BioDoxology

生物と映画と政治とマレー・インドネシア語にうるさい大学生の戯言

不条理(2)

2011-09-09 00:35:32 | 雑記
 報告会前に大急ぎでルポ記事を仕上げなければ。文章の練り方が弱くなりますがご容赦を。

 8月24日に石巻市でショックを受けてから2日後、26日には岩沼市を訪れた。そこで活動していた「がんばろう!!岩沼」というボランティア団体の方から伺った話が興味深かった。

――岩沼市は、市の東部は津波で壊滅的な被害を受けたが、中部と西部は比較的軽い被害で済んだ。そこで、中部と西部に住む人々が積極的に東部へ物資を提供し、ボランティアは人手の少なさを補ってくれるものとしてきてもらい、物資支援はなるべく市内で完結させる形にするよう努めた。今は物資支援を断り、「がんばろう!!岩沼」としての活動は終えている。理由は、外部からの支援に頼っていてはいつまでも自立が始まらないから。震災から何か月か経って、市民の間に「物資をもらって当たり前」という空気が芽生え始めたのを感じ、すぐさま物資支援ストップに移行した。復興と自立は市民が行うものでなくてはならない。ボランティアは、あくまでその手助けをする存在であり、市民の生活がボランティアに依存するべきではない。

 一つの地域の中で被害状況の異なる人々が混在する、という状況は、前回述べた石巻市泊浜地区と似ている。しかし、そこからいかに連携体制をとり、復興へ向けてスタートするかという点において、両者は決定的に違う。かたや住民間の助け合いが機能し、かたや助け合いがいがみ合いとなっている。その違いはどこから来るのか伺った。

――それは、おそらく行政の動き、仮設住宅の建設、そして義捐金の配布の迅速さの違いによるのではないか。まずは支援が行き届かなければうまくいかない。自治体の規模の大きさもある。岩沼市は比較的小さいが、石巻市は大きい。大きな市では支援が行き届かないところも出てくるだろう。

 首都圏に住んでいると、復興に向けた計画として中央政府の政策レベルの話が中心になりがちである。もちろんそれも極めて重要だが、実は地方行政や地域住民の町内会など、地域レベルの小さな組織の動きも、復興に向けて大きなカギを握っているのである。これは自分が大きく見落としていた点だった。

 団体がもともと活動していた倉庫には、市外から送られてきて余っているであろう物資が山のようにあった。シャツ、幼児用品、寝具もあっただろうか。しかしこれらはすべて処分してしまうという。倉庫の衛生環境がよくないため、湿気で虫食いに遭ったり、カビが生えてしまったりするものが多く、被災者に配るわけにもいかないのだそうだ。なんだかもったいない気もするが、どうしようもない。

――これからボランティアの助けを借りるとすれば、まずは就労支援。次に、仮設住宅を中心とした地域のコミュニティづくり。知らない人同士が住む仮設住宅で孤独死などを防ぐためである。住民の間では、サロンのような人の集まれる施設を作ってコミュニケーションの場とし、さらに経済活動にも貢献できれば、と考えている。

 これと似たようなことが他の自治体でも言われた。「復旧から復興」という言葉に象徴されるように、とにかく人海戦術でがれき撤去や泥かき、家屋の片づけをする段階から、仮設住宅というセンシティブな環境で長期的な街づくりをはじめていく段階に入っているところは散見される。七ヶ浜町、女川町でもそうした声が聞かれた。女川町は、津波で壊滅的な被害を受けた地区であっただけに、「まだがれき処理や泥かきが必要ではないのか」と思えるのだが、津波で根こそぎ町が流されてしまったため、ある程度がれきを撤去すると、もはや手を加える場所も、必要性もないのだという。そのため、がれきや泥の処理が大変だというわけでは、必ずしもないのである。

 そして、地域再生・コミュニティづくりを行っていく際に求められるのが、「長期的・継続的な支援」である。地域の住民と顔なじみになり、現場の状況に通じたリーダーとなって連携体制を作っていけるような人材が求められる、という。女川町で活動するボランティア「REAL eYE」の話を聞いた。ここは、自身も被災された女川町に住む夫妻が個人的に活動する、という形で動いており、仮設住宅の訪問を精力的に行って住民支援に尽力している。

――仮設住宅に住む住民の人びとに心を開いてもらうまで3か月かかった。東北では自分の頼みを言わないことが美徳とされるので、支援を求める声を聴けるようになるまで非常に時間がかかる。地域再生は生半可な気持ちでできることではない。ボランティアにきている人が1人いるが、その方は広島から住み込みで活動し続けている。もし我々とともに活動したいのならば、一生ここの人びとと関わり、女川に移住するくらいの覚悟できてほしい。

 確かに、言うとおりだろう。数日単位で入れ替わってやってくるボランティアと打ち解けて地域再生しろと言っても、酷な話だ。しかしここまで来ると、もはや首都圏を含め全国の人びとが支援できる問題ではなくなってくる。人生をかけるような熱意で来てくれる人も確かにいないわけではない。だがみんながそれをできるかといえば、そうでもない。「何かしたい、でも自分が役にたてるのかどうかわからない」と二の足を踏んでいる方もゼロではないはずだが、そうした人々の前でハードルを上げてしまっては、結局「私たちには出来ることなどないんですね、地元で何とかしてください」という話になりかねない。失礼を承知でいえば、地域再生という色合いが強くなるほど、外部からの支援に対して閉鎖的になってきている可能性がある。

 もちろん、ボランティアや復興は外から手助けをしたがっている人々のために行うのではなく、被災地のために行うものだ。「よそ者に何がわかる」という心理は当然尊重しなければならない。だとしても、「来るなら本気でこい」というハードルができて、この災害からの復興が被災地で完結するようなことになると、被災者と我々の間の「断絶」ともいえる意識の差はますます広がるばかりではないか。「自分には関係ない、何もしなくて良い」と決め込むことのできない人々はいるわけで、そうした人々の思いが生かされずに終わってしまうのは、これもまた不条理ではないだろうか。果してこれから、どういった形の支援が行われるべきで、我々はどうかかわっていけばよいのか。結局ボランティアインフォの間でもまだ結論は出ていない。

 総じて今回のボランティア参加、あまりに重苦しいものだった。まず、現地に足を運んで各種団体をアポを取り、話を聞いて回るという作業は、企業での外回りに近く、大学で研究めいた学習をしていただけの自分にはその社会的スキルが全くなかった。ある団体へ電話でアポを取ろうとしたときは、自分の説明のまずさのせいで断られ、チーム全体に多大な迷惑をかけることとなり、申し訳ない限りである。そして繰り返すが、自分は被災地の現状に対してあまりに無知であった。自分の考えていた復興へのイメージがいかに薄っぺらなものか思い知らされた。5日にわたる活動期間、終始自己嫌悪に陥り、帰ってからも悩みは増すばかりである。

 これもいつしっかり投稿できるかわからないが、自分はもともと特に災害時のボランティア活動を毛嫌いしていた。特に「ボランティア活動を経て自分も成長できる、よい経験になる」という言説が許しがたかった。今回の例でいえば、被災者は苦しみを一生背負わなければならない。それを一回の経験に矮小化するような振る舞いはばかげていると思っていたのである。今回参加してもその気持ちは変わらないが、首都圏にいてはわからない現実を知ったことはどう考えればよいのか。よい経験といいたくなる自分がいる。一方で、そう感じる自分がまさに、かつて批判していたボランティアの連中と同じ類の人間になっているのではないかという恐怖感がある。もはや自分のしていることが正しいのかどうか、全く分からなくなってきた。こんなダーク状態になっていたので、更新も遅れた、ということにしてください。