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だれ?悪口いってるのは。か?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/e8/1765fdd16cdb9f5270287afd8ab997fc.jpg)
このころは、無邪気で可愛かったのにな。
まさか、こんなになるとは。そんな人、どこかにもいるよね。
しかし、これをかいているブラウザのfirefoxが遅くなった。止まりっぱなし。chromeにでも換えないといけないかな。
当地区の、テレビ局が制作した「記憶の澱」という番組が第13回 日本放送文化大賞 テレビ・グランプリ受賞した。
今月、再度全国で放送されるということもあって、放送スケジュールをのせておきます。心して見なければならない暗い内容だけども、日本人として、この時代だから是非とも見て欲しい内容のものになっています。
以下に、HPアドレスで放送スケジュールがでています。
http://kry.co.jp/tv/kiokunoori/
以下は、当方が昨年のブログで内容を書いたものです。かなり前にのせたものですが、ずっと閲覧が続いており、載せてよかったと思っています。
【以前のブログ掲載文:若干修正していますが】
「きおくのおり」、おりの意味は、普段は底に沈んでいるが、ふとした瞬間、ちょっとした切っ掛けによって表面まであがってくる との意味。言い得て妙です。
全国放送では、深夜枠しか放送でない、山口でも土曜日の午後枠、見るという目的がないと見られない時間帯で放送された。
内容は、戦争の中で、加害者、被害者の両方の立場で実際に経験して、ずっと苦しんできたことを証言している番組だった。
中国での実際に行った捕虜、婦女子に対する日本軍の残虐行為、逆にソビエト兵により日本人婦女子対する陵辱行為、満州人からの襲撃など両方を見た人たちの話を実名で証言している。
中国人の村を襲撃して、残虐行為、陵辱行為を行って、村人全員を殺したとか、穴を掘って、子供含む数十人を爆破したなど、次々に証言していた。
敗戦後、満州では、満州人からの襲撃から開拓団を守ってもらうため、ソビエト兵に女性が提供されたとの話も聞けた。戦争では女性子供が犠牲にされる。
90才を越えた人が、そのときの光景を思い浮かべて、号泣する。70年以上も、その光景がずっと頭に浮かんで苦しんで来たことを思うと、さすがに気が憂う。
きちんとした記録も残されていて、その様子が生々しい。言葉では、言い尽くせない悔恨と悲しみが想像される。どれだけの事を今の人がわかっているのか。
「戦後70年、先の大戦から何を学ぶことが出来るのかという」という言葉が添えられた番組だった。
戦争をしらない世代による憲法改正議論がすすむ中、今一度立ち止まって、多くの犠牲を伴った先の大戦の事実を学びたい。
以上が、昨年の早い時期にテレビで見たことを感想にした、私のブログに掲載した内容であるが、私自身も親族に直に聞いた内容とも一致する。これに対しては、いろんな反響があり、閲覧数も半端じゃないほどだった。是非とも、日本人には見てもらいたい。
アメリカ政府筋が抱く日本の国のイメージは「サンドバッグ」だそうですよ。
たたかれてもなにも言わないということだそうです。
トランプさんの今回のアジア歴訪では日本は「気楽な相手」だそうです。
今までも、アメリカ軍は日本のどこでも、なんでもできる権利を持っているらしいですよ。
どこまで日本が馬鹿にされているんでしょうかね。
それなのに、完全に一致だとか・・・とか、もはや、言葉は悪いけどこれじゃ奴隷ですよね。
日本の代表者には、きちんと言うべきことを言ってもらえませんか。
美しい国日本というまえに、日本自体が独立出来ていませんよ。
是非とも独立国として、美しい国日本を唱えて欲しい。
そういえば、この間、以前いた会社の人間と飲んだとき、20年以上前いた女子職員が働いていますよといわれた。技術系の会社のなかで事務職だったはず。それも、複数、たくさん残っているらしい。通常の会社なら、とうの昔に肩たたきされているはず、さすが立派なホワイト企業だ。給与差別もないし、60才過ぎても希望すれば65才まで残れる。男子と同じく、50パーセントの待遇ではあるが、こんな会社はあまりない。さすが、立派。あまり大きな会社ではないけど、親会社が潰れない半官みたいな地域独占企業だから、こんなことできたのだろうけど。のんびり、流されていくのになれれば、ベストチョイスだろうね。わしは、少し、偏屈だから、外に出たけど、まともだったら人生変わったかもなあ。
ついでに、この会社はボーナス以外に成果配分もあったし、労務管理もきちんとしていて残業も適正だし、福利厚生も充実していたし、わしの場合は有給休暇も繰り越しできる日数を残して毎年全部使えたし、普通だったら文句なしだよな、普通の人だったら ふっふっふ。
亡くなってきた後聞いた話だが、
わしの母は戦争中、ある人と文通かなにかしていたらしい。母は、息子のわしがいうのも、なんですが、お目々ぱっちりの、なかなかの容貌の人だった。
関係は、兵隊に対する慰問かなにかから始まった話ではないかと思う。既に本人も、知り得た人も周りにはいなくなったのであくまで推測の話ですが。
最初、このことが、ぼんやり感じたのが、わしが、進学で名古屋にいったとき。
当時はあまり気にもとめなかったが、岐阜にそんな人がいるから、会いにいかないか、何回も言われた。何故いうのかそのときはわからなかったし、わしも若かったので、あまりいい気はしなかったから、聞き流していた。当時オヤジが死んだ直後で、さみしい気もあり、昔のことが澱のように表面に浮かび上がったのかもしれない。
戦争というぎりぎりの精神状態のなかでの、今では考えられないくらいのプラトニックな関係が本人にとっては、とてつもない忘れられない思い出として、以降の人生の中で自分の人生の象徴のように残ったのだろう。戦後のどさくさで、結局は成就することもなく終わり、その後の生涯はわしが知っているとおり60才になったときに終わった。
神様が最後に用意してくれたプレゼントだったかもしれないが、亡くなる最後の半年前、もう既に病床にあったとき(わしには何も言ってくれなかったので知らなかったが余命半年のことだった)、その人が、偶然だと思うが、はるばる母に会いに来た、「幸せに暮らしているか?」と。母は、老いて、弱った姿をみせたくないのだっただろう、「いないといってくれ」として、頑として会わなかったという。あの当時の、美しい思い出を、相手にも、自分にも、そのまま残して死にたかったのじゃないかという気がする。
母の気持ちも相当揺れたと思うが、気持ちは今となってはよくわかる。会っていればとも思う、最後の、最後だったのに。
ふと、自分も同じような歳になってから、このことはたびたび思い出す。ずいぶん、歳をとったと感じる。
高校の時だったかな。
こんな歌をきいて感動していた自分がとても純でいとおしくなる。今や、田舎のはげおやじ(社長その他、口うるさいわしの周りの人曰く)だけど。
今でも、時々憂鬱になるときにyoutubeで聞く。昔の自分から勇気をもらって、あともうひと踏ん張り、ひと踏ん張り。
PC内の写真を何気なく見ていたら、これだれ? マリィちゃんが6ヶ月のときのこと、たぶん体重は今の1/3~1/2程度。
小さいね。いまとはえらい違う。まだ、片手で抱えられていたことだろう。
この首かしげは相変わらずしているから、とっても好奇心旺盛なんでしょうね。可愛いい~。
いまはどちらも・・・・・だけど。 ・・・・はいいたくない。
こんな格好、今は絶対しないが、今は、ほんと警戒心の塊。
ほんとう、別人のような細さ。 このままでいてほしかったんだけど、だれかさんが・・・らしてしまった。
そのとき、初めて咲いた月下美人の写真もあった。先代モモさんが帰ってきたのか、はたまた、マリィが連れてきたのか?
たぶん、咲き始めて、数時間で満開。コウモリを呼ぶようににおいを発していたけど、同じ日に咲く月下美人と出会う確率はほとんどないだろうし、空しい恋だね。
若かりしマリィさんは、恐れもしらず、自分より大きな犬と渡り合っていたけど、今は猫のみ。それも、びびりながら。犬が相手だと、まず見て見ぬふり。
今はこれ。素晴らしい肉体美?
昨日は、本当に久しぶり、マリィさんと寝た。それも手枕で、さぞ怖かったやろう。
2日ばかりDMの話で暗かったし、そと寒いから、マリィが来たときの画像で親ばかぶりを。
生後3ヶ月すこし前で、うちに来たときの画像。みみ大きいけど、足が太くて短い。こんなバランスはコーギーでもあまり見たことがない。親が比較的若いから骨太だと言われたが。で、顔は、一癖も二癖もある顔で、ついでに舌がのぞいているよ。いたずら盛りで、家中走り回っていた。いまの鈍重な動きから見れば、えらい違い。
この子は、いつも首かしげているが、たぶん好奇心が強いんだろう。いまだに、首ひねりまくっている。
小さい頃から目はでかい。こぼれそう。目にはすこし小心さがでているような。わしが、ひっくり返すと、漏らしていた。それ以来、わしの顔見る目が違う。それで、上下関係ができたと思うが、いま一つ先代のモモのようになじんでない。。
以降2枚は今の画像:生後3年少し前。
で、今のすこし憂いのなる顔。まだ、3才なのに、達観したか。いまは、人の顔伺い、要領よく振る舞っているけど、犬もずいぶん変わるものだ。
これだから、すこしでも体しまってくれ。たのむ。体重は約6倍になった。
いつも、アマゾンプライムの音楽聴きながら仕事をしている。
たまたま、目についたのが「吉田拓郎」33曲が無料で聴ける。といことで聞きながらお仕事。40年前の学生時代が頭に浮かんできた。そんなことを考える歳か、わしも・・・
ああ、懐かしい、大学のころ月4千円のバスなし、トイレ共同の間借り下宿でせんべいになりかけた布団にくるまり、合格祝いにもらったラジオでコッキーポップ、オールナイトニッポンを聞きながら朝まで夜更かしした頃をを思い出した。今の学生からは考えられない環境だったろうが、昔はみんなそんなものだった。わしの場合は、父が受験前になくなったもので、細々と奨学金をもらいながら通ったということもあるが。
吉田拓郎の曲「落葉」、「祭りのあと」、「明日に向かって走れ」、「人間なんて」・・・、みんな突っ張ってたな。髪を肩まで伸ばし(今、娘に話すと笑うが、当時は自分でもほれぼれする色白、細身のイケメンだった?と思う(^0^))、ベルボトムのジーパンはいていたし。下駄をはいて大学へ通って、足の裏がとんでもなく皮が厚くなったり、授業をエスケープして下駄の音で見つかったり、学校で酒飲んで、教室をゲロで汚したり、とんでものない自由な頃だったし、歯止めがなかった。
当時(昭和40年代の終わり頃)はほとんど学生運動が収まっていたがわしの通学していた頃は、不正入試問題がこの大学であって、まだまだ残り火がくすぶっていた。教室のロックアウト、校内のジグザグデモ、機動隊導入(あったかも知れないがわすれた)も経験、ロッカーの上にはヘルメットが常備されていた。年代的は「学生運動に乗り損ねた世代」で、人によっては鬱憤がたまっていた世代にあたる。
また、わしの通った大学は、単科工業大学だったため全学生は4,000人(当時の国立単科大学ではトップの人数だったと記憶しているが)くらいいたうち女性はたしか27人だけだったと記憶している。女っ気がないから、大学祭のときは名古屋の繁華街栄のテレビ塔、松坂屋の前で、ふんどし一丁でビラ配りもしたし、学内でもそれなりに男の匂いぷんぷんだった。たまに、当時の近隣の女子大との合同ハイキング、近くの大学病院の看護婦さんとの徹夜討論会、南山大学のガーデンパーティにお呼ばれしたり、また、ごくたまに友達が来たときなどは、彼の社会人の彼女らとグループで一緒に飲んでおごってもらったりしていたが(40年も前のことだからしゃべってもいいだろう)、まあ、それくらいの適当に貧乏で華やかさに欠ける大学生活だった?
ただし、そんな中で、進級にはずいぶん厳しい大学で、学科60人入学して、同時に卒業できたのは30人くらい。半分は、もうすこし長く頑張りましょう(留年)だった。授業でも、質問に答えられないと、1回の授業で5人くらい罵声を浴びせかけられ、「でていけ」で追い出された。かくいう、わしも1回追い出された。今となっては、いい思い出だ。追試も10回以上受けたし、最後はレポートで勘弁してと泣き落としで単位ももらったりもした。そのとき、世の中、あきらめたら終わりだと実感した (^。^;)。いい経験だった。
もう1回戻ってみたいけど、試験を受けるための勉強はもうご免。とにかく、この時期は、いろんなジャンルの本を読みふけり様々な妄想にひたり、たくさんの酒をのみ粗相をし、思い出しても恥ずかしくなることをしでかしたり、いろんな人に迷惑もかけ、ときには傷つけたりしたけど、それは若いという未熟から成熟への過渡期ということで許される特権だと思う。この時期を無駄に過ごさないことを若い人には望むばかり。
以上、久しぶりの昔話でした。