誰が何と言おうと
「吉備の中山と吉備津神社」です。
世界遺産に登録されてもいい様な場所です。古来から、万葉集や古事記を始め、古今和歌集、枕草子などの多くの書物に紹介されております。日本の歴史を彩る「大和と吉備」の物語の舞台でもあるのです。
誰が何と言おうと
「吉備の中山と吉備津神社」です。
世界遺産に登録されてもいい様な場所です。古来から、万葉集や古事記を始め、古今和歌集、枕草子などの多くの書物に紹介されております。日本の歴史を彩る「大和と吉備」の物語の舞台でもあるのです。
愛しい妻が大和から、遥々と伊予の国まで駆け付けてくれます。あまりのその嬉しさに「歓びの歌」が口を突いて出て来ます。
“隠国の 泊瀬の川の
上つ瀬に 斎杙<イクヒ>を打ち
下つ瀬に 真杙<マクヒ>を打ち”
です。
川です。山ではありません。山から流れ出た水が集まって川となって流れております。その川水が、自分のいる伊予の国までやってきたということを間接的に言い表しています。その汚れも何も知らない生まれたての赤子のような純粋で神聖な川が「泊瀬の川」です。そんな無垢な川に神殿に捧げられ清められた聖なる杙(杭)を打ちつけた、と言うのです。
さらに、そのような神聖なる川に打ちつけられた聖なる杙には、
斎杙には 鏡を掛け
真杙には 真玉を掛け
「鏡や真玉を掛け」です。
この鏡や真玉(勾玉)は、当時の社会では、神の領域の物で、誰からの犯されることのない不思議な霊力を持つ聖者しか持つ事が出来ない物でした。なお、余残事ですが、あの卑弥呼も中国の王様から鏡を100枚もらっています。王を象徴する不思議な力を持つと信じられていたのです。それから、天皇を象徴するあの「三種の神器」にも、この鏡と真玉(勾玉)も入っているのです。
ここまでは、「阿賀母布伊毛」(吾が思ふ妻)、本当に純心で無垢なあまりにも美しい、誰からも犯すことが出来ない神聖な吾が妻が、今、自分の前に現実にいる。その心溢れんばかりの嬉しさ、その実感を素直に言い表すための序文なのです。
どうです。これ以上はないと言う最大限の木梨之軽太子の「歓びの歌」でなないでしょうか。是を読むと「ベートーベンの第九」のような思いに至りませんか。感じがしませんか。