煌煌と輝く星のすぐそばで、輝きを放とうとしている星がある。名を粟田祥平という。かつては朱紺の闘士、といってもファーストジャージを着たことは一度もない。それでもいまは国内最高峰の舞台に身を置いている。熱狂の最中、この冬、彼の元を訪れた。
■粟田祥平『ゼロからトップへ』

2015年、世界中の話題をさらったラグビーW杯イングランド大会での日本代表の快挙。その興奮が覚めやらぬまま、国内ではラグビートップリーグが開幕した。日本代表選手を始めとするスターたちの一挙一動に注目が集まり、ニュースで見ない日が無いほどだ。
トップリーグが開幕してまもない11月中旬、静岡県磐田市を訪れた。JR東海道本線「磐田」駅のバスロータリーで筆者の姿を見つけると車から彼は下りてきた。遠目でも気づくほどに、学生時代からは一回りも二回りもサイズアップを果たしていた。
車に乗り込み、走らせることおよそ10分。その間の「ジュビロード」と呼ばれる通りには、濃淡混じった水色の旗がずらりと並んでいた。サッカーJリーグの名門クラブ『ジュビロ磐田』のホームタウンならではの風景だ。そして、いまはもう一つ、街の顔がある。
やがて緑で囲まれた丘へたどり着いた。そこに「ヤマハ大久保グラウンド」はあった。入り口にはでかでかと看板が掲げられ、練習や試合の日程、取材の可否も記載されている。
サッカーグラウンドとその横にはしっかりとした建物があり、こちらはジュビロ磐田のクラブハウスとのこと。それらを通り過ぎると、奥に天然芝のグラウンドが見えた。その出入り口付近にプレハブがポツリと構えられていた。
この日はオフ日とあって、その〝クラブハウス〟には誰も姿はなく。さらにその奥では建設中の建物が。「新しいクラブハウスが出来るみたいです」と彼の説明が入る。
トップリーグの昨年王者『ヤマハ発動機ジュビロ』。そのチームに在籍する彼、粟田祥平(法卒)への取材はこうして始まった。

あいにくの雨で、この日のグラウンドには整備係の姿があるだけだった。しかしそのグラウンドも先のW杯イングランド大会を経て一変したという。
「グラウンドには連日、ファンの方と記者の方と。反響がすごかったです。
今週の火曜日かな…練習で小雨だったんですけど、それでも100人くらい人がカッパを着て。今までやったら0人とか、おっても1人とか」
昨年のリーグ王者とあって必然的に注目されるだろうが、W杯特需そして何よりスター選手の存在が輪をかけているのだろう。キックを蹴る際のルーティーンが社会現象にもなった日本代表FB五郎丸歩選手(早稲田大学卒)がチームに在籍しているのだ。
「気さくにしゃべってくれます。面白いって言ったら変やな…ふざけてしゃべってくれますし…。
でもグラウンドに立つと、マインドの部分で見習うべき点が。一言一言に重みがあるというか、尊敬できる部分がすごくて」
W杯を境にメディアへの露出が爆発的に増えた現状とあっても、五郎丸選手は泰然自若に振る舞っているのだという。ただチームメイトとしては受ける影響は少なくない。
「逆に僕が同じチームなので、五郎丸さんがテレビに出てたよ、ってLINEが着ます。色んな人からね。五郎丸さんの後ろに粟ちゃん映ってたよ、とか(笑)」
彼のポジションはWTB/FB。五郎丸選手と同じくする。しかしチームの公式サイトではFBに粟田祥平の名はない。入団して一年目からWTBとしてのプレーが多かったことも起因しているとか。加えて、絶対的スター選手がチーム内でその存在を不動のものにしている実状もある。
「FBというのも五郎丸さんだけで、怪我しないんですねマジで。怪我しないらしくて交代とかもしたことないみたいです。リーグ戦はずっと五郎丸さん。代表に行っているときはWTB/FBの人がやる、みたいな」
明かされるスター選手の素顔。それらを語る姿に、彼がいま身を置く環境というものを実感する。トップリーグという舞台のなかで、日本を代表する選手たちを擁するチームに彼はいる。その世界に飛び込んだ際の心境を吐いた。
「不安はだいぶ大きかったですね。そんなに高いレベルでのラグビーを経験したことがないんで。どんなものなのか、未知の世界やったんで…」
自身にとっての未体験ゾーンを突き進む。そこには彼ならではの背景がある。実のところ彼は社会人ラグビーへの進路を決めた大学時代、公式戦出場のなかった〝ゼロキャップの男〟なのだ。

トップリーグに入る、そもそもそのような人生設計は彼の頭には一切なかったといっていい。これまでの経緯を聞くと、ある種もっとも遠い部類にいた人間である。
幼稚園時代からラグビスクールに通い始めた。けれども身体の線は細く、「腕立ても腹筋も一回も出来なかった」ほど。コンタクトを気嫌いし、学校の部活ではバトミントン部に所属した。千里高校へ進学したあかつきにはバトミントン一本で、と胸を踊らせていたところスクール時代の先輩にあえなく捕まる。「いやいや…」と強制的に入部届けを書かされて始まった高校ラグビーだったが、次第に楽しさを覚えるようになる。
ただラグビーが面白いなと感じるようになった頃、粟田は肩に脱臼癖を抱えてしまう。3年生次には主将に就くも、離脱と復帰を繰り返した。
「ほぼ練習せず…試合に出て肩が外れて、休んで。試合出て、肩が外れて休んで…。
で引退試合では肩の調子が良くて前半に2、3本獲れて試合も勝ってたんです。いけるわ、って思ってたら後半が始まってすぐに肩が外れて。自分が退場して逆転されて…一回戦で合同チームに負けて終わった」
大学進学後はラグビーを続ける気はなかったというが、あまりにも不完全燃焼に終わったことで逆にプレー続行を決断する。
当時、関西二連覇を果たしていた関学ラグビー部へ。粟田祥平の終わり無き旅路は、このとき決まったのかもしれない。
肩の手術を経て大学へ入ったが、復帰した一年生次の菅平合宿で前十字靭帯を断裂した。一年目は年間を通じて一試合に出たかどうかに終わった。二年生次は怪我なくプレーできたものの、下位チームに甘んじた。
そうして三年目、Aチームのリザーブに手が届くかの位置にまで登り詰めた粟田は、春の関関戦でスタメンに指名された。初のファーストジャージを着る機会が目前に迫った。しかし試合を控えた週の実践練習でまたしても前十字靭帯を断裂する。
もう一回切れたら辞めてやろう、そう決めていた彼はこのとき自暴自棄に陥った。
「リハビリして4年生で復帰するのは頭になくて。僕の記憶ではラグビー部から逃亡したんですね。リハビリも練習も行かんと。怪我したらラグビー辞めて遊んでやろうと思ってて、家でゴロゴロしてたらホンマにつまらなさすぎて。
同期の仲間も連絡くれて声をかけてくれて。それで辞めずに頑張ろうと」
6月に再度手術を受け三年生の終わり頃のカムバックを描いた。そして復帰が見えた翌年の冬、グラウンドで粟田に声がかけられた。

もしラグビーを続ける気があるならトライアウトを。試合に一回も出てないので、見せにきてくれませんか?
そう粟田を誘ったのはヤマハ発動機ジュビロのスカウトマンだった。聞けば靭帯断裂の離脱前、実践形式の練習の場面で目についたのだという。
「まさかラグビーを辞めるか続けるか言ってたくらいやったんで、トップリーグで続けるなんて全然考えてなかった。でも話をもらってから考えて、そのチャンスをもらえるのはなかなかないと。チャンスをもらえるなら一回、トライアウトを受けに行くことにしたんです」
大学ラストイヤーが幕を開ける頃には復活を果たしていた。4月の関関戦では一年前と同様にスタメンに選出された。と同時に、その一軍デビューを控えトライアウトを受けることにした。コーチ陣からの許可を受けチームからは快く送り出された。関関戦にむけてのジャージ渡しは本人不在のなか『粟田、15番』とコールされた。
しかし一世一代の試験の場面で粟田に不幸が襲いかかる。トライアウト中に肉離れに見舞われ、アピールもままならずその日を終えたのである。
「たぶん気に入ってもらえてたというか、前向きに考えてはもらってたと思うんですけど…向こうも会社なんで理由が。実績が無いとリスクがあるというか、詳しくは分からないですけど、これでは決めれんな、となって」
ちなみに負傷した際、清宮克幸監督はメディカル班に指示を飛ばし、そのスタッフ陣の迅速な対応に粟田本人は感動したとか。
ファーストジャージにも運にも見放され、そこから復帰したのは一ヶ月後のこと。練習試合に出場し、本人曰く低調なパフォーマンスに終わったそうだが試合後、足を運んでいたスカウトマンから握手を求められた。
一緒に頑張ろう。トップリーグ入りが決まった瞬間だった。
「結果、4年生のときも試合出れてないんで。トップリーグに行くのに関西リーグで試合に出れてないという…何て言うんですかね、悔しさというか」
ファーストジャージどころか公式戦出場もない大学生活だった。引退しても次のステージが、ましてや文字通りトップのステージが待ち構えていた。卒業を控えた春休みを返上し、肉体改造に励む粟田の姿があった。
「大学のときは筋トレとか好きじゃなくて。体重は80キロ少しくらいやった。身長は183センチあったんですけど、これじゃ殺されると思って。まず土俵に立てないなと。
とりあえず身体だけは作って、なんとか90キロ弱くらいで3月を迎えてヤマハに行きました」

飛び込んだ最高峰の舞台。体格はアドバンテージになったものの、プレー面に関しては周囲と雲泥の差があることを自覚していた。
「そこは圧倒的に劣ってたんで。毎日、練習終わりにパスからキックから、一からやり直して。先輩とかから教えてもらって、馬鹿にされつつ(笑)。トップリーガーに比べたらまだまだですけど、練習とかで追いつけるようには。
まだまだ土俵に立ててないというか。まずは闘える身体づくりと基本的なスキルを」
ずっと怪我に悩まされてきた粟田だったが、いまは万全。いわばラグビー人生で初めて、まともにプレーが出来ている状態だ。
「初めてですね。怪我なく卒業までラグビーを続けてやれたことがないので…。
みんな上手くて、高いレベルでラグビーが出来るので。今までに無いというか、そこについていくのに必死ですけど、やっぱり楽しいです」
メンバー入りを目指し取り組む日々。今年の夏、若手中心のチーム編成で臨んだプレシーズンマッチでは『15』番のジャージを着用した。
ポジション争いとなれば、その相手は強大な星だ。煌煌と輝きを放つスター選手を相手に、それでも粟田は野心をのぞかせる。
「正直、最終的にはヤマハのFBに。ヤマハの15番を着たいですけど、いま現状としては一緒に出るのが夢…ではないですけど、WTBとしてでもメンバー入りするのがやっぱりまずはスタートかなと。
もし五郎丸さんが怪我とかしたら、そのときはしっかりFBを任せてもらえるようなチーム内での立ち位置にいたい。
でも、ゆくゆくは、そりゃあ…15番、奪い取れるように頑張りたいですけど…」
もっとも近く、しかしはるか遠い存在。そこまでの道のりは険しくとも。粟田は照れくさく笑った。
「へへ…いけます(笑)。厳しいでしょうけど、不可能ではないと思うので」
自分が身を置くとは想像もしていなかった世界。兎にも角にもゼロからのスタートであっただけに、取り組めば取り組むほどに目標が湧き出てくる。
まずはレギュラー入り、そして公式戦出場を。同期たちとの対戦も実現を心待ちにしている。地元に凱旋したあかつきには未だ立ったことのない花園のグラウンドも踏みしめたい。そこでプレーする姿を親や友人に見せたいとも。
一方で、思いがけない経験もした。チーム合宿で訪れたニュージーランドではITMカップ(州代表対抗戦)のデベロップメンバーとの一戦を交えた。W杯直後とあって、街ゆく人と盛り上がりを共有した。そして聖地・イーデンパークでは、かつてスクール時代に訪れていたという記憶が蘇った。
「トップリーガーとなって、またここに来てるなんて想像もしてなかったですね」
ラグビーを続けてなかったら、それもなかった—そう問いかけると、彼は深くうなずいた。
辞め時がなかっただけかもしれない。だが、そうやって歩んできたラグビー人生なのである。
「もう…ここまできたら身体の動く限りはやり続けたいですね。
大学時代は不真面目なこともありましたけど、今はもうやるからにはベストを尽くさないと。こんな恵まれていることも、なかなかないんで」
トップリーガー粟田祥平はそう強く口にすると、果てなき旅路をまた歩み始めた。その背中の輝きがちょっぴり増して見えた気がした。

関連リンク
▶粟田祥平プロフィール<公式HP>
■〔ヤマハ発動機ジュビロ 公式HP〕