今日は太陽がカイロンに合。特に魚座・射手座・乙女座・双子座17°近辺に惑星やMPなど感受点のあるひとは、もしかしたら心にヒリっとくるようなことがあるかもしれない日。けど自分が何に反応しやすいかがよく見えて来る、とても貴重な時かも。
あっほんとだ、キローンが魚座17度で太陽と合だったのね…。
乙女座18度に月冥王星のオラ。さて日曜は…なんだろう。思い通りにいかない自分に苛ついてたかな。色々とネイタルにフルボッコ状態だから何がなんだかな気分なんだけど…。
でも山羊座冥王星がトライン圏内に入って来たからなあ…
気分は落ち着いてて、なんか腹は座ってる。
山羊座冥王星は生まれ変わること(特に創造系)を促してて、そして月冥王星の私にはそれは慣れっこな事なんではある。
タイムラインに流れてきたアナ雪評論?で、「この映画は成長譚である」と言いつつ、「各キャラがそのまま、ありのままでいいという新タイプのディズニー映画」という壮大な持論も並行展開してて、思わずお茶を吹く未明の空。
あの映画は単に「今までのディズニーの王道の逆張りを仕掛けてみました」という話で、色んな人が寄ってたかって色々といじった結果、シナリオもキャラ設定も破綻しまくりの哀しいハムスター車輪映画、と私は思ってるけどね。まあ色んな意見があるものだと感心しました。まる。
ありのままでいいんだ!という自己肯定感が欲しくてたまらない人には楽しい映画だと思いますけどね。閉じこもってる自分でいい、何もしなくても無責任でも、丸投げすりゃなんとかなるもんね!と肯定できるじゃないっすか。
そもそもあの映画は、ヴィランズとしてエルサをどう描くかということで、色んなスタッフの意見が対立してて全然出来なくて困ってたところに、「Let it go」の曲と画像が先にできて、あまりの出来の良さに「これベースで行こう」となったそうなんですよね。前提が狂ってる。
ディズニー映画の作り方って本当に特殊で、スタッフのブレーン・ストーミングの中からシナリオやキャラを作るっていうやり方らしいんですよね。美女と野獣がハワード・アッシュマンという優れた製作総指揮監督が居たからこそ、あの一貫性のある名作になったのと非常に対照的な話だと思ってる。
いつも比較されて頭に来るのだが、美女と野獣のベルは決して「王道のディズニーヒロイン、夢見ていたら叶っちゃいました系」のプリンセスじゃない。てかプリンセスでもない。彼女を単なる受動的な女性像と批判した、フェミ系の団体の言い分は許しがたいものがある。
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あの話は、一方通行の恋物語に憧れ夢見ていた少女が、愛することを知って双方向の力を知り、女性へと成長する話なんだよ。野獣側のほうもそう。2人が双方向の「あい」を知って変容を遂げるという、素晴らしい成長譚なんです。あの短い2時間で全てが完結してる。
愛するパートナーを支える奥方としての道を、自発的に選ぶことの、何が受動的なんだと小一時間問い詰めたい。ふざけんなフェミ系。
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ちなみにハワード・アッシュマンは同性愛者だった。その点から鑑みても、あの映画は単なる性別や惚れた腫れたとか人間という枠すら超えた、すごい話だと私は思ってるけどね。彼が命がけで表現したことを貶めた人間は本気で許せないよ。
だいたい、どういう話であろうと性的要素の暗喩は含まれてるのに、なんでもかんでもそれにつなげてギャースカ言うのもどうなんだろうと言いたいねえ。
性的要素なんて正直飾りでしょうが。だれでも火星も金星も持ってる。そんなのは単なる飾りだし、それを元にあーだこーだと薄っぺらい…
はっイカン、どーにもアナ雪擁護派に対して私の視点は厳しくなりがちなんだよね。あの話を擁護する人達の意見で、まともなものを全然見ないんだよ。だって全部こじつけなんだもの。言い訳ばっかり。
自分を変えない、改めない、成長させない、殻に閉じこもって出てこない、外のせいにして外に問題解決を丸投げし、現状維持のみ力を注ぐ。自分の力をちゃんと管理することが出来ないままで放置する。それらの言い訳に聞こえてしまう。
ま、例によって自分革命をしない天王星スクエアのジレンマ。
あの話で最後に氷が溶け、全てがハッピーエンドというのもご都合主義過ぎて(というかもう一人の監督が絶対にそうしろという条件付きのシナリオだったそうで)、あのエンディングはエルサの妄想ではないかと思ってる。そう考えると怖い話ではある。
独自に今日のお題を整理してみると、
「軍隊(軍人・兵士)は暴走するかしないか」
が元々の出発点だったと思う。
これは、
「軍隊、軍人、兵士は、暴走してはならないし、暴走していたら正常に機能しない。暴走させない仕組みと訓練を施し、暴走を抑制することで、上意下達の命令に従って【群れ】として行動することが可能になる」し、それが軍という組織の強みであり価値である。
というのがまず標準原器。
が、「現実にはそうはなれないかもしれない」という懸念はわかる。
ので、それに対応するために、
1)良心の呵責に最初から負けてる人は軍人にしない(不安要素の初期排除)
2)規律と統制に対する知識としての理解と、反復訓練による身体への刻み込みによって律する
3)軍法によるムチ、給与・昇給昇格によるアメによって、「命令に服従することで得られる利益、不服従の不利益」を学ばせる
他にもあるだろうけど、そうした「対策」を講じる。
仮にどれだけ施策を施しても、「完全に問題の出ない組織」は作れないので、後は問題が起こるたびに「問題分子を排除、修正していく」という形、要するにパッチを当てる形での対応になるのではないか。これ、軍でなくても同じだよね。
んで、「例外が必ず出るからその組織は間違っている/問題がある」というのはこれは極論。
なぜなら、「犯罪者が一人でも出た社会は間違っている」「犯罪者が毎年出る社会は間違っている」になる。
まあ、その社会は完全ではないんだろうけど、その他の大多数はその社会に準じてるわけで、その他大勢をうまく律することができているのなら、「例外」の存在は処罰で統制するしかないんじゃないかなと。
もし、その例外が過半数を超えるのであれば、それはもう社会/組織を維持できないので、組織の体を為さないし、「組織(多数が同一の目標・利益を達成するために協働する集団)」の意味をなしてない。会社なら叛乱集団退職ってとこだろうw