戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

慶応四年九月十四日 板垣退助日誌

2005年09月17日 | 板垣退助日誌
この日、会津若松城を包囲している諸兵は総攻撃を開始する。
薩摩・長州・土佐・大垣・佐土原・大村・越前・宇都宮・黒羽・中津・今治・肥前・水戸・大田原・小倉・松本・人吉・備前・飯山・館林・岩国・松代・
芸州・高田・新発田・加賀・尾張・紀州・それに米沢まで加わり、砲数は百門を超え、戊辰戦争史上最大級の大攻勢である。
小田山の砲兵陣地からあびせる砲火はたたぢに城内を炸裂し、一方会津側の砲は威力は遠く敵に及ばないものである。城下においては彼我の血戦が行われている。

若松城に総攻撃が行われたが、城内の士気が高く 板垣退助らは降伏勧告を送る。

慶応四年九月十三日  板垣退助日誌

2005年09月13日 | 板垣退助日誌
米沢に滞在していた土佐藩兵が、会津若松城攻めの救援のため出発する。

慶応四年九月九日 板垣退助日誌

2005年09月13日 | 板垣退助日誌
会津若松城兵が夜陰に乗じて城下に火を放ったため、土佐藩兵では警戒を強め城内からの突撃に備える。

慶応四年九月五日 板垣退助日誌

2005年09月05日 | 板垣退助日誌
土佐藩兵、諸藩の兵とともに船橋駅にて会津藩兵を襲いこれを破る。これにより若松と北越の間の補給路が確保される。

慶応四年九月二日 板垣退助日誌

2005年09月02日 | 板垣退助日誌
土佐藩兵はこの日若松の本営にて戦死した遺体の埋葬規則を定める。

慶応四年八月二十九日 板垣退助日誌

2005年08月29日 | 板垣退助日誌
この日も若松城より兵が出て、大垣藩の陣営を襲うが、土佐藩兵これを助けるべく救援に向かう。城より出てきた会津藩兵は頑強に抵抗してきたため、
土佐藩兵の十五番隊隊長遠藤平八郎ほか多くの死傷者を出す。
土佐藩兵の傷病者をこの日若松より白河へ移送させる。

慶応四年八月二十七日   板垣退助日誌

2005年08月27日 | 板垣退助日誌
この日の未明若松城から決起の部隊が場外に出て、土佐藩兵の見張場を襲撃し、三番隊の阿部駒吉之が戦死する。
その未明の襲撃のためか、土佐藩の陣営では人足雇い人の営中の入ることを厳禁とし、敵兵の侵入を警戒する。

慶応四年八月二十五日 板垣退助日誌

2005年08月25日 | 板垣退助日誌
若松城より籠城兵が出てきて、長州藩と大垣藩の陣地に攻めてくると、土佐藩兵は兵を繰り出しこれを撃つ。
この日小軍監の安岡覚之助が敵弾を受け戦死する。

慶応四年八月二十四日 板垣退助日誌

2005年08月24日 | 板垣退助日誌
会津若松城を包囲していた各藩が若松城の外郭を焼き警備地を定めておのおの配置される。
猪苗代のいた土佐藩の留守部隊が来て若松の包囲していた本隊と合流する。

慶応四年八月二十三日 板垣退助日誌

2005年08月23日 | 板垣退助日誌
払暁、新政府軍は攻撃を開始し、戸ノ口原周辺で守っていた会津藩兵はすぐに交代し、新政府軍は一気に本道より若松城へ目指す。
この日の新政府軍の先陣だった土佐藩兵は滝沢峠にでるまで抵抗らしい抵抗は受けなかったが、滝沢峠にて遊軍寄合組を難なく突破し、
そのまま会津盆地が見えるところまで進出する。そこで板垣退助の盟友牧野群馬【小笠原唯八】は会津盆地を見晴るかし、「ああ、われ死所を得たり。」と叫んだという。

若松城下北方の入り口にて、蚕養口の手前の国産奉行河原善左衛門が新政府軍に抵抗するが、すぐに退却し、新政府軍は
甲賀町口かせ南方七百メートルの若松城北出丸に迫り砲撃する。会津藩兵の抵抗も激しく昼すぎても若松城の落城の気配もなく、
薩摩・長州・土佐藩兵が一小隊ずつ出して斥候を南側へ回している。

この日は土佐藩兵は功を焦るばかりに、若松城の大手門に殺到するが、そこで城を守る会津兵の狙撃を受け多くの迅衝隊の幹部たちが倒れる。
板垣退助の盟友牧野群馬は狙撃を受けのちに戦死、その弟で迅衝隊三番隊長小笠原謙吉もここで戦死、板垣退助の留守や別働隊を率いてよく戦った半大隊長祖父江可成、
鳥羽伏見の戦いで参戦した九番隊隊長二川元介、同じく十番隊隊長山田喜久馬、十二番隊隊長長谷口伝吉などが戦傷し、前線から離脱していった。
この日の土佐藩の被害状況は、戦死者二十六名、負傷者二十名にもなる。

慶応四年八月二十二日 板垣退助日誌

2005年08月22日 | 板垣退助日誌
早朝猪苗代に向けて部隊を出発させる。猪苗代では会津藩兵が自焼して自ら退却して容易に猪苗代に侵入できた。
本陣を町中の右の山下にある武家屋敷において一旦ここで兵を休めて食事をとる。薩摩藩兵が休むに丁度いい屋敷をさきに占領したため、
土佐藩兵は先にある村にて休憩し、板垣退助も先に進んで本陣に戻らなかったという。
昼前に薩摩の川村純義の部隊は猪苗代に入り、午後四時ごろには十六橋にたどり着く。
川村純義は十六橋を撤去しようとしていた会津藩兵を追い払い、そのあと板垣退助らの部隊も到着して応援する。
新政府軍は十六橋を占拠して若松城への道を確保し、前方にある戸ノ口原の会津藩兵と対峙する。

この日土佐藩兵は戸ノ口村にて露営する。

慶応四年八月二十一日 板垣退助日誌

2005年08月21日 | 板垣退助日誌
新政府軍は隊を四つにわけ、伊達路【土佐・長州、谷干城・祖父江可成など】 中央の石筵口【薩摩・長州・土佐・佐土原、板垣退助・伊地知正治など】西側の間道【薩摩・大垣、川村純義】
中山口【陽動部隊として、薩摩・長州・土佐・大垣・大村】が進軍する。
勝岩の下の沢を渡ろうとした谷干城らの部隊は、これを阻止せんとする会津藩兵らと銃撃を行い、谷干城らの部隊は一部兵を割いて迂回部隊をもって、敵の背後を襲う。
これに乗じて谷干城の部隊も会津藩兵を圧倒する。谷干城らの部隊はこの日十名の死傷者を出す。
中央の石筵口にて、薩摩藩の大山弥助は大砲でもって一斉砲撃し、ここを守る会津藩兵を一掃し、これに乗じて谷干城の部隊も会津藩兵を圧倒する。
母成峠を占拠し、新政府軍はここで一泊する。川村純義の部隊は母成峠の戦いが終えたことを知り、達沢村を経て峠を越して猪苗代へと目指す。

慶応四年八月二十日 板垣退助日誌

2005年08月20日 | 板垣退助日誌
新政府軍は全軍を率いて、朝八時二本松を出発して石筵口を目指す。二本松南西にある玉ノ井村に到着し、部隊を三隊に分ける。
一隊を本宮にとどまり、一隊を山入村へ進む。母成峠には二本松藩兵・大鳥圭介の伝習隊などが二本松城を奪還する途上で遭遇し
交戦し、新政府軍はこれを圧倒する。

慶応四年八月十九日 板垣退助日誌

2005年08月19日 | 板垣退助日誌
二本松にいた新政府軍は石筵口より会津攻めの議決がなされる。

慶応四年八月十七日 板垣退助日誌

2005年08月18日 | 板垣退助日誌
奥羽越列藩同盟軍は新政府に占領された二本松城を五方面より攻撃するが、実際に戦闘されたのは二本松三小隊を含む
本道隊のみで同盟軍はあっけなく敗走する。