会社からも家族からも良く頼られる。
それはいいことだけど、我に返るときもある。
ママ友だったり 会社の同僚だったりもする。
私にできることならしてあげたいと思う。
みんなそれぞれその人にしかわからない苦労をしていて、つくづくその心に安々と触れて たいした経験値もなく頭でっかちに切り返したりしちゃいけないって思う。
だから私は自分に降りかかる不幸を感じる度に、漠然とだけど「ああ、あのときあの人はこんな気持ちだったんだ。」とか「自分はしないようにしよう」とか嫌な思いのほかに引き出しが増えるのを感じる。
嫌な目に遭わないようにとか、幸せになることだとか、楽しくわくわくすることばかりが永久に続いたら私は誰かを無意識に傷つけても気がつかない人間になるようで、私は受ける嫌なことは私に必要なことじゃないかと思う。
だから誰かが悩んでいると自分を置き換えて考えるクセがある。
置き換えるからこそたくさんの不幸の実体験は役に立っている。
そのうちどうあるべきなのが理想かと、望む先を考えられるようになってくる。
そして結果を示して話ができるようになる。
そうなるとまわりに頼られるようになる。
言葉の裏に何が隠れているのかを読めるようになる。
どうしてその台詞を吐いたのか。どうしてその考えに行き着いたのか。
だから私はどういえばいいのか。
不幸の経験は私のスキルを上げている。
いいことを考えてポジティブに生きられるのは、自分に結果を示して説得できるようになっているからだと思う。
目の前の嫌なことの先にどうやったら望み通りになるのかを見つけているから、すぐ正面にある不幸な出来事なんてオプションくらいにしか感じないようになる。
むしろたまにはありがたいとすら思うときもある。
どんなにへなちょこでも泣いたり怒ったりしては立ち上がって、自分がどんなにまわりの思われる幸せ者かを感じながら「なんだ私ってすごいめぐまれているじゃない。」とか痛くもかゆくもないことで悩んでいたら、もう一度思い出して「気にするな」と思うようにするとか そうやって願いが叶ったときの達成感に浸ればいいと思う。
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