牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

3月10日(月) 「教会の改革的形成③」 D・ブローシュ著

2014-03-10 07:35:44 | 日記

 本書を読み終えた。著者はキリスト教刷新に大きな関心を寄せている神学者のひとりである。本書の意図は、世俗化が進行しているこの時代において、プロテスタント教会のあらゆる問題に切り込んでいって、その解決の方向を指し示そうとすることにある。大きな特徴としていえるのは、解決の方向として、カトリック的な神学や実践と聖霊派における運動が大いに助けになることを明らかにしている点であると思う。

 さて教会改革に必要な最後の4点を挙げる。
11.福音宣教  すべての説教が、部分的には伝道的、あるいはケリュグマ的でなければならないと指摘している。

12.霊的訓練  信仰生活によって不可欠な訓練の一つは、祈りである。

13.社会的関与  ディアコニア(奉仕)の必要性。宣教が一番大事であることは間違いないが、社会的奉仕も大切である。

14.キリスト教の一致  一致が必要であるが、イエス・キリストこそ(だけ)が一致の唯一の基盤である。有名な二人の意見を引用している。

 フォーサイスの言葉。「排他的でない福音というものは、決して世界を包むことはできないであろう。なぜならそれは決して世界を制することがないからである。」

 スポルジョンの言葉。「わたしたちが確信していることは、合同を促進する最善の方法は、真理を強く打ち出すということである。お互いのあやまちを許容することによって、すべてのものが結び合わされても、それはわたしたちの役には立たないであろう。」


 すべての人に福音が伝えられなければならない。それを成し遂げることがそれぞれの地域教会の使命であり、役割であり、責任である。それからイエスをキリスト(救い主)として信じて教会共同体に加えられた人たちをキリストの弟子へと霊的訓練を通して作り上げていく必要がある。福音宣教と共に社会との関わりが求められている。特に田舎の村社会ではそれが大切であると思う。なぜなら人々の心が福音に閉ざされているから。そうなると地域社会との接点が大切になってくる。私たちの場合は農業がその接点になると思う。しかし教会として何をなしていくかを真剣に考える必要がある。今考えられることを思いつくままに挙げると、教会での葬儀と納骨堂の建設(老人伝道)、教会での結婚式(青年伝道)、学習塾(少年伝道)、子育て支援的な働き(子供や主婦への伝道)、聖書研究会(大人伝道)、コンサート開催(万人向け)などがある。

 それからキリスト教の一致であるが、私はこの分野ではそれなりに経験があると思う。10代後半から20代前半は超教派の大学生伝道に関わり、20代中盤は超教派の神学校で学び、20代後半から30代前半は東京での超教派の青年伝道に関わり、30代中盤から後半は、埼玉で地域の教会と協力して5年に渡って一般のホールでコンサートを開催した。

 そのような一致は大切であると思って、私なりに関わってきた。それは北海道でも変わらず、超教派の働きに関わっていきたいと思っているし、地域の教会や牧師たちとも何らかの形で協力をしていきたいと願っている。私は聖霊論が違ったり、神学的な立場が違う教会や牧師たちを認めて理解して協力することができるし協力してきた。しかし、である。スポルジョンが言っているように妥協の一致ではダメなのである。私はイエス・キリスト以外を掲げている教会や牧師と協力をする気はない。一致はどのような一致でも素晴らしいと思っている人たちがもしいたら、その人はイエス・キリストの福音とキリスト教の本質をほとんど何も理解していないだろう。心を白紙に戻して聖書をもう一度読めば自ずと分かることである。もしそれでも分からなければ霊に覆いがかけられ、光が当たっていないのである。

 妥協の一致は必ず最後は間違った方向へ行く。妥協の一致とは何かと言うと、イエス・キリスト以外に一致の根拠を置く場合である。現代の教会一致運動(エキュメニカル運動)は危険な部分がある。なぜかというと、イエス・キリスト以外で一致をしようとしているからである、では彼らは何で一致しているかというとキリスト教的な宗教的なもので一致しているのである。これはイエス・キリストで一致しているのは全く違う。カトリック教会とWCC(世界教会協議会、日本では日本基督教団)は本当に気を付けないとこの一致運動を通してますますイエス・キリストの福音から自分たちが離れる結果を生み出してしまい、また地域社会をもイエス・キリストから離す結果へと導いてしまうことになるだろう。

 本書を通して教えられたことを実践して、教会を改革しつつ形成していくことを心から願う。

3月9日(日) 「教会の改革的形成②」 D・ブローシュ著

2014-03-09 07:43:13 | 日記

 教会を改革して形成するために必要な14のうち7つの提言を見たが、その続きで3つを取り上げる。

 8.教会の新しい形態  教会が内向きになってしまっていて、外向きにならなければならないということである。教会の新しい形態を真に作り出すことができるのは聖霊であるとしている。そして9へとつながっていく。

 9・カリスマ的賜物  一人ひとりに与えられている聖霊による賜物を教会を形成していくために、教会の益のために、この世へと出て行くために用いていくこと。

 10.神癒  病気を癒すことは神の御心であるということを確信することである。


 著者は福音派に属する人物であり、聖霊派に対して一線を引いている感はあるが、それでも、現代における聖霊の働きを認め、それに心を開き、教会を改革するために聖霊の働きが絶対に欠かすことができないことを信じている。そして20世紀に活躍した聖霊派に属する癒しの伝道者であるオーラル・ロバーツとキャサリン・クールマン(二人ともアメリカ人)の癒しの働きを大いに評価している。私は著者の柔軟な態度に好感を覚える。さすが改革について真剣に考えているだけはあると思う。

 現代における癒しの働きに賛成していない、また嫌っているクリスチャンや教会でオーラル・ロバーツとキャサリン・クールマンの存在と働きがどれほど知られているだろうか。おそらくほとんど知らないのではないだろうか。この二人を知らないで癒しについて論じているようでは明らかに勉強不足であり、研究不足であり、怠慢であり、もっと言えば傲慢である。彼らを知らないで、癒しはないなどと言っているようでは、視野が狭すぎであり、まさに著者の言う改革が必要である。いつの時代に生きているの?(19世紀に生きているの?)という感じである。それだったらいっそうイエス・キリストと使徒たちが生きていた1世紀にまで戻ったほうが良い。

 あまりにも自分の考えに凝り固まっている、更に言えば自分の思いに縛られているクリスチャンと教会が日本には多いように思えてならない。それは聖書的キリスト教ではなく、自分が考えているキリスト教であり、伝統的キリスト教である。その伝統が聖書に土台を置いていれば良いのだが、たいていはそれぞれの教団の神学、すなわち人間が生み出した神学に土台を置いているのである。それはある意味仕方がないであろう。しかし、である。いつまでもそのままでは言い逃れはできないと思う。私たちには改革が必要なのである。

 著者はこのように書いている。「わたしたちが最も大切なこととして認識しなければならないことは、生けるキリストは、わたしたちを罪と死から救い出すと同様に、病からも救い出すために来られたということである。彼は、わたしたちすべての不義を赦すだけではなく、さらにわたしたちのすべての病を癒すために来られたのである(詩篇103:3)。 」

 「癒しのつとめは、御言葉のつとめに仕えていくはずである。なぜなら、神による癒しは、キリストによる救いのしるし、またその証言だからである。教会の主要な職務は、福音の説教と人々の魂の救済であり、癒しは、この救済の結実であるとともに、それへの踏み石でもある。キャサリン・クールマンのような伝道者たちは、福音宣教を自分達の主要な召命と見ているが、癒しは、その召命において欠くことのできない役割を演じている。」

 著者の提言にアーメンと言えないようでは、教会において改革が起こることはないであろう。衰退するのみである。そしてその責任を神から問われる日が必ずやってくるであろう。昔と違い今は癒しに関しても十分な情報があるのだから、言い逃れはできないと思う。

3月8日(土) 「教会の改革的形成」 D・ブローシュ著  新教出版社

2014-03-08 07:44:50 | 日記

 教会が世俗化していることが、現代神学の重要な課題であるとして、世俗化と妥協(折衷)していくのでもなく、世俗と完全に離れる超世俗的な福音主義になるのでもなく、公同的福音主義を著者は提唱している。すなわち、この世のただ中において、イエス・キリストの証人となることである。世から分離された教会、しかし世に出て行く教会、そのような教会へと改革して、教会を形成していかなければならないことを説いている。

 様々な領域(14の分野)に対して述べているが、今日は前半の7つを挙げる。

1. 聖書的説教  
2. 礼拝
3. バプテスマ(水の洗礼)
4. 聖餐式
5. 福音主義的罪の告白
6. 教会規律
7. 教育(信仰問答など)

 
 すべて大切で、それぞれ吟味検討して、改革していかなければならないだろう。
1~4は大きく言えば礼拝に関することである。1は説教に関することで、3と4は礼典に関することだ。5~7は教会生活に関することと言えると思う。罪の告白が必要であり、教会規律によって秩序が守られる必要があり、説教以外にも信仰問答などによる聖書的教育が必要である。

 本当にどれも大事で、一つだけを取り上げてもそれだけで大きなテーマになる。現時点では、礼拝と説教の準備を中心にしているが、洗礼と聖餐についてもう少し学ぶ必要性を感じている。

 4月ぐらいから教会規律について作成をしたいと考えている。信仰問答などによる聖書的教育に関しては、来年ぐらいからスタートできればと思っている。まずは6月1日からスタートする礼拝に全力を尽くしたい。それでまた農作業が終わる冬(2015年1~3月ぐらい)に信仰問答(教理、組織神学)について更に学び、来年の春ぐらいから礼拝と並行して教育の働きもスタートできればと願っている。

3月7日(金) 「教会 イエスの共同体」 ジョン・ドライヴァー著  すぐ書房

2014-03-07 07:24:52 | 日記

 昨日、ビニールハウス内の整理をして、これからの仕事の準備をした。久しぶりの身体を使っての仕事だったので何だか疲れてしまった。情けない、、、昨年はカボチャがメインで水なすとつるなしいんげんも作った。

 かぼちゃはとても美味しくまわりに驚かれる良い売り上げだったが(これは新規就農一年目としてはという意味である)、直売での早だしがうまくいかなかったので、そこを改善したい。そのためには雪が早くとけないと作業がはかどらないので、昨年より早く雪がとけるようにと願っている。

 水なすは害虫にやられたために、思ったよりも売り上げが伸びなかったので、今年は早め早めに薬をかけることが必要である。

 つるなしいんげんの売り上げはひどかった。つるなしいんげんはやめて、その代わりにビニールハウスを4棟建ててミニトマトを作ることにした。弟がミニトマトとトマトを作って契約先に出しているので、そこにのっからせてもらう形だ。ありがたい。というわけで、今年はカボチャとミニトマトをメインにする。


 さて本である。本書は、タイトル通り、「共同体としての教会」について書かれている。著者は教会がどのような共同体であるのかを、聖書を引用しながら説明している。

 著者が挙げているのは5つである。
1.分かち合う共同体  
2.赦し合う共同体
3.賜物の共同体
4.平和の共同体
5.宣教の共同体


 著者は、共同体論を展開しているが、教会共同体とはイエスを中心とした共同体である。だから基本的にはキリスト者の集まりである。ただ最初からクリスチャンという人はいないので、教会に通いながら、礼拝に出席しながら、説教を聴いたり聖書を学んだりしながら、ある日イエスをキリスト(救い主)と信じ、クリスチャンになって、教会共同体に加えられるのである。

 著者はこのように書いている。「伝道(宣教)するとはイエスの弟子を作ることにほかなりません。、、、伝道の中心的な課題は、イエスに従う弟子たちの共同体を形成することです。、、、伝道は人々を悔い改めに導き、神の民の共同体に加わるようにと呼びかけることです。」

 教会の使命ははっきりしている。伝道(救い主イエス・キリストを伝える)から始まるが、そこで終わらず、救い主として信じた人を共同体に加え、共同体の中で訓練し、イエスの弟子として作り上げることである。そのようなキリスト者の集まりが、教会共同体であり、それがイエスを中心とした共同体である。
 

3月6日(木) 「説教学入門③」 チャールズ・スポルジョン著

2014-03-06 07:26:34 | 日記

 スポルジョンは説教の準備に関して、一冊の書物を徹底して学ぶことを勧める。「一冊のよい書物を何度でも丁寧に読み、ノートを取り、これを分析するようにしなさい。勉学に励む者は、、、上辺を嘗めるようにしてただ読み過ごしてしまう20冊の書物よりも、完全に自分のものにした一冊の書物によって自分の心がどれほど影響を受けるかということを見いだすであろう。」

 このように書いた後、そのような一冊に続く3-4冊の本を読むことが有益であること、究極的にはその一冊とは、自分が持っている聖書であることを指摘する。何よりも聖書に精通すること、聖書をマスターすることが大切であることを強調する。


 要するに、聖書研究と説教準備に関しては、多読と速読よりも精読を勧めている。ドキッとした。多読と速読が必要な場面はたくさんあると思うが、説教の準備に関しては、数冊で充分であることを教えられた。埼玉で牧会し説教をしていた時にもそのようにしたことがある。つまり、20冊くらいの本を読んで説教を準備していたのだが、途中から数冊しか使わなくなったのである。しかし、今回また20冊くらいの本を読んで準備していた中で、この部分を読んで、「確かにそうだ」と改めて思わされた。

 そこで早速、手元にある20冊くらいの本を吟味して、3冊に絞った。2冊の古典(カルヴァンとマシュー・ヘンリー)と21世紀に出た一冊の現代の注解書である。他の書物はしまった(良書が多く選ぶのに苦労した)。時々使うことがあるかもしれないが。これからはこの3冊の本を精読し、黙想して、説教を準備することに決めた。読書の時間を減らして黙想(祈り)に時間をかけることを決めたのである。これまでマタイの福音書1-2章を準備していたのだが、今日からマタイ3章に入る。この3冊を参考にしながら。(山上の説教の部分ではあと2冊くらい加えると思うが)