古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

酒楽の歌(記39・40歌謡、紀32・33歌謡)について─スクナミカミの酒造と寿(さかほかひ)を中心に─

2020年12月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
待酒問答

 記紀に、成年式儀礼とされる禊を終えた太子、のちの応神天皇を、母親の神功皇后は酒宴で迎える。その話は歌謡の問答を伴っている。記には「酒楽の歌」とされている。

 是に、還り上り坐(ま)す時に、其の御祖(みおや)息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)、待酒(まちざけ)を醸(か)みて献りき。爾に、其の御祖、御歌よみして曰はく、
 この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世に坐(いま)す 石(いは)立たす 少御神(すくなみかみ)の 神寿(かむほ)き 寿き狂(くる)ほし 豊(とよ)寿き 寿き廻(もと)ほし 奉(まつ)り来(こ)し御酒ぞ 止(あ)さず飲(を)せ ささ(記39)
如此(かく)歌ひて、 大御酒(おほみき)を献りき。爾に、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、御子の為に歌に答へて曰く、
 この御酒を 醸みけむ人は その鼓(つづみ) 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやに転(うた)楽(だの)し ささ(記40)
此(こ)は酒楽の歌ぞ。(仲哀記)
 十三年の春二月の丁巳の朔にして甲子に、武内宿禰に命(みことおほ)せて太子(ひつぎのみこ)に従ひて角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおほかみ)を拝(をが)みまつらしむ。癸酉に、太子、角鹿より至(かへりいた)りたまふ。是の日に、皇太后(おほきさき)、太子に大殿に宴(とよのあかり)したまふ。皇太后、觴(みさかづき)を挙(ささ)げて太子に寿(さかほかひ)したまふ。因りて歌(みうたよみ)して曰はく、
 この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世に坐(いま)す 石(いは)立たす 少御神(すくなみかみ)の 豊寿き 寿き廻ほし 神寿き 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ 止(あ)さず飲(を)せ ささ(紀32)
武内宿禰、太子の為に答歌(かへしうた)して曰(まを)さく、
 この御酒を 醸みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも この御酒の あやに転(うた)楽し ささ(紀33)

 記紀の歌謡に若干の違いはあるものの、話としては同じことを言っていると考えられる。記では「於是」で始まっている。太子、後の応神天皇が、建内宿禰に連れられて禊の旅に出、気比大神(笥飯大神)と名易えをした話に続いている(注1)。「我に御食(みけ)の魚(な)給へり」という発語をしている。これによって、ナ(名)が得られたとするのであるが、それは文字通り、ナ(魚=肴)の獲得でもあった。すなわち、ナが帰ってくるということは、酒の肴がおみやげとしてやってくるということである。うまい肴が到来するなら、うまい酒を用意して待っているという話の筋立てになっている。だから、「待酒」をし、歓待の歌が歌われ、ありがとうと答えて歌っている(注2)

  大宰帥大伴卿が贈大貳丹比県守卿が民部卿に遷任するときに詠んだ歌
 君がため 醸(か)みし待酒(まちざけ) 安野(やすのの)に 独りや飲まむ 友無しにして(万555)

 息長帯日売命は自分で醸んだ酒ではなく、「酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神の」造った酒であるとしている。スクナミカミ(須久那美迦微、「微」はミ乙類)は薬にまつわる少毘古名神(少彦名神)のこととされている。薬を作るのに長けているとして尊崇されるから、百薬の長である酒を司るものとしているという。クシノカミ(久志能加美)の「美」はミ甲類に当たり、神ではなく、上・司の意である。しかし、どうして登場しているのか、これまできちんとした解明に至っていない(注3)
 酒について自分が醸んだにもかかわらず、神の酒であるという歌いまわしは、崇神紀にも見られる。

 八年の夏四月の庚子の朔にして乙卯に、高橋邑の人、活日(いくひ)を以て、大神の掌酒(さかびと)とす。掌酒、此には佐介弭苔(さかびと)と云ふ。冬十二月の丙申の朔にして乙卯に、天皇、大田田根子(おほたたねこ)を以て大神に祭らしめたまふ。是の日に、活日、自ら神酒(みき)を挙(ささ)げ、天皇に献る。仍りて歌(うたよみ)して曰く、
 この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主(おほものぬし)の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久(紀15)
といふ。如此(かく)歌して神宮(かむみや)に宴す。(崇神紀八年)

 実際に酒を造ったのは、「大神之掌酒」とされた「高橋邑人活日」である。宴会用の酒を神が造ったことにしている。大物主神を上手に祭って疫病を収めてからの展開である。記39・紀32歌謡の場合も、少御神(すくなみかみ)を上手に祭って肴にちょうどいい酒を造らしめたという意と思わせる効果がある(注4)。神が人に御酒を献上していると言っている。神さまがプラグマティックに利用されている。

スクナミカミ

 スクナミカミという名称は記紀では他に例が見られない。少毘古名神をニュアンスしていることに間違いなく、異論は唱えられていない。記39歌謡に、「酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神」とある。少名毘古名神(少彦名命)は古来、薬の神として崇められている。酒は百薬の長とされている。記上や神代紀の国作りの話で、少彦名命は粟の茎から弾かれて常世国へ行ってしまったとされている(神代紀第八段一書第六)。そういうお話の上で、記39・紀32歌謡は歌われていると考えられる。
 森2016.は、「「常世に坐す 石立たす 少御神」の句は「常世の国にいらっしゃってその場所で石として立ち顕れておいでのスクナミカミ」と見るのが、本歌謡の解釈として素直な姿勢だと考える。」(152頁)とする。しかし、「石立たす」は孤例の枕詞で、スクナミカミにかかっている。時代別国語大事典に、「岩のようにしっかり、また末永くお立ちになっているの意で、少名御神(スクナミカミ)にかかる。イハは接頭語的用法。」(91頁)とある。イワ(石・岩・巌)は堅固で永久不変であることを示す。永久不変とはすなわち、常世の概念に同じである。「〈状態〉と〈場〉を表現する修飾句が並列され」(森2016.152頁)ていることに違いはないが、〈状態〉と〈場〉とは切り離されるものではない。
 では、「石立たす」という枕詞の本意はどのようなものであろうか。後世に枕詞と呼ばれているものは、形容表現を重層化した古代に特徴的な言葉であり、訳すことさえ難しいほど入り組んだものである(注5)。「石立たす」を、御霊の岩として立っていらっしゃる、石をご神体として立っていらっしゃる、の意ばかりであると認める(注6)のは早計である。神を石像にしていたというのは後講釈で、はじめにヤマトコトバありきこそ、人の抱く観念の本質である。しかも、具体物として皆に認められていることで、言葉として周知の事実となる。すなわち、「酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神」という修辞において、「酒の司」と「常世に坐す 石立たす 少御神」とは、関連していなければ聞いた人に理解されるものではない。酒造司がイハ(石)と関係している。酒造司が用いるイハ(石)様のものは、須恵器の甑である。灰色で硬質なイハ(石)である。甑で酒米を蒸してそれを口で噛んで醸して口噛み酒を造っている。使い方としては、水を入れた甕を火にかけ、その上にそこに穴の開いた甑を乗せて蒸気を取り込み、蓋をしておいて内部に高温の蒸気をめぐらせた。だから、「酒の司 …… 石立たす」という修飾連辞が適当と言えるのである。
 この発想は、それが神功皇后とその子の応神天皇のものである点から証左とされる。新羅親征に際して、産み月を押して出征している。鎮懐石を腹に当てて行った。

 故、其の政、未だ竟へぬ間に、其の懐妊(はら)めるを産むに臨みて、即ち御腹を鎮めむと為て、石を取りて御裳の腰に纒(ま)きて、筑紫国に渡るに、其の御子はあれ坐しき。故、其の御子を生みし地を号けて宇美(うみ)と謂ふ。亦、其の御裳に纒ける石は、筑紫国の伊斗村(いとのむら)に在り。(仲哀記)

 実際にあったかどうかは別にして、お話として、赤子が生まれないようにするための石のイメージとしては、温石を当てがうのではなく、大きなお腹をまるごと包み込んでしまう形状でなければ人々に了解され得ない。そのような石は、底に穴の開いた人造の石的なもの、須恵器の甑がふさわしい。腹帯ならぬ石のコルセットでがんじがらめにしたということである。腰(こし、コは乙類)と音が通じている。須恵器焼成の技術とともに到来した技術で、瓦焼成に通じている。甑の瓦だから、河原でのアユ釣りの話に展開していっている。神功皇后と応神天皇とは、十月十日を越えてあまりにも長く一体状態であり、それは甑によって成立していたのである。穴が開いているから、足が出るし、排泄の際に着脱の必要もない。だから、仲哀記や応神紀に歌われた歌として大変わかりやすいものになっている(注7)
甑(須恵器 甑、堺市博物館、Saigen Jiro氏撮影「陶邑窯跡群TK87出土 須恵器 甑」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:陶邑窯跡群TK87出土 須恵器 甑.JPG)
 スクナミカミはスクナビコナと同一の神であろうと考えられている。

 大汝(おほなむち) 少御神(すくなみかみ)の 作らしし 妹背(いもせ)の山を 見らくしよしも(万1247)

 2神で国作りをしていた大国主神は、少彦名神が常世国へ行ってしまい、残されて途方に暮れている。また、スクナヒコノクスネは、ラン科の多年草、石斛の古名である。和名抄に、「石斛 本草に云はく、石斛〈胡各反、須久奈比古乃久須祢(すくなひこのくすね)、一に伊波久須利(いはくすり)と云ふ〉といふ。」とある。岩の上などに着生する着生植物である。その点でも、イハタタスという枕詞を冠していて確かである。岩石の上にはくっつき立つことはできるけれど、粟柄の上には着生できないから常世国へと飛ばされてしまったという話になっている。
イハタタス石斛(奥多摩地方、「今日はどこ?」ブログ様「岩壁のセッコク その2」https://ikedahisa.exblog.jp/22847227/)
 ここでは、スクナビコナとは言わずにスクナミカミと言っている。スクナミカミと言わなければならなかったのには、それなりの理由があったのであろう。神功皇后の新羅親征と切っても切れない関係が、応神天皇には存在している。朝鮮半島に関係する言葉として、食べることを特にスクと言う。柔らかく調理してすするように食することではないかとされている。いま、酒造のために米を蒸して柔らかくし、口に含んで噛んでは吐き出すことをしている。急いで口に入れては吐き出している。米を蒸す調理法も、本邦では半島からの甑とその製法の到来とともに本格的に行われるようになったと考えられている。したがって、スナクミカミとは、スク(食)+ナ(連体助詞)+ミカミ(御神)の意であると解することができる。ナは、助詞ノの母音交替形で、神社のある所、神が依り来る所をいう「神(かむ)なび」という言葉と同様の用法である。

 子麻呂等、水を以て送飯(いひす)き、恐りて反吐(たま)ひつ。(皇極紀四年六月)
 食 スク、クフ、メス/シキ、曽力(法華経単字)(注8)

 言葉の上でスクナミカミ(少御神)と対になるのは、オホミカミ(大御神)である。太子にとっては、母親の庇護のもとに忍熊王らの争いに勝利している。だから、御子(太子)にとって母親の息長帯日売命(神功皇后)は、「御祖(みおや)」たる天照大御神に当たる(注9)。その三者関係を用いて神功皇后は自らを天照大御神に擬している。そして、神功皇后(天照大御神)には、陰ながら手助けする少御神がいると主張している。それは、御子(後の応神天皇)にも、陰ひなたに手助けする建内宿禰がいることを物語るものである。宿禰という言葉は、「スクナエ(少兄)の訳。皇子をオホエ(大兄)というの対。」(岩波古語辞典691頁)と考えられている。太子がオホエ、建内宿禰がスクナエで両者が一体となって役目を果たすであろうことに準えて歌い上げている。2つで1つのセットの関係にあることは、酒と肴の関係にパラレルとなっている。両者が織りなしてこそ味わいが出る。

「酒楽の歌」とは

 これらの歌のジャンルは、記の記述の終わりに「酒楽之歌」と明記されている。これについては、サカクラノウタ(武田1956.、次田1980.、古典集成本古事記、思想大系本古事記、新編全集本古事記、中村2009.、佐佐木2010.)(注10)、サケノアソビノウタ(新校古事記)、サカホガヒノウタ(本居宣長・古事記伝、武田1943.、西郷2006.)、ミキヱラキノウタ(寛永版本、猪熊本)などと訓まれ、定説に至っていない。同じ筋書きの神功紀十三年条では、「寿 サカホカヒシ玉フ」(北野本日本書紀、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142350/21)と古訓が施されている。したがって、サカホカヒノウタと訓むと考えるのが順当であろう。「酒寿・酒祝(さかほかひ)」とは、酒宴をして祝うこととされている。それに加えて、少しく他のニュアンスを含んでいると考えられる。
 白川1995.に、「ほかひ〔寿(壽)・乞匄〕 四段「ほかふ」の名詞形。「壽(ほ)く」に接尾語「ふ」のついた形。その連用形であるから、ヒは甲類である。神をことほぎ、祈ることばをとなえることによって、幸いを求めること。」(674頁)、「ほく〔祝(祝)・寿(壽)・呪〕 四段。祝い言をとなえて神に祈る。神をほめたたえることによって、そのことが実現するように、ことばの呪能に訴えることをいう。「ほかふ」(四段)は「ほく」の再活用形である。」(674~675頁)とある。すなわち、言葉と事柄が一致するものとした言霊信仰において、言葉→事柄へとコト(fact)を移行させようとする行いが、ホクこと、ホカフことである。ここで、ホクことをしているのは少御神であり、その少御神が御酒を奉り来ったと神功皇后は歌っている。そうして太子を迎えている。
 サカホカヒと言うからには、サカ(酒)のことが関係するホカヒであることばかりでなく、サカ(坂・境)のことやサカ(逆)のことに関係するホカヒであるという含意が述べられていると考えられる。無文字時代の音声言語にあっては、いかなる誤解をも含み記していることが伝達を確実にさせるからである。これと似たような状況に、景行記の倭建命(日本武尊)が東征後に立ち寄った酒折宮の事跡がある。坂を越えて東国との境から内国に戻り、宮に入り、逆に自らが蚊帳という檻のなかにいるがために蚊に刺されずに酒が飲めるところという意味である(注11)。仲哀記(応神紀)でも、禊のために角鹿へ行っていたのが還ってきており、平城山の坂を下りてきている。また、ホカヒするのは本来、神に乞うことだから、人→神であるはずが、少御神が乞う形になっており、神が人に酒を献っており、立場が逆転している。これは、サカホカヒゆえの話である。
 だから、記39歌謡において、「少御神の 神寿(かむほ)き 寿き狂(くる)ほし 豊(とよ)寿き 寿き廻(もと)ほし 奉(まつ)り来(こ)し 御酒ぞ」と歌っている。ホク(寿・祝・呪)こととは、祝い言をとなえて神に祈ること、すなわち、言葉を発して音声として唱えることを言っている。上に、甑である旨を記した。甑は蒸し器である。シューシューとけたたましい音声を立てて高温を保って中に入れた食物を加熱調理していく(注12)。その音声の激しさ、蒸気のめぐるさまを、「寿き狂ほし」、「寿き廻ほし」と表現している(注13)。甑から狂ったように大音声を上げさせ、廻るように大音声を上げさせている。うまい具合に強力に米を蒸している。酒造法の第一段階を述べているのである。酒はむかし粢(しとぎ)から造られたことがあるとされている(注14)が、そのような造り方ではなく、蒸し米を口で噛んで造ったと言っている。歌謡は、そのやり方で造った酒をもたらしたと歌っている。まさに神業に等しく、ゆえに、少御神が奉ったものであると言っていて正しいと知れる。
 そのことは、次の記40歌謡においても同様である。神功皇后(「其御祖息長帯日売命」)はうまいことをいうなあと感心して、その発想に乗っかって武内宿禰命が御子の代わりに答えている。「その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも」を、新編全集本古事記に、「その鼓を臼のように立てて、歌いつつ醸したからか、舞いつつ醸したからなのか、」(255頁)と訳している(注15)。酒を醸造するにあたって用意するのは、鼓ではなく臼の方である。臼を鼓に見立てることはあるであろう。それを逆転させて、「その鼓 臼に立てて」とあたかもそうであるかのように語(騙)っている。サカ(逆)ホカヒ(寿)だからである。
 ここで、「臼」はくびれのある臼である。わざわざそれを持ち出しているのは、米を臼に搗いて脱穀したという当たり前の事情を連想させるためである。杵で臼を搗く際、杵歌を歌いながら拍子をとって搗くことが多い。1つの竪臼を数人が取り囲んで一緒になって搗くのである。人が互いにあわせながら杵を上下させる様は、舞いの様子によく等しい。紀33番歌に、「醸みけめかも」と異同がある。「けむ」は伝聞で、「けり」は過去を表す。同じ過去を表す助動詞「き」との違いは、「き」が「確実に記憶にある」(岩波古語辞典1440頁)のに対して、「けり」は「そういう事態なんだと気がついた」(同)という意味を表す点である。「醸む」はカムことが発酵を促すことから醸造することをいう。記40歌謡は、この御酒を醸造したという人は、……歌いながら醸造したということだったのだなあ、舞いながら醸造したということだったのだなあ、」という意味である。誰が気づいたか。それは、神功皇后の巧みな比喩表現の歌によって、御子が気づいたということを建内宿禰が代わりに歌っている。だから、問答歌として機能している。記39番歌では酒米を蒸す工程が歌われ、それを聞いて、その前段階の酒米を脱穀する工程に気づきを得ている。工程が前後するのも、それがサカ(逆)ホガヒであるからである。
鼓(一遍聖絵、「広報ふじさわ2015年9月25日号」http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/sumafo/khf-s150925/sisei19_s.htmlをトリミング)
臼(直幹申文絵詞模本、源朝臣武智良写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541034/10をトリミング)
 どうしてそこに意識が向かったか。鼓と臼とは形状が似ているが、鼓には皮が張ってある。歌の流れでは、横向きの鼓の皮を剥いで縦向きの臼に仕立てて立てたということになる(注16)。御子(太子)の名はホムタであった。ホムタは鞆(とも)のことをいう。「上古(いにしへ)の時の俗(ひと)、鞆(とも)を号(い)ひて褒武多(ほむた)と謂ふ。」(応神前紀)。鞆は、弓を射るときに左手首に装着し、自らが弾いた弓の弦で怪我をしないようにする防具である。皮革製で、なかに詰め物をしていたようである。彼はその名を負っていたから、皮を張ったものが自らと同類として意識されていたのである。一皮剥けたものが臼と同等の形として文字通り立ち顕れた。
 ホムタという名にして「入鹿魚(いるか)」と名の交換をしたという話になっていたが、それは、蚊が血を吸ってその口先が、自らが吸って膨らんだ血でいっぱいの腹に向いた形に準えられる。イルカ漁に、血にまみれることとも相俟っている。鞆のような形をしていて中身が入っているものとしては、イルカほど大きくはないものに魚のカワハギがいる。皮をまるごとつるりと剥ぐことができる。カワハギの仲間に、ウスバハギ、別名、ウチワハギ、ハゲとも呼ばれる魚がいる。西日本でよく食されている。ウスバハギは鼻先が毀った形が特徴的で、体は膨らみ尾に向かって細くなっている。サイズ的には鞆にするのにちょうどいい。話をぐるりと転回すれば、ウスバハギの皮を剥げばウスが出てくるということになる。言葉のなかに秘められていた。この魚は遊泳力が乏しく、冬場に海が荒れると浜に打ち上げられることがあるという。角鹿の浜に朝行ってみると、「我に御食(みけ)の魚(な)給へり」という事態になっていて不思議でない種である。
左:鼻を毀てるようなウスバハギ(株式会社アルカン イメックス事業部「ウスバハギが豊漁です」https://e-imex.co.jp/2020/10/23/%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%8F%E3%82%AE%E3%81%8C%E8%B1%8A%E6%BC%81%E3%81%A7%E3%81%99/)、中:ウスバハギの皮剥き(「へんてこえ日記」様http://sake.pupu.jp/hentekoe/outdoor/fishing/2016/01/11/post-7244/)、右:鞆(正倉院宝物復元模型品、橿原考古学研究所附属博物館展示品、左右反転画像)
 そして、「あやに転(うた)楽(だの)し ささ」とある。ウタは転(うたた)と同源、はなはだ、とても、の意である。原義は転回である。コペルニクス的転回ほどに楽しいと喜んでいる。サカホカヒにして逆に言寿かれた形になっているので楽しいとしか言いようがない。最後の「ささ」はさあさあと勧める感動詞であるが、名詞で植物のササのことでもなる。篠(笹)(ささ)に酒を振りかけて戸外に置き、そこへ蚊を集まらせて人家に入れない方策がとられていた。和漢三才図会に、「酒を篠(ささ)の葉に灌ぎて傍隅(かたすみ)に挿さば、則ち蚊は皆其の篠に集まる。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569733/23)とある。旅程を終えて宮に入ることは、安心して飲酒できる環境が整うことに当たる。内外が逆転することを表すのに、「ささ」という掛け声が効果的なゆえに用いられている。言葉の使用において、その多重性、深みまで思いを致すことで、真の理解に至ることができた。

まとめ

 以上述べてきたとおり、酒楽歌とされる記39・40歌謡、紀32・33歌謡は、米を蒸して口噛み酒を造っていたことをもとにして歌われた歌である。別にあった歌、独立歌謡として存在した宮廷歌謡が説話に挿入されたのではなく、このお話の筋立てに従って忠実に作り上げられた歌謡である。このように記紀歌謡は、単独で歌謡としてあったことはなく、説話のなかにその限りにおいて成り立つものである。したがって、上代において散文と韻文とは、趣向こそ違え、ヤマトコトバの表現方法として言と事の一致を同じく目途に用いられており、言霊信仰の高みに達せんと欲していたと言えるのである(注17)

(注)
(注1)拙稿「古事記の名易え記事について」参照。記に詳しく、紀では上に記したように事情を伝えるのみである。

 故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾に言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)

(注2)先行研究に、理由づけをしたいがために、儀式にかかわることと把える傾向が見られる。土橋1972.は、この酒をめぐる唱和の歌を、神が造った酒を勧める勧酒歌、その酒を受ける謝酒歌の対であると捉え、「酒宴の目的を歌う儀式的な歌」(176頁)とする。中西2007.は、「息長帯日売命が醸んだ待酒(まちざけ)とは、歓待の酒という意で、即位に必要な儀礼である。……巡行を終えた人間が大和に帰ってきて即位する。それに先立ち、待ち受けて酒を飲むという儀式があったと考えたい。それを、後にも行われたであろう酒楽歌(さかくらうた)(さかほがい)をもって語るのがこの話である。ここにいう「石(いは)立たす少名(すくな)御神」はかつて飛鳥に出土した石神を想起させる。酒楽の中心となる石造物であり、待酒もこうした場で行われたであろう。」(197~198頁)とする。倉塚1986.は、「待酒」の」「マチには待つの意だけでなく、呪的な予兆の意もあるから、 巫女的性格をもつ母にふさわしく、成人して帰ってくる太子を呪的に予祝するための酒でもあったのだろうか。」(84頁)とする。久富木原1991.は、「酒楽歌はただ単に成人を祝うものではなく、即位を記念する歌という意味ももつ」(12/15)とする。猪股2016.は、「人と人ならざる存在との間の境界を横断し、超え、人と人ならざる存在との動作が連続する場を現出させるためにこそ、「御歌」と「答歌」の歌い合いが行われる。」(129頁)とする。
 基本は人間の本性である。花田1976.は李劼人を引いている。「かれは「働かざる者食うべからず」とはいわないであろう。なぜなら、食わんがためには―とりわけ、うまいものを食わんがためには、人は、すすんで働くものだということを、ちゃんと承知しているからだ。」(246頁)。
(注3)酒の首長、御酒の司、酒造りの司、酒をつかさどる長といった似たり寄ったりの考えが多い。森2016.は、「酒造りの場で働いていた諸々の者たちが自らの司(かみ)としてまつったもの」(148頁)とするが、具体像としての司(かみ、ミは甲類)と抽象化した神(かみ、ミは乙類)とをない交ぜにしている。
(注4)土橋1972.に、「この神酒は 我が神酒ならず」とあるのは「日常的な物を神聖化する呪詞の慣用型。」(170頁)とするが、海外の例などから類推されたものである。酒が日常的な物か、また、酒にうまい酒とまずい酒の違いはあったにせよ、聖なる酒と俗なる酒があると考えられていたのか、本邦古代の人の心性は明らかではない。
(注5)廣岡2005.に、「枕詞とは一体何なのであろうか。なぜこういう表現様式が起こってきたのであろうか。枕詞は修辞の一種であると言うことができるが、その起源となるとむつかしい。……言語遊戯としての枕詞を考えてみたい。私がいう「言語遊戯」とは概念が広くて、同音・類音の懸詞・繰り返しから、比喩・形容・連想・転用、更には説明表現までをさす。その基底に流れる言語意識は、正面から構えた表現ではなく、「言葉遊び」としての性格を帯びる。だからと言って、この「言語遊戯」が不真面目な表現を意味するものでは決してない。古代口承世界における自由な言語活動のありようであったと考えられる。」(355~356頁)、「『萬葉集』において孤例の枕詞が一九六例、二例の枕詞が六五例(計二六一例)存在し、『萬葉集』中の枕詞三九八例中、約六五パーセントを用例数僅少の枕詞が占めている……。……新たな言葉の技は徐々に展開されていったものと思われる。それを言語芸術と呼ぶのは余りにも大袈裟である。ささやかな局所的連接の言葉の綾という形で、後世呼ぶところの枕詞は形成されていったものと考えられる。」(375頁)とある。また、大浦2017.に、「「枕詞は訳さない」でいいのか、というテーマに対する答えであるが、訳したくても訳せない、というのがその答えであろう。それは「意味がない」からではない。意味が不明のものも含めて、「意味が分厚すぎる」ゆえに訳せないのである。」(8~9頁)とある。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「○伊波多々須(イハタヽス)は、石立(イハタヽ)すなり、多々須(タヽス)は、多都(タツ)を延たるにて、……立(タチ)賜ふと云むが如し、……常盤(トキハ)に坐ス意におつめり、寿歌(ホギウタ)なれば然(サ)もあるべきことなり、……常世ノ国に於(オキ)て其ノ御霊(ミタマ)の石(イハ)にて立(タチ)賜ふにもあるべし、【又常世ノ国に坐(イマス)とは、此ノ神の大凡(オホヨソ)を詔ひ、石立(イハタヽス)は、皇国にて処々に御像石(ミカタイハ)にて立チ給ふことを、詔へるにもあるべし、又とこよにいますを、常(トコ)とはの意とするときは、 石立(イハタヽ)し常世に坐(イマ)すとつゞく意にて、御像の石にて立チ給へば、常(トコ)とはに坐ス云にもあるべし、 ……】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/234)とある。
(注7)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注8)筆者は、垂仁記の天之日矛説話の牛の「飲食」についても、スキモノと訓むと考えている。拙稿「古事記の天之日矛の説話について―牛を中心に―」参照。
(注9)拙稿「額田王の春秋競憐歌について」参照。
(注10)サカクラという訓みは、平安時代に成った琴歌譜の「十六日節酒坐歌二」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438600/21~23)にほぼ同じ歌が所載するところから唱えられている。賀古1985.参照。筆者は、「酒楽歌」(仲哀記)とある点から、「琴歌譜」の編者は、古事記に対しテキストクリティークをしていたとは考えない。
(注11)拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注12)近世以降の酒造りの大量生産に当たっては、大型の木製甑が使われた。その際、圧力で樽様に作られた甑が破裂しないよう、また、温度を保ち内部の蒸し米がベタつかないように縄がめぐらされて縛られている。それぞれの杜氏の手による独特の結い方であるという。甑の底の穴にはサルと呼ばれる蒸気弁が付帯するようになっている。
甑(月桂冠大倉記念館展示品)
 記39歌謡の「少御神の 神寿き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻ほし 奉り来し 御酒ぞ」部分について、「少名毘古那の神様が、無性やたらに祝ひなされ、幾度でも繰返し祝つて、献つてよこした御酒なのです。」(古典全書本古事記160頁、漢字の旧字体は改めた。)、「少彦名の神様が、神様ながら祝いつくして献上してきたお酒です。」(武田1956.104頁)、「少名彦(すくなびこ)の神様が、寿ぎのために踊り狂い、踊りまわって醸し、献上してこられた御酒でございます。」(土橋1972.169頁)、「少名毘古那の神様が、熱狂的に寿ぎ、滅茶苦茶に寿ぎ廻はして、造つて遙々常世の国から献上して来たお酒です。」(倉野1979.311頁)、「少名御神が 祝福し 祝福して踊り狂い (豊寿き) 踊り回って醸し 献上してきた由緒ある御酒です」(古典集成本古事記182頁)、「スクナヒコナノ神が、祝福して狂い踊り、踊り回って醸(かも)して、献(たてまつ)ってきた御酒(みき)です。」(次田1980.199頁)、「少名彦(すくなびこ)の神が 祝いに祝い 踊り狂い、祝いに祝って 踊り回り、献上して来られた 御酒です。」(大久保1981.97頁)、「少御神が祝福をつくして醸して、献ってきた酒である。」(思想大系本古事記204頁)、「少御神(すくなみかみ)が、大いに寿(ことほ)いで踊りまわり、神々しく踊り狂って醸して献上してきた酒です。」(新編全集本日本書紀449頁)、「少御神(すくなみかみ)が、祝福のために踊り狂って醸し、祝福のために踊り廻って醸して、献上してきた御酒です。」(新編全集本古事記255頁)、「少名毗古那神(すくなびこなのかみ)が 自(みずか)ら祝福し 踊り狂って祝い醸し 自ら祝福し 酒槽(さかふね)廻(まわ)って祝い醸し 献上してきた これがその御酒」(中村2009.375頁)、「少名御神が、祝福して踊り狂い、祝福して踊り回って【醸して】、献上してくれた御酒です。」(佐佐木2010.57頁)、「スクナミカミが、(我々酒造りの者たちを)熱心に歌舞させ酒臼の周りを取り囲ませて、大切に寿ぎまつってきたお酒なのです。」(森2016.163頁)などと訳されてきた。また、西郷2005.は、「酒の神少名御神が寄り来り、神がかり状態になって人びとを舞い狂わせ甕のまわりをくるくる廻らせて醸した酒と解すべきではなかろうか。」(250頁)としている。
(注13)土橋1972.に、「ここは酒を醸す時に酒甕のまわりで踊り狂い、歌舞の力を酒に感染させて醱酵を助けることをいうのである。「狂ほし」は狂わせる意、「廻し」は廻らせる意の、いずれも他動詞で、「酒」を「狂わせ」「廻らせる」意。実際は歌舞する人が「狂ひ」「廻る」のであるが、観念の上では、そうすることによって酒を「狂ほし」「廻す」のであり、具体的には酒をぷつぷつとよく醱酵させることである。だから元気よく踊れば踊るほど酒の出来がよい」(172~173頁)、西郷2006.に、「「狂ほし」「廻(モトホ)し」はクルフ・モトホルの他動詞だから、少名御神じしんが踊り狂い踊りまわる意ではありえない。……ここはやはり、酒の神少名御神が寄り来り、神がかり状態になって人びとを舞い狂わせ甕のまわりをくるくる廻らせて醸した酒と解すべきではなかろうか。そう解して始めて、「この御酒(ミキ)は、我が御酒ならず・・・・・・・」という句が真に生きてくる。つまり「神寿(カムホ)き、寿き狂ほし、豊寿き、寿き廻し」は、旋回しながら酒を醸すさまをいったものである。クルフ (狂)が回転することに関連する語であるらしいのは、クルマ(車)、クルメク(独楽のまわるさま)、クルル(枢、戸をまわす仕掛け)、クル(刳、回転させてうがつ)などからも容易に推測できる。」(250頁)といった説が述べられている。他の諸説については、森2016.に整理されている。
(注14)上田1996.、上田1997.参照。
(注15)他の訳に、「その鼓を臼に仕立てて醸したからでせうか、(そしてそれを打ちながら)歌つたり舞つたりして醸したからでせうか、」(古典全書本古事記161頁)、「その太鼓を臼にして、歌いながら作ったからか、舞いながら作ったからか、」(武田1956.106頁)、「鼓を臼のように立てて、歌いながら、踊りながら醸したからであろうか、」(土橋1972.177頁)、「その鼓を(酒を造る)臼の側に置いて、(その鼓の音に合せて)歌ひながら醸したからであらうか。舞ひながら造つたからであらうか。」(倉野1979.312頁)、「(その鼓)臼として立てて 歌いながら 醸造したからか 踊りながら 醸造したからか」(古典集成本古事記182~183頁)、「その鼓(つづみ)を臼(うす)のように立てて、そのまわりを歌いながら醸したからであろうか、踊りながら醸したからであろうか、」(次田1980.199~200頁)、「鼓(つづみ)をば 臼として立て 歌いつつ 醸したからか、舞いながら 醸したからか、」(大久保1981.100頁)、「鼓を臼のように立てて、歌舞しながら醸したからであろうか、」(思想大系本古事記204頁)、「その太鼓を 臼(うす)の上に立てて 歌いながら 醸したからか 舞いながら 醸したからか」(中村2009.375頁)、佐佐木2010.に、「自分の鼓を臼のように立てて、歌いながら醸したからなのか、踊りながら醸したからなのか」(58頁)とある。
(注16)釈日本紀に、「師説、古時臼辺立皷、以其鳴声杵歌也。」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100223819/viewer/421、句読点と返り点を施した。)とあるが、精米の歩合のことを指定することはないから、直ちに酒造と結びつかない。
(注17)記紀に即さずに考えるアプローチも歴史学や神話学には見られる。一例として、川崎2018.に、神仙思想による解釈が載る。「この酒楽歌には不死の世界である月(常世国)で、白兔(はくと)(少御神=少彦名命)が搗いた不老不死の仙薬(酒)を飲み干してくだされと構想されていることが知られるのである。答歌に「その鼓臼に立てて」とあるのも、白兔が仙薬を臼で搗く所作により、その霊妙性・神聖性を象徴的に表現したものであろう。根底に白兔が仙薬を臼で搗くという神仙思想があることを読み取ることによって初めてよく理解できる。」(57頁)とある。少御神が白兔であることの証明や、変若水(をちみづ)の信仰のない理由、月を常世国と認めていたとする本邦での文献について説明されない。文献は言葉で書いてある。

(引用・参考文献)
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額田王の春秋競憐歌について(万葉集16番歌)─附.中大兄論─

2020年12月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
額田王の春秋競憐歌

 万葉集の16番歌は、額田王の春秋競憐歌としてよく知られている。新大系文庫本万葉集により訓読と訳を示し、原文も添える。

 近江大津宮あふみのおほつのみや宇御あめのしたをさめたまひし天皇すめらみことみよ 天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことおくりなして天智天皇てんちてんわう
 天皇てんわう内大臣ないだいじん藤原朝臣ふぢはらのあそみみことのりして、春山万花しゆんざんばんくわうるはしきと、秋山千葉しうざんせんえふいろどれるとをきそあはれましめたまひし時に、額田王ぬかたのおほきみの、歌を以てこれをさだめし歌
16冬ごもり 春さりれば 鳴かざりし 鳥もきぬ かざりし 花も咲けれど 山をしみ りても取らず くさふかみ 取りても見ず 秋山あきやまの の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ あをきをば きてそなげく そこしうらめし 秋山そあれ

(冬ごもり)春がやって来ると、今まで鳴かなかった鳥も来て鳴きます。咲かなかった花も咲きますが、山が茂っているので山に入って取ることもせず、草が深いので手に取って見ることもありません。しかし秋山の木の葉を見ては、赤く色づいたのは手に取って賞()でます、青いのはそのままにしてため息をつきます。その点が何とも残念です。秋山こそよいと思います、私は。(66~67頁)

  近江大津宮御宇天皇代天命開別天皇謚曰天智天皇
  天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
 冬木成春去来者不喧有之鳥毛来鳴奴不開有之花毛佐家礼杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曽思努布青乎者置而曽歎久曽許之恨之秋山吾者

 この歌は一般に、春の山の花を美しさと秋の山の葉の美しさと、どちらが趣深いものであるか漢詩を作らせた宴のあと、額田王が歌で裁定を下したものであるといわれている。題詞にあるに「春山万花の艶と秋山千葉の彩とを競ひ憐れ」むことが詩会の題であり、天皇によって内大臣、藤原(中臣)鎌足に提示されたという。新大系文庫本万葉集校注に、「春を秋とを比較して優劣を競うことは、後の和歌にも、「春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる」(拾遺集・雑下)などと詠まれるが、中国の詩文には類例が見られない。額田王の歌の前に男性官人の漢詩の応酬があったことを想像する説があるが、中国の詩文に例のないそのような趣向が、当時の日本人の詩に詠まれた可能性は小さい。そもそも、中国古代の詩文では秋はもっぱら悲傷すべき季節とされ、紅葉の美の表現も見られない。」(67頁)とある。
 この説明は、小島1964.に、文選の潘岳(安仁)・秋興賦に、「冬はきて春は敷くに感じ、夏は茂りて秋は落つるをなげく」とあるのをあげて、「額田王の春秋優劣の判定には、中国的なものが陰にあつたのではなかろうか。」(895~896頁、漢字の旧字体は改めた)とする推測が独り歩きしたことへの反省であろうか。画題に春秋を対にしたものがあり、春秋の具体的な事物をもって比較している。それがいつ頃からあるのか不明である。大和の内山(天理市)永久寺真言堂にあった両部大経感得図は、善無畏金粟塔下感得図が桜、柳、鵜を描いて春を、龍猛南天鉄塔内相承図が紅葉、秋草を描いて秋を表現している。もちろん、大日経と金剛頂経の由縁を描いているものであり、春秋を競い憐れむことが念頭にあるわけではない。
(両部大経感得図模、原画は藤原宗弘筆、藤原定信賛、保延2年(1136)、藤田美術館蔵。大進美術株式会社HPhttp://www.daishin-art.com/photo/sect_07_a.php?post_id=3102)
(春秋花鳥図屏風模、原画は土佐光起筆、江戸時代、17世紀後半、頴川美術館蔵。楽天市場「アートユーラシア」https://item.rakuten.co.jp/auc-eurasia/nh88_40x160_130415/)
 歌の語り口をどう捉えるかについては、諸説ある。かつては、犬養1956.に、「両者[春秋]喜憂の流れを図示すれば、左の如くとなる。
{
 憂→喜→憂→歓喜の岡
 喜→憂→喜→落膽の谷

 春に心を寄せる者も、秋に心を寄せる者も、心情発展の漸を遂うて一喜一憂、全く飜弄され通しで、しかも両者に一刻たりとも緊張をゆるめる時を与へず、最後のせりあげ・・・・……に持つてゆく呼吸、寸分隙のない構成となつてゐる。私はこの歌を、かやうに見て来て、さきに述べた心情表現の在り方も、必ずや第三者への反応と効果を充分考慮のうちに入れて、構成されてゐると思ふし、また、この歌の成立事情も窺へて来るのではないかと思ふ。かくて、この歌の心情表現は、表現の内面的心理関係の理解の上からも、第三者を意識しての構成の上からも、両者符節を併せて、緊密なる関聯を保ち、しかも女性的情感あふれる巧緻なる表現構造を見せてゐるといふべきである。」(20~21頁、漢字の旧字体は改めた)という捉え方が注目されていた。
 今日の大勢としては、毛利1999.に、「歌を詠みあげるにあたっての「春山」と「秋山」、「春山の万花」と「秋山の千葉」とのあり方や比重の置き方、また春の描写に感情のこもった表現がみられず、秋にのみ記され秋への思い入れのおのずと現れているところなどを眺めてくると、王の歌は、「迷い」をもって詠みあげているようにみえて実はそうではなく、また聴き手を十分意識しみずからの判定を結句まで明かさないといった叙法をもちながらも非論理的な歌なのではなくて、春よりも秋が優るとする結論、即ち「秋山我は」は最初から作者の意識のなかにあったとみて差し支えなく、歌全体の構想がその結論にむかって収斂していく論理性をそなえた歌であると受け止めてよいであろうと考えられるのである。」(128頁)とするのに同調している。
 上原1984.に、「「恨めし」は『時代別国語大辞典』によると、「恨めしい。うらみに思われる。残念である」の意味をもつ。万葉集における他の用例は、次の通りである。……[494、794、2007、3346、3788、4496]……。ここにあげた六例は、憎悪・嫌悪といった強い意味を表わすものはなく、……恨めしく思いながらも、裏返せば感識の情になりうる場合もある。……共通していえることは「憎し」「厭はし」と異なり、感情の程度こそ弱いが、その気持は長く尾を引くような、いわば恨めしく思う対象への執着が感じられる。つまり恨めしく思うことによってその陰にあるものとの関係を保とうとする意識が働いているといえよう。これを一六番歌にあてはめて考えてみると、「青きをば 置きてそ歎く」とするのは完全な否定ではなく、むしろそこにこそ執着があり、作者を秋へとひきつける根拠となりえたのである。」(56頁)とあって、「恨めし」一語の捉え方によって、歌い回しの意味合いがまるで正反対に捉えられるとしている。
 たしかに、歌のなかに「秋山」は二度も出てくるのに「春山」はなく、春を描写したところにはテーマに見られない「鳥」も登場し、心情のこもった表現が見られない。しかし、万16番歌の「恨めし」とは、「青きをば 置きてそ歎く」ことを否定できないことが恨めしいと言っているのに過ぎないのではないか。無いことにしたいのであるが、有るから気になって仕方がない。それが恨めしい、すなわち、「そこし恨めし」なのである。
 また、長歌の言葉の並びの展開については、「味酒 三輪の山 ……」の歌い出しで名高い万17番歌と同様、口承による作品であって、対句を徐々に崩しながら流れるような構造になっているとの指摘も行われている。筆者には、やまと歌の長歌に、きれいに対句を並べるべしという様式が先にあったとは信じられない。記紀歌謡を見ても、漢籍に見られる対句に匹敵するほどきれいな対句列を築こうとする姿勢は見られない。議論が散乱するのでこれ以上は踏み込まないが、長歌の手法とは、三十一文字におさめてすっきりと言い切るのではなく、じりじりとじれったく説明調に言ったり、迂闊には断言できない時にまわりくどく言う時にだらだらと言葉を進めるものであったように思われる。長歌とは、端的にいえば、ぐずぐず言っている歌ということである。すなわち、この16番歌に、毛利1999.の指摘する「論理性」を見ることはできないと考える。結論から言えば、この歌は、実は、結句の「秋山吾者」、アキヤマワレハだけでいい歌と考える。上に引いた岩波新大系文庫本万葉集に、助詞のソが賀茂真淵流に訓読に追加されているが、他の諸先達同様、ソの音はないものと思われる。また、標目の「御宇天皇代」は、アメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ、題詞の「内大臣」はウチノオホマヘツキミ、「艶」はエン、「彩」はサイ、「判之歌」はコトワリシウタという旧訓に従うべきであろう。

春秋競憐歌の作歌時

 この万16番歌、春秋競隣歌が歌われたのはいつのことか。題詞に「内大臣藤原朝臣」とある。これは中臣鎌足のことである。天智八年(669)十月十五日に藤原氏を賜い、翌十六日に没、天武十三年(684)に朝臣の称号を贈られている。作歌の時期は鎌足が天智八年に亡くなる以前のことである。しかも、題詞から、詩会が催されたのは確かであろう。「春山万花之艶」、「秋山千葉之彩」とある熟語から、漢詩に関係があることに間違いない。
 伊藤1983.に、「【考】春秋優劣判定歌と場」として、「その場の様相は、題詞にほぼ明らかである。「天智天皇が、内大臣(元老に与えられた呼称)藤原鎌足に命令して、春山に咲き乱れる万花のあでやかさと秋山の千葉のいろどりと、それぞれの興趣について争わせた時に、額田王が歌によって判定した」という。「歌をもちて」とことさらことわっているのは、漢詩による競争があったからである。天智天皇が上座にいる。そのかたわらあたりに女性たちがいる。大海人皇子も列席して天皇と並んでいたかもしれない。対して、下座に廷臣たちが、おそらく春側と秋側とに分れて並んでいる。その最上席に高く坐る鎌足にれんきそう命令が下される。廷臣たちは漢詩をもって争う。しかし勝負がつかない。その時、最後に、額田王が「歌」によって判定を下した。それが一六番歌なのである。」(80~81頁)とする。漢詩の会が和歌によって閉幕している。これは異常事態であると考えられるが、不思議がられていない。
 漢詩は宴席で詠まれた可能性が高い。中国の三国時代、魏の曹丕(187~226)の行った詩宴がモデルであるともいわれている。紀には、書で有名な東晋の王羲之(303~361)が、会稽蘭亭に開いた曲水の宴の真似をしていたことも見える。

 三月上己に、後苑みそのいでまして、曲水めぐりみづとよのあかりきこしめす。(顕宗紀元年三月)

 日本書紀は、通常、十干十二支で期日表記されている。「上巳」とあるのは、中国の風習に倣ったものである。この記事自体はあまりにも古いことなので、実際に行われたことではないと考えられている。それでも、漢詩が詠まれる席が「宴」であることを示してくれている。宴をトヨノアカリと訓むのは、豊かな酒食によって顔が赤らんでくること、すなわち、「豊明とよのあかり」に由来していて大宴会を指す。天智紀に「宴」があった箇所を探っていくと、天智七年(668)正月七日に、「宴」があったことがわかる。
 
 七年の春正月の丙戌の朔にして戊子[3日]に、皇太子ひつぎのみこ即天皇位あまつひつぎしろしめす。壬辰[7日]に、群臣まへつきみたち内裏おほうちとよのあかりしたまふ。(天智紀七年正月)

 記事は、七年正月三日に皇太子から天皇に正式に即位したとあり、それに引き続いて七日に「宴」があったとしている。人日じんじつの日の宴である。春秋競憐歌が歌われた漢詩の会はこの時に開かれたのであろうか。しかし、即位直後の、しかもお正月の詩会のお題としては似つかわしくない。正月は春であるのに結論は「秋山」である。また、本邦初の漢詩集とされる懐風藻に、天智天皇の皇子、大友皇子の詩が冒頭を飾っている。

  侍宴(宴に侍す)
 皇明光日月 帝徳載天地(皇明くゎうめゃう 日月じつげつかがやき 帝徳ていとく 天地を載す)
 三才竝泰昌 萬國表臣義(三才 べて泰昌たいしゃう 万国 臣義をあらはす)

 詩の意味は、天皇のご意向は日月のように光り輝き、御徳は天地のように広く万物を覆い載せたまう。天・地・人の三才は皆やすらけく盛んで、よろずの国々は臣下として恭順の意を示している、というものである。
 懐風藻には、もう一首、大友皇子の詩が載る。

  述懐(懐ひを述ぶ)
 道徳承天訓 塩梅寄真宰(道徳 天訓を承け 塩梅 真宰に寄す)
 羞無監撫術 安能臨四海(羞づらくは監撫の術なきことを いづくんぞ能く四海に臨まん)

 日本書紀では、天智十年(671)条に次のようにあるから、大友皇子の詩はその時に作られたものかもしれない。

 是の日[5日]に、大友皇子を以て太政大臣おほきまへつきみのおほまへつきみす。(天智紀十年正月)

 これらの詩が上手なものであるかどうか判断できるものではない。懐風藻の序には、壬申の乱以前、文学の士を招いて酒宴の席で多数の君臣唱和や侍宴応詔の詩が作られたが、焼けてしまったと記されている。天智天皇自身、漢文を作ったとあるが、残されていないのだからかなり眉唾物である。彼の読み書き能力リテラシーがどれくらいあったか筆者は疑問視している。かわいい息子の大友皇子が、当時においては比較的上手に漢詩を作って一目置かれたために採られて残っているだけではないか。いずれにせよ、「侍宴」という詩は、詩の題や内容からいって、天智天皇即位直後の天智七年正月七日人日の「宴」で作られた可能性が高い。「春秋競憐」はそのときの詩会の題ではなかったらしい。
 では、「競-憐春山萬花之艶秋山千葉之彩」の詩題で営まれた詩会の記述がないか、もう少し日本書紀にあたる。天智紀に、「宴」の記述があるのは、他には次の二例である。

 又、舎人等とねりどもみことのりして、うたげ所所ところどころにせしむ。時の人曰く、「天皇、天命将及みいのちをはりなむとするか」といふ。(天智紀七年七月)
 五月丁酉朔辛丑、天皇、西小殿にしのこあんどのに御します。皇太子・群臣、宴に侍り。是に再び田儛たまひおこす。(天智紀十年四月)

 「競-憐春山萬花之艶秋山千葉之彩」の詩題は内大臣、藤原(中臣)鎌足に下されている。鎌足は、天智八年十月十六日に薨っている。したがって、天智十年の田儛を催した宴ではない。万16番歌と対応する紀の「宴」記事は、上の「又、舎人等……」ではじまるかなり奇妙な記事に該当するのではないか。日本書紀に記されていない詩「宴」の可能性はもちろんあるが、「又、舎人等……」の時の「宴」であると仮定してまず検討するのが歴史研究として筋であろう。
 舎人とは、もとは天皇や皇族に側近く仕えた従者を指し、身辺の護衛や雑務にたずさわった。律令制下では、兵衛、内舎人、大舎人、東宮舎人などと、役職や仕える相手によって細分化規定されている。ここでは下級官吏のことを指しているものと考えられる。つまり、「宴を所所に」したとあるのは、下っ端の役人が宮殿やその周辺のあちこちで、芋煮会かバーベキューをしていたものと想定される。
 日本書紀に万16番歌に該当する宴はこれだけであるから、これが「春秋競憐」の詩会の宴であるとして考えてみる。舎人たちは、「春秋競憐」の題で詩を作るように命じられ、バーベキューをやっている。このような珍事があると、「時の人」はもうお終いだと思うかもしれない。万葉集の題詞と天智紀の記事が符合している。天皇は最初、内大臣の中臣鎌足に詔して漢詩を作らせようとした。周辺に近侍している群臣、皇子、文学の士を自認している者もあわせて、せいぜい20~30人ぐらいであったのではないか。
 ところが、天皇の出したお題にまともに詩で答えられる者がいない。それは、漢詩の技術的なレベルの話ではなく、どこか天皇の意図した答えとは違う詩ばかりが作られた(注1)か、誰もが自ら発表するのを躊躇ったということではないか。天皇は、側近たちのあまりの不甲斐なさ、空気の読めなさに落胆し、宮廷にいる下級官吏にまでそれぞれの持ち場で詩会を営ませた。最終的に、誰一人として満足な詩を作る者がいなかった。なぜ誰もわからないのか。天皇は苛立ったことであろう。そこでやむなく、伝家の宝刀、額田王に登場願ったのである。詩題を出しているのに、詩では答えられず、やまと「「歌」を以てことわりし「歌」」が作られた。とんでもない詩会の結末である。天智七年秋七月、近江宮のことであった。

春秋競憐歌の題詞

 題詞によると、額田王が「歌を以て判りし歌」とあり、いかにも額田王による裁定が下されたように見える。しかし、初期万葉の原則どおり、額田王は、宮廷社会の共通認識、共通感覚を歌によって宣言(宣伝)したものと考えられる。歌からすれば、天智天皇の代詠と考えて間違いない。額田王は政府のスポークスマンなのである。すると、天皇は詩会の題として、「春山万花之艶」と「秋山千葉之彩」とを「競憐」させて尋ねておきながら、天皇自身が判定していることになる。天皇は、「春山万花之艶」と「秋山千葉之彩」とを「競憐」してみたとしたら、朕がどう考えるか当てて見よと問うているのである。答えは初めからわかっている。
 これは不思議なことではない。額田王の歌の内容が最初から「秋山」一辺倒に軍配を上げながら進んでいるからである。歌はこの一首のみ、反歌はない。歌い切られている。答えが決まっているものに、反歌で追加説明するほど野暮なことはない。
 問いは「内大臣藤原朝臣」に対して投げかけられた。それは、理由があってのことであろう。万3・4番歌の「狩りの歌」の題詞に、「間人連老」とあって、意味のある使者の役割を担っていたことが確認されている(注2)
 「大臣藤原朝臣・・」とあるのを見れば、言い伝えの文化のなかに暮らしていた飛鳥時代の人々にとっては、「うち朝臣あそ」(紀28・29番歌)=武内宿禰たけしうちのすくねのことをイメージしていた。忠臣であったとされる武内宿禰に中臣鎌足を準えている。
 家伝上には次のようにある。

 白鳳五年、秋八月、詔して曰はく、「道を尚び賢に任ずるは先王のつねのりなり。功をあつめ徳を報ずるは、聖人の格言なり。その大錦冠、内臣うちつおみ中臣連、功は建内宿禰たけしうちのすくねひとし。位未だ民の望みに充たず。紫冠に起拝し、八千戸を増封す」といふ。

 また、続日本紀によると、慶雲四年(707)四月、文武天皇は藤原不比等に向かって、父親の藤原鎌足が先の孝徳天皇に仕えたことを「建内宿祢命たけうちのすくねのみこと」が仕え奉るのと同じようであったと公然と語っている。

 壬午に、みことのりしてのたまはく、「天皇すめら詔旨おほみことらまとりたまはく、みまし藤原朝臣のつかまつさまは今のみに在らず。けまくもかしこき天皇が御世御世みよみよ仕へ奉りて、今も又まへつきみと為て、あかきよき心を以て、われを助け奉り仕へ奉る事のいかしきいたはしき事をおもほし御意みこころ坐すに依りて、たりまひてややみたまへば、しのぶる事に似る事をしなも、つねいたはしみいかしみおもほし坐さくとりたまふ。又難波大宮に御宇あめのしたしらしめしし掛かけまくも畏き天皇命すめらみことの汝の父藤原大臣の仕へ奉りける状をば、建内宿祢命たけうちのすくねのみことの仕へ奉りける事と同じ事ぞと勅りたまひて、治め賜ひうつくしび賜ひけり。是を以てのりふみせたるをあとと為て、令のまにま長くとほく、今、始めて次次に賜はりかむ物ぞと、食封へひと五千戸いちへ賜はくと勅りたまひおほみことを聞きたまへとる」(詔2)とのたまふ。

 宣明体で書かれている。「藤原朝臣」と後に贈られた称号があっても、当時から事実上そのように呼ばれていたものであろう。あるいは、春秋競隣の詩会を境に、宮廷人にとっての「常識」として無理強いされたものかもしれない。
 武内宿禰(建内宿禰)は記紀のなかで大活躍している。記紀の間に少なからず相違点がある(注3)。ここでは記紀の話の筋を大づかみすることにする。神功皇后と応神天皇の時代のものである。
 仲哀天皇と神功皇后は、熊襲を討とうと筑紫へ赴いた。その地で皇后は神憑りする。忠臣の武内宿禰が琴を弾き、トランス状態の皇后に神のお告げを求めた。すると、新羅を帰属させよと言われた。古代には、琴の音にひかれて神が影となって依り憑くと考えられていたらしい。しかし、その言葉を仲哀天皇は真に受けなかった。よって、神の怒りを買って亡くなってしまう。人々は畏怖して贖罪の品々、ぬさを神に捧げた。すると今度は、いま皇后のお腹のなかにいる御子が国を治めるべきであると告げた。神のいうとおりに軍を整え、臨月のお腹に石を当てて産まれないようにして出兵したところ勝利した。筑紫国へ帰ると御子が生れたので皇太子にした。後の応神天皇である。
 ところが、大和へ凱旋しようとすると、都の情勢があやしい。皇后側は喪船を用意して、皇太子はすでに死んだように見せかけた。すると、皇太子の異母兄に当たる麛坂王かごさかのみこ(香坂王)と忍熊王おしくまのみことは謀反を起こしていた。二人は戦いに勝ち目があるかどうか知るために、「祈狩うけひがり(うけひ獦)」をした。古代の占いの一種である。先に結果を誓っておいて、そのとおりになるかならないかで将来予測をしたものである。
 言と事とが一致するとする言霊信仰の賜物である。このとき二人の王は、ウケヒをしている。別のことで前言しておいてそのとおりになるなら、本題でもその願うとおりになるという占い法である。

 時に麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこ、共に菟餓野とがのでて、祈狩うけひがりして曰はく、祈狩、此には于気比餓利うけひがりと云ふ。し事を成すこと有らば、必ず良きししを獲む」といふ。(神功紀元年二月)

 そのとき、大きなイノシシが出てきて、麛坂王を食い殺してしまった。これは悪い兆である。しかし、慎むことなく忍熊王は戦いを挑んだ。皇后・皇太子側は、武内宿禰らが軍事を司った。武内宿禰に追い詰められて、忍熊王は近江の瀬田川に投身自殺げした。そのとき辞世の歌を歌っている。

 いざ吾君あぎ 五十狭茅宿禰いさちすくね たまきはる 内の朝臣あそが 頭槌くぶつちの 痛手いたてはずは 鳰鳥にほどりの かづきせな(紀29)

 「五十狭茅宿禰」とは忍熊王方の将軍である。武内宿禰の手痛い攻撃を受けないとは、ニオドリのように水に潜ってしまうことだ、と歌っている(注4)。比喩的な枕詞「鳰鳥の」が終わりの方にある切羽詰まった歌である。これを聞いた武内宿禰は応じている。

 淡海あふみ 瀬田せたわたりに かづく鳥 目にし見えねば いきどほろしも(紀30)

近江の琵琶湖の瀬田の渡し場で、潜る鳥が水中のどこにいるのか見えなくなったので心配だ、と言っている。数日して、下流の宇治川に死体が上がった。武内宿禰はもう一度歌っている。

 淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上たなかみ過ぎて 菟道うぢとらへつ(紀31)

 「田上たなかみ」とあるのは、瀬田付近の地名である。琵琶湖から流れ出る川が瀬田川で、やがて宇治川と名を変え、さらに木津川、桂川と合流して淀川になって大阪湾へ注ぐ。
 これら三つの歌には「淡海(近江)」、「鳥」という言葉が見られた。「鳰鳥の」という言葉は、枕詞として「近江」を導くことがある。以上が近江朝で歌われた万16番歌の題詞の前半に関する典故となっている。
 題詞の後半の詩題に当たる部分にも典故がある。応神記に、「秋山之下氷壮夫あきやまのしたひをとこ」と「春山之霞壮夫はるやまのかすみをこと」の説話が記載されている(注5)。秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫は兄弟の間柄である。「伊豆志袁登売いづしをとめ」という女神がいて、大勢の神々がプロポーズしてはみな振られていた。兄の秋山之下氷壮夫もその一人であった。兄は弟の春山之霞壮夫に向かって、もしお前が伊豆志袁登売と結婚することができたら、何だって呉れてやるよと言った。春山之霞壮夫はそのことを一部始終母親に話し、その晩、母は「藤のかづら」を使って衣服や弓矢を作った。そして次の日に、春山之霞壮夫を伊豆志袁登売のもとへやった。すると衣服も弓矢も藤の花に変わった。藤の花を洗面所に掛けておいたところ、不思議に思った伊豆志袁登売は部屋に持って入った。そのあとをついて行って契りを交わし、一人の子が生れた。
 帰ってきて兄の秋山之下氷壮夫に婚姻がうまくいったことを話したが、兄は約束を果たさなかった。弟の春山之霞壮夫は母親に相談した。母は、神々にならって行動しない兄を怨み、石に塩をまぶして竹の皮にくるんだ。そして、弟にのろいの言葉を言わせた。この竹の葉が青いように、妻えてしおれるように衰えてしまえ、塩に水気が奪われて干からびるように痩せこけてしまえ、石が沈むように病に臥せてしまえというのであった。兄の秋山之下氷壮夫は八年にわたって病み衰え、泣いて許しを請うた。母は呪いの石を取り除き、兄の体は元通りになったという。
 弟の春山之霞壮夫が言った呪いの言葉の最初の部分には、次のようにある。

 の竹の葉の青むが如く、此の竹の葉のしなゆるが如く、青み萎えよ。(応神記)

 「青」という語は、白川1995.に、「古くは黒から白までの中間の暗色をいい、「あをうま」は〔和名抄〕に「靑白のまじはれる毛の馬なり」、〔新撰字鏡〕にも「白色、又靑色」とする。」(99頁)と解説されるように、竹の葉っぱが干乾びて灰青色に縮れているようなことを指すようである。
左から右へ、竹の葉の「青む」&「萎ゆ」
 以上により、「秋山」、「春山」、「青」という言葉の関係性が理解された。
 もうひとつ、「千葉」の典故がある。国讃め歌のなかに、やはり応神天皇が近江へ幸するときに、宇治付近で歌った歌がある。

 千葉の 葛野かづのを見れば もも千足ちだる 家庭やにはも見ゆ 国のも見ゆ(記41・紀34)

 春山之霞壮夫が母親に作ってもらった衣服や弓・矢は、「藤の葛」でできていた。葛野と関連する事柄になるのであろう。これらの言葉は題詞に関する典故となって、額田王はそれらを踏まえて歌を歌っている。

三重の三者関係

 三つの典故の出典は、いずれも記紀の応神天皇に関連する箇所にあらわれる。その理由は、応神天皇と母親の神功皇后の間の関係に由来する。偉大なる母とその子の関係が、斉明天皇とその子の関係に準えられているのである。大和三山の歌(万13~15)でも歌われていた天智天皇(中大兄)お気に入りの三重層の三者関係が成立している。今回は、額田王による代詠という形をとっている。彼女は天皇に成り代わって、天皇の言いたいことを歌っている。
 忍熊王と応神天皇は異母ではあるが兄弟である。母は神功皇后。応神記に、秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫も兄弟である。母は、「其の母」とだけ記されている。天智天皇と「皇太弟ひつぎのみこ」の大海人皇子とは兄弟である。母は斉明天皇。この三つの三者関係は、母と兄弟というパラレルな関係にある。言い伝えの二つの話は、いずれも弟側が母親の協力、援助によって兄を滅ぼし、苦しめる形になっていた。これを天智天皇は、治世の七年(668)七月にどう解釈していたのであろうか。
 肝心なのは、天智七年七月のある日、近江宮において天智天皇の頭のなかに描かれていたことである。その脳味噌が近江宮の人々に伝染しかけていたことだけがヴィヴィッドな言い伝えであって、「春秋競憐歌」の真相といえる。
 神功皇后の西征の伝説と、秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の説話の間には、はっきりと共通する部分がある。母と二人の兄弟の話である。共に兄は弟に負けている。また、神のいうことを聞かなかった者が死んだり病に羅っている。この三点は揺るぎないものである。すなわち、兄である天智天皇の運命は、忍熊王や秋山之下氷壮夫と同じである。弟の大海人皇子の運命は、応神天皇や春山之霞壮夫と同じである。天智天皇が少々ノイローゼ気味になっているのは、母親の斉明天皇が亡くなって、庇護、保護してくれる人がいなくなって、独裁者の孤独に近づいていることが大きな要因であるらしい。連想が連想を呼んで、妄想へと発展していったようである。

 万16番歌の題詞の大意は、忍熊王に当たる天智天皇は、近江の地へ追いやられて敗北させようとしている武内宿禰に当たる内大臣藤原鎌足に詔を下した。弟に当たる応神天皇、春山之霞壮夫、大海人皇子と、兄に当たる忍熊王、秋山之下氷壮夫、朕天智天皇とを比べて、どちらがすばらしいか申し述べさせた。そのとき、額田王が、割って入って歌によって筋道を立てて説明した歌。
 万16番歌の歌の大意は、春山之霞壮夫こと、大海人皇子がやってくると、鳴かなかった鳥も鳴き、咲かなかった花も咲いて宮廷は盛んなようだが、奴は山が茂るように権勢をふるっているからこちらは何も満足いくようにならない。草が深いように人望が厚いから誰も朕の言うことを聞かない。秋山之下水社夫の宝である子供たち、とりわけ大友皇子はすばらしいと思う。今のように青く妻えてしおれるようにと放って置かれているのを嘆き、まったく恨めしいばかりだ。朕、天智天皇とは、滅びる運命にある秋山之下水吐夫ではないか。
 詩題になかった「鳥」が出てくるのは、言い伝えを再生するためのキーワードだからである。ただし、これらの言葉に言い伝えの意味合いは含まれていない。無文字社会の宮廷人にとって、言葉の音の重要性は高い。「とり(トは乙類)」は「り(トは乙類)」に通じている。アクセントは一致しないが、わざとらしい駄酒落で強調したいだけで、その方がかえって都合がいい。神功皇后、忍熊王、武内宿禰、応神天皇の登場する記紀の話は、題詞の前半において典故として使われている。天智天皇は、この話が偉大な母とその子供の関係にあることから、同じ応神記に載る春山之霞壮夫と秋山之下水壮夫の兄弟の説話を持ち出して謎掛けをしている。なぞなぞが詩題であり、なぞなぞを解いた答えを漢詩に作らせようとしたのであった。結局、額田王が、漢詩ではなく歌によって解説した。すなわち、ことわりを述べたのである。なぞなぞの種明かしが彼女の歌であった。
 歌は、春山之霞壮夫と秋山之下水社夫の兄弟の説話を下敷きにしている。その説話を主題にしながら、忍熊王と応神天皇、天智天皇と大海人皇子という二組の兄弟を連関させて歌っている。大海人皇子の勢いが強いので、天皇である自分の思うどおりに宮廷が動かないこと、特に、息子の大友皇子を後継に指名したいがうまくいかないと言っている。「千葉」は応神天皇の国讃めの歌に登場するのだから讃められてよい存在を示すのであろう。大海人皇子も、大友皇子は漢詩が上手いと、讃めたことがあったのではないか。
 歌の最後の「秋山我は」とは、額田王が、私は秋山のほうが趣深いと思いますという意味ではない。天智天皇が、まったく自分は、「秋山之下水社夫」そっくりだ、と言っている。神罰を受けて滅びる存在だと嘆いている。何を弟の大海人皇子に誓ったかといえば、言うまでもなく、後継指名である。次の天皇たらんと「皇大弟ひつぎのみこ」に大海人皇子を当てているのである。その誓いを破り、神に背いて、息子の大友皇子に位を譲りたい。そういう願いを歌っている。スポークスマンたる額田王に歌わせている。
 藤原鎌足以下、群臣、舎人に至るまで、言い伝えを知っていて、天皇が何を聞いているのかわかっていたであろうが、答えることはできなかったであろう。額田王の最後のほうにある「青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし」とは、言い伝えにある呪いの言葉どおりである。弟の大海人皇子(春山之霞壮夫)が兄(秋山之下水社夫)を呪っているという声が聞こえてくると言っている。こんな楽しくないテーマで、そもそもが稚拙な水準の漢詩の詩会を開かれた日には宴も盛り上がらない。問いただされた鎌足など、飲むほどに青白くなる「豊青とよのあをみ(?)」であったろうし、舎人もいい迷惑である。時の人が、「天皇、天命将及乎。」(天智紀七年七月)と言うのも無理はない。問題はバーベキューという珍事にあるのではなかった。気が変になった為政者にあった。
 額田王は業務上やむを得ず歌ったのであろうけれど、嫌がっている素振りはない。天皇の意を酌んで歌っている。「判」という語には、判定を下すという以前に、漢詩の詩会に割って入ったというメタ・メッセージも含まれていると考えられる。にっちもさっちもいかなくなってしまったから、ご登場いただいた次第であろう。両義的な歌い方をしている。駄洒落を使って「ことわる」ことができた。判定を下したのではなく、天皇の言いたいことを筋道を正してきちんと言い、わかる人にはわかるように、わからない人にはそのままに、わかりたくない人にはおとぼけに、事態がそれ以上険悪になって揉め事にならないようにした。事を割ったのである。それで宴はお開きになった。国会に歌手が現れて閉会となった。さすが見事なお手並みと言える。
 白川1995.に、「ことわり〔理・義・辞(辭)〕 ものごとが、そのうちに備えている道理・筋道をいう。動詞「ことわる」(四段)の名詞形。「ことわる」は訓読語にみえ、「ことる」が原義で、筋道を立てる、判断するなどの意。道理のような抽象的な意味は、道義のようにそれを人倫の上に及ぼしていることとともに、その拡張用法であろう。のち拒絶する、また謝罪するの意となるが、上代にはその用法はみえない。コ・トは乙類。」(334頁)とある。
 家伝上に、次のようにある。

 七年正月。即天皇位あまつひつぎしろしめす。是に天命開別天皇と。朝廷に事無く、遊覧是れを好み、人に菜色无く、家に余蓄有り。民みな太平のみよと称す。帝、群臣を召し、浜楼に置酒して、酒酣たけなわに歓を極む。是に大皇弟、長槍を以て敷板を刺し貫く。帝、驚き大きに怒りたまひて、将に執害せんとしたまふ。大臣、固くいさめ、帝、即ち止む。大皇弟、初めて大臣が所遇の高きを忌む。茲より以後、殊に親びを重ぬ。後、壬申の乱にあたり、芳野より東土に向ふに歎きて曰はく、「若し大臣生きて存りせば、吾、豈この困びに至らんや」とのたまふ。人の思ふ所、ほぼ此のたぐひなり。

 このいさかいの件の原因については、筆者の推測では、とりあげている天智七年七月条の悪酔い事件の時のことを語っているような気がしてならない。天智紀の「又、舎人等……」の奇妙な記事の前には、「又、浜台はまのうてなもとに、諸魚もろもろのうを、水を覆ひて至る。」とあり、家伝の「浜楼」と同じところではないかと思われる。琵琶湖に面したデッキであろう。
 それはさて、この歌は言い伝えの再現である。言い伝えが現在に甦ってきている。しかし、応神記の秋山之下水社夫と春山之霞壮夫の説話など、なにもわざわざ甦らせなくてもいいような話である。実際、歴史書の体裁を整えようとした日本書紀には採られていない。初期万葉当時の人は、そういう形で言い伝えを信じていたと思われる。捉えようによって形を変えるのが言い伝えであって、固まっていて縛られるだけのかせではなく、もう少し自由度のある檻のようなものであったらしい。
 記紀の伝説が、後の時代の史実を基にして虚構されたとする説が近年よく見られる。また、歌にも仮託された歌という言い方で解釈しようとする向きもある。しかし、それらは、文字を学び、中国の文化の影響を強く受けた後の事態であろう。初期万葉の時代、飛鳥時代は、言い伝えが言葉(音)として空中を舞っているしかなかった。文字をほとんど使っていないからである。そして、皆言い伝えを諳んじ、常識となっていた。常識の方を後から作りかえることは難しい。文書を改竄することはできても、人々の記憶の中身を取り換えるには、覚えている人々が死ぬこと、覚えていることが伝わらぬようにすることが必要である。無文字文化では必ず言い伝えは言い伝えられるから、常識を替えることはできない。文字の時代に突入すれば、言い伝えは記録されて済み、言い伝えられなくなる。文字文化に取り残された一部の人を除いて、宮廷社会の中心にいる人たちは、律令国家の官僚として再出発し、すべての事柄は文書化されていった。そうなると逆に、改変も削除もたやすくなる。頼るところは文字に写された言葉だから、書かれているところを改竄すれば仮託も潤色も修文も造作も容易に行えることになる。とはいえ、史書である日本書紀に対して、意図的にそのようにしていった形跡はあまり見られないように感じられる。言霊信仰の余韻が残り、嘘をつくことが嫌だったこともあるのか、古訓なるものが連綿と伝えられてきた。古訓とは、平安時代から読みならわされているとされるが、もともとの言葉をそのまま留めようとする志向であったと思われる。すなわち、古訓とは、当時の言葉そのもの、空中を飛び交うしかなかった無文字時代の音としての言葉、ないしは、飛鳥時代の新語、いわゆる和訓を含めた言葉を留めたものである。万葉歌にも現れる和訓語は、歌われて空中を飛び交ったことであろう。文字表記からの歴史研究が全盛であるが、古訓からの歴史研究こそ古代史に肉迫することのできる唯一の手段である。
 初期万葉の時代の歌と言い伝えの関係は、仮託されたものではなく、蘇生されたものであった。都合によって言い伝えに準えるように生きていた。ふるきをたずねて新しきを知るとは、文字の時代、歴史の時代の産物である。言い伝えが生きているという意味は、古い言い伝えに準じながら、新しい言い伝えを順次再生産、増殖させていっていた時代ということであろう。飛鳥時代の宮廷社会の人びとの精神世界は、言い伝えという培養地のなかに生きていた。無文字社会の古代人の知恵の最後の爛熟が、記紀万葉の散文、韻文である。それは、文字化、律令化による知識の時代への突入によって駆逐される運命にあった。同じ言葉を使うにしても、使う脳の部位が異なるというである。

「中大兄」という呼称

 日本書紀には、明らかに話し言葉が記されている箇所がある。天智天皇(中大兄)という人の話し言葉の言説には、論理的にみて奇妙なことが多く感じ取れる。行動にも、不思議に思えるところがある。古代史研究において重要な点と思われるが、これまであまり論じられていない。ここでは、中大兄という呼称についてのみ触れておく。
 今日の歴史学に、大兄制というものがあったとする議論がある。本間2014.に、井上1965.(184~188頁)が「大兄に関する具体的な意味内容を三つ指摘され、その第一は山背大兄王を除くと、大兄はみな天皇の長子であり、もしくはそのただ一人の子であること、第二は大兄は、生来、天皇たり得べき出生身分であったと考えられるふしがあること、第三は大兄の実例は五世紀の履中にはじまり、七世紀中葉の中大兄皇子の世代に終わっていること、の三点である。そして、大兄の制は日本古代の皇位継承法の一つの制度であると位置づけられた。」(158頁)とまとめ、「大兄の制について六・七世紀における政治過程の中で歴史的意義づけをするならば、令制における皇太子制度が成立するまでの中継的制度として捉えることができる。新王朝である継体朝によって長子相続的観念を内包的にもっていた大兄の制は、皇太子の原初的形態として位置づけることができると考える。」(78頁)とする。
 大兄制なるものの政治的体制については未詳である。紀の「大兄」の傍訓には、オホエばかりでなく、オヒネなるものがある。中大兄についてはオヒネという傍訓はないようなのでここでは考えないが、一般に称呼される「中大兄皇子」なる言い方は紀にはない。すべて「中大兄」である。本間2014.の指摘に、門脇1969.を先行論としながら、「皇極四年六月条と孝徳即位前紀にみえる「以中大兄、為皇太子」は、「以葛城皇子、為大兄」と考えた方がより妥当であり、葛城皇子が大兄の地位についたのは蘇我本宗家滅亡後であり、いまだ古人大兄皇子は存在するが……山背大兄王の時と同様に実質的な大兄の地位にはなかったと考える。」(160頁)としている。令制の皇太子制を大兄名称に忠実に投影し、つまり、初めに大兄制ありきと仮定している。しかし、孝徳即位前紀にある「以中大兄、為皇太子」は、「立大兄去来穂別尊、為皇太子」(仁徳紀三十一年正月)とよく似ている。大兄去来穂別尊おほえのいざほわけのみことは後の履中天皇である。そうなると、大兄とは、いちばん上の兄さん程度の意味合いの言葉に思われる。そして、中大兄という名は、葛城皇子の別称、綽名(渾名)の類なのではないか。綽名とは何かについて、市村1987.は次のように考究する。「「綽名」は、……侮辱とさらには愛着と賞讃とを含む、他者への変形作用を担う名前であった。綽名は、名づけが本来あだやおろそかに行われるわけにはいかないことを端的に示している。それは対象への周到な観察と的確な表現、つまりは批評力を要請するのである。いうまでもなく綽名には、見立てや喩えやもじりや読みかえなど種々様々の手法が動員されるが、いずれにしても対象の性質や姿形や仕種や癖などについての鋭利な批評によって、その決定的な特徴が抽き出され強調されなければならない。……綽名におけるこの批評力は、賞讃ばかりでなく、よりいっそう悪態や非難に際して充分に発揮されなければならない。相手の存在の核心に的中しなければ、嘲笑や揶揄の効果は挙がらないのであって、したがって悪口の最大限の効果のためには、相手への最大限の関心の注入と微細にわたる注目の集中とを必要とするのである。したがってまた、綽名をつける能力の衰弱は、間違いなく社会における相互的関心の稀薄化と批評感覚を含む文化水準の低落とを意味しているのだろう。」(142~143頁)
 中大兄という呼称は、これまで提唱されてきたいくつかの説、「中」は中心の意でもなければ、王子女の長幼を「大」「中」「稚」で表したものでもなければ、二番目の大兄、すなわち皇位継承有力候補者の二番目という意味でもない。神功皇后のお腹の中にいたときから、天皇になることを約束されていた応神天皇(誉田ほむたの天皇すめらみこ)、継体紀に「胎中はらのうちにまします誉田ほむたの天皇すめらみこ」(継体紀六年十二月)、「胎中ほむたの天皇すめらみこ」(同二十三年四月)、「胎中之帝ほむたのすめらみこ」(同六年十二月・宣化元年五月)とも記される人に肖ったものであろう。次期天皇は、忍熊王になっていたかもしれないところを、神功皇后や武内宿禰のおかげで排除してくれたのであった。大化改新のクーデターは、百済・新羅・高句麗の三韓みつのからくに調みつきを進上する儀式のときに、蘇我入鹿を血祭りにあげて始まった。入鹿斬殺を目の当たりにした古人大兄の発言は注目される。

 古人大兄、見て私の宮に走り入りて、人に謂ひて曰く、「韓人からひと鞍作くらつくり臣を殺しつ。からの政に因りてつみせらるるを謂ふ。吾が心痛し」といふ。即ち臥内ねやのうちに入りて、かどして出でず。(皇極紀四年六月)

 分注は洒落ている。もちろん、外交使節や渡来人が刀を振るったのではない。三韓の調みつきという設定も、暗殺のために剣を解かそうという策略であった。古人大兄はそのような計略が巡らされていることを知らない。びっくりして私邸に戻り、入鹿のことを「鞍作」、中大兄のことを「韓人」と綽名で呼んでいる。「韓人」が「三韓上表」の際に殺人事件を起こしたということである。新羅親征をした神功皇后と胎中の応神天皇のことが念頭にあってのことであろう。古人大兄の発言をそのまま記したために、言葉の無秩序化を逃れようとして、わざわざ回りくどい注を加えている。
 万葉集の最初の編者が、宝皇女(皇極・斉明天皇)の歌の作者に付けたニックネームは、「中皇命」であった。新羅親征を果たすことなく神の怒りを買って亡くなった帯中日子天皇たらしなかつひこのすめらみこと(足仲彦天皇)(仲哀天皇)に由来するものである(注6)。たいへん皮肉な名づけ方である。結果的に「中」の字が母子に仲良く並んでいる。そして、ともに「名前」と呼べるものではなく、抽象的な概念語ばかりの熟語である。中大兄は、当初、「葛野皇子」(舒明紀二年正月)と記されている。葛野であれば、カヅラの生えている手つかずの自然が残っている場所を表す(注7)
 「中皇命」や「中大兄」という名前には、人としての経験の跡が見られない。母子紐帯ばかり際立っている。そう綽名した人からすれば、二人が「人」ではない、と思えたからでもあろう。古人大兄は「吾心痛矣。」と言っている。心ある人である。自らの手で殺人に及んでおいて平気でいる神経は人としてわからない。わからない人を収めるのに、抽象語に定めるのはうまい方法である。自らを神功皇后に準えている「中皇命なかつすめらみこと」に、生まれた時から次期天皇筆頭候補だよとかわいがられた坊やは、うまい具合に「中大兄なかのおほえ」と綽名されていた。紀に、一箇所も、「中大兄皇子・・」と記されないのは、「中大兄」が的確な綽名としてすっぽりときわまっていたからに相違あるまい。大兄という敬称は、決して天皇になることを約束されたものではない。直木2009.に、「……要するに「大兄」の使用は、史料の語る所では六世紀前半の勾大兄にはじまって七世紀後半の中大兄に終り、元来は皇位継承にかかわる有力な皇子の地位を示す称号であったが、時とともに重みを増して太子に準ずる地位を示すようになり、それとともに「大兄」の称号に尊敬の意味が加わり、中大兄に至っては太子とほとんど同意となったのであろう。大兄制の成立といえるかもしれない。」(258~259頁)とする。最後の「大兄」をもって大兄制の成立とするというのはかなり逆説的な議論であるが、筆者はそれに同意見である。歴史は、斉明天皇の神功皇后に成り損ねの朝倉宮崩御、白村江敗戦、唐からの使節団の要請受け入れへと流れた。武内宿禰に成り損ねでもそれらしく振る舞った内臣うちつおみ、内の朝臣あその中臣鎌足によって、宮廷社会の人々の精神の上では世界秩序は保たれていたということであろう。保たれていたから白村江のA級戦犯者たちが近江朝を成している(注8)
 万16番歌において、その精神上の安定を自らが冒してしまおうとする考え、即ち、次期天皇には、「皇弟すめいろど」(孝徳紀白雉四年是歳・同五年十月)=「大皇弟ひつぎのみこ」(天智紀三年二月・七年五月)、すなわち、弟の大海人皇子(後の天武天皇)をと神に誓った約束を破り、自分の息子の大友皇子に継がせたいという考えが起こった時、「又命舎人等、為宴於所々。時人曰、天皇、天命将及乎。」と揶揄されるに至ったのである。そして、「額田王、以歌判之歌」が披露され、お恥ずかしい幕引きとなったのであった。言い伝えは、いわばなぞなぞとして人々の観念に活用されていたのであった。

(注)
(注1)お題に対してその意図を汲んでいるかどうかをみる傾向は、歌会において行われていたと考える。拙稿「令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について─「令」が「零」を含意することを中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/994f3bd968826c87cb3a8d8845581d17参照。
(注2)拙稿「狩りの歌(万3・4番歌)と舒明天皇即位について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/88ec8977ee7ded6293cf8fe30059775e参照。
(注3)言い伝えられたものを後に記録したものであるから違うのは当然であろう。紀が、「神代巻」においていくつも「一云」なる異伝を伝えているのは、編纂時に脚色したものがあるかも知れないが、言い伝えた人の系列が違う点も見逃せまい。
(注4)世にズハの用法と誤解されているが、格助詞ハが前後をつないでいるにすぎない。~でないのはどういうことかというと~である、の意である。痛手を負うよりも入水して死んだほうがましだ、と解しては、水死体を発見できずに「憤る」という歌に続かない。拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7d5cf1b67913a2b256382737e8b8d4b3参照。
(注5)記に次のようにある。



 この説話がそれ自体で何を表しているのか、諸説あるが未詳と言わざるを得ない。
(注6)拙稿「中大兄の三山歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40096f25187bcf13d2a77224fe00e069ほか参照。
(注7)市村1987.に次のようにある。

 ある空間や場所への命名が、ただの標識ではなく、人々のそれに対する感覚や願望を要約し、生活経験の痕跡をとどめるものであるとすれば、たとえば近代日本の首都の名前は一体何を含意するのであろうか。維新時の「詔書」によって名づけられた「東京」は、そもそも地名と呼ぶにたるものだろうか。ほかでもない「江戸」と比較してみればよい。江戸という地名がどこまで遡ることができ、何に由来するかは必ずしも明確ではないとしても、少なくともその名が、「水門(水戸)」などと類を同じくすること、つまり入江の河口を示唆する。そういう生活的基盤に根をおろしていることは間違いない。いかに世俗化され洗練され、あるいは忘れられようと、その名前はかつて河口で営まれたであろう集落生活の痕跡を背負っている。
 これに対して「東京」とは何か。すでに明治初年に、「東京ハ東ノ都ト謂フコトニシテ地名ニハ非ルナリ。東京ノ地名ハ猶江戸ナルベシ」と主張されていたように、東京とは「東ノ都」という以外の何の意味ももたない名前であった。つまりは方向指示記号であった。ここでは地名は固有性を放棄し、物語性を失いつくしている。そうして、首都はその時代と社会の表現力を担うものとすれば、それは、物事についての伝統的な経験を背負ってきた諸々の名前を、概ね漢語を駆使した官製の用語によって塗りかえてしまおうという、明治国家の一大事業を象徴的に示すものであった。ここに、経験を含まない名前を自己の中心とする、社会と精神の体制が成立することになる。これは名前の精神史における紛れもなく一つの決定的な変質であった。
 ここでただちに想起されるべきは、日本という国名であろう。かつて「日本」が「ヤマト」にとって代ったとき、それは何を意味していたのか。「ヤマト」はヤマのフモトというその社会がよって立つ生活条件にもとづく、「くに」に相応しい名前としてあった。これに対して、「日本」という名前は質的に異なる次元において成立した。「東の方」というそれが内包する意味の抽象性が、すでにそれを示している。その名前は、一方で中華帝国の世界地図の辺境に位置づけられながら、他方で朝鮮半島に対して政治支配的な意思を露わにしつつ、自己の存在を強調する「小帝国」意識を表現するものとしての名前であった。すなわち、それまでの社会的な生活条件を制圧し、それと隔絶する統一的意思をもつ「国家」に貼りつけられるべき名前であった。そうして、明治国家がその「復古」の範としたのは、この律令国家の方であった。
 この国名がなお、内面に対する越権的な呪縛力をもちつづけているとすれば、ここでこそ、たえずホッブス的引き算を復習する必要があるだろう。すなわち、日本とは名前にすぎない、と。そして同時にそれが、名のみで姓を持たないという名前における特例的存在によって、「象徴」されていることに思い到らなければならない。(157~159頁)

 「名づけ」に見てとれる、人間と世界との関わり合い方の大きな変容は、実は古代に遡求されるとの考え方である。「東亜の小帝国」(石母田正)の考え方を引いている。確かに、「天皇」号や「日本」国号など、表面的にみれば、「名前の精神史における紛れもなく一つの決定的な変質」と言い得る。しかし、それは字面である。漢字が読めれば、テンノウ、ニホンと定まっていく。しかし、呉音読みなのか、漢音なのか、ジパングとの関わりからいっても今もってわかっていない。
 筆者は、紀に振られた傍訓、スメラミコト(コ・トは乙類)、ヤマト(トは乙類)という音こそが、飛鳥時代において実体のある言葉であるとの立場に立つ。むしろ、史官である紀の執筆者や万葉集の最初期の編者は、それをシニカルに捉え返す巧みさを備えていたと考える。言語の中心軸がオーラルなところにあった時代、権力者による抽象化とは何を意味するかすでに気づきながら、逆手にとって綽名で抵抗しているように見受けられる。枕詞の発表式とは、歌のお披露目の場でのなぞなぞ大会だったと想定できるとしたら、それに類似の活動であると言えことができると考える。
(注8)白村江の敗戦後、朝鮮半島では、百済を滅亡させるために連合を組んでいた唐と新羅が対立した。以後、唐は倭へ同盟的な関係を築きたく、百済占領軍の司令官の劉仁願は使節を派遣してきている。倭にマッカーサー的な人物が来たわけではなかった。

(補注)本文の訓みの疑義については、拙稿「額田王の春秋競憐歌、「山乎茂入而毛不取草深執手母不見」の訓みについて」に記した。追って掲載するので参照されたい。(2024年7月8日)

(引用・参考文献)
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http://hdl.handle.net/2065/32278
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※本稿は、2015年8月稿を2020年12月に改稿し、2024年3月にルビ形式にしたものである。