ちびたの日常

のんびり息子と猫たち&イギリス人ハニスケと

愚痴を聞いて欲しいという人

2014-02-07 | 私の愛する仲間たち
去年、「愚痴を聞いて」を何度か言われた。
別に苦痛でもない。

特に聞いても問題ない。


私もいうし。


聞いてやっているとも思わない。


愚痴を言わない人はいい人とも思わない。


不満があるのは人間、普通だ。


私は愚痴を言わないでしょ。とかオレは人の悪口は嫌いだから言わないだろ。と言われても
なんでそんなことを自慢するのかわからない。

言うことが当たり前だと思わない。でも言わないからいいとも思わない。


別にそれは「自慢」になるかならないかのジャンルじゃないと思う。


ただ去年は愚痴をいうと八つ当たりをするをはき違えたねということが多々あった。


強烈にむなしくなって、何かシャッターがガタンと降りた感じがあった。


それまでを振り返った。その人に関わらなければ起こることがなかった不愉快な出来事の数を数えてしまった。

不愉快なことは幸せなことよりインパクトが強い。

頭の中に残りやすい。というか忘れない。


愚痴を聞いてくれる人が欲しいという意見は本当に自己中心的な言い分だなと思う。
それをあえて言うのも甘ったれだと思う。

私は愚痴る。だけど愚痴を聞いてくれる人が欲しいと言ったことがない。思ったことがないからだ。人にそんな注文をする人格が嫌いだし、母は私にほかにいう人がいないといったりもして、決まってそんなとき私は「それはお母さんの基準で、私はそういう対象になったつもりはない」という。

つっぱねるけど愚痴を聞かないわけじゃない。ただハッキリと私をそういう対象と決めていることを私に伝えてくることが自分勝手でいい迷惑だと言う感情が芽生える。


私のバランスを崩されるほど愚痴られることがある。
それはもう八つ当たりで、二度と関わるものかと接触せずに生活したいとすら思う。

共感なんてした日には私の問題なんてたいしたことじゃなく、自分の方がもっと不幸だと言われることもある。

心の底がどこら辺にあるかわからないけどかなり深い底から呆れる。


私のように、母であり男性の中で仕事をしていると普通より肝が据わっているのかもしれないけど、最近居酒屋で男友達と飲んでいたら仕事と体の愚痴を言い始めたので聞いていると「お前はまじめに聞いてるな」と言われた。

それは彼が仲間だから、仲間が辛いと話すのは普通聞くだろう。別に凄いことじゃない。
だけど「愚痴じゃなくて八つ当たりになったら私は相手しないから」というと「お前、オレの兄貴みたい」と言っていた。

この話を私ならわかってくれると思って話すのだろうと考えながら聞いているけど、八つ当たりに切り替わった時点で私は見下されているわけだ。
私が女だからなのか、年齢なのか、そういうキャラなのかわからない。

ただ八つ当たりされる内容になったとき、言葉はつぶやきのような愚痴じゃなくこちらを否定してくる。
聞いてもらっている相手のことを否定し始める。
そういうときはたいがい私が切れるので自分からその話を終わらせようとする。

恐ろしく短気な私はバランスを壊す。だから毒が体に回る前に元凶を離したいと切っていく。

そういう生き方をするのは子供をちゃんと育てるためだ。

私は自分のバランスがいつも不安定だ。それでも人を育てなきゃいけない。
自分を守らなければ子供を守れない。

だからモチベーションを維持するために、妙な気をぶつけてくる人はシャッターを下ろす。

ガードだ。


愚痴を聞いて仲良くなって、いいお酒を飲む仲間。
今一緒にいる人はそんな人しかいない。

いいお酒を飲むために、おいしいおつまみを持ち寄ったり、面白い映画を借りてこようとかそんな仲間しかそばにいない。

最初からそんなだったんじゃない。でもそんな風になりたいと思っていた仲間で、建設的で支え合って、思いやりがある人たち。

そういう人間になる素質があって、目指して、今がある。

きれい事では生きられないことも知っているけど、心を強くお互いの辛さをわかった上で笑おうとしているそんな仲間に恵まれている。

その仲間の中で出てくる愚痴は、自分と散々相談した後で、八つ当たりのように止めどないわけじゃない。

みんなが抱えていることをお互いが想像の範囲でもわかろうとしていることが、愚痴が八つ当たりにはならない人間の思考だと思う。
コメント
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