ちびたの日常

のんびり息子と猫たち&イギリス人ハニスケと

なんでも信じられていた頃

2013-01-09 | 自己啓発日記
3歳になる前の日、じいちゃんが亡くなってその1週間後にじいちゃんを当時住んでいた団地の部屋で見た。
私を見て笑っていた。

じいちゃんは母の枕元にやたらとでていたようで、後にうちの一族などうなるのかその時わかったんだろうか母たち姉妹が拝み屋さんで聞いたら「死にきれない」と言われたようだった。

でもじいちゃんは死んでしまった。

いくら死にきれなかったとしても生き返りはしない。

その後、長くじいちゃんを見なかった。

外から来るのかと、庭に向かってじいちゃんを呼んでみた。

結局小学生になり、じいちゃんは現れなかった。


父がいなくなって5年生になった頃、じいちゃんが机の前に立っていた。
そして私の前にしゃがんで、抱きしめるようなことをした。

そして私の一族はよく喧嘩をするようなことがあり、そんな大人たちのことを見ながらじいちゃんがかわいそうになりなぜ死にきれないと言ったのかわかるような気がした。


その後いろんな波乱がありながら、高校の頃教会へ行くようになった。

いろんな教会があるんだろうけど恩師の薦めだったにしては、実のところ理解していなくて教典も読んだけど3000頁もあって1800頁ほど読んだあたりで疲れて来たのと、1800頁も読んでいるのに良さがわからない自分がいて「こりゃ最後まで読んでもわからないかもしれない」と読むのを辞めた。

でも先生は大好きで宣教師だったこともあって、よく私の頭に手をかざしてお祈りをしてくれた。

それでなにかが変わったりはしなかったけど、先生が味方にいると思った。

今考えると、あのとき先生は私に祈ってくれたけど私は何も起こらなかった。それは先生がすごいことの証だった。

なぜそんな風に思うのかというと、そんなことをされると決まって2日以内あたりでものすごい悪いことが起こる。
階段から落ちたり、変な人に絡まれて警察に頼ったこともある。


そんなこと気がついていなかったから当時は「きっといいことがあるんだろう」と信じていた。

そのうち「よくよく考えてみたらそれは本当か?」と思うようになった。

いろんな知識や知恵がついていくうちに結局原点に返る。

本当に信じていいのは自分。そして歴史あるもの。


昔はなんでも信じていた。目に見えなくてもそうなんだろうと。


じいちゃんを見ていたころは、他人も見えていたし 今では視覚的に見えることはそんなになくて(なんか海でやる儀式があるんです。もし魂を感じて怖い思いをして悩んでいる人は調べるといいかも)普通に過ごせるけれど触られるとやはりわかる。

去年の暮れ、アロママッサージに行ったときに「もしかして亡くなった人とか見たことありますか?」とマッサージの最中に突然聞かれた。

今はそういうレベルではなくなったこととでも触られると相手のなにかを感じてしまうと言った。
彼女は「どおりで。足を触った時に体の中を見られているような感じがありました。体質ですか?」と言われたけど感じているんじゃなくて私が感じようとしてたのか?とビックリして「初めてそんなことを言われました。わかる人にはわかるんですね。私は目には見えないものを信じているけど誰でもは信じません。」

彼女はニコニコ笑って「わかります」と言った。

だけど昔は自分が知らないだけでいろんなことがあるんだろうし、いろんな概念があってもおかしくないからという考えでなんでも信じられた。


こうやって篩にかけられて、私は行き着くところへ行くんだろうと思うようになった。


結局何が大事か、そしてどうしないと行けないのか、いろんな寄り道をしながら私が見るべきものを見るように仕組まれているような気がする。

人間の弱さや幸せの定義がなんなのか見せられているような気がする。

夢の中で直接話しかけられることがある。「西のお寺へ来なさい」「お墓にたまには来なさいよ」などなど受信する私の体質は本当にラッキーだ。

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