ぬまでその言葉に、何故と問いかけ、その子もまた問いかけ続ける。わし
が二人にしたことは罪深い。何重にも二人を傷つけた。わしは卑怯者だから、その罪から逃げ続け
てきたのだ
しかし実際のところ、自分が何故そんな仕打ちを二人にしたのか、分からなくなっている」
鉄五郎はコップを置き、その中の焼酎に答えを求めるように、茫として視線を落とした。
彼は本当に、そこに答えを探しているかと思えるほど、長く沈黙を続けた。