って上から目線で言ってすみません(-_-;) 私も境界が甘いんですよね。先ほどの記事と同じ目(突然相手のペースに侵入され、問題行動でお試しされ、挙句に切られてしまう)に散々っぱら苦しめられてきたからこそ、良く分かるんですよ。
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拒絶って言ってますが、そもそも相手に振り回されず、自分のペースと境界を保つ事は当然のこと。そこで敢えて「拒絶」と力を入れて強調しなければならない、そこが既に境界が甘い一面を表すのだと思います。私も同じなので痛いほどわかります。
いやほんと、色々としんどいっすね^^;
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ちなみに、私が今まで友達と切れる時の典型的なパターンは「私が別天地を求めて前向きに頑張る!」と決意した時。相手は最初引き止めに入り、それが敵わないとグループ巻き込んでハブり、私の人格と能力を全否定かます。
境界の甘さを自覚するまで何度も続きましたね。結局根っこは親子関係ですが。
結局ですね、自分を尊重出来なかったから、自分の境界も尊重出来無かったんですよ。だからそんな相手を選んでしまうんです。共依存の典型的なパターンですが。
自覚後、自分を尊重出来るようになってから、他人の境界も尊重できるようになれたんじゃないかな、と思ってます。
長い回り道でしたが。
最近ネットを見ていると、自画自賛ならぬ自国自賛の記事が増えていて気になる。日本の公衆トイレの綺麗さや、電車の時間の正確さに○○人が驚いたとか。何故なら「俺って凄いンだぜ」と言う時は、自分に自信がなくて他人の承認を求めている時だから。当たり前の事を大袈裟に言い始めたら注意せよ。
基本「乳幼児にマッサージは必要ない」です。最も身体が活性化している時期の何処にマッサージを行う必要がありますか?必要なのは親の愛情とスキンシップです。アトピー等具合悪いと思った医者に掛かりましょう。民間療法が何故正規の医療に取り込まれず民間療法のままなのか、よく考えてみて下さい。
乳幼児は刺激に過敏に反応するので、鍼灸では小児用の“刺さない鍼”もあるくらい。あちこち捻ったりする必要なんかなく、親が優しく撫でさすってあげるだけで十分刺激になります。また部屋内の化学物質やダニ等にも敏感に反応するので子供が具合悪いと思ったら一時的に居住場所を変えるのも一考です。
ベクレルフリー職人の朝は早い
「これはね、炭素。炭素14が混ざると出ちゃうからね」
早朝から行われる素材の仕込みは真剣勝負だ。
「昔ね、工場に外気が入ったことがあってね。長年かけた仕込みがパーになった。コンタミさせないのは本当に難しい」
ベクレルフリー食品の工場はシェルターのような外見をしていた
「これはね、宇宙線を防いでいるんですよ。せっかく炭素14を取り除いても宇宙線が当たるとまた作られてしまうからね」
自然放射能すら取り除きベクレルフリーを謳うためにここまでするのか――
「本物を作るのは大変」と笑う
「このあいだ、考古学の先生に怒られましてね。おたくのような本物のベクレルフリー食品を作られると、将来、放射性炭素年代測定が正しく機能しなくなるってね」
発掘現場で落としたベクレルフリーおにぎりが後日出土品と間違えられ、炭素14で超古代と鑑定され学会で大問題となったのだそうだ
ベクレルフリー、のんべくれるの食品はこんな宇宙食みたいな厳密なシステムで作られているんだ。こらたまげたなあ(棒
心理学の方にお話をきいていた時に、人類史の中で、努力と夢の概念は実は結構最近のものなんだと言っていた。確かに、何かを目指すということ自体が、身分が固定されている時代や、農業のように日々仕事がある時代にはあまり考えられない。
夢がなければそこに向かう為の努力も存在しない。おそらく昔は日々繰り返されるものを努力ではなく”営み”と呼んでいたのではないか。営みにはさしたる達成目標はなく、あるとすれば日々が続いていく為に繰り返されるものだったのではないだろうか。
それ以外の概念に”行”というものがあるけれど、これは特に達成を目指しているとは思えない。目指しているとしても涅槃のような内的な達成、具体的な何かを得るというものではないと思う。得る為に行うのが努力だとすると、行は行うことそれそのものが目的化するのではないか。
私達は身分と労働からある程度自由になった。職業や生活を選択する自由が生まれた。夢が個人の間に生まれ、それを達成する為に必要な努力が生まれた。不自由から解放され自由になった後は、成功するかどうかはあなた次第という世界がやってきた。
ある村人が毎日山を登って降りてくる。気になった他の村人がついていったら、ただ山頂で石を積んでいた。なんでそんなことをするのかというと意味はないという。そんなわけないと問い詰めても、意味はないと繰り返す。村人は混乱した。努力の世界にいる人は意味から逃れられない。
【終わり】行と遊びは似ていると思う。意味はなく、目的もなく、ひたすらに今がある。努力は夢を達成する為に行うものだとしたら、遊びは遊ぶ為に行う。そしてもしかするとひたすらに遊び続ける人を、努力し続ける人と呼ぶのかもしれない。
夢と現実のギャップを埋めるのが「努力」
夢への到達を目標とする指向性あるエネルギー。
でも本当に夢を叶えてる人は、夢を夢だと思わず、ただ「楽しんでいる」んだろうなあ、その行為そのものを。
夢は夢だと思ってる限り、現実にはならない。
そんな気がする。
努力でもなんでも思いっきり振ってみて、もうだめだと手放してみるしかないのかなと思います "@cheer_an: 何をするにしても意味を見つけようとしてしまう、意味から逃れられない人は、どうしたらいいと思われますか?"