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Tedのつゆ草の旅

母校関西学院ラグビー部とアメリカンフットボール部の試合を中心に書いているブログです。

関西大学ラグビー開幕

2016-10-01 14:42:44 | ラグビー

2016ムロオ関西大学ラグビーAリーグ、大阪地区での開幕カードは昨年度4位で4大会ぶりの大学選手権出場を果たした関西大学と一昨年の1位から一転して最下位に転落、入替戦で大阪体育大学を破ってAリーグに残留した関西学院大学との伝統の関関戦。

昨年は中盤の第4節で対戦し、真っ向からの力勝負を挑んだ関大が41-19と関学を破っている。残暑厳しい17時からの薄暮ゲームには鶴見緑地球技場に1000人を超す熱心な大学ラグビーファンを迎えて、関学SOキャプテン清水晶大のキックオフで開始された。

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序盤は両チームとも大きくBKで展開を図ろうとする。関学は関大DF陣の速い出足に阻まれて容易にゲインができなかったものの、関大ゴールに迫った8分、関学FW陣が執拗にサイド攻撃を繰り返し、最後はNo8岡部崇人が突破しトライ。FB碓井恒平のゴールも決まり0-7と先制した。その後も一進一退の攻防が続いた。関大はスクラム戦で関学に優位に試合を進めるが、両チームともラインアウト等のセットプレイでミスが出て得点できない。結局、そのまま0-7のロースコアで前半を終えた。

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関西学院10清水キャプテンの気合がみなぎる

後半に入っても両チームは再びBK展開で活路を見出そうとするが、互いにハンドリングエラーが出て好機を逃す。そんな中で関学は12分、HL付近のラインアウトから右LO杉原立樹が抜け出しゲイン、22mL中央付近のラックより右に展開し、SO清水がそのまま中央に飛び込んでトライを奪う(ゴール成功0-14)。

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後半、関西学院大学が突きはなした。

一方の関大も直後の14分、10mL付近左中間のラックから抜け出した右PR後藤拓哉が50m近くを駆け抜け左中間にトライ、5-14と反撃ののろしを上げる。関学大も20分にFW戦で関大ゴールに迫り、最後はゴール直前中央付近のラックから一転して左に展開、最後は左WTB黒石涼介が左隅に抑え、5-19と関大を突き放しにかかる。関大は27分にライン参加した左FL二上弘務が左中間にトライを返すが時すでに遅し。関学大が10-19と逃げ切って伝統の一戦を制した。

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MOM(マン・オブ・ザ・マッチ)には献身的なプレイで数々の得点機を演出した関学LO杉原立樹に贈られた。関西学院大学は昨シーズンの悪夢を振り払うゲームで好発進のリーグ戦。下級生を中心とした若い力で活性化して今後も上位チームとの戦いに臨みたい。関西大学も個々に力のあるプレイヤーを擁しているだけに、チームプレイの規律を再確認して立て直しを図ってほしい。

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関西学院ラグビー部 プレイヤーブログ

2016-04-19 21:00:29 | ラグビー
昨シーズンは 結果が残せず、最下位でリーグ戦を終えました。
その結果を真摯に受け止めて、私たち新4回生を中心にチーム全体で昨シーズンの反省や、
今シーズンにかける思いなど、ミーティングを重ねながら、2016年度、清水組が始動しました。

 
 昨年からチームも入れ替わり、入学した1回生が関学体育会ラグビー部に入部する時期になりました。
 私が1回生で入学、入部した頃は、出身高校が強くなかった為に、期待半分、不安半分のスタートでした。
 ですが、高校とは違う環境で練習や試合を重ねていくうちに、
色々な事を吸収して思っていたよりもすぐにチームにもなじめたので、
一生懸命に取り組めば出身高校や、今までの経歴など関係ないということを感じまし た。
 
そんな1年生だった頃から早くも最高学年になり、先輩という頼る存在がいなくなって、
上に立ってチームを牽引していく立場になった今、
今年入部してきた1回生に、「関学ラグビー部に入部して良かった」「この先輩達のようになりたい」と
感じてもらえるように、そしてチームの目標である『関西制覇』を達成できるように、
まずは私たち4回生から、チーム一丸となって精進していきます。
 
これからも関学体育会ラグビー部の応援のほどよろしくお願い致します。

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FWリーダー 4回生 岡部 崇人

関西学院ラグビー部OB外伝

2016-01-23 18:11:22 | ラグビー

煌煌と輝く星のすぐそばで、輝きを放とうとしている星がある。名を粟田祥平という。かつては朱紺の闘士、といってもファーストジャージを着たことは一度もない。それでもいまは国内最高峰の舞台に身を置いている。熱狂の最中、この冬、彼の元を訪れた。


■粟田祥平『ゼロからトップへ』
 

 

 2015年、世界中の話題をさらったラグビーW杯イングランド大会での日本代表の快挙。その興奮が覚めやらぬまま、国内ではラグビートップリーグが開幕した。日本代表選手を始めとするスターたちの一挙一動に注目が集まり、ニュースで見ない日が無いほどだ。


 トップリーグが開幕してまもない11月中旬、静岡県磐田市を訪れた。JR東海道本線「磐田」駅のバスロータリーで筆者の姿を見つけると車から彼は下りてきた。遠目でも気づくほどに、学生時代からは一回りも二回りもサイズアップを果たしていた。


 車に乗り込み、走らせることおよそ10分。その間の「ジュビロード」と呼ばれる通りには、濃淡混じった水色の旗がずらりと並んでいた。サッカーJリーグの名門クラブ『ジュビロ磐田』のホームタウンならではの風景だ。そして、いまはもう一つ、街の顔がある。


 やがて緑で囲まれた丘へたどり着いた。そこに「ヤマハ大久保グラウンド」はあった。入り口にはでかでかと看板が掲げられ、練習や試合の日程、取材の可否も記載されている。


 サッカーグラウンドとその横にはしっかりとした建物があり、こちらはジュビロ磐田のクラブハウスとのこと。それらを通り過ぎると、奥に天然芝のグラウンドが見えた。その出入り口付近にプレハブがポツリと構えられていた。


 この日はオフ日とあって、その〝クラブハウス〟には誰も姿はなく。さらにその奥では建設中の建物が。「新しいクラブハウスが出来るみたいです」と彼の説明が入る。


 トップリーグの昨年王者『ヤマハ発動機ジュビロ』。そのチームに在籍する彼、粟田祥平(法卒)への取材はこうして始まった。



 あいにくの雨で、この日のグラウンドには整備係の姿があるだけだった。しかしそのグラウンドも先のW杯イングランド大会を経て一変したという。


 「グラウンドには連日、ファンの方と記者の方と。反響がすごかったです。

 今週の火曜日かな練習で小雨だったんですけど、それでも100人くらい人がカッパを着て。今までやったら0人とか、おっても1人とか」


 昨年のリーグ王者とあって必然的に注目されるだろうが、W杯特需そして何よりスター選手の存在が輪をかけているのだろう。キックを蹴る際のルーティーンが社会現象にもなった日本代表FB五郎丸歩選手(早稲田大学卒)がチームに在籍しているのだ。


 「気さくにしゃべってくれます。面白いって言ったら変やなふざけてしゃべってくれますし

 でもグラウンドに立つと、マインドの部分で見習うべき点が。一言一言に重みがあるというか、尊敬できる部分がすごくて」


 W杯を境にメディアへの露出が爆発的に増えた現状とあっても、五郎丸選手は泰然自若に振る舞っているのだという。ただチームメイトとしては受ける影響は少なくない。


 「逆に僕が同じチームなので、五郎丸さんがテレビに出てたよ、ってLINEが着ます。色んな人からね。五郎丸さんの後ろに粟ちゃん映ってたよ、とか(笑)」


 彼のポジションはWTB/FB。五郎丸選手と同じくする。しかしチームの公式サイトではFBに粟田祥平の名はない。入団して一年目からWTBとしてのプレーが多かったことも起因しているとか。加えて、絶対的スター選手がチーム内でその存在を不動のものにしている実状もある。


 「FBというのも五郎丸さんだけで、怪我しないんですねマジで。怪我しないらしくて交代とかもしたことないみたいです。リーグ戦はずっと五郎丸さん。代表に行っているときはWTB/FBの人がやる、みたいな」


 明かされるスター選手の素顔。それらを語る姿に、彼がいま身を置く環境というものを実感する。トップリーグという舞台のなかで、日本を代表する選手たちを擁するチームに彼はいる。その世界に飛び込んだ際の心境を吐いた。


 「不安はだいぶ大きかったですね。そんなに高いレベルでのラグビーを経験したことがないんで。どんなものなのか、未知の世界やったんで


 自身にとっての未体験ゾーンを突き進む。そこには彼ならではの背景がある。実のところ彼は社会人ラグビーへの進路を決めた大学時代、公式戦出場のなかった〝ゼロキャップの男〟なのだ。



 トップリーグに入る、そもそもそのような人生設計は彼の頭には一切なかったといっていい。これまでの経緯を聞くと、ある種もっとも遠い部類にいた人間である。


 幼稚園時代からラグビスクールに通い始めた。けれども身体の線は細く、「腕立ても腹筋も一回も出来なかった」ほど。コンタクトを気嫌いし、学校の部活ではバトミントン部に所属した。千里高校へ進学したあかつきにはバトミントン一本で、と胸を踊らせていたところスクール時代の先輩にあえなく捕まる。「いやいや」と強制的に入部届けを書かされて始まった高校ラグビーだったが、次第に楽しさを覚えるようになる。


 ただラグビーが面白いなと感じるようになった頃、粟田は肩に脱臼癖を抱えてしまう。3年生次には主将に就くも、離脱と復帰を繰り返した。


 「ほぼ練習せず試合に出て肩が外れて、休んで。試合出て、肩が外れて休んで

 で引退試合では肩の調子が良くて前半に2、3本獲れて試合も勝ってたんです。いけるわ、って思ってたら後半が始まってすぐに肩が外れて。自分が退場して逆転されて一回戦で合同チームに負けて終わった」


 大学進学後はラグビーを続ける気はなかったというが、あまりにも不完全燃焼に終わったことで逆にプレー続行を決断する。


 当時、関西二連覇を果たしていた関学ラグビー部へ。粟田祥平の終わり無き旅路は、このとき決まったのかもしれない。


 肩の手術を経て大学へ入ったが、復帰した一年生次の菅平合宿で前十字靭帯を断裂した。一年目は年間を通じて一試合に出たかどうかに終わった。二年生次は怪我なくプレーできたものの、下位チームに甘んじた。


 そうして三年目、Aチームのリザーブに手が届くかの位置にまで登り詰めた粟田は、春の関関戦でスタメンに指名された。初のファーストジャージを着る機会が目前に迫った。しかし試合を控えた週の実践練習でまたしても前十字靭帯を断裂する。


 もう一回切れたら辞めてやろう、そう決めていた彼はこのとき自暴自棄に陥った。


 「リハビリして4年生で復帰するのは頭になくて。僕の記憶ではラグビー部から逃亡したんですね。リハビリも練習も行かんと。怪我したらラグビー辞めて遊んでやろうと思ってて、家でゴロゴロしてたらホンマにつまらなさすぎて。

 同期の仲間も連絡くれて声をかけてくれて。それで辞めずに頑張ろうと」


 6月に再度手術を受け三年生の終わり頃のカムバックを描いた。そして復帰が見えた翌年の冬、グラウンドで粟田に声がかけられた。



 もしラグビーを続ける気があるならトライアウトを。試合に一回も出てないので、見せにきてくれませんか?


 そう粟田を誘ったのはヤマハ発動機ジュビロのスカウトマンだった。聞けば靭帯断裂の離脱前、実践形式の練習の場面で目についたのだという。


 「まさかラグビーを辞めるか続けるか言ってたくらいやったんで、トップリーグで続けるなんて全然考えてなかった。でも話をもらってから考えて、そのチャンスをもらえるのはなかなかないと。チャンスをもらえるなら一回、トライアウトを受けに行くことにしたんです」


 大学ラストイヤーが幕を開ける頃には復活を果たしていた。4月の関関戦では一年前と同様にスタメンに選出された。と同時に、その一軍デビューを控えトライアウトを受けることにした。コーチ陣からの許可を受けチームからは快く送り出された。関関戦にむけてのジャージ渡しは本人不在のなか『粟田、15番』とコールされた。


 しかし一世一代の試験の場面で粟田に不幸が襲いかかる。トライアウト中に肉離れに見舞われ、アピールもままならずその日を終えたのである。


 「たぶん気に入ってもらえてたというか、前向きに考えてはもらってたと思うんですけど向こうも会社なんで理由が。実績が無いとリスクがあるというか、詳しくは分からないですけど、これでは決めれんな、となって」


 ちなみに負傷した際、清宮克幸監督はメディカル班に指示を飛ばし、そのスタッフ陣の迅速な対応に粟田本人は感動したとか。


 ファーストジャージにも運にも見放され、そこから復帰したのは一ヶ月後のこと。練習試合に出場し、本人曰く低調なパフォーマンスに終わったそうだが試合後、足を運んでいたスカウトマンから握手を求められた。


 一緒に頑張ろう。トップリーグ入りが決まった瞬間だった。


 「結果、4年生のときも試合出れてないんで。トップリーグに行くのに関西リーグで試合に出れてないという何て言うんですかね、悔しさというか」


 ファーストジャージどころか公式戦出場もない大学生活だった。引退しても次のステージが、ましてや文字通りトップのステージが待ち構えていた。卒業を控えた春休みを返上し、肉体改造に励む粟田の姿があった。


 「大学のときは筋トレとか好きじゃなくて。体重は80キロ少しくらいやった。身長は183センチあったんですけど、これじゃ殺されると思って。まず土俵に立てないなと。

 とりあえず身体だけは作って、なんとか90キロ弱くらいで3月を迎えてヤマハに行きました」



 飛び込んだ最高峰の舞台。体格はアドバンテージになったものの、プレー面に関しては周囲と雲泥の差があることを自覚していた。


 「そこは圧倒的に劣ってたんで。毎日、練習終わりにパスからキックから、一からやり直して。先輩とかから教えてもらって、馬鹿にされつつ(笑)。トップリーガーに比べたらまだまだですけど、練習とかで追いつけるようには。

 まだまだ土俵に立ててないというか。まずは闘える身体づくりと基本的なスキルを」


 ずっと怪我に悩まされてきた粟田だったが、いまは万全。いわばラグビー人生で初めて、まともにプレーが出来ている状態だ。


 「初めてですね。怪我なく卒業までラグビーを続けてやれたことがないので

 みんな上手くて、高いレベルでラグビーが出来るので。今までに無いというか、そこについていくのに必死ですけど、やっぱり楽しいです」


 メンバー入りを目指し取り組む日々。今年の夏、若手中心のチーム編成で臨んだプレシーズンマッチでは『15』番のジャージを着用した。


 ポジション争いとなれば、その相手は強大な星だ。煌煌と輝きを放つスター選手を相手に、それでも粟田は野心をのぞかせる。


 「正直、最終的にはヤマハのFBに。ヤマハの15番を着たいですけど、いま現状としては一緒に出るのが夢ではないですけど、WTBとしてでもメンバー入りするのがやっぱりまずはスタートかなと。

 もし五郎丸さんが怪我とかしたら、そのときはしっかりFBを任せてもらえるようなチーム内での立ち位置にいたい。

 でも、ゆくゆくは、そりゃあ15番、奪い取れるように頑張りたいですけど


 もっとも近く、しかしはるか遠い存在。そこまでの道のりは険しくとも。粟田は照れくさく笑った。


 「へへいけます(笑)。厳しいでしょうけど、不可能ではないと思うので」


 自分が身を置くとは想像もしていなかった世界。兎にも角にもゼロからのスタートであっただけに、取り組めば取り組むほどに目標が湧き出てくる。


 まずはレギュラー入り、そして公式戦出場を。同期たちとの対戦も実現を心待ちにしている。地元に凱旋したあかつきには未だ立ったことのない花園のグラウンドも踏みしめたい。そこでプレーする姿を親や友人に見せたいとも。


 一方で、思いがけない経験もした。チーム合宿で訪れたニュージーランドではITMカップ(州代表対抗戦)のデベロップメンバーとの一戦を交えた。W杯直後とあって、街ゆく人と盛り上がりを共有した。そして聖地・イーデンパークでは、かつてスクール時代に訪れていたという記憶が蘇った。


 「トップリーガーとなって、またここに来てるなんて想像もしてなかったですね」


 ラグビーを続けてなかったら、それもなかったそう問いかけると、彼は深くうなずいた。


 辞め時がなかっただけかもしれない。だが、そうやって歩んできたラグビー人生なのである。


 「もうここまできたら身体の動く限りはやり続けたいですね。

 大学時代は不真面目なこともありましたけど、今はもうやるからにはベストを尽くさないと。こんな恵まれていることも、なかなかないんで」


 トップリーガー粟田祥平はそう強く口にすると、果てなき旅路をまた歩み始めた。その背中の輝きがちょっぴり増して見えた気がした。



関連リンク

▶粟田祥平プロフィール<公式HP>
〔ヤマハ発動機ジュビロ 公式HP〕


関西学院ラグビー部プレイヤー外伝

2015-11-19 17:09:07 | ラグビー

偶然にもデビュー戦と同じ舞台で、彼は再びピッチに立った。今回は自身にとっては初となる公式戦でのスタメン。HO大山英信(商3)、彼には神戸の空気がよく似合う。


■大山英信『第6戦。躍動、再び』
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 雨は止んでいない。暗中模索の様相を呈するなか、徳田組は戦いを続けている。


 こんなときこそ。弾けるような、闘志はもちろんだがチームに活気をもたらすようなアクションが欲しい。


 11月14日、関西大学Aリーグ第6節。神戸総合運動公園ユニバー記念競技場はあいにくの雨天だった。


 キックオフ直前、部員たちで作られた花道に迎えられ、ロッカールームから選手たちが姿を現す。朱紺のジャージを着た背番号『2』は腕で顔を覆っていた。


 これから踏み出すピッチと同様に、しかし熱を帯びながら大山英信の頬は濡れていた。


 「やっとここに来れた、というのはあって。でも一番は緊張でした。あとはやるしかない、と思ってたぶん、気持ちが高まっていました」


 自身にとって初の先発での出場となった公式戦は、涙とともに幕を開けたのであった。



 振り返ること2年前、ルーキーイヤーで彼はトップチーム入りを果たした。リーグ最終戦ではリザーブとして初出場を飾ると同時に初トライを決めた。若き戦力の台頭に期待は高まった。


 その翌年、春先こそ上位チームに名を連ねたが、次第に存在感は薄まっていった。2年生次の沈黙のわけを本人はこう話す。


 「上がろうとは思ってたけどガンテさんとか偉大な先輩たちを前に、サポートする側に回ろうと思ってしまっていた。無理やな、って」


 昨年、金寛泰(人福卒/現東芝)を筆頭にチーム内でもとりわけ厚い選手層を誇ったフロントロー。彼ら先輩への尊敬の眼差しは次第に遠慮へと形を変え、大山にとってはパフォーマンス低下を招いたのである。


 シーズン半ばで気持ちが切れてしまった。そんな彼の姿に先輩たちからは、姉でトレーナーを務める大山知純(商卒)を介して「ヒデヲの様子がおかしい」と心配する声が上がるほどだったという。やがては同じポジションの後輩である赤壁尚志(教2)に上をいかれたことで、危機感が芽生えた。


 「尚志に抜かれたときに、今のままではアカンと。それで当時FWコーチだった松尾遼輔さん(H19卒)とタックル練習をするようになって。努力すれば結果もついてきて、思うようにプレーが出来るようになったんです」


 沈黙の一年を過ごし、今季はAチームに戻ってきた。6月の慶應義塾大、青山学院大ら関東の大学勢との試合ではメンバー入りし朱紺のジャージに腕を通した。


 シーズンも本格化し、始まった大学Aリーグではトップチーム入りが叶わずにいた。だが暗い影を落とすチームの姿をスタンドから見つめ、自身のなかでは闘志を燃やしていた。


 「Aチームのメンバーたちが楽しそうよりもシンドそう、って映ってて。気持ちが切れて、前に出れてなかったと。

 自分やったら、ああするのにな、とか。チームの為に出来ることがあるなら、したいなと思ってました」


 大山は言う、気持ちの部分が一番大事。そして自分に出来ることがあるならば、それは気持ちを見せることだと。


 その彼にトップチームから声がかかったのは、リーグ第5戦を終えた週明けすぐ。次節にむけて、スタメンでの出場が決まっていた。



 『ミスしても良いよ。お前に求めているのは、そこじゃないから』


 今シーズン初の公式戦出場を前に、大賀宏輝FWコーチ(H16卒)は大山にそう告げたという。


 というのも実のところ、ポジション柄求められるセットプレーの点において、それまでの練習期間で調整は上手く進んでいなかった。


 「スクラムは周りが上手なんで合わせてもらってたんですけど。ラインアウトは合わなくて。Aチームのメンバーは背が高くて、最初は合わなかった。昨日も正直


 無理もあるまい。FW陣が一体となって成熟させていくセットプレー。シーズンもいよいよ終盤に差し掛かったところで大山はAチームに合流したのだから。


 けれどもチームが彼に要求したのは、それとは異なる部分。カンフル剤となる、彼の持つ闘志を欲していた。


 試合の前日までハマらずにいたセットプレーだったが、涙となって表れた大山の高ぶりがチームに伝播したか。ゲームに入れば、しっかりとボールを獲得するFWの姿がそこにはあった。


 「正直チーム的にも一番、心配してたとこだったと。でも苦手意識を持っても、仕方がないので。(ラインアウトでは)しっかりボールを投げ込もうと思ってました」


 緊張感も確かにあったという。けれども開き直ったことで、試合後に大賀コーチが「彼なりのベストパフォーマンスは出せた」と評するほどのプレーを彼はやってみせたのである。


 2年前の同じ場所で、大山英信は初めてのプレー機会で1トライ1アシストをマークし朱紺の闘士としての一歩を踏み出した。そして今年、初めて一桁台の背番号を着け、求められた役目を遂行した。


 今後にむけてチームにとっても、彼自身にとっても弾みとなったであろう第6戦。その一戦を振り返り、大山は語気を強めた。


 「いつもどおりにやればいいとアドバイスをもらって。今日もアップのときも尚志が声をかけてくれて、安心できたかと。

 一番はジミーさん(笹井宏太朗/教4)含めて4回生の方々が僕に声をかけてくださるので。Cチームとかで一緒にやっていた先輩たちの存在が力になります。

 リーグ戦は京産大戦も残っているので気持ちを切らさないように。僕自身もAチームとは連携が出来ていないので、そこをしっかり。

 今まで周りに引っ張られて過ごしてきた。上回生になってこれからは自分が声をかけて、やっていきたいです」


 大山英信のブレイクに神戸の地は似合う。次は朱紺のジャージが似合うプレーヤーに。

この日携えた感謝の気持ちとリーダーシップは、その為の大事な資格である。

 

▶大山英信プロフィール
■大山英信『踏み出した進化への第一歩』


関西学院ラグビー部プレイヤー外伝

2015-11-18 17:06:18 | ラグビー

 何か弾みが欲しい。低空飛行が続くチームは、その空気を変える役を一人の男に託した。リーグ第5戦でリザーブに選ばれたのはFL芦村佳祐(文4)。彼にとっては、これが初キャップだった—。


■芦村佳佑『託された男の第5戦』
 

 

  ひときわ歓声が上がった。ベンチからセンターライン付近まで小走りで向かう。その背番号『20』めがけ、スタンドから激が飛ぶ。


 10月31日、リーグ第5節も残り10分を切っていた。試合の雌雄は決している。だが、その男の投入は、関学側の空気を確かに変えた。


 いつも以上にこの日のスタンドは声援の熱量が高かった。そのボルテージは後半33分にさらに高まる。


 石松伸崇(商4)に代わってフィールドに立ったのは芦村佳祐だった。


 「出た瞬間は真っ白になりました」


 これが彼にとっては初めての公式戦だった。わずかな出場時間、その初キャップのピッチ上で芦村は使命感を抱きプレーに臨んでいた。



 関西大学Aリーグも半分を消化し、徳田組は開幕戦こそ勝利するも以降は黒星を重ねた。状況を打開すべく、「いつもと違うことをしないとフレッシュなメンバーを」と主将の徳田健太(商4)が話したように第5戦にあたって一人のメンバーを選出する。ジュニアリーグでも活躍が目立っていた芦村に白羽の矢が立った。


 その知らせが本人に着たのは週初めのこと。「来れるか?Aリザやぞ」と主務・高民起(法4)から一報が届く。


 「マジで?みたいな。間を置いてから理解しました」


 まさに寝耳に水だった、トップチームへの選出。大学4年間、定期戦などでは朱紺のジャージを着ることはあったが公式戦の出場は無かった。


 周りも自分も、期するものはあった。3年生次の菅平合宿で、芦村は『合宿のMVP』に選ばれている。当時の主将・鈴木将大(商4)から直々にチーフスのパーカーを贈呈された。


 「そこから秋には出れるかなと思ってたけどリザーブくらいには選ばれるかなと」


 だが鈴木を筆頭に中村圭佑(社卒)らトップチームのFL陣の壁は厚く、一度もAチームに上がれぬままシーズンを終えた。


 そうして息巻いて臨んだラストイヤーはBチームからのスタート。しかし度重なる怪我に泣き、本格的に復帰できたのは夏だった。


 それでも彼は腐ることがなかった。下位チームへの降格にモチベーションを失ってしまうこともありうる。芦村はそんな苦境にもめげずに日々を過ごした。シーズンもいよいよ本格化するにつれ、怪我からも完全に復調し、自身の調子も上がっていく。


 そして彼は念願の公式戦スコッド入りを果たした。それを祝福するかのように、リーグ第5戦の試合前のアップではスタンドからひたすら大きな声援が飛んだ。


 「苦労人なんで。同じ境遇の奴らとかが多くて、みんなLINEとかで応援してくれました。一緒に筋トレ行ったり、下のチームでチームメイトの子とかも。期待してくれている言葉をかけてくれたんです」


 身にまとう朱紺のジャージには期待が込められていた。総勢100人を越すプレーヤーを代表する23人の闘士たち。晴れてその一人となった芦村に周囲は思いを託し、彼も応えようとしていた。


 「僕が下のチームの思いを一番分かっていると。彼らの分も背負って、お礼を返せたらなと」



 状況を好転させる為の重要なピースとして選ばれた芦村。試合にあたってチームは彼に一つの指令を下していた。


 『一対一で相手を止めるディフェンスを期待している。他のことは考えなくてもいいから!』


 前節で40点もの失点を喫し、課題としてディフェンスが浮き彫りとなっていた。とにかく前に出て、相手の攻撃を食い止めることが出来るように。


 当の本人も不器用さを自認する一方、強みである『ディフェンスと運動量』でアピールをしてきた。初めてのAチームで求められたこと、それはこれまでどおりに自らの強みを最大限に発揮することだった。


 「初心を忘れずに、それこそCチームにいたときの気持ちでいました。下のチームでやってきたことを継続してやろうと」


 リーグ第5戦、後半も33分。ピッチに足を踏み入れ、初の公式戦出場が実現した。


 早々に訪れたスクラムの場面では、応援コールの合いの手として愛称である「アッシーッ!」が挟まれた。そしてフィールドプレーにおいても、ミッションを忠実に遂行。タックルが決まると、観客席はさらなる盛り上がりを見せた。それでも


 「いつもどおりのプレーをしようとしたけど気合いが空回りしちゃいました」


 やるべきことをしかと胸に留め、挑んだ初の舞台。満足に至らず、「10点くらいスね」の自己採点だった。


 この日、チームは天理大に大差をつけられて黒星を喫した。勝ち星という最良の結果で、いまの状況を変えることはならなかった。


 ただ、そのプレーに思いを託された遅咲きの花は確かに咲いた。シーズンも佳境を迎え、残りの時間で彼に出来ることとは。


 「自分が上のチームで出て、チームを復活させることです」


 その心意気よ、チームに届け

 

芦村佳祐プロフィール

関西学院ラグビー部プレヤー外伝

2015-11-08 18:11:26 | ラグビー

 

 王が鎮座する、その場所で。巡ってきたチャンスでアピールするはSO山田一平(商2)。若き司令塔がリーグ第4戦で躍動した。


■山田一平『輝きを放った第4戦』
 

 

 

 

 

 

 


 ひと時だけ、グラウンド上の重い空気が払われたような気がした。10月25日、関西大学Aリーグ第4戦も後半の場面だ。


 前半の開始早々から3連続トライを喫し、攻めてもミスを犯し520でハーフタイムへ。後半、SH徳田健太(商4)がゴール中央へトライを決め追撃ムードを醸し出すも、追加点を許し点差は縮まらない。後半も半分を過ぎた頃、一人の若武者が動いた。


 相手のアタックを読み、徳田がインターセプトに成功。LO石松伸崇(商4)を経由し、ボールはSO山田の元へ渡る。カウンター一閃、相手プレーヤーを振り切りインゴールまで到達した。


 これで弾みがついたか、直後に山田はボールを持つやステップワークで防御網を切り裂き、ビックゲインを果たしている。その躍動にスタンドからもひと際大きな歓声が上がった。


 結局は山田の一発が、この試合のチーム最後のトライに終わる。チームも黒星を喫した(1941)。それだけに、そのプレーが際立った。



 今季、チームはメンバー編成を行なう上で選手たちのあらゆる可能性を試した。コンバートも含め、カテゴリーを問わず様々なプレーヤーを上位チームに登用したのもその一つ。


 そのなかで、不動の司令塔として君臨するSO清水晶大(人福3)もニュージーランド留学を経て、春シーズンはCTBに移った。その空いた10番の席についたのが山田だった。


 この春、初めてスタメンに選ばれたのは5月31日の総合関関戦。ファーストジャージを着用しての一戦を皮切りに、その後の試合では清水と交互で先発SOにつくことになる。


 「みんなの思いを背負っているので。練習試合も気合いが入りますけど、定期戦は余計に」


 シーズン後半は定期戦が続き、必然的にチームを代表する朱紺のジャージを着用することに。普段以上に沸き上がる気持ちがプレーに影響し、山田はもっとも分かりやすい形で成果を挙げていく。


 6月21日の青山学院大学戦では、サインプレーでボールを持つと「自分でいくか、外にパスするか」の一瞬の判断から自らトライを奪った。


 翌週の関東学院大戦では、試合時間も残り2分4点ビハインドの場面で逆転トライを決める。


 「焦りもありました。残り時間を意識していて。対面がミスマッチだったので、ギャップが出来ていたんです」


 ファーストジャージを着る以上、公式戦と同様に勝つことが求められる定期戦。2週連続での関東遠征による定期戦で疲労もあるなか、この日のシーズン最終戦でチームは一度もリードを奪えずにいるなど低調だったのは確か。そこにきて勝ちに直結する山田の逆転弾だった。


 「貢献できました。定期戦なので特別な戦いだと。勝つ事ができたのは嬉しかったです」


 試合後のアフターマッチファンクションで山田は微笑んでいた。出番が巡ってきた状況下で、怪我をすることもなくシーズンを乗り切り、アピールにも成功した。


 それでもチームには清水という絶対的司令塔がいる。ポジションを同じくする先輩の存在を意識し、彼はレベルアップを誓っていた。


 「晶大さんは関西では抜けてる選手だと。盗めるところは盗みたい。

 ライバルでもあるのでまずは追いつけるように、SOで活躍して。晶大さんをCTBに置くくらいに、です」



 「ボールを動かすタイプで、チームにフィットしてます。自分で点を取れるときもあるし良いパスもある。

 夏からやっているので不安もなかったです」


 リーグ第4節の関西大学戦後、徳田はSO山田をそう評した。このゲームではCTBとして先発予定だった清水が開始直前に離脱する事態に見舞われた。


 フィールド上でチームを動かす司令塔役を欠く形になり、ゲーム戦術の変更を余儀なくされた。


 試合会場に到達してからの緊急事態に、山田は気持ちが整っていなかったと明かす。それでもボールを、味方を、動かすことを念頭に置きプレーを遂行する。「自分の責任だと思っている」と敗戦の責を負ったが、反省していきたいと強く口にした。


 続く第5戦(対天理大学/10月31日)でもチーム唯一のトライを挙げるなど存在感を増しつつあるが、「トライを取ろうとは思ってないですけど」と控えめ。だが得点につながる動きに彼自身の成長が見て取れる。


 「前が見えるようになった」


 それは今春から山田がずっと口にしてきこと。トライやビックゲインの場面を振り返るにあたって、そのときのシチュエーションを事細かに彼は話す。味方はどう連動しているか、相手ディフェンダーは、スペースは空いているか。そこに冷静な判断があるからこそ、「自分でいけるところはいく」ような思い切ったプレーが生まれているのである。


 相手からしたら何をしてくるか分からない、そんな企みを胸に秘めながら山田の進化は続く。「パスの精度も正確な判断も」、レベルアップを要する点はまだまだ。


 一方で、プレー機会を与えられ、アピールを続けるなかで変わらぬ思いが彼にはある。


 「勝ちにこだわって、やっていきたい」


 立ちこめる暗雲を切り裂くような。一筋の光となることを強く願う。




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▶山田一平プロフィール


関西学院ラグビー部プレイヤー外伝

2015-10-01 22:13:47 | ラグビー

常に訴えていた。試合中も黙り込んでしまうチーム状況に危機感を抱いたから。そうして迎えたリーグ開幕戦。副将・石松伸崇(商4)が鳴らし続けた警鐘は本番で—勝利を呼び込む号令へと変貌を遂げた。


■石松伸崇『覚悟が結実した開幕戦』
 

 

 

 

 


 先のラグビーW杯で日本代表を愛でたような勝利の女神がいるならば。おそらくこの日、ここ花園でもラグビーの神様は見定めをしたのだろう。


 『関西全勝優勝、打倒関東』を掲げるチームが、果たしてそれに足るかどうか。試合も残り時間15分、関学ラグビー部『徳田組』は試されていた


 リーグ戦開幕を数日後に控え、野中孝介監督は「タイトな試合展開になる」と踏んだ上で、懸念されるこれまでの傾向をこう話した。


 「うまくいっているときは良いけど、きつくなったときに声をかけられるメンバーが少ない。キャプテン、副キャプテンはやるけど、それ以外が足りない。経験してないぶん、リーグ戦のなかで成長してくるかなと」


 それはこの春先から見られたチームの影の部分でもあった。ひとたび失点をすれば、たちまち消沈ムードになってしまう負のスイッチ。春シーズンのとりわけ序盤の黒星を喫した対外試合では顕著だった。


 徐々に意識が変わったか、慶應義塾大戦ではリードされても実のある内容を見せていた。しかし強化をにらんだ夏の菅平合宿でチームはまたしてもピッチ上に影を落とす。合宿を締めくくる東海大Aチームとのラストマッチ。早々の打ち合いから一転、次第に相手がペースを掴み出すと足取りは重くなり、目に見えて士気が減退していく。大差をつけられての敗北に、試合後の全体集合では重苦しい空気が流れる。LO小林達矢(経4)の嗚咽だけが耳をついた。


 リーグ戦まで残り1ヶ月の時点で、徳田組は抱える弱点を拭えずにいたのである。



 その声を聞いたのは春先、5月5日の関学ラグビーカーニバルの試合後だった。メインカードの天理大戦を振り返るなかで、副将の石松は口にした。


 「去年はFW8人全員が試合中もしゃべってた。今年は静かですね点を取られたり、やられたら落ち込んでいく。うるさいくらい、しゃべっても良いと思うんです」


 最上級生たちがトップチームにずらりと並んだ昨年。FW8人のうち7人が4回生というラインナップも常であった。一つ下の学年ながらもスタメンに食い込むことがあった石松は、トップチームのメンバーが持つべき姿勢を学ぶ。


 「FWもリーダーがいっぱいいたんです。井之上亮さん、竹村俊太さん、ガンテさん、ムネオさん」。そこで見た風景をしかと心に刻んでいたからこそ最上級生になった今年は、フィールドに立つまわりのメンバーたちへも当然に求めた。


 「下のチームも含めて選手が多くいるなかで、Aチームはそのポジションで一番認められた者が立つ場所。ひとり一人がリーダーとしての意識を持っていいのだと」


 むろん副将、トップチーム経験者、そしてピッチ上のリーダーとして。石松自身も「うまく自分が引っ張っていけたらと思います」と誓いを立てていた。


 だが、メンバーたちに総じていえた経験値の低さゆえか、改善には時間を要した。やがて夏合宿へ。8月27日の東海大戦後、石松はFW陣の強化に早急に手を打つことも含めて危機感をコーチ陣に訴えていた。


 いまにして思えば、このときにもたらされたショックが、転機だったのかもしれない。その1ヶ月後、石松はこう証言することになる。


 「今となっては、あのときにボロボロにやられたのが良かったのかも。野宇(倖輔/経3)ともスクラムのことを真剣に話し合いましたし達矢も泣いてましたね

 あれがあって気が引き締まったのかなと。やらないといけないという覚悟が出来たんだと思います」


 9月27日、関西大学Aリーグ開幕戦。残り時間も15分を切ろうかとしたとき、徳田組は立命館大に逆転を許す。電光掲示板には「1417」のスコアが表示されていた。



 前半を1410の4点差で折り返し、そのまましばらくスコアは動かなかった。ハーフタイムでは敵陣のプレーすることを共通認識としたものの、なかなか侵入できない場面が続く。そこから喫した失点だった。


 後半も半分を過ぎた時間帯で許した逆転。だがピッチにいるメンバーたちはその場で失点の原因を明確にし、修正を施した。ミスを無くしていこう、と。


 それは攻撃の面でもいえたことだった。それまで過ごしてきた時間自体は自分たちのペースだった。幾つもあった決定機を逃したのは、結局は自分たちのミスによるもの。


 そのペナルティからゲームが再開される際のスクラムで、石松はFW陣が発する熱を感じ取っていた。「言うんですよね、スクラムにしても『練習の方がキツいで!』って。しーんとした時に、岡部や野宇、須田が声を上げるんです」


 後半の最中に石松は腕を負傷しドクターから処置を施される場面があったが、そんな副将の代わりと言わんばかりに野宇や須田(悠介/文3)らがチームを引っ張る姿勢を見せたという。


 「その姿が見えて。頼れる後輩たちです。

 めちゃくちゃ成長を感じましたよ! 今年入って初めてだったと。FWの声が途切れなかった」


 FW陣を中心に熱をまとい、プレーひとつ一つに思いを込めれば。試合にあたって『走り切っての80分間勝負』と胸に留めていたように、チームは再びフィールドを駆けていく。逆転されてから10分後、敵陣に侵入すると最後はSH山戸椋介(社4)がトライを決め、リードを奪う。試合はそのまま80分を経過。6分とアナウンスされたロスタイムにスタンドは騒然とした。


 2117のまま、時計の針はノーサイドへむけ刻まれていく。フィールド上では決死の攻防が繰り広げられた。ボールをキープしていたチームは『攻め続けること』の意識を持ち、リードを守る。最後は相手にボールを委ねたが、修正された防御網をしきゲインを許さない。やがて笛が鳴り、徳田組はオープニングゲームを白星で飾った。


 後半77分に交代した石松はベンチからロスタイムの攻防を見ていた。


 「あそこで守り切るチームと、取られるチームとでは全く違ってくる。今までだったら取られていた。

 最後は信じるしかなかったです。ずっとそわそわしてました(笑)」


 ベンチに腰掛けたと思いきや、次の瞬間には立ち上がり叫ぶ。心中穏やかではなかった副将は、頼れるピッチ上のメンバーたちを信じ、果たしてノーサイドの瞬間を迎えたのであった。



 リードされてもなお、自信はあったのだという。それまでの間、攻めることは出来ているという確証を持っていた。しかし、石松自身もそうであったように、細かなミスがチャンスを逃していた。おそらくはビックゲインにつながっていただろう、WTB中野涼(文4)との連携ミスもあった。


 「そういうとこの甘さも、ですね。本来なら、そんなに競る試合では無かったと思いますから。精度もしっかりしていけたら」


 反省を受け止めた石松だったが、ただそこに至ったプレーそのものは彼の強みが発揮されたものだった。この日の試合ではブレイクダウンでの動きにこだわっていた。それでも後半に臨む際、中学生時代からの旧知の仲である同期の村田賢大(経4)から檄を飛ばされる。


 『とにかくボールを持て、お前の強みはそこやから』


 相手の防御網を突破することは、かねてより自らに課している役割だという。そうしてボールを持つことを意識した後半は、幾度とゲインを果たした。


 「抜いてから、どうするかをこれからは意識していきます。ゲインラインを切るのは当たり前、そこからつなぐことを当たり前に。どうボールを動かすか、を」


 自身のレベルアップを誓い、また石松は次節をにらむ。開幕戦でチームは進化した姿を見せてくれた。変革を訴え続けたFW陣は本番にて覚醒した。


 野中監督は部員たちに説く。「リーグ戦で成長しないことには、その先の関西全勝優勝は無い」と。目指す頂にむけて立ちはだかる7つの壁の、まずは一つ目を打ち破った。


 「立命館大戦以上の試合をしないと勝てないと。どんどん成長していきたいと思います」(石松)


 闘いは始まった。その手、その足、そしてその声を、止めるなかれ。




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▶石松伸崇プロフィール


関西学院ラグビー部プレイヤー外伝

2015-09-19 19:34:43 | ラグビー

関西の覇権を握ったチームにおいて『王』と形容された男は今季さらなる進化を遂げた。海外留学を経験し、帰国してからは新しいポジションでも存在感を光らせた。かつてないほどの使命を自らに課し、清水晶大(人福3)はシーズン本番の闘いへと臨む。


■清水晶大『君主の誓いと魔法の右足』
 

 

 


 兎にも角にも、叩いて、叩いて、叩かれた一年だった。いまやチームを代表する司令塔の清水は声を荒げる。


 「あの一年は、むちゃくちゃデカかったですよ!」


 昨年、シーズン当初からSOとしてトップチーム入りを果たしていた清水は、先輩とりわけ当時の主将・鈴木将大(商卒)から常に叱られていた。普段の練習中から本番の試合も、悪い点があればもちろんのことチームが快勝したときでさえ、闘将は鬼の形相で清水を名指ししていた。思えばそれは『愛のムチ』であり、結果としてそれが無ければ、今日の清水には至っていなかったことだろう。


 清水とて、万事に浴びせられる指摘を受け止めれたのは自身に思うところがあったから。もとをたどれば、彼自身が味わった屈辱が根底にはある。


 あのときのことは忘れまいと言わんばかりに清水は熱っぽく語る。


 「1年生のときは先輩の言うことについていったらエエかという気持ちが強かった。出しゃばったらアカンとか考えてて。

 でもリーグ戦でチームを離れることになって、そしたら健太郎さん(平山/社卒)にあっというまに抜かれた。4回生の持つチームへの指示力も本当にスゴかった


 レギュラー争いに敗れたルーキーイヤー。真の司令塔への道はここから始まったのである。


 「ムネオさん(鈴木の愛称)が、抜かされた悔しさを分かって下さってて。それであれだけ厳しく。毎回怒鳴られて、でも変えなダメなところとかを明確に言われていたので。

 今は余裕を持って指示が出来ている。感謝しています。あの人のおかげと言ってもおかしくない」


 『お前がおらなBKは成り立たへんくらいになれ』そうとまで主将は彼に言い放つほどだったという。


 さもすればレギュラー争いの敗北が、若き才能を埋もれさせていたかもしれなかった。けれども期待と信頼が込められた愛のムチが、果たして絶対的司令塔を生んだ。


 「トップチームから落ちてでも、めげずに先輩からも引っ張りだされた。

 技術うんぬんじゃなくて、結局はメンタル面なんですよね。

 自分がチームの中心になりたいと思えば思うほど、それはプレーに出てくるので。それこそ上のチームでファーストジャージを着たい、そう思うことが大事やと思います」



 鉄は叩かれるほど、その強度を増すという。大学生活3年目の今季、清水には鋼のごとく芯として、使命感が宿っている。言葉の節々から、己が中心となってチームを率いることへの意志が感じられる。


 それはこの春に彼が下した一つの決断からも。今年2月、清水はチームが毎年行なっているニュージーランド留学を経験した。2ヶ月間におよぶプログラムが終わろうかとしたとき、清水は期間延長のオファーを受けた。


 残って欲しい。そのためにコーチが通訳を引き連れて清水の実家にまで直談判に訪れたというから相手の本気度が伺えよう。彼のポテンシャルが見初められた証か、カンタベリー州代表まで行けるかもしれない、との評価もとい口説き文句をも受けている。(本人はリップサービスと謙遜するが)


 期間延長となれば、帰国は7月となっていた。滞在中の2ヶ月間だけでも自身の成長を感じていたぶん、後ろ髪を引かれる思いはあった。だが清水が選んだのは上ヶ原の地に戻ることだった。


 「チームのことを考えたら。今年のチームに思うこともあったので、少しでも〝合わせ〟とかやりたいと思ったんです」


 やがて徳田組も春シーズンを経るにつれ成長曲線を描くが、清水はこの夏に先駆けて幹部たちに話を持ちかけたこともあった。


 「ニュージーランドから帰ったとき、チームに対しては、あまりまとまってないイメージを持ちました。比べる必要はないけれど、どうしても去年のチームと比べてしまうので。

 これまでもチーム練習が出来ていなくて。幹部にチーム練習をしたいと伝えました。どの場面で、どこでどうアタックするのか。その統一がなければチームとしても強くなれないと」


 こうした発言が出来るようになったのも、清水の変化の証だ。「言われることをやるだけじゃなくて。こう思ったので、こうした方が良いのでは、と言えるようになりました」と本人は成長した点を語る。


 チームとしてピッチに立つ者が『連動』するラグビー。『継続』を掲げた昨年のラグビーから、今年はメンバーの特色を加味した。つなぐプレーを一つ取っても、そのパターンは多彩だ。フィールドの端から端へと一定方向にパスを渡らせる、かと思えば急に逆方向へパスを振り、背後からランナーが走り込んでくることも。予測不能、変幻自在に朱紺の闘士たちが駆け回る。


 司令塔を担う清水のイメージはこうだ。


 「今はそうでもないようですけど、以前のフランス代表のような〝シャンパン・ラグビー〟です。次々と、泡のようにプレーヤーが湧いてくる。

 今年のチームの特長として、浸透していければ」



 昨年、リーグ戦での活躍に注目が集まり、清水はポジションを同じくする往年のプレーヤーの愛称になぞらえて『キング』と形容されたことがあった。例のごとくチームメイトたちからは〝王様〟と、はやし立てられる。でも、どこかまんざらでもない表情


 「チーム内でイジられました良いイジりですけどね(笑)

 認められると言うと大げさかもしれないですけど、そう周りからは見られますし。プレッシャーにもなるけど、それは悪いものではない。あのプレーを継続するのが、関学の為にできる僕の役割。やっていかなアカンなと。良い刺激になりました」


 由来となったオールブラックスのSO〝キング〟カルロス=スペンサーの軌跡をたどって。とはこじつけではあるが、先述のとおり清水はラグビー大国へと渡った。そこでの経験が彼に幾段ものレベルアップをもたらした。


 現地のクラブチームに合流した当初は本来のポジションであるSOとしてゲームに参加した。だが、言葉の壁にぶつかりCTB=『12』番へと移ることに。このコンバートが奏功した。


 「本場の『12』を味わえた。幅が広がりましたね。『10』番のままじゃ、ラグビーの道を進むうえで生きていけなかったと」


 話すに日本のCTBは、パスもドライブもこなせる器用なタイプが就くイメージ。一方、ニュージーランドでは、まずはデカくてガツンと当たってくるタイプがCTBの、とりわけ『12』番には入るのだとか。


 「怖さはあったけど、それで慣れましたよね。こっち帰ってきてから感じますけど、タックルの怖さが無くなりましたから」


 またラグビー大国ならではの価値観に衝撃を覚えたことも。京都成章高校出身の清水は、それこそ母校の特色である細部にまでプレーに決まりごとを設ける『システム』を試合のピッチ上で表現していた。クラブチームの試合でも、まずはチームのシステムを聞いてみたところ


 「『ノー、システム』と言われたんです。好きなようにプレーしたら良い、って。ビックリしました

 ニュージーランドはスゴい頭を使ってラグビーをしていましたね。いまどこが空いているのかとか、ボールの動きに合わせて全員が判断して。それは今までやったことのないラグビーで。本場を知れて良かったです」


 むろんフィールドで交わされるのは英語。7割方は身振り手振りで対応した。かけ声でボールを要求したり「だいたい手の動きで分かる」と言うものの、サインを察知し、こちらから送るのも一筋縄ではない。その苦労が、周囲へ指示を出す意識を助長させた要因だと言ってもはばからないだろう。



 朱紺のジャージを身にまとい、はたまた黒色に染まる楕円球の国で経験したことを骨肉とし清水は着実にステップアップを遂げてきた。


 プレーの幅も広がったことで、帰国してからの関学では『12』番を着ることも。あらゆる部員たちの可能性を探るべく試験的なポジションチェンジを図るなかで一役買った形になった。シーズン最初の練習試合では、ゲーム前のベンチで『10』番のユニフォームを手にしてしまい、「違った!」と苦笑いを浮かべた場面もあったが


 そして彼の持つもう一つの武器が、ここにきて徐々に姿を見せようとしている。右足が繰り出す足技の数々。


 記憶に新しいのは6月14日の慶応義塾大戦。WTB中野涼(文4)とFB川上剛右(経3)のファンタスティックなトライを演出したのは、清水のキックパスだった。


 シーズン最終戦でも終了間際のロスタイムでドロップゴールを狙った場面が。点差を考え冷静に蹴り上げた楕円球は結果としてバーに嫌われたが、これまでにない得点パターンを予感させた。


 「アドバンテージの使い方ですね。アンガスからも良いよと言われていることもあって。チャレンジしたら面白いよなと。

 ハイパント上げたら2分の1の確率で取れるじゃないですか。去年もリーグの立命館大戦でやったりして。あのときはCTBにサンホさん(金尚浩/総政卒)がいて空中戦に強い人だったので、それが狙いだったりも」


 解禁された清水の右足。キックに関して自信をのぞかせる。


 「幼稚園からラグビーしてて、コントロールには自信があるんで。ある程度ここに蹴って、と言われたら出来ますよ!

 狙った場所には蹴れる自信があります」


 この王様はチームの中心に君臨すれども、自ら戦地に飛び込み、味方の兵士を動かし、軍勢を先導する。加えて「ワクワクさせるプレーをする、その気持ちは無くしたくない」そんな揺るぎない志を表現するかのように、右足からは魔法を繰り出す。


 シャンパンの甘美な味も相まって、観る者は彼のプレーに酔いしれることだろう。



 

番外編『ニュージーランド留学を経て』

 

 「実は海外に行ったことが無かったんで。最初に話をもらったときは、ホームシックならへんかな、とか不安でした。一回行ったら帰ってこれないじゃないですか!(笑)

 それで親に相談したら、一喝されたんです。これはもう行くしかないな、と。

 ステイ先は全部英語でした。ちょっとくらいは日本語も勉強してくれてるかなと思ってたら、まったくで。3人兄弟の家族で、フレンドリーでした。次第にラグビーしようとか誘ってくれたり。食事も、おかわりどう?って。

 でも一ヶ月経ったときに体重を計ったら3キロ太ってたんです。そしたらコーチが家まで来て、食べさせるな、と。子供たちからは『ファットボーイ!』ってイジられました(笑)

 ニュージーランドを感じたのはマーケットとかでも裸足の人がおったときですね。海外やな~と。

 あともう一つは、私服でラグビーのユニフォームを着ている人がいて。かっこいいなと思いましたもん。年配の男性がチノパンを履いて、上にクルセイダースのユニフォーム、とか。国技としてラグビーが愛されていると感じました。

 ちょうど行ったときはクリケットのW杯がニュージーランドでやってたんです。強いみたいで。家のテレビもクリケットを映してたんですけど、僕がリビング下りたらスーパーラグビーに変えてくれたり。現地でも3試合観ましたよ!

 留学では試合にも出させてもらえて。恵まれていたと思います。もう一回行きたい気持ちもでも英語が不自由なんで

 でも、今もふとしたときに行きたいな、って気持ちになる。行って良かったと思います」

 




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▶清水晶大プロフィール