古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

酒楽の歌(記39・40歌謡、紀32・33歌謡)について─スクナミカミの酒造と寿(さかほかひ)を中心に─

2020年12月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
待酒問答

 記紀に、成年式儀礼とされる禊を終えた太子、のちの応神天皇を、母親の神功皇后は酒宴で迎える。その話は歌謡の問答を伴っている。記には「酒楽の歌」とされている。

 是に、還り上り坐(ま)す時に、其の御祖(みおや)息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)、待酒(まちざけ)を醸(か)みて献りき。爾に、其の御祖、御歌よみして曰はく、
 この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世に坐(いま)す 石(いは)立たす 少御神(すくなみかみ)の 神寿(かむほ)き 寿き狂(くる)ほし 豊(とよ)寿き 寿き廻(もと)ほし 奉(まつ)り来(こ)し御酒ぞ 止(あ)さず飲(を)せ ささ(記39)
如此(かく)歌ひて、 大御酒(おほみき)を献りき。爾に、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、御子の為に歌に答へて曰く、
 この御酒を 醸みけむ人は その鼓(つづみ) 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやに転(うた)楽(だの)し ささ(記40)
此(こ)は酒楽の歌ぞ。(仲哀記)
 十三年の春二月の丁巳の朔にして甲子に、武内宿禰に命(みことおほ)せて太子(ひつぎのみこ)に従ひて角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおほかみ)を拝(をが)みまつらしむ。癸酉に、太子、角鹿より至(かへりいた)りたまふ。是の日に、皇太后(おほきさき)、太子に大殿に宴(とよのあかり)したまふ。皇太后、觴(みさかづき)を挙(ささ)げて太子に寿(さかほかひ)したまふ。因りて歌(みうたよみ)して曰はく、
 この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世に坐(いま)す 石(いは)立たす 少御神(すくなみかみ)の 豊寿き 寿き廻ほし 神寿き 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ 止(あ)さず飲(を)せ ささ(紀32)
武内宿禰、太子の為に答歌(かへしうた)して曰(まを)さく、
 この御酒を 醸みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも この御酒の あやに転(うた)楽し ささ(紀33)

 記紀の歌謡に若干の違いはあるものの、話としては同じことを言っていると考えられる。記では「於是」で始まっている。太子、後の応神天皇が、建内宿禰に連れられて禊の旅に出、気比大神(笥飯大神)と名易えをした話に続いている(注1)。「我に御食(みけ)の魚(な)給へり」という発語をしている。これによって、ナ(名)が得られたとするのであるが、それは文字通り、ナ(魚=肴)の獲得でもあった。すなわち、ナが帰ってくるということは、酒の肴がおみやげとしてやってくるということである。うまい肴が到来するなら、うまい酒を用意して待っているという話の筋立てになっている。だから、「待酒」をし、歓待の歌が歌われ、ありがとうと答えて歌っている(注2)

  大宰帥大伴卿が贈大貳丹比県守卿が民部卿に遷任するときに詠んだ歌
 君がため 醸(か)みし待酒(まちざけ) 安野(やすのの)に 独りや飲まむ 友無しにして(万555)

 息長帯日売命は自分で醸んだ酒ではなく、「酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神の」造った酒であるとしている。スクナミカミ(須久那美迦微、「微」はミ乙類)は薬にまつわる少毘古名神(少彦名神)のこととされている。薬を作るのに長けているとして尊崇されるから、百薬の長である酒を司るものとしているという。クシノカミ(久志能加美)の「美」はミ甲類に当たり、神ではなく、上・司の意である。しかし、どうして登場しているのか、これまできちんとした解明に至っていない(注3)
 酒について自分が醸んだにもかかわらず、神の酒であるという歌いまわしは、崇神紀にも見られる。

 八年の夏四月の庚子の朔にして乙卯に、高橋邑の人、活日(いくひ)を以て、大神の掌酒(さかびと)とす。掌酒、此には佐介弭苔(さかびと)と云ふ。冬十二月の丙申の朔にして乙卯に、天皇、大田田根子(おほたたねこ)を以て大神に祭らしめたまふ。是の日に、活日、自ら神酒(みき)を挙(ささ)げ、天皇に献る。仍りて歌(うたよみ)して曰く、
 この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主(おほものぬし)の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久(紀15)
といふ。如此(かく)歌して神宮(かむみや)に宴す。(崇神紀八年)

 実際に酒を造ったのは、「大神之掌酒」とされた「高橋邑人活日」である。宴会用の酒を神が造ったことにしている。大物主神を上手に祭って疫病を収めてからの展開である。記39・紀32歌謡の場合も、少御神(すくなみかみ)を上手に祭って肴にちょうどいい酒を造らしめたという意と思わせる効果がある(注4)。神が人に御酒を献上していると言っている。神さまがプラグマティックに利用されている。

スクナミカミ

 スクナミカミという名称は記紀では他に例が見られない。少毘古名神をニュアンスしていることに間違いなく、異論は唱えられていない。記39歌謡に、「酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神」とある。少名毘古名神(少彦名命)は古来、薬の神として崇められている。酒は百薬の長とされている。記上や神代紀の国作りの話で、少彦名命は粟の茎から弾かれて常世国へ行ってしまったとされている(神代紀第八段一書第六)。そういうお話の上で、記39・紀32歌謡は歌われていると考えられる。
 森2016.は、「「常世に坐す 石立たす 少御神」の句は「常世の国にいらっしゃってその場所で石として立ち顕れておいでのスクナミカミ」と見るのが、本歌謡の解釈として素直な姿勢だと考える。」(152頁)とする。しかし、「石立たす」は孤例の枕詞で、スクナミカミにかかっている。時代別国語大事典に、「岩のようにしっかり、また末永くお立ちになっているの意で、少名御神(スクナミカミ)にかかる。イハは接頭語的用法。」(91頁)とある。イワ(石・岩・巌)は堅固で永久不変であることを示す。永久不変とはすなわち、常世の概念に同じである。「〈状態〉と〈場〉を表現する修飾句が並列され」(森2016.152頁)ていることに違いはないが、〈状態〉と〈場〉とは切り離されるものではない。
 では、「石立たす」という枕詞の本意はどのようなものであろうか。後世に枕詞と呼ばれているものは、形容表現を重層化した古代に特徴的な言葉であり、訳すことさえ難しいほど入り組んだものである(注5)。「石立たす」を、御霊の岩として立っていらっしゃる、石をご神体として立っていらっしゃる、の意ばかりであると認める(注6)のは早計である。神を石像にしていたというのは後講釈で、はじめにヤマトコトバありきこそ、人の抱く観念の本質である。しかも、具体物として皆に認められていることで、言葉として周知の事実となる。すなわち、「酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神」という修辞において、「酒の司」と「常世に坐す 石立たす 少御神」とは、関連していなければ聞いた人に理解されるものではない。酒造司がイハ(石)と関係している。酒造司が用いるイハ(石)様のものは、須恵器の甑である。灰色で硬質なイハ(石)である。甑で酒米を蒸してそれを口で噛んで醸して口噛み酒を造っている。使い方としては、水を入れた甕を火にかけ、その上にそこに穴の開いた甑を乗せて蒸気を取り込み、蓋をしておいて内部に高温の蒸気をめぐらせた。だから、「酒の司 …… 石立たす」という修飾連辞が適当と言えるのである。
 この発想は、それが神功皇后とその子の応神天皇のものである点から証左とされる。新羅親征に際して、産み月を押して出征している。鎮懐石を腹に当てて行った。

 故、其の政、未だ竟へぬ間に、其の懐妊(はら)めるを産むに臨みて、即ち御腹を鎮めむと為て、石を取りて御裳の腰に纒(ま)きて、筑紫国に渡るに、其の御子はあれ坐しき。故、其の御子を生みし地を号けて宇美(うみ)と謂ふ。亦、其の御裳に纒ける石は、筑紫国の伊斗村(いとのむら)に在り。(仲哀記)

 実際にあったかどうかは別にして、お話として、赤子が生まれないようにするための石のイメージとしては、温石を当てがうのではなく、大きなお腹をまるごと包み込んでしまう形状でなければ人々に了解され得ない。そのような石は、底に穴の開いた人造の石的なもの、須恵器の甑がふさわしい。腹帯ならぬ石のコルセットでがんじがらめにしたということである。腰(こし、コは乙類)と音が通じている。須恵器焼成の技術とともに到来した技術で、瓦焼成に通じている。甑の瓦だから、河原でのアユ釣りの話に展開していっている。神功皇后と応神天皇とは、十月十日を越えてあまりにも長く一体状態であり、それは甑によって成立していたのである。穴が開いているから、足が出るし、排泄の際に着脱の必要もない。だから、仲哀記や応神紀に歌われた歌として大変わかりやすいものになっている(注7)
甑(須恵器 甑、堺市博物館、Saigen Jiro氏撮影「陶邑窯跡群TK87出土 須恵器 甑」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:陶邑窯跡群TK87出土 須恵器 甑.JPG)
 スクナミカミはスクナビコナと同一の神であろうと考えられている。

 大汝(おほなむち) 少御神(すくなみかみ)の 作らしし 妹背(いもせ)の山を 見らくしよしも(万1247)

 2神で国作りをしていた大国主神は、少彦名神が常世国へ行ってしまい、残されて途方に暮れている。また、スクナヒコノクスネは、ラン科の多年草、石斛の古名である。和名抄に、「石斛 本草に云はく、石斛〈胡各反、須久奈比古乃久須祢(すくなひこのくすね)、一に伊波久須利(いはくすり)と云ふ〉といふ。」とある。岩の上などに着生する着生植物である。その点でも、イハタタスという枕詞を冠していて確かである。岩石の上にはくっつき立つことはできるけれど、粟柄の上には着生できないから常世国へと飛ばされてしまったという話になっている。
イハタタス石斛(奥多摩地方、「今日はどこ?」ブログ様「岩壁のセッコク その2」https://ikedahisa.exblog.jp/22847227/)
 ここでは、スクナビコナとは言わずにスクナミカミと言っている。スクナミカミと言わなければならなかったのには、それなりの理由があったのであろう。神功皇后の新羅親征と切っても切れない関係が、応神天皇には存在している。朝鮮半島に関係する言葉として、食べることを特にスクと言う。柔らかく調理してすするように食することではないかとされている。いま、酒造のために米を蒸して柔らかくし、口に含んで噛んでは吐き出すことをしている。急いで口に入れては吐き出している。米を蒸す調理法も、本邦では半島からの甑とその製法の到来とともに本格的に行われるようになったと考えられている。したがって、スナクミカミとは、スク(食)+ナ(連体助詞)+ミカミ(御神)の意であると解することができる。ナは、助詞ノの母音交替形で、神社のある所、神が依り来る所をいう「神(かむ)なび」という言葉と同様の用法である。

 子麻呂等、水を以て送飯(いひす)き、恐りて反吐(たま)ひつ。(皇極紀四年六月)
 食 スク、クフ、メス/シキ、曽力(法華経単字)(注8)

 言葉の上でスクナミカミ(少御神)と対になるのは、オホミカミ(大御神)である。太子にとっては、母親の庇護のもとに忍熊王らの争いに勝利している。だから、御子(太子)にとって母親の息長帯日売命(神功皇后)は、「御祖(みおや)」たる天照大御神に当たる(注9)。その三者関係を用いて神功皇后は自らを天照大御神に擬している。そして、神功皇后(天照大御神)には、陰ながら手助けする少御神がいると主張している。それは、御子(後の応神天皇)にも、陰ひなたに手助けする建内宿禰がいることを物語るものである。宿禰という言葉は、「スクナエ(少兄)の訳。皇子をオホエ(大兄)というの対。」(岩波古語辞典691頁)と考えられている。太子がオホエ、建内宿禰がスクナエで両者が一体となって役目を果たすであろうことに準えて歌い上げている。2つで1つのセットの関係にあることは、酒と肴の関係にパラレルとなっている。両者が織りなしてこそ味わいが出る。

「酒楽の歌」とは

 これらの歌のジャンルは、記の記述の終わりに「酒楽之歌」と明記されている。これについては、サカクラノウタ(武田1956.、次田1980.、古典集成本古事記、思想大系本古事記、新編全集本古事記、中村2009.、佐佐木2010.)(注10)、サケノアソビノウタ(新校古事記)、サカホガヒノウタ(本居宣長・古事記伝、武田1943.、西郷2006.)、ミキヱラキノウタ(寛永版本、猪熊本)などと訓まれ、定説に至っていない。同じ筋書きの神功紀十三年条では、「寿 サカホカヒシ玉フ」(北野本日本書紀、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142350/21)と古訓が施されている。したがって、サカホカヒノウタと訓むと考えるのが順当であろう。「酒寿・酒祝(さかほかひ)」とは、酒宴をして祝うこととされている。それに加えて、少しく他のニュアンスを含んでいると考えられる。
 白川1995.に、「ほかひ〔寿(壽)・乞匄〕 四段「ほかふ」の名詞形。「壽(ほ)く」に接尾語「ふ」のついた形。その連用形であるから、ヒは甲類である。神をことほぎ、祈ることばをとなえることによって、幸いを求めること。」(674頁)、「ほく〔祝(祝)・寿(壽)・呪〕 四段。祝い言をとなえて神に祈る。神をほめたたえることによって、そのことが実現するように、ことばの呪能に訴えることをいう。「ほかふ」(四段)は「ほく」の再活用形である。」(674~675頁)とある。すなわち、言葉と事柄が一致するものとした言霊信仰において、言葉→事柄へとコト(fact)を移行させようとする行いが、ホクこと、ホカフことである。ここで、ホクことをしているのは少御神であり、その少御神が御酒を奉り来ったと神功皇后は歌っている。そうして太子を迎えている。
 サカホカヒと言うからには、サカ(酒)のことが関係するホカヒであることばかりでなく、サカ(坂・境)のことやサカ(逆)のことに関係するホカヒであるという含意が述べられていると考えられる。無文字時代の音声言語にあっては、いかなる誤解をも含み記していることが伝達を確実にさせるからである。これと似たような状況に、景行記の倭建命(日本武尊)が東征後に立ち寄った酒折宮の事跡がある。坂を越えて東国との境から内国に戻り、宮に入り、逆に自らが蚊帳という檻のなかにいるがために蚊に刺されずに酒が飲めるところという意味である(注11)。仲哀記(応神紀)でも、禊のために角鹿へ行っていたのが還ってきており、平城山の坂を下りてきている。また、ホカヒするのは本来、神に乞うことだから、人→神であるはずが、少御神が乞う形になっており、神が人に酒を献っており、立場が逆転している。これは、サカホカヒゆえの話である。
 だから、記39歌謡において、「少御神の 神寿(かむほ)き 寿き狂(くる)ほし 豊(とよ)寿き 寿き廻(もと)ほし 奉(まつ)り来(こ)し 御酒ぞ」と歌っている。ホク(寿・祝・呪)こととは、祝い言をとなえて神に祈ること、すなわち、言葉を発して音声として唱えることを言っている。上に、甑である旨を記した。甑は蒸し器である。シューシューとけたたましい音声を立てて高温を保って中に入れた食物を加熱調理していく(注12)。その音声の激しさ、蒸気のめぐるさまを、「寿き狂ほし」、「寿き廻ほし」と表現している(注13)。甑から狂ったように大音声を上げさせ、廻るように大音声を上げさせている。うまい具合に強力に米を蒸している。酒造法の第一段階を述べているのである。酒はむかし粢(しとぎ)から造られたことがあるとされている(注14)が、そのような造り方ではなく、蒸し米を口で噛んで造ったと言っている。歌謡は、そのやり方で造った酒をもたらしたと歌っている。まさに神業に等しく、ゆえに、少御神が奉ったものであると言っていて正しいと知れる。
 そのことは、次の記40歌謡においても同様である。神功皇后(「其御祖息長帯日売命」)はうまいことをいうなあと感心して、その発想に乗っかって武内宿禰命が御子の代わりに答えている。「その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも」を、新編全集本古事記に、「その鼓を臼のように立てて、歌いつつ醸したからか、舞いつつ醸したからなのか、」(255頁)と訳している(注15)。酒を醸造するにあたって用意するのは、鼓ではなく臼の方である。臼を鼓に見立てることはあるであろう。それを逆転させて、「その鼓 臼に立てて」とあたかもそうであるかのように語(騙)っている。サカ(逆)ホカヒ(寿)だからである。
 ここで、「臼」はくびれのある臼である。わざわざそれを持ち出しているのは、米を臼に搗いて脱穀したという当たり前の事情を連想させるためである。杵で臼を搗く際、杵歌を歌いながら拍子をとって搗くことが多い。1つの竪臼を数人が取り囲んで一緒になって搗くのである。人が互いにあわせながら杵を上下させる様は、舞いの様子によく等しい。紀33番歌に、「醸みけめかも」と異同がある。「けむ」は伝聞で、「けり」は過去を表す。同じ過去を表す助動詞「き」との違いは、「き」が「確実に記憶にある」(岩波古語辞典1440頁)のに対して、「けり」は「そういう事態なんだと気がついた」(同)という意味を表す点である。「醸む」はカムことが発酵を促すことから醸造することをいう。記40歌謡は、この御酒を醸造したという人は、……歌いながら醸造したということだったのだなあ、舞いながら醸造したということだったのだなあ、」という意味である。誰が気づいたか。それは、神功皇后の巧みな比喩表現の歌によって、御子が気づいたということを建内宿禰が代わりに歌っている。だから、問答歌として機能している。記39番歌では酒米を蒸す工程が歌われ、それを聞いて、その前段階の酒米を脱穀する工程に気づきを得ている。工程が前後するのも、それがサカ(逆)ホガヒであるからである。
鼓(一遍聖絵、「広報ふじさわ2015年9月25日号」http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/sumafo/khf-s150925/sisei19_s.htmlをトリミング)
臼(直幹申文絵詞模本、源朝臣武智良写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541034/10をトリミング)
 どうしてそこに意識が向かったか。鼓と臼とは形状が似ているが、鼓には皮が張ってある。歌の流れでは、横向きの鼓の皮を剥いで縦向きの臼に仕立てて立てたということになる(注16)。御子(太子)の名はホムタであった。ホムタは鞆(とも)のことをいう。「上古(いにしへ)の時の俗(ひと)、鞆(とも)を号(い)ひて褒武多(ほむた)と謂ふ。」(応神前紀)。鞆は、弓を射るときに左手首に装着し、自らが弾いた弓の弦で怪我をしないようにする防具である。皮革製で、なかに詰め物をしていたようである。彼はその名を負っていたから、皮を張ったものが自らと同類として意識されていたのである。一皮剥けたものが臼と同等の形として文字通り立ち顕れた。
 ホムタという名にして「入鹿魚(いるか)」と名の交換をしたという話になっていたが、それは、蚊が血を吸ってその口先が、自らが吸って膨らんだ血でいっぱいの腹に向いた形に準えられる。イルカ漁に、血にまみれることとも相俟っている。鞆のような形をしていて中身が入っているものとしては、イルカほど大きくはないものに魚のカワハギがいる。皮をまるごとつるりと剥ぐことができる。カワハギの仲間に、ウスバハギ、別名、ウチワハギ、ハゲとも呼ばれる魚がいる。西日本でよく食されている。ウスバハギは鼻先が毀った形が特徴的で、体は膨らみ尾に向かって細くなっている。サイズ的には鞆にするのにちょうどいい。話をぐるりと転回すれば、ウスバハギの皮を剥げばウスが出てくるということになる。言葉のなかに秘められていた。この魚は遊泳力が乏しく、冬場に海が荒れると浜に打ち上げられることがあるという。角鹿の浜に朝行ってみると、「我に御食(みけ)の魚(な)給へり」という事態になっていて不思議でない種である。
左:鼻を毀てるようなウスバハギ(株式会社アルカン イメックス事業部「ウスバハギが豊漁です」https://e-imex.co.jp/2020/10/23/%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%8F%E3%82%AE%E3%81%8C%E8%B1%8A%E6%BC%81%E3%81%A7%E3%81%99/)、中:ウスバハギの皮剥き(「へんてこえ日記」様http://sake.pupu.jp/hentekoe/outdoor/fishing/2016/01/11/post-7244/)、右:鞆(正倉院宝物復元模型品、橿原考古学研究所附属博物館展示品、左右反転画像)
 そして、「あやに転(うた)楽(だの)し ささ」とある。ウタは転(うたた)と同源、はなはだ、とても、の意である。原義は転回である。コペルニクス的転回ほどに楽しいと喜んでいる。サカホカヒにして逆に言寿かれた形になっているので楽しいとしか言いようがない。最後の「ささ」はさあさあと勧める感動詞であるが、名詞で植物のササのことでもなる。篠(笹)(ささ)に酒を振りかけて戸外に置き、そこへ蚊を集まらせて人家に入れない方策がとられていた。和漢三才図会に、「酒を篠(ささ)の葉に灌ぎて傍隅(かたすみ)に挿さば、則ち蚊は皆其の篠に集まる。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569733/23)とある。旅程を終えて宮に入ることは、安心して飲酒できる環境が整うことに当たる。内外が逆転することを表すのに、「ささ」という掛け声が効果的なゆえに用いられている。言葉の使用において、その多重性、深みまで思いを致すことで、真の理解に至ることができた。

まとめ

 以上述べてきたとおり、酒楽歌とされる記39・40歌謡、紀32・33歌謡は、米を蒸して口噛み酒を造っていたことをもとにして歌われた歌である。別にあった歌、独立歌謡として存在した宮廷歌謡が説話に挿入されたのではなく、このお話の筋立てに従って忠実に作り上げられた歌謡である。このように記紀歌謡は、単独で歌謡としてあったことはなく、説話のなかにその限りにおいて成り立つものである。したがって、上代において散文と韻文とは、趣向こそ違え、ヤマトコトバの表現方法として言と事の一致を同じく目途に用いられており、言霊信仰の高みに達せんと欲していたと言えるのである(注17)

(注)
(注1)拙稿「古事記の名易え記事について」参照。記に詳しく、紀では上に記したように事情を伝えるのみである。

 故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾に言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)

(注2)先行研究に、理由づけをしたいがために、儀式にかかわることと把える傾向が見られる。土橋1972.は、この酒をめぐる唱和の歌を、神が造った酒を勧める勧酒歌、その酒を受ける謝酒歌の対であると捉え、「酒宴の目的を歌う儀式的な歌」(176頁)とする。中西2007.は、「息長帯日売命が醸んだ待酒(まちざけ)とは、歓待の酒という意で、即位に必要な儀礼である。……巡行を終えた人間が大和に帰ってきて即位する。それに先立ち、待ち受けて酒を飲むという儀式があったと考えたい。それを、後にも行われたであろう酒楽歌(さかくらうた)(さかほがい)をもって語るのがこの話である。ここにいう「石(いは)立たす少名(すくな)御神」はかつて飛鳥に出土した石神を想起させる。酒楽の中心となる石造物であり、待酒もこうした場で行われたであろう。」(197~198頁)とする。倉塚1986.は、「待酒」の」「マチには待つの意だけでなく、呪的な予兆の意もあるから、 巫女的性格をもつ母にふさわしく、成人して帰ってくる太子を呪的に予祝するための酒でもあったのだろうか。」(84頁)とする。久富木原1991.は、「酒楽歌はただ単に成人を祝うものではなく、即位を記念する歌という意味ももつ」(12/15)とする。猪股2016.は、「人と人ならざる存在との間の境界を横断し、超え、人と人ならざる存在との動作が連続する場を現出させるためにこそ、「御歌」と「答歌」の歌い合いが行われる。」(129頁)とする。
 基本は人間の本性である。花田1976.は李劼人を引いている。「かれは「働かざる者食うべからず」とはいわないであろう。なぜなら、食わんがためには―とりわけ、うまいものを食わんがためには、人は、すすんで働くものだということを、ちゃんと承知しているからだ。」(246頁)。
(注3)酒の首長、御酒の司、酒造りの司、酒をつかさどる長といった似たり寄ったりの考えが多い。森2016.は、「酒造りの場で働いていた諸々の者たちが自らの司(かみ)としてまつったもの」(148頁)とするが、具体像としての司(かみ、ミは甲類)と抽象化した神(かみ、ミは乙類)とをない交ぜにしている。
(注4)土橋1972.に、「この神酒は 我が神酒ならず」とあるのは「日常的な物を神聖化する呪詞の慣用型。」(170頁)とするが、海外の例などから類推されたものである。酒が日常的な物か、また、酒にうまい酒とまずい酒の違いはあったにせよ、聖なる酒と俗なる酒があると考えられていたのか、本邦古代の人の心性は明らかではない。
(注5)廣岡2005.に、「枕詞とは一体何なのであろうか。なぜこういう表現様式が起こってきたのであろうか。枕詞は修辞の一種であると言うことができるが、その起源となるとむつかしい。……言語遊戯としての枕詞を考えてみたい。私がいう「言語遊戯」とは概念が広くて、同音・類音の懸詞・繰り返しから、比喩・形容・連想・転用、更には説明表現までをさす。その基底に流れる言語意識は、正面から構えた表現ではなく、「言葉遊び」としての性格を帯びる。だからと言って、この「言語遊戯」が不真面目な表現を意味するものでは決してない。古代口承世界における自由な言語活動のありようであったと考えられる。」(355~356頁)、「『萬葉集』において孤例の枕詞が一九六例、二例の枕詞が六五例(計二六一例)存在し、『萬葉集』中の枕詞三九八例中、約六五パーセントを用例数僅少の枕詞が占めている……。……新たな言葉の技は徐々に展開されていったものと思われる。それを言語芸術と呼ぶのは余りにも大袈裟である。ささやかな局所的連接の言葉の綾という形で、後世呼ぶところの枕詞は形成されていったものと考えられる。」(375頁)とある。また、大浦2017.に、「「枕詞は訳さない」でいいのか、というテーマに対する答えであるが、訳したくても訳せない、というのがその答えであろう。それは「意味がない」からではない。意味が不明のものも含めて、「意味が分厚すぎる」ゆえに訳せないのである。」(8~9頁)とある。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「○伊波多々須(イハタヽス)は、石立(イハタヽ)すなり、多々須(タヽス)は、多都(タツ)を延たるにて、……立(タチ)賜ふと云むが如し、……常盤(トキハ)に坐ス意におつめり、寿歌(ホギウタ)なれば然(サ)もあるべきことなり、……常世ノ国に於(オキ)て其ノ御霊(ミタマ)の石(イハ)にて立(タチ)賜ふにもあるべし、【又常世ノ国に坐(イマス)とは、此ノ神の大凡(オホヨソ)を詔ひ、石立(イハタヽス)は、皇国にて処々に御像石(ミカタイハ)にて立チ給ふことを、詔へるにもあるべし、又とこよにいますを、常(トコ)とはの意とするときは、 石立(イハタヽ)し常世に坐(イマ)すとつゞく意にて、御像の石にて立チ給へば、常(トコ)とはに坐ス云にもあるべし、 ……】」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/234)とある。
(注7)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注8)筆者は、垂仁記の天之日矛説話の牛の「飲食」についても、スキモノと訓むと考えている。拙稿「古事記の天之日矛の説話について―牛を中心に―」参照。
(注9)拙稿「額田王の春秋競憐歌について」参照。
(注10)サカクラという訓みは、平安時代に成った琴歌譜の「十六日節酒坐歌二」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438600/21~23)にほぼ同じ歌が所載するところから唱えられている。賀古1985.参照。筆者は、「酒楽歌」(仲哀記)とある点から、「琴歌譜」の編者は、古事記に対しテキストクリティークをしていたとは考えない。
(注11)拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注12)近世以降の酒造りの大量生産に当たっては、大型の木製甑が使われた。その際、圧力で樽様に作られた甑が破裂しないよう、また、温度を保ち内部の蒸し米がベタつかないように縄がめぐらされて縛られている。それぞれの杜氏の手による独特の結い方であるという。甑の底の穴にはサルと呼ばれる蒸気弁が付帯するようになっている。
甑(月桂冠大倉記念館展示品)
 記39歌謡の「少御神の 神寿き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻ほし 奉り来し 御酒ぞ」部分について、「少名毘古那の神様が、無性やたらに祝ひなされ、幾度でも繰返し祝つて、献つてよこした御酒なのです。」(古典全書本古事記160頁、漢字の旧字体は改めた。)、「少彦名の神様が、神様ながら祝いつくして献上してきたお酒です。」(武田1956.104頁)、「少名彦(すくなびこ)の神様が、寿ぎのために踊り狂い、踊りまわって醸し、献上してこられた御酒でございます。」(土橋1972.169頁)、「少名毘古那の神様が、熱狂的に寿ぎ、滅茶苦茶に寿ぎ廻はして、造つて遙々常世の国から献上して来たお酒です。」(倉野1979.311頁)、「少名御神が 祝福し 祝福して踊り狂い (豊寿き) 踊り回って醸し 献上してきた由緒ある御酒です」(古典集成本古事記182頁)、「スクナヒコナノ神が、祝福して狂い踊り、踊り回って醸(かも)して、献(たてまつ)ってきた御酒(みき)です。」(次田1980.199頁)、「少名彦(すくなびこ)の神が 祝いに祝い 踊り狂い、祝いに祝って 踊り回り、献上して来られた 御酒です。」(大久保1981.97頁)、「少御神が祝福をつくして醸して、献ってきた酒である。」(思想大系本古事記204頁)、「少御神(すくなみかみ)が、大いに寿(ことほ)いで踊りまわり、神々しく踊り狂って醸して献上してきた酒です。」(新編全集本日本書紀449頁)、「少御神(すくなみかみ)が、祝福のために踊り狂って醸し、祝福のために踊り廻って醸して、献上してきた御酒です。」(新編全集本古事記255頁)、「少名毗古那神(すくなびこなのかみ)が 自(みずか)ら祝福し 踊り狂って祝い醸し 自ら祝福し 酒槽(さかふね)廻(まわ)って祝い醸し 献上してきた これがその御酒」(中村2009.375頁)、「少名御神が、祝福して踊り狂い、祝福して踊り回って【醸して】、献上してくれた御酒です。」(佐佐木2010.57頁)、「スクナミカミが、(我々酒造りの者たちを)熱心に歌舞させ酒臼の周りを取り囲ませて、大切に寿ぎまつってきたお酒なのです。」(森2016.163頁)などと訳されてきた。また、西郷2005.は、「酒の神少名御神が寄り来り、神がかり状態になって人びとを舞い狂わせ甕のまわりをくるくる廻らせて醸した酒と解すべきではなかろうか。」(250頁)としている。
(注13)土橋1972.に、「ここは酒を醸す時に酒甕のまわりで踊り狂い、歌舞の力を酒に感染させて醱酵を助けることをいうのである。「狂ほし」は狂わせる意、「廻し」は廻らせる意の、いずれも他動詞で、「酒」を「狂わせ」「廻らせる」意。実際は歌舞する人が「狂ひ」「廻る」のであるが、観念の上では、そうすることによって酒を「狂ほし」「廻す」のであり、具体的には酒をぷつぷつとよく醱酵させることである。だから元気よく踊れば踊るほど酒の出来がよい」(172~173頁)、西郷2006.に、「「狂ほし」「廻(モトホ)し」はクルフ・モトホルの他動詞だから、少名御神じしんが踊り狂い踊りまわる意ではありえない。……ここはやはり、酒の神少名御神が寄り来り、神がかり状態になって人びとを舞い狂わせ甕のまわりをくるくる廻らせて醸した酒と解すべきではなかろうか。そう解して始めて、「この御酒(ミキ)は、我が御酒ならず・・・・・・・」という句が真に生きてくる。つまり「神寿(カムホ)き、寿き狂ほし、豊寿き、寿き廻し」は、旋回しながら酒を醸すさまをいったものである。クルフ (狂)が回転することに関連する語であるらしいのは、クルマ(車)、クルメク(独楽のまわるさま)、クルル(枢、戸をまわす仕掛け)、クル(刳、回転させてうがつ)などからも容易に推測できる。」(250頁)といった説が述べられている。他の諸説については、森2016.に整理されている。
(注14)上田1996.、上田1997.参照。
(注15)他の訳に、「その鼓を臼に仕立てて醸したからでせうか、(そしてそれを打ちながら)歌つたり舞つたりして醸したからでせうか、」(古典全書本古事記161頁)、「その太鼓を臼にして、歌いながら作ったからか、舞いながら作ったからか、」(武田1956.106頁)、「鼓を臼のように立てて、歌いながら、踊りながら醸したからであろうか、」(土橋1972.177頁)、「その鼓を(酒を造る)臼の側に置いて、(その鼓の音に合せて)歌ひながら醸したからであらうか。舞ひながら造つたからであらうか。」(倉野1979.312頁)、「(その鼓)臼として立てて 歌いながら 醸造したからか 踊りながら 醸造したからか」(古典集成本古事記182~183頁)、「その鼓(つづみ)を臼(うす)のように立てて、そのまわりを歌いながら醸したからであろうか、踊りながら醸したからであろうか、」(次田1980.199~200頁)、「鼓(つづみ)をば 臼として立て 歌いつつ 醸したからか、舞いながら 醸したからか、」(大久保1981.100頁)、「鼓を臼のように立てて、歌舞しながら醸したからであろうか、」(思想大系本古事記204頁)、「その太鼓を 臼(うす)の上に立てて 歌いながら 醸したからか 舞いながら 醸したからか」(中村2009.375頁)、佐佐木2010.に、「自分の鼓を臼のように立てて、歌いながら醸したからなのか、踊りながら醸したからなのか」(58頁)とある。
(注16)釈日本紀に、「師説、古時臼辺立皷、以其鳴声杵歌也。」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100223819/viewer/421、句読点と返り点を施した。)とあるが、精米の歩合のことを指定することはないから、直ちに酒造と結びつかない。
(注17)記紀に即さずに考えるアプローチも歴史学や神話学には見られる。一例として、川崎2018.に、神仙思想による解釈が載る。「この酒楽歌には不死の世界である月(常世国)で、白兔(はくと)(少御神=少彦名命)が搗いた不老不死の仙薬(酒)を飲み干してくだされと構想されていることが知られるのである。答歌に「その鼓臼に立てて」とあるのも、白兔が仙薬を臼で搗く所作により、その霊妙性・神聖性を象徴的に表現したものであろう。根底に白兔が仙薬を臼で搗くという神仙思想があることを読み取ることによって初めてよく理解できる。」(57頁)とある。少御神が白兔であることの証明や、変若水(をちみづ)の信仰のない理由、月を常世国と認めていたとする本邦での文献について説明されない。文献は言葉で書いてある。

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