@ano_ano_ano (´・ω・)つ「腹のくくり方がまずなってない。名のあるジャーナリストだから、の慢心ありあり。本腰入れてネットとつきあう、身をもって学ぶのでなく、ボクはシロウトだからという言い訳を準備しつつ、でも本音は活字の高みから見下したままだからあっという間にボロが」
今回の安保法制に関して言えば、安保は必ず反対活動が起こるという宿命を持つんだよ。これは誰がどうやったって絶対にこうなるんだ。説明が足りないとか関係なく、安保をダシに反政府活動をしたい人間が大勢いるということなんだ。
要人の不祥事に対する責任の取り方とはいうが、「結局のところ謝られる側はどうしてほしいんだよ」と思う局面がここ最近ほんと多い
少し前なら何かと辞職することで責任取った形になってたが、その結果総理大臣が変わりまくって国内外問わず顰蹙買ったため「簡単に辞めんな」って言われたのを受けて、「職を辞さないことを以て辞職に代えたい」というスタイルにしたら「ふざけんなさっさと辞めろ」って言い出したりとかしてね。
結局のところ、責任の取り方ってものがわかってないし、それ以上に責任の取られ方というものをわかっていないのだ。西洋人はどうなのかってのはよく分からんから、「人間ってやつは~」って書き出すのはためらわれたけども
ただ確実なのは、日本人は間違いなくわかってないし、戦争責任についての小汚い扱い方を見ても、中韓の連中が責任の取られ方について明らかに考えが及んでいない。だから、いくら償っても責任を取られた気分にならない。そして、いつまでも許してくれないんなら責任とる方も償う気を失くす
責任ってのは、本質的に取りきれないものなのではなかろうか。交通事故で負傷させた責任をたとえば賠償金で払おうとしても、ある程度以上の重傷であれば怪我による損失は原則として補填されない。等価交換になり得ない
ちなみに自分は、当たり屋という職業は心底愚かな稼業だと思う。仮に失敗して重傷をおったとして、それでも治療代さえ払ってもらえればプラマイゼロになると思い込んでいるに違いない。ならないよ、そんなもん。まさに子供の浅知恵である
そういや自分は、最近の子供の浅知恵の大半は当たり屋的な価値観で構成されているのではなかろうかと思っている。自分が何かされたら、必ず埋め合わせをしてもらえるという甘ったれた被扶養者意識を持っている。そうでないのだと身をもって体験した時にはもう遅いのだが
世の中には、かけがえのないものというものがあるのだ。かけがえがないからこそ、それが失われた時には替えがきかない。替えがきかないものの替えを用意しろという責任の取り方は不可能である。そうなると、永遠に駄々をこねるしかない
日本のマスコミがやっているのはつまりそういうことである。本質的に責任が取り得ないのをいいことに、いつまでも駄々をこね続けることをジャーナリズムだと錯誤している。しかしその本質は、先述したように子供の浅知恵レベルの低俗なレトリックに過ぎない
ふう…暑い。
駄菓子菓子!我がベランダに最強アイテム・「ターフ」が設置済みなので、快適度がぐ~んとアップしたのだ!ふはは!
…でもエアコン入れたけど…^^;
集団的自衛権関連法案に関して。戦争をやりたい、戦争に行きたいと考えてる人は誰も居ないわけで、集団的自衛権というのも戦争回避を狙ったものだよね。これが逆効果だと考えて反対するのは真っ当だが。賛成派が戦争をやりたい、戦争に行きたいと考えてる、と言って反対すると話が噛み合わない。
渡辺謙氏の発言でちょっと気になるのは、争いの抑止力を、いわゆる「友情」としてるところ。「争う」の反対は「仲良くする」じゃないんですよ。「争う」の反対は「争わない」です。仲良くなる必要も、極端に言えば理解する必要もない。まず「争わない」と自らが決断することから始まるんです。
いじめだって同じなんだよな。いじめをなくすために「みんな仲良く」とか言い出すからおかしなことになっていくんだよ。「仲良くならなくてもいい、嫌いになってもいい、ただそれを理由に無闇に相手を傷つけるな」という話なんだと思うんですよ。
承前)たとえば、この間もFBで書いたのですが、わたし個人は巷に流れる「中国脅威論」の論点のほとんどはアホか、と思っています。ですが、それはわたしが中国のムードを知っているから。「中国脅威論」を支えている人たちの多くが「不安」だからです。なので、「中国脅威論」は論破できないと思う。
承前)というのも、中国当局の物事の進め方は常に粗暴です。これは海外だけではなく、中国国内でもさんざん中国国内住民に対して行われているから、わたしも見ているだけで怖いです。その粗暴さに不安を覚え、「恐怖」を感じることは自然なことだから。逆に「脅威論」を唱える人はそんな恐怖を利用する
承前)つまり、「中国脅威論」を論破するということは、そういう恐怖をなきものにする、ということですが、わたしも責任取れない中国政府の粗暴さを見て感じる恐怖を、感じるな、という方が無理です。そういう意味で「脅威論」の論破は無理。でも、活動家の一部の方は「脅威論」自体を問題とみなし、
承前)中国の実情も知らないままに、平和主義的立場から「脅威論はダメでしょ」と主張する。あなた方の他者に対する優しさや思いやりは理解したいけど、それでは「恐怖」を感じている人は説得できません。その距離感をすごく感じています。
承前)ならば、どうすればいいのか。わたしにできることは、わたしが持っている知識と情報と分析を元に、「日本的に解釈された中国」を解きほぐして、日本で拡大解釈される「脅威論」のばかばかしさを理解してもらうことでしょう。結局、根拠のない「脅威論」って他者の恐怖を利用しているだけですし。
承前)ともあれ、思うのは、人間の「恐怖」って、本当に利用されやすいのです。良くも悪くも利用されやすい。もし、集合知を信じるなら、声をあげることが意味があると信じるなら、まずは自分が持っている「恐怖」と向き合い、理解することではないかと思います。それをやらずに集合知もクソもない。
でも、最後に言っておきますが、日本で流れている「中国脅威論」の根拠とか論調とか、ほとんどが思いつきやねじ曲げでできています。それを主張する人にとっては、聞く人が不安や恐怖を感じないと目的を達せないので、かなりの妄想も含めて吹聴されているのは事実です。
一連RTですが、興味深いと思ったのは、この「恐怖を使って煽動する」という手法が、どの立場であっても横行しているなと言うこと。例えば「戦争法案!」と言って、若者たちを煽動している集団もまた、日本政府が戦争をやりたがってると言って、切り貼りや妄想をふんだんにからめて恐怖で洗脳している
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