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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「東」字をアヅマと訓むことと枕詞「鶏が鳴く」について

2021年06月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 ヤマトコトバには、「東」字をもってヒムカシ(ヒガシ)と訓むばかりでなく、アヅマと訓む。枕詞「鶏が鳴く」を冠することも多い(注1)

  足柄坂を過ぎて死(みまか)れる人を見て作れる歌一首
 …… 今だにも 国に罷りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鶏が鳴く 東の国の〔鳥鳴東國能〕 恐(かしこ)きや 神の御坂(みさか)に ……(万1800)
  追ひて防人の別れを悲しぶる心を痛みて作れる歌一首〈并せて短歌〉
 …… 聞(きこ)し食(め)す 四方(よも)の国には 人多(さは)に 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男(あづまをのこ)は〔登利我奈久安豆麻乎能故波〕 出で向ひ かへり見せずて 勇みたる 猛き軍卒(いくさ)と ……(万4331)
 鶏が鳴く 東を指して〔等里我奈久安豆麻乎佐之天〕 ふさへしに 行かむと思へど 由(よし)も実(さね)なし(万4131)
 鶏が鳴く 東男(あづまをとこ)の〔等里我奈久安豆麻乎等故能〕 妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み(万4333)
  勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままのをとめ)を詠める歌一首〈并せて短歌〉
 鶏が鳴く 東の国に〔鶏鳴吾妻乃國尓〕 古(いにしへ)に ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿の 真間の手児名が ……(万1807)
 息の緒に 我が念(も)ふ君は 鶏が鳴く 東の坂を〔鶏鳴東方重坂乎〕 今日か越ゆらむ(万3194)
  陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ほ)ける歌一首〈并せて短歌〉
 …… 鶏が鳴く 東の国の〔鶏鳴東國乃〕 陸奥(みちのく)の 小田(をだ)なる山に 黄金ありと 申し給へれ ……(万4094)
  高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(もがりのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首〈并せて短歌〉
 …… 天の下 治めたまひ〈一云、掃ひ給ひて〉 食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の〔鶏之鳴吾妻乃國之〕 御軍士(いくさ)を 召し給ひて ……(万199)
  筑波岳(つくはのをか)に登りて、丹比真人国人の作れる歌一首〈并せて短歌〉
 鶏が鳴く 東の国に〔鷄之鳴東國尓〕 高山は 多(さは)にあれども ……(万382)
 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東なる〔阿頭麻奈流〕 陸奥山(みちのくやま)に 黄金花咲く(万4097)
  天平感寶元年五月十二日於越中國守舘大伴宿祢家持作之
 東道(あづまぢ)の〔安豆麻治乃〕 手児(たご)の呼坂(よびさか) 越えがねて 山にか寝むも 宿りはなしに(万3442)
 東路(あづまぢ)の〔安都麻道乃〕 手児の呼坂 越えて去(い)なば 我れは恋ひむな 後(のち)は逢ひぬとも(万3477)
  東人(あづまひと)の〔東人之〕 荷前(のさき)の箱の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも 〈禅師〉(万100)
  藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首
 庭に立つ 麻手刈り干し 布曝す 東女(あづまをみな)を〔東女乎〕 忘れたまふな(万521)(注2)

 以上は、万葉集にアヅマと訓むとされるものである。古事記では、「東」という表記に、ヒムカシと訓むものとアヅマと訓むものとが交用されており、景行記ではどちらに訓んだらいいのか定めきれない例も見られる。景行天皇代のヤマトタケルの時に、アヅマという言い方が発祥したとされている。

 東(あづま)の淡(あは)の水門(みなと)(景行記)
 東方(ひむかしのかた)十二道(とをあまりふたつのみち)(景行記)
 ……期(ちぎ)り定めて、東(ひむかし)の国に幸(いでま)して、悉く山河の荒ぶる神と伏(まつも)はぬ人等(ひとども)とを言向(ことむ)け和平(やは)す。(景行記)
 ……還り上り幸しし時に、足柄(あしがら)の坂本に到りて、御粮(みかりて)を食(は)む処に、其の坂の神、白き鹿(か)と化(な)りて、来立ちき。爾くして、即ち其の咋(ふ)ひ遺せる蒜(ひる)の片端を以て、待ち打ちしかば、其の目に中(あ)てて、乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きて、詔(のりたま)ひて云はく、「阿豆麻波夜(あづまはや)」〈阿より下の五字、音を以ふ。〉といふ。故、其の国を号づけて阿豆麻(あづま)と謂ふ。(景行記)
 是を以て其の老人を誉め、即ち東国造(あづまのくにのみやつこ)を給ふ。(景行記)

 「東」字を方角の east に用いてヒムカシと訓むことは、ニシ(西)の対として当然視されている。他方、アヅマと訓むことの理由は定かではなく、いわゆる「国訓」であると考えられている(注3)。その由縁は、都から東方に当たる現在の関東平野のことをアヅマの地と言っていたことに発祥し、以降、アヅマの地とされるところが、東海道、東山道にまで広げて認識されるようになったからであろうと考えられている(注4)。もちろん、今日の北海道のことを蝦夷(えみし)などと呼んでいた時、そのエミシという語に「北」字をあてて訓ませるなどといったことは行われておらず、アヅマ(東)ばかり特殊な用字法がとられている。
 説文に、「東 動く也。木に从ふ。官溥の説に、日、木の中に在るに从ふ。凡そ東の属は皆東に从ふ。」とある。また、「杳 冥き也。日、木の下に在るに从ふ」、「杲 明き也。日の木の上に在るに从ふ」とある。そして、「叒 日、初め東方の湯谷より出で、登れる榑桑は叒の木也。象形。凡そ叒の属皆叒に从ふ。」とある(注5)。これらをまとめると、日は最初、木の下にあって冥いが、やがて榑桑(扶桑)という桑の木をよじ登っていき、終いには木の上まで出てきて明るくなると捉えている。杳→東→杲というように日が木を登っていく。この解説については、金石文にある原初的な字の成り立ちとは異なるから説文の説明は誤りであろうとされているが、いま、それは問題とならない。上代のヤマトの人に、字書に伝えられてそういうものとして受け取られたであろうことこそ着目すべきであろう。彼らは漢字初学者であった。
 日が登る木は、榑桑という桑の木であると観念されている。ということは、日は木に登るために爪先立って登ろうとしているということになる。なぜなら、クハ(桑)なのだから、それはクハダツ(企)ということだとヤマトコトバの言語体系のなかに悟ることができるからである。クワダツとは、かかとをあげて背伸びをして遠くを望み見ることである。下肢の形状を観察すると、脛に対して足のかかとから爪先までの部分は直角に近い角度でついている。それは、農具の鍬(くは)に同じ関係で、その鍬の刃にしている面を鍬平(くわひら)、足のかかとから爪先までの部分は鍬腹(くわはら)、また単にクハと言った。
 すなわち、「東」という字は「日」が桑の木に取りつこうとしているところだから、かかとをあげて爪先立っている様子のはずである。そして、完全に明るくなった「杲」にはまだ至っていない時間帯に焦点が当たる言葉でなければならない。それは、鶏鳴時ということであり、そして、ニワトリの足を見ると、蹴爪まであって爪先立って歩いているように見える。クハダツものとしてニワトリは格好の対象である。ニワトリの足を見るにつけ、足で立っているというよりも爪で立っているように見える。足が爪化しているという観念で捉えられた。ア(足)+ツマ(爪、ツメの古形)なのである。

 足(あ)の音(おと)せず 行かむ駒(こま)もが 葛飾の 真間の継橋(つぎはし) やまず通(かよ)はむ(万3387、東歌)
 月夜(つくよ)よみ 門に出で立ち 足占(あうら)して 行く時さへや 妹に逢はずあらむ(万3006)
 宮人(みやひと)の 足結(あゆひ)の小鈴(こすず) 落ちにきと 宮人響(とよ)む 里人(さとびと)もゆめ(記81)
 大和(やまと)の 忍(おし)の広瀬を 渡らむと 足結(あよひ)手作(たづく)り 腰作(こしづく)らふも(紀106)
鶏が鳴く(Yasuto Pukeko様「にわとりの鳴き声、コケコッコーの連発」YouTube、https://www.youtube.com/watch?v=8TX-fMIU9fg&t=27sをトリミング)
 ここに至って、上代の人たちの思考がありありと浮かび上がる。「鶏が鳴く」のは日が木を登り始めている時間帯であり、字形に「東」であり、鶏が背伸びをしているように爪先立ってアツマ状態になって鳴いているのだから、アヅマというヤマトコトバを漢字で記すのに「東」という字を活用するのは理に適っていると了解されたのである。枕詞とそれが掛かるヤマトコトバ、そのヤマトコトバを書き記す漢字とが互いに共鳴する関係が出来上がっている。
 今日、枕詞はもはや語義がわからなくなってしまったものとして置き去りにされている。そして、ヤマトコトバを記す漢字については、漢字のほうからどう訓むかという視点で、「正訓」「借訓」「国訓」といった分類のもとに解釈されてきている。これらは、上代のヤマトコトバについて誤った理解であり、まったく理解していないに等しい。ヤマトコトバは無文字において確かな言葉(音)として成り立っていて隆盛を極めていた。そうでなくてどうして、枕詞のような、歌謡を中心とした使用を目的とする独立した修飾語句が生まれるのであろうか。あまりにもふくらみのある言葉を作り上げてやがて理解不能に陥るような言語感覚の人たちの前にはひれ伏すしかない。
 当時の人たちは、そんな謙虚さを身に着けていた。言葉が先にあって、その言葉をどうにか理解しようとして地名譚は生まれ、記紀に多数記されている。景行天皇代に記されるヤマトタケルの話でも、アヅマはアツ(当)+マ(目(め)の古形)、ア(吾)+ツマ(妻)なる譚によって説明されている。言葉をいかに文字に書き表すかは後の問題として持ち上がり、字書を引きまくって適当な文字を選んで当てている。その際にも、さまざまな譚を交えて選択されていると考えられる。ものの考え方がそういう考え方をしていたからである。漢字をどう訓んだかではなく、ヤマトコトバをどう記したか、それだけが飛鳥時代当時の言語の様相を知る立脚点である。「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に犂をつける如き転倒である。」(ソシュール)という言説は、飛鳥時代において、ヤマトコトバ以前に漢語について語ることにも当てはまることではなかろうか。
 以上、アヅマというヤマトコトバに「東」という字を当てて記した上代の人の知恵について述べた。

(注)
(注1)枕詞「鶏が鳴く」について、アヅマへのかかり方が問われることがある。第一説に、東国訛りが中央の人には理解できずに鳥のさえずりのように聞こえたから、第二説に、鶏が鳴くぞ、さあ起きよ、我が妻よ、という意味から、第三説に、鶏が鳴くと東国から夜が明けてくるから、第四説に、鶏の鳴き声は東天紅と聞えるから、といった考えが提示されている。第一説は鳥類一般の話になり、万葉集の表記にトリは仮名書き以外では「鶏」と記されている。当たるとするなら東国訛りがコケコッコーと聞えたということになろう。第二説はヤマトタケルの故事を転用した説である。第三説はアヅマという語をアプリオリに設定していて、言葉を導く機能として働いているとは思われない。第四説のトウテンコウと聞えることとアヅマとのつながりは、「東」をアヅマと訓むことを前提としていて解釈になっていない。筆者は、後述するように、第五説、ア(足)+ツマ(爪)説をとるが、今日目にする飼育種のニワトリでは、鳴く際に背伸びをするものもいればしないものもいる。品種差か個体差か未詳である。祖先のセキショクヤケイに探るべきことかもしれないが、いずれ説の域を出ないことである。
(注2)万葉集中に、「東」字をヒムカシと訓むとされる例は、万48・184・186・310・3886、アサコチに使われる例は、万2125(「朝東」)・2717(「朝東風」)、アユノカゼに使われる例は、万4017(「東風」)に見られる。
(注3)西宮1999.は、「東」の「国訓」であるアヅマの意味を二十巻本和名抄の「辺鄙(あづまづ)」に求め、アヅマという言葉の成立を新しいものと捉えて大化改新時期にアヅマの総称表記に「東」と決まったのではないかとする。万葉集の「東歌(あづまうた)」は「東の辺鄙の国の歌」という意味としている。西郷1995.は、都の東に存する辺境の地、フロンティアを意味する語で、その対偶項にサツマ(薩摩)があるのではないかと想像している。筆者は、アヅマという語の語源について考える立場になく、飛鳥時代当時、当該語がどのように感じられていたか、語感をのみ追究している。王朝語ではなく上代語に、アヅマという語が東方辺鄙性を含意しているとは感じられず、枕詞「鶏が鳴く」にもそのような意図は見えない。
(注4)わきまえておかなくてはならないのは、「東」字にアヅマなる新手の「国訓」を設けたわけではない点である。漢土から見て方角的に九州は east、「東」に当たるが、九州はアヅマではなく、関東平野、ないしは、畿内より東の東海道、東山道をアヅマとしていた。アヅマという語が先にあり、「東」という字は後から付いてきている。
(注5)淮南子には、「日出于暘谷、浴于咸池、拂于扶桑、是謂晨明。登于扶桑、爰始将行、是謂朏明。」(天文訓)、「暘谷榑桑在東方。」(墬形訓)、「朝発榑桑、日入落棠。」(覧冥訓)などとある。

(引用・参考文献)
西郷1995. 西郷信綱『古代の声〈増補版〉─うた・踊り・市・ことば・神話─』朝日新聞社、1995年。
西宮1999. 西宮一民「漢字「トウ」の国訓アヅマの成立」『皇学館大学文学部紀要』第三十八輯、平成11年12月。

(English Summary)
The kanji 東 represents Aduma as a region name in Japan, in addition to representing the direction of east in ancient Japanese, Yamato kotoba. The meaning of Aduma is not found in Chinese, and is regarded as a special reading in Japanese. And the makura kotoba "Chickens crow(鶏が鳴く)" was the standard poetic epithet used to refer to Aduma. The reason for them is unknown. This paper is a tentative plan to solve those questions. Chickens have bird spurs, and the toenails are thought to be called “a(toe)+ tuma(nail or claw)” in Yamato kotoba, and when they crow, it looks like they are standing on tiptoes. It was thought that the kanji 東 showed a figure on the way that the sun(日) climbed the tree(木), 杳→東→杲, as written in an old dictionary from China. At that time chickens crow.

万葉集において漢字字義とずれるかにみえる用字選択の賢さについて─「結」「音」「乏」「空」「竟」「尽」を中心に─

2021年06月07日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 前稿(注1)に引き続き、上代の漢字利用について検討する。万葉集は録音記録として残っているのではなく、文字記録として今日に伝わっている。そこに書かれてある漢字は、もともと表したかったヤマトコトバの語義に当てられて記されたものである。結果的に、書かれてある漢字を訓むことが、もとのヤマトコトバを再現することにつながっている。その際、一見、その漢字の字義にそぐわないのではないかと思われるものが発見される。和語の意味の広がりのままに、本来の字義とは異なりながら漢字を用いているのではないかという疑いが生まれる。奥田2016.は、古事記だけでなく万葉集においても「和化された字義を担う字の用法」があるとして、いくつか例をあげている。筆者は、その発想自体が誤りであると考えている。

「結」

 「結」字は、説文に、「結 締める也、糸に从ひ吉声」とある。したがって、次のような用字例は本来の字義とは異なり、和語の守備範囲に同じムスブというから用いられているのだと考えられている。

 命をし 幸(さき)く良けむと 石走(いはばし)る 垂水(たるみ)の水を 結びて飲みつ〔結飲都〕(万1142)
 泊瀬川 早み早瀬を 結び上げて〔結上而〕 飽かずや妹と 問ひし君はも(万2706)

 手で掬う意味は漢字の「結」字にはないから違和感が持たれている。しかし、漢字の「結」字には、締める義のほかにも、聚める義などもある。淮南子・氾論訓の「不於一跡之途」の注に、「結、猶聚也。」とあり、また、「車軌不於千里之外」(文子・自然篇)とあるのは、史記・孝文本紀の「故遣使者、冠蓋相望、結軼於道、以諭朕意於単于。」の注に、「集解韋昭曰、使車往還、故轍如結也。相如曰、結軌還轍。索隠鄒氏軼音逸、又音轍。漢書作轍。顧氏按、司馬彪云、結謂車轍回旋錯結之也。」とある用法に同じであろう(注2)。車の轍の跡が交わるようになっていることを言っている。筋が交差することである。線条に流れているものを一つに聚めることを「結」字に漢土に表している。
 すると、水の流れを条と見てそれを聚めるのであれば、「結」字で表して確かであると言えよう。やっていることは掌を上に器状につくってスクフ(掬)ことであるが、水溜りの水をすくいあげるのではなく、水の流れを聚めている。それをムスブと言って「結」の字を用いている(注3)。古語辞典にムスブの一義として、両手の掌を一つに合わせて水をスクフこと、と記す解釈は、表面的、短絡的な解釈であったと知られよう。そして、「和語」のムスブがために万葉集に「結」字が採用されているという解釈は誤りであると理解される。紐を結(むす)ぶのと、紐を使って締(し)めるのとはヤマトコトバにニュアンスが異なり、おにぎりのことをおむすびとも言うが、掬うことそのものを表しているとは考えられない(注4)。漢語の「結」においても、締めて聚めること、聚めるために締めることを示しているかと思われ、漢語の「結」とヤマトコトバのムスブの語が表す意味領域はほとんど同じであったとも目されてくる。

「音」

 音声をいう上代語には、オト・ネ・コヱの三種がある。オトははっきり聞こえる物の響きや人畜の声のことをいい、ネは人・鳥・虫などの聞く心に訴える音声のことで、楽器などの情感を含むものもいい、コヱは人や獣の発声器官による音で、音素に書き換えることの可能なものをいうのが原義とされている。そして、オトは、ネやコヱを含んだ広範囲の語であるとされている。

 …… そこ故に 為むすべ知れや 音のみも〔音耳母〕 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ ……(万196)
 夏麻(なつそ)引く 海上潟(うなかみがた)の 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず〔君者音文不為〕(万1176)(注5)

 ここにあげた二例の「音」は、評判や風聞のことをいう。漢土にその意味で「音」と言わないかというとそうでもない。「徳音」や「徽音」、「音徽」といった熟語にその意がある。詩経・豳風・狼跋に、「公孫碩膚 徳音不瑕」、小雅・南有嘉魚之什・南山有台に、「楽只君子 徳音是茂」、詩経・大雅・思斉に、「大姒嗣徽音 則百斯男」、文選・王倹・◆(衣へんに貞)淵碑文に、「風儀与秋月明、音徽与春雲潤、」などと、誉れの意に用いられている。名声がやまびこ、こだまのように響き渡ることである。一切経音義に、「谷響 香両反、考声云響者声之応也。孔注尚書云若響之応声也。説文従音郷声也。或作響或従言作響、経従向作嚮非。」(一切経音義、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240226/252)と見える。
 説文の字解では、「𨞰 国の離邑、民の封ぜらる所の郷也。嗇夫(しょくふ)の別治なり。封圻(ほうき)の内の六郷は、六卿之れを治む。𨛜に从ひ皀声」、「卿 卿は章也。六卿は、天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空。卯に从ひ皀声」、「章 楽の竟るを一章と為す。音に从ひ十に从ふ。十は数の終り也」などとあり、礼楽の届くところを郷と考えているように思われる。お触れが郷に届いて反対に貢物が都に届くことが打てば響く関係ということになろう。
 すなわち、噂のことをいうオト(音)とは、評判が村々に響き渡ることを言っている。郷のことはコホリ(郡・評、コ・ホは乙類)と定められた。「評」は、徴税のために天秤秤が置かれていたことの名称であろうか。村人たちは徴税に苦しめられてな(泣・哭)く。収穫の秋にな(鳴)く虫のことは、蟋蟀(こほろぎ、コ・ホ・ロはともに乙類)である。秋に鳴く虫の総称であった。なく声のことはオトであろうし、徴税の基準、何分取るか、上田か中田か下田かといったお触れに対して郷からわきあがるオトであろう。反響音のことはオト(音)だから、評判、風聞、噂のことは「音」字で表して漢字の字義に沿っていると考えられよう。現在、噂という字が常訓であるが、説文に、「噂 聚りて語る也」とあり、カタラフことと解されてメッセージのこととは捉えなかったものか、ウハサという語は室町時代に確認されるほどに遅れて生じた語である。

「耳」

 「耳」は感覚器官を表す語で、風聞の意に「耳」字を使う用法は漢土にないから、和語のミミの意味領域に引きずられて用いられているとされている。このように用いられているヤマトコトバのミミの例としては、万葉集に一例のみ知られる。

 我が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足ひく我が背 つとめ給ぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)

 原文「未」字を「末」に校異することがあり、「足のうれの」とも訓まれている。上代にミミ(耳)を風聞の意に解される例は他に見られない。別訓の可能性がある(注6)

「乏」

 数が少ないことをヤマトコトバにトモシと言うからそれに当てるのは「乏」字を当てるのは理解でき、一方、うらやましいの意味に「乏」字を当てるのは和語トモシの語義から範疇を広げた用法であり、漢字の字義にはないとされている。次にあげる上二例は漢字の字義に沿っているが、下の三例は和語に従った和化された字義なのであるという。

 倉橋の 山を高みか 夜隠(ごも)りに 出で来る月の 光乏しき〔光乏寸〕(万290)
 海山も 隔(へだ)たらなくに 何しかも 目言(めごと)をだにも ここだ乏しき〔幾許乏寸〕(万689)
 あさもよし 紀人(きひと)乏(とも)しも〔木人乏母〕 真土山(まつちやま) 行き来と見らむ 紀人ともしも〔樹人友師母〕(万55)
 島隠(がく)り 吾が漕ぎ来れば 乏しかも〔乏毳〕 大和へ上る ま熊野の船(万944)
 見まく欲り 来(こ)しくも著(しる)く 吉野川 音のさやけさ 見るにともしく〔見二友敷〕(万1724)

 ヤマトコトバのトモシという語には、乏しいの意味のほかに、灯火(ともしび)というように明かりを灯す意味がある。和名抄に、「照射〈蹤血附〉 続捜神記に云はく、聶支少き時、家貧しく常に照射をし、一白鹿を見、之れを射中てつ。明晨、蹤血〈今案ふるに、俗に照射は土毛之(ともし)、蹤血は波加利(はかり)と云ふとかんがふ〉を尋ぬといふ。」とある。辺りが暗いなか松明を焚いて狩りに出かけていた。そして、獲物を射当てた次の朝に明るくなってから、血痕をたどって白鹿が力尽きて息絶えているのを求め獲ている。この逸話が選択的に和名抄に引かれているのには訳がある。トモシとハカリという二つのヤマトコトバには関連があることが悟られるからである。血の滴り落ちた跡をつけていくように、たどって行ってたずねもとめることは、ヤマトコトバにトム(尋・覓・求)である。

 射ゆ鹿(しし)を 認(つな)ぐ川辺の 和草(にこぐさ)の 身の若かへに さ寝し児らはも(万3874)
 夜(よ)ぐたちに 寝覚めて居れば 川瀬尋(と)め 心もしのに 鳴く千鳥かも(万4146)

 ヤマトコトバのトモシ(乏)は、そのトム(尋・覓・求)と同根の言葉である。和名抄の説明に、幼少期の聶支は、照射(ともし)で夜の狩りを行って、翌朝にトム(尋・覓・求)ことをしていたと例示されている。手掛かりはトモシ(乏)いけれど、わずかな血痕(はかり)を認(つな)いで行ってだんだんと血痕の間隔が短く新しくなり、獲物は近いぞと計ることができてたどり着いている。乏しい手掛かりを何とか認(つな)いでトムことをしていけば、最終的に獲物を認(みと)めることができるということである。トモシという語が、「乏」の意味でもあり、「照射」の意味でもある点について、なるほど納得の語義説明である。
 弓を射ることは、狩りばかりでなく射芸にも盛んに行われた。その時には危険を回避するために、的の周りにも流れ矢が飛ばないように防護のための工夫がなされていた。ヤマガタ(山形)、ヤフセキ(矢防)と呼ばれている。和名抄に、「皮〈山形附〉 周礼に云はく、卿射の礼の五物の其の三に皮を曰ふ也といふ。本朝式に云はく、山形〈夜万賀太(やまがた)〉は侯(まと)の後ろ四つ許りに、紺の布を大に張り矢を禦ぐ者也といふ。為に旍を執る者を護り矢を禦ぐ也。〈此の間に、末止万宇之(まとまうし)と云ふ。〉」、「射乏〈司旍附〉 文選東京賦注に云はく、乏〈今案ふるに、即ち射乏也、但し射乏、和名は夜布世岐(やふせき)とかむがふ〉は革を以て之れを為(つく)り、旍者の矢を禦(ふせ)ぐを護り執る也といふ。司旍〈此の間に末止万宇之(まとまうし)と云ふ〉は旍を執り文(しる)す司、射て中(あた)るとき当に之れを挙ぐべしといふ。」とある。
 「乏」字は射乏のことで、流れ矢を防ぐために、的の周囲に立てた衝立や革を張った防御幕のことを言っている。前項に「山形」と呼ばれていたものと機能は同じである。紺の布製の幕が用いられている。内裏式に、「侯の後(しりへ)四許丈に山形を張る。〈紺の布を以て之れを為す。〉侯の辺に乏(ともし)を設く。〈乏、矢を避くる所以に、板を以て之れを為す。〉」と実施されている。的(侯)の周辺に乏があり、それらの裏側に山形があるところからして、ウラヤマシに対応する字であることがわかる。戦陣を設けるときには防御のために裏山を背にして陣を張った。だから、的外れの矢については裏山が防御の役目を担っていることになっていて、ヤマガタ(山形)と呼ばれるようになったと考えられる。
 この考えは仁徳記の黒日売説話に反映されており、「山形に 撒ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか」(記54)歌に結実している。地の文では「菘(菜)」と記され、タカナとも訓まれるが、アヲナと訓むべき「菘藍(スウラン)」のことで、藍を採るアブラナ科の二年草、「大青(タイセイ)」のことと思われる。青く染める染材で、山形にした紺の布はその成った物であろう。美しい色だから、ウラヤマシい意に当たって正しいと知れる(注7)
「乏」(山形)(年中行事絵巻写、国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541042/4~5をトリミング接合)
 ヤマトコトバは複雑に織り上げられたテクスチャーである。近代に catalog を型録と訳した例が知られるが、外国語をどう書くかの熟考の跡である。上代の課題は母語であるヤマトコトバをどう書くかであった。字が先にあってどう訓むかが問われていたのではなく、ヤマトコトバが先にあってどう書くか想いを巡らせていた。

「空」

 「空」は字義は、sky である。万葉集ではそれ以外に、用例の上三例は不安定な心地、下三例は不安定な状態を表すために用いられている。

 彦星は 織女(たなばたつめ)と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 川に向き立ち 思ふそら〔思空〕 安けなくに 嘆くそら〔嘆空〕 安けなくに 青波に …… (万1520)
 …… 玉桙の 道をた遠み 思ふそら〔思空〕 安けなくに 嘆くそら〔嘆虚〕 苦しきものを み空行く〔水空徃〕 雲にもがも  ……(万534)(注8)
 …… あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら〔嘆蘇良〕 安けなくに 思ふそら〔念蘇良〕 苦しきものを ……(万4169)
 た廻り 行箕の里に 妹を置きて 心空にあり〔心空在〕 地は踏めども(万2541)
 吾妹子(わぎもこ)が 夜戸出(よとで)の姿 見てしより 心空なり〔情空有〕 地(つち)は踏めども(万2950)
 立ちて居て たどきも知らず 我が心 天つ空なり〔天津空有〕 地は踏めども(万2887)

 上三例は多く下に打消表現を伴って用いられる。下三例は、古典基礎語辞典では「空なり」の形で形容動詞として扱っている。これらは、「空」字の漢土における用法に見られないから、和語ソラの意味領域の広さに起因して和化された字義を担うことになっているとする。白川1995.も、国語独自の表現で、漢字なら「気」と使うところと考えている(注9)。不安定な状態を表す例は、岩波古語辞典に、「《何もない空間の意から》うわのそらであること。そぞろであること。」(750頁)の意と解している。
 漢土において「空」という字が不安定な心地や不安定な状態を表すことが絶対になかったかといえば、そうとも言えない。仏典に見られる「空」の用法である。「空」とは、「もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ。」(佛教語大辞典278頁)である。解説に、「原始仏教時代からこの考えはあったが、特に大乗仏教において、般若経系統の思想の根本とされるようになった。大別して、人空と法空とに分ける。人空(生空・我空ともいう)は、人間の自己の中の実体として自我などはないとする立場であり、法空は、存在するものは、すべて因縁によって生じたものであるから、実体としての自我はないとする立場である。すべての現象は、固定的実体がないという意味で、空(欠如している、存在しない)である。したがって、空は、固定的実体のないことを因果関係の側面から捉えた縁起と同じことをさす。」(279頁)とある。実体が固定的であるとは思われないことをソラと言っていて「空」と書いて誤りでない。
 この考えが仮に正しいとしたとき、このソラという語が、ヤマトコトバに本来有していたものか、それとも仏教の影響下に生まれたいわゆる和訓であるか、といった別次元の問題が生じる。もとより真偽の確証は得られないものの、諳んじることをソラニスと言っていた。記憶からばかり暗誦している稗田阿礼の仕業には実体がない。そんな「空」に実体を与えようとしたのが太安万侶の書記活動であったわけであるが、稗田阿礼の暗誦は、何べん話させてもまったく同じことを言う誦習であった。何をくり返し話していたか。譚、すなわち、すべての物事の“縁起”である。仏教語に鏡のごとくである。地名の由来まで「訛(よこなま)れる」こととして話してくれている(注10)
 すなわち、言葉において諳(そら)にすることが意識されたのは、無文字で充足していたヤマトコトバが、書記される対象になると俄かに発見されたことに依っている。和訓であると考えて間違いあるまい。

「竟」「尽(盡)」

 船が停泊することについて、ヤマトコトバにハツという。「泊」字が用いられる(万151・274等)のは字義にかなっているが、「竟」、「尽(盡)」字は和語によるものであるとされている。

 大御船 竟(は)ててさもらふ〔竟而佐守布〕 高島の 三尾(みを)の勝野(かつの)の 渚し思ほゆ(万1171)
  秋雑歌 七夕
 天の川 水障(さ)へて照る 舟竟(は)てて 舟なる人は 妹と見えきや〔天漢水左閇而照舟竟舟人妹等所見寸哉〕(万1996)

 「竟」字は、礼記・曲礼上に、「入竟而問禁、」とあり、疏に、「竟 界首也」、また、「竟 彊首也」とある。「竟」という字は、境のことも意味し、境界に強首に当たるものがあったとされるのである。つまりは、引き抜けない杭が打ち込まれて境界標になっていた。そんな杭が船に乗って行くところと輿に乗って行く、または徒歩で行くところの間にあるとしたら、船をつなぎ留めておく杭、戕牁(かし)のことを言っていると悟ることができる。戕牁に船の纜(ともづな)をかけて流されないようにしている。もやい杭のことである。だから、船の係留のことをいうヤマトコトバのハツに「竟」という字を当てている。
有明海の“座礁”させて楽しむ潮干狩り(佐賀空港沖、中尾賢一「地層からみた干潟環境」徳島県立博物館文化の森ホームページhttps://museum.bunmori.tokushima.jp/cc/63.htm)
瀬田川のもやい船(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)
 下に示す万葉集の例でも「戕牁(かし)〔可志〕」(万1190)という語が出てきていて確かである。このことは、実は船の停泊形態として意味が深い。古代の船の停泊には、二つの形態があったと考えられている。一つは、ラグーンを停泊地として潮が引いたら船体が陸揚げされた状態になるものである。次の満潮まで綱を用いることなどなく絶対に流されることはない。周りに水がないからである。もう一つは、岸壁などに浮かせたまま係留するものである。海に出る大型船は前者の方が安定的に停泊させることができた。なぜなら、岸壁に船体が打ちつけられて損傷を起こすリスクがないからである。流れの緩やかな河川の渡し船のような場合、戕牁、もやい杭につないで浮かせて置き、使いたくなった時にいつでも船を出せるようにしていたと考えられる。「竟」字が用いられている万1171番歌の例は、後者のやり方だとわかる。「さもらふ」は様子をうかがいながら機を待つことである。係留して待機し、時化(しけ)や潮流のはやい時間帯の過ぎやった。
 万1996番歌は、七夕歌として難解である。別訓もある(注11)。ここでは、このように訓んで、天の川の水の流れるのを遮って(星の光を目立たなくして)照っている月読壮士(つくよみをとこ)が漕ぐ月の舟が泊ってしまって(地平線に没して暗くなって)、舟に乗っていた人(牽牛)はフィアンセ(織女)のことだと見えているのかな、という意と解しておく。仮にそうしたとき、「竟」字は川船に見立てているから戕牁のことが思い浮かぶし、月明かりが消えて月の一日が終っているから「竟」字が用いられているとも、月が天を渡りきっているから「竟天」、天の一方から他の一方に達することの意にもとれる。史記・秦始皇紀に、「九年、彗星見。或竟天。」とある。
 すなわち、漢字の字義を悟って「竟」字が選択されているのであり、和語経由に解釈し直して万葉歌の表記に用いたと考えることは誤りである。

 舟尽(は)てて〔舟盡〕 戕牁(かし)振り立てて 廬(いほり)せむ 名児江(なごえ)の浜辺 過ぎかてぬかも(万1190)

 尽(盡)字は、説文に、「盡 器中の空也。皿に从ひ㶳声」とある。器の中が空になることを言うとしている。一般的に、器は丸い。その丸いものが無くなることを「盡」というのであれば、願ったりかなったりのものが一つ思い浮かぶ。月である。月(つき、キは乙類)は影が尽きるものだからそう呼んでいて得心が得られている。月が尽きるのが晦(つごもり)である。舟がその機能を果たさなくなる時、それは、水上を進むことがなくなるとき、停泊したときである。月がその機能を果たさなくなる時は、明るく輝かなくなるとき、晦のときである。両者は符合、対称することだと思い及んで「尽(盡)」字で表したということになる。ラグーン停泊形態が日常的だったから、潮の満ち干にかかる月の状態はとみに密接に感じられていたことであろう。
 何を思ってそうしたかは、歌の設定が「なごえ」というところのことだからである。夏越(なごし)の祓を行うのは、六月三十日の晦である。歌意は、舟を停泊させてもやい杭をしっかりと打ち付けてそこにつないでおき、陸に上がって廬を作って籠ろう。場所はナゴエという浜辺だから、お祓いをしないと通過することはできないだろうから、というものである。諒闇の儀にまで及んで潔斎しようというのである。巻九の「羇旅(たび)にして作る歌九十首」の一つである。地名をはじめて聞いて言葉に連想を広げて歌が歌われている。歌意が理解されれば、六月から七月への月替わり、夏から秋への行事のことを言っていると気づくことができ、月の尽きること、月の舟が見えなくなることを表すために的確な用字として選ばれているとわかる。和語の意味の守備範囲から用いられるに至った用字ではない。

まとめ

 以上から、奥田氏の指摘した「和化された字義を担う字の用法」(万葉集篇)は、ことごとくその考えの設定に間違いがあることが検証された。前稿(注1)と併せ、「和化された字義を担う字の用法」という発想は、古事記・万葉集において認めがたいことが論証され、氏の論拠は覆された。論拠が成り立たないことは、結論の無意味さに同じである。「和語を漢字によって表記する要求が先行していたのであり、本来的な字義との対応関係を厳密にするという意識はむしろ希薄であったと考えられる。」(64頁)とあるが、この言説の無意味さとは、この言説がナンセンスであるということである。「和語を漢字によって表記する要求が先行していた」とか後行していたとかいった問題ではなく、「和語を漢字によって表記する要求」しかなかった。そしてまた、「本来的な字義との対応関係を厳密にするという意識はむしろ希薄であった」のではなく、ヤマトコトバの「本来的な」語義をその使用のなかに深く考え突き詰めたがために、その「対応関係を厳密にするという意識」が冴えわたっていて、一生懸命当てはまる「漢字」を探したのであった。軸足を置いていたのは母語であるヤマトコトバの語義であり、その深奥にかなう記号として「漢字」が求められていた。
 ヤマトコトバを無文字に使っていた人が、漢字という文字を知ってヤマトコトバを記そうと漢字をチョイスしているだけなのである。逆の要素、書かれている漢字、すなわち、漢籍をヤマトコトバに訓むことは、そのとき求められていない、より正確には、求めていない。一字一音(より正確には一音一字)に書き記した箇所が、古事記にも万葉集にも多く見られる。ヤマトコトバの音を字に変換している。それはつまり、ヤマトコトバの言葉を漢字に変換しているのである。漢字をヤマトコトバの言葉に変換しているのではない。外国語学習など視野にない。なぜなら、言語としてのヤマトコトバは必要にして十分であり、他の言語を学ぶには及ばないからである。本当なら、書記の必要もなくて、稗田阿礼や額田王のように暗誦をもってすべてをコミュニケーションとするに足りている。それが飛鳥時代までの言語形態であり、訓読のための訓読はそれ以降になって、新しい言語観のもとにはじめて行われたものである(注12)

(注)
(注1)拙稿「古事記において漢字字義とずれるかにみえる用字選択の賢さについて─「塩」「控」「画」「走」を中心に─」。
(注2)玉篇に、「結 吉姪反。尚書結于民、孔安国曰、与民結怨也。毛詩心如結兮、伝曰言執義一則用心固也、左氏伝使陰里結之、杜預曰結成也、又曰衣有襘帯結、杜預曰結也、又曰成而不結、杜預曰不結国固也、又曰始結陳好、野王案結猶搆也、楚辞結余軫於西山、王逸曰結旋也、淮南君子行斯手其所一レ結、許叔重曰結要也、呂氏春秋車不軓[軌]、高誘曰結交也、説文結締也、広雅結詘也。」と見える。
(注3)万葉集では仮名書きにムスビと記された歌もある。

 白玉の 五百(いほ)つ集ひを 手に結び〔手尓牟須妣〕 遺(おこ)せむ海人は むがしくもあるか(万4105)

 「白玉の五百つ集ひ」とは、白玉五百個ほどの集まっている様子である。それを「手に結び遺せむ」と言っている。仮に、ムスブという語が手で掬うことを逐語的に表すのであれば、「手に」と冠する必要はないはずであるが、手以外でも掬うこと、例えば「海人」がタモ網などを使って掬いあげることはムスブとは言わないであろう。この歌の眼目は、海人が手に結び起すことの興趣、ムガシ、美徳であることを歌わんとしている。なぜなら、海人は危険な重労働を冒しながら文句ひとつ言わず白玉をたくさん届けてよこし、その名が知られることさえない。新撰字鏡に、「匊 居六反、両手也、四指也、手中也、掬字也、牟須不(むすぶ)」とある点は、解釈の参考とするに十分である。ムスブ(匊)の説明に、「両手也」、「手中也」とあるばかりか、「四指也」と記されている。四番目の指は今の薬指のことであるが、上代に、ナナシノオユビと呼ばれていた。和名抄に、「無名指 孟子に云はく、無名指〈奈々之乃於与比(ななしのおよび)〉といふ。野王案に第四指也とす。」とある。掌で器を作る仕草がどうして「四指」なのかは俄かに解しがたいが、万4105番歌の歌意はそのとおりであろう。
(注4)童謡に、「結んで、開いて、手を打って、結んで、……」とある。片手ずつグーの手にすると思われる。
(注5)この例は、音沙汰、おとずれ、たよりのことをいう。ヤマトコトバのオトヅレ(訪)は、オト(音)+ツレ(連)の意と考えられており、「音」字を用いることに違和はない。
(注6)拙稿「石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─」参照。
(注7)拙稿「仁徳記、黒日売説話について」参照。
(注8)「思ふそら〔思空〕」「嘆くそら〔嘆虚〕」が字義の転化、「み空行く〔水空徃〕」は「空」の本来の字義にかなうものと位置づけられている。
(注9)白川1995.442頁。
(注10)語素として「空耳」「空言」「空頼め」、接頭語として「空嘯く」「空恐ろしい」などと展開したところは、「実」に対する「虚」の意味から質を伴わない、表向きだけであるからと説明されている(日本国語大辞典第二版⑧507頁)が、耳がなまっていて聞こえる音、口がなまっていて喋ること、恐怖感の見極めが訛っていてわからないほどに恐ろしい、といった説明のほうが馴染むものと考える。
(注11)代表的な訓に、「天の川 水さへに照る 舟竟(は)てて 舟なる人は 妹と見えきや」、「天の川 水底(みなそこ)さへに 照らす舟 竟(は)てて舟人 妹に見えきや」などがある。
(注12)このことは、実は現代においても多くの課題を孕んでいる。現代人はコンプライアンス、エビデンス、ログインパスワードなどといった外来語に翻弄、困惑されているが、これまでも社会言語学に指摘されてきたように、導入者によるまやかしであることが第一の問題である。と同時に第二の問題として、よくわからないようにするのが恰好いいと思う心情を持ち合わせている点である。生半可に学校で勉強してしまったことが汚点となっている。その格好いいと思う先頭に、官僚や学者や経営者やそのお先棒を担ぐクリエーターやコメンテーターなる人たちがいて、外来語のカタカナ語が押し付けられている。そんなことを飛鳥時代の人はしなかったが、漢籍を読むと新しいかに見える知識が手に入ったがための副産物として行われ始めたようである。したがって、そちら側を志向している限りにおいて、稗田阿礼や額田王の言っていることなど理解することはできないと言える。思考の指向方向が異なる。子どもを含めて広く一般に口頭で説明できて理解される内容、事柄、仕方に値するものこそ、記紀万葉の題材であろう。伝え得るもののみを伝えて伝わり得たもののみ記紀万葉として今日読むことができている。文字の指向する秘匿性と無文字の指向する公開性とは対照的なものである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
奥田2016. 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』塙書房、2016年 。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
日本国語大辞典第二版⑧ 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第八巻』小学館、2001年。 
佛教語大辞典 中村元『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍、昭和56年。

(English Summary)
It was a dystocia when ancient Japanese, Yamato-Kotoba, who had no characters, ideographically acquired the character Kanji. To reach a true understanding, we need to be present at the scene, and deductive reasoning makes the wrong conclusions. In this paper, examining some examples of Kanji in Manyosyu, as with Kojiki, we will notice that the previous way of thinking was beside the point.

古事記において漢字字義とずれるかにみえる用字選択の賢さについて─「塩」「控」「画」「走」を中心に─

2021年06月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
ヤマトコトバを記すための漢字利用

 日本語で mountain に当たるヤマは漢字に「山」と書く。最初に行った人は、ヤマトコトバにヤマという言葉を「山」という漢字に著して正しかろうとして行ったというのが本質である。今日、「山」という漢字を見て、音読みにサン(セン)、訓読みにヤマと言っているのは、視覚が優先された言語活動である 。流れとして、文字から音声となっている。上代に初めてヤマという言葉に「山」という漢字を当てた時、音声から文字へという流れになっていたはずである。この感覚の違いはときに見過ごされる 。
 古事記に用いられている漢字の字義を考えたとき、どうしても見て読むもののため、文字から音声への流れに縛られてしまう。 漢字の本来の字義に合わないのではないかと違和感を抱き 、漢字の字義に「和化」の傾向を読み取ってしまうこととなる。時に「国訓」(注1)とも称される。確かに、我が国に独自の訓読みが行われたという現象はあったであろう。「東」という字に対して、トウというのは音読みで、ヒガシ(ヒムカシ)というのは訓読みである。ところが、本邦にしかありえそうにない特殊な読み方に、アヅマというのがある。当初、関東地方のことを示したであろうアヅマという言葉に対して、「東」という漢字をもって表すことにしているので、その読み方は「国訓」という分類で正しいかと思われる。だからといって、その概念を無批判に広げて行くと際限がなくなることになる。
 日本書紀についてはこの議論は徹底されていた。釈日本紀に、「彼書薄靡為薄歴。高誘注云。風揚塵之貌也。若如此文者タナヒク読者与彼相違也。如何。○答。此書。或変本文、便従倭訓。或有倭漢相合者也。今是取倭訓、便用彼文也。未必尽従本書之訓。然則暫忘彼文。猶タナヒク読也。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/380、漢字の旧字体等は改めた。)とある。ヤマトコトバのタナビクを漢字にして書くときに「薄靡」としてみたというところが肝なのである。つまり、出典はひとりヤマトコトバにある。
 とはいえ、該当箇所が古事記にもない「薄靡」をタナビクと訓んでいいのか、平安時代の講書の生徒ではなくとも心もとなくなる。そういうことを考慮せずに日本書紀の筆録者は書き記したのであろうか。誰かに訓み方を「秘訓」という秘伝で伝えていったからそれで大丈夫だと思ったのであろうか。それは少し違う。
 「薄靡」は字を追った時、「靡」はナビクと訓むことに抵抗がない。すると、「薄」でタと訓むことが期待されているらしいと思い至る。「薄」字は、ウスシ、ススキなどと訓める。「薄」という漢字のもともとの意味に、秋の七草のススキという植物名を示してはいない。「国訓」の一例である。ススキはまた、芒、薄木とも記される。どうしてススキを「薄木」という字に書くことにしたかはさておき、そう記した時、「薄」字はヤマトコトバの字音にしてススに当たる。スは万葉集では万葉仮名に「数」と書かれる。カズ(数)を書くとき、横棒を引いていた。一、二、三である。スーと横にひいて一、スースーと横に引いて二である。ススとは「数」を二本、横に引くことで、空中で手を横にスースーと二度わたらせる仕草は、ちょうど棚板が二段あるように示す仕草に同じである。秋のススキは穂をたなびかせているではないか。ここに、「薄靡」はタナビクという語義にきちんと合致した表記であると“理解”するに十分である。ススキに「薄」字を当てた理由まで述べてしまった。
 こじつけではないかという批判は甘んじて受け容れる。なぜなら、そのこじつけ思考こそ、無文字時代にヤマトコトバに暮らしていた人々の「野生の思考」(レヴィ‐ストロース)だったからである。文字がないときに言葉をいかに“参照”するか。その参照システムとは、言葉は事柄と同一であり、一つの言葉は一つの概念を構成し、実際の事柄として具現しているという大原則を以て成していた。こじつけ思考が体系化していた。記紀の文脈においてそのとおりである。
 一方、神田1983.は、日本書紀の一見不思議に思われる古訓29例について、その正しさを漢籍の使用例から確証している。正しさとは、よくよく考え練られてヤマトコトバとして訓むことができるようになっているという意味である。その「結語」に、「以上、余の討究せし古訓凡て二十九條を通じて窺ひ得たる所は、
 一、古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なること
 一、古訓の一見疑はしきものも、必ず何等かの典拠に本づくものなること
 一、古訓には今日古典の正統的注釈書と認めらるるものに、必ずしも依拠せざるものの多きこと
 一、六朝時代より隋唐の世に亙りて、彼土に行はれしと思はるる俗語の極めて正確に訳されあること
の四点なり。」(414頁)としている。神田氏に直接の言及はないが、重要な点は、漢籍をいろいろ調べてみて、めぐりめぐって、ああ、そうか、なるほど、古訓の訓み方は尤もなことだと気づかされる、というところにある。やたらと難しい漢字の熟語を使いながら、ふだん使いのヤマトコトバを表している。漢籍の例のなかでこじつけ思考を展開させ、確かだろう、とやっている。いずれ、「野生の思考」のなせる業として古訓と呼ばれるものは成立している。残念ながら、このこじつけ思考は現代の科学的思考と相容れないため、理解の領域に含まれることが難しくなっている。

「塩(鹽)」字について

 科学的思考に慣れてしまうと、漢語と和語との関係を“整理”する方向へと進んでしまう(注2)。しかし、これは、当時の状況を再現するのには誤ったアプローチである。論より証拠で、具体例に当たればわかる。奥田2016.は、古事記の中でいくつか和化された字義を担った訓み方が行われている例を挙げている。その例から、まず「塩」字について検討する。

 故(かれ)、二柱の神、天の浮橋に立たし〈立を訓みて多々志(たたし)と云ふ。〉て、其の沼矛(ぬほこ)を指し下ろして画(か)きたまへば、塩こをろこをろに〈此の七字、音を以ふ。〉画き鳴(な)し〈鳴を訓みて那志(なし)と云ふ。〉て、引き上げたまふときに、其の矛の末(すゑ)より垂(しただ)り落ちたる塩、累積(かさな)りて島と成れり。是、淤能碁呂島ぞ。〈淤より以下の四字、音を以ふ。〉(故、二柱神、立立云多々志天浮橋而、指‐下其沼矛以画者、塩許々袁々呂々邇此七字以画鳴鳴云那志而、引上時、自其矛末垂落塩之、累積成嶋、是、淤能碁呂嶋。淤以下四字以。)(記上)
 爾くして、八十神(やそかみ)、其の菟に謂ひて云ひしく、「汝(なむぢ)が為まくは、此の海塩(うしほ)を浴(あ)み、風の吹くに当りて、高き山の尾上(をのへ)に伏せれ」といひき。故、其の菟、八十神の教(をしへ)に従ひて伏せり。爾くして、其の塩の乾くに随(まにま)に、其の身の皮、悉(ことごと)く風に吹き析(さ)かえき。(爾、八十神、謂其菟云、汝将為者、浴此海塩、当風吹而、伏高山尾上。故、其菟、従八十神之教而、伏。爾、其塩随乾、其身皮、悉風見吹析。)(記上)

 漢字の字義において、塩は salt、潮は tide のことだから、上にあげた例は、本来的な漢字の字義に意味的に対応していない。とはいうものの、いわゆる借訓字(「丹寸手ニキテ」…和幣の意)とは異なっていて、意味としては違うが訓みとしては同じだから、そう使ってしまったのだとされている。「本来的な字義よりも表記される和語のよみに対応する字訓へ向かおうとする意識があったのではなかろうか。そこには、表記される和語と字訓字における和訓との同一視があったと考えられる。」(31頁)という。
 この議論に、漢土の字書に字義をよく検討されている一方で、ヤマトコトバの語義に関しては深慮されていない。
 古典基礎語辞典の「しほ シオ【潮・汐・塩】」の項に、「解説」として、「シホには、①満ち干する海水、②食塩、という二つの意味がある。上代における①と②の表記は、『日本書紀』では、①を「潮」、②を「塩」と書き分けている(海路の神と考えられるシホツチノヲヂを「塩土老翁」「塩筒老翁」と表記する例のみが例外)。『古事記』や祝詞では、「潮」の字は一切用いず、①も②「塩」と表記する。『万葉集』では、①を「潮」と表記する例と、「塩」と表記する例とがある。ただし、②を「潮」と表記することはない。なお、シホという語形をもつ語には、①②のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などが海中に没したり、姿を現したりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)も潮・塩と語源が同じということになる。」(604頁、この項、北川和秀)とある。
 この秀逸な解説に、我々は言葉というものに対する考え方をもう一度見直す必要があると知らされる。 ヤマトコトバにシホという言葉をカテゴライズするときのあり方についてである。この salt のことを何と言うの? という問いに、それはシホ(塩)というものだよ、という答えがある。どうしてシホと言うの? というさらなる問いに、それは tide のことをいうシホ(潮)が波打ち際の潮だまりに溜まって干上がってできたものだからだよ、と答えがある。では tide をどうしてシホというの? という重ねての問いに、それは一度や二度ではなく何回もくり返された結果できあがるものだから、the frequency of the dying と染め物用語になっているシホ(汐)のことと同じだからだよ、との答えがある。回数のことに使われるようになって「八塩折之酒」(記上)、「八塩折之紐小刀」(垂仁記)という例になっている。それがどうしてシホというの? なる更なる問いに対しては、それは salt のことをいうシホ(塩)がそうやってできるものだからだよ、という答えがある。これを延々とくり返してどうしても理解できない輩に対しては、わからぬ奴とは話しができないと言って、その言葉どおりに話してくれなくなる。ゲーデルの不完全性定理を証明しようとしているのではなく、ヤマトコトバが一つの系のなかに円環的に定位していることを悟るしか話しはできず、それはすなわち知恵の体系そのものであったからである。今日の研究にその構成を理解しようとしなければ、何ら理解していることにならないことになる。したがって、古事記のなかで用いられている「塩」という漢字の字義について詮索していることは、漢人が目にしたらどうであろうかと探っているばかりで、ヤマトの人の頭の中とは無関係な研究である(注3)

「控」字について

 故、天皇、筑紫の訶志比宮(かしひのみや)に坐(いま)して、熊曽国を撃たむとせし時に、天皇、御琴(みこと)を控(ひ)きて、建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおほおみ)、沙庭(さには)に居て、神の命(みこと)を請ひき。……爾くして、天皇の答へて白さく、「高き地(ところ)に登りて西の方を見れば、国土(くに)見えず。唯に大き海のみ有り」とまをして、詐(いつはり)を為る神と謂(おも)ひて、御琴を押し退(そ)け、控かずして黙(もだ)し坐しき。……是に、建内宿禰大臣が白ししく、「恐し。我が天皇、猶其の大御琴を阿蘇婆勢(あそばせ)〈阿より勢に至るは音を以ふ。〉」とまをしき。爾くして、稍(やをや)く其の御琴を取り依せて、那麻那麻邇(なまなまに)〈此の五字、音を以ふ。〉控きて坐しき。(故、天皇、坐筑紫之訶志比宮、将熊曾国之時、天皇、控御琴而、建内宿禰大臣、居於沙庭、請神之命。……爾、天皇答白、登高地西方者、不国土。唯有大海、謂詐神而、押‐退御琴、不控、黙坐。……於是、建内宿禰大臣白、恐。我天皇、猶阿‐蘇‐婆‐勢其大御琴。〈自阿至勢以音。〉爾、稍取‐依其御琴而、那摩那摩邇〈此五字以音。〉控坐。)(仲哀記)

 奥田2016.は「控」という字を挙げている。琴を弾くこと、演奏すること、play の意味(注4)は「控」という字に漢語としてはないから「国訓」になると捉えている。
 白川1995.には、「ひく〔引・曳・牽〕 四段。手で自分の方へ引き寄せる。力を入れ、抵抗を排して、自分に近づけることをいう。……ヒは甲類。」、「ひく〔弾(彈)〕 四段。絃楽器を弾奏することをいう。爪でかき引くようにして演奏する。弓を弾くこともいう。「引く」「曳く」と同源の語。ヒは甲類。」(639頁)とある。「同源」とある源たるヒクというヤマトコトバが、どのようにカテゴライズされているか見極める必要がある。上古音にヒクは[piku]という破裂音に近いものであったと考えられている。すなわち、ヤマトコトバのヒクは、擬声語、擬態語に由来する可能性が示唆される。物を牽引するとき、最初、静止摩擦力の大きさからなかなか動かないが、いったん動き始めると大した力を入れずとも引き続けることができる。その最初のインパクトの様子は、緩んでいたロープがピンと張り、ビクともしなかった物体が最後の抵抗を撥ね退けて動き出すところである。音をもって言葉であった無文字時代に、ヒクという語の出自が印象づけられるであろう(注5)
 このような擬音語・擬態語的な考えによるものとすれば、「控」という字が用いられていることに関して、太安万侶の用字はあながち誤用であるとは言えない。「控」は漢土の字書、注釈に「引也」とある点ばかり気にかけているが、荘子・外物篇に、「儒(わたくし)の金椎を以て其の頤(あご)を控(う)つ(儒以金椎其頤)」とある。「死者の口中の珠を盗むために、顎をうち外すその音をいう擬声語である。」(白川1996.524頁)という意味である。コウ khong という音が聞こえてくる。その用法はヤマトコトバのヒクの意味とは別義であると反論されそうであるが、漢土において一字=一義=一音であることは大原則であり、同根の語と見做されて「控」一字に収まっていると考えられるであろう。本邦に、ヒク(引・曳・牽・弾)一語に収まっている点と照合するに、擬声語の「控」字を用いて楽器である琴の弦をひくことに援用することは、鳴弦の儀などが行われていたことにもかなうことで、考え落ちとしての魅力が感じられるものである。この考え落ちの傾向は、上に述べた釈日本紀の「薄靡」をタナビクと訓むことに一抹の疑いも挟まない点とよく符合する。ヤマトコトバのヒク、タナビクをどう書いたらいいかと模索していて、それぞれにうまく書けたと悦に入っているさまが目に浮かぶ。
 したがって、「控」という字のヒクという訓み方を琴をヒクことにまで広げて訓んだとすることを「国訓」という分類定義に嵌めている点につき、考え方の原点に帰れば、本来ならヒクというヤマトコトバを漢字で当てるのに「控」という字を持って来たばかりであるとするのが正答である。弦楽器の弦と弓具の弦はどちらもツルであり、そのツルをひいてはじく動作がともに行われている。漢字の本来の字義と違うとする間違い探しの問題ではなく、機知の豊かさこそが語られなければならない。後に常用されるに及んでおらず、太安万侶の洒落がわからなくなってしまったというにすぎない。万葉集に戯書、戯訓の類が見られる(注6)が、ヤマトコトバをおおらかに表記している様相からは、現代のガス工事業者が「煙突」のことを「延凸」と書いて楽しんでいるのと同じことなのだと理解される。延びていって出っ張っているものがエントツである。飛鳥時代に学習指導要領などがあるわけではなく、明治期の文豪が今となっては不思議に妙なる当て字を好んでいる(注7)ことからも、現代人のものの考え方のほうの狭さを顧慮、危惧しなければならない。

「画」「走」字について

 奥田2016.では、ほかに、これまでは借訓字とされていたが狭義の訓字であると判断して和化された字義を担う字の例をあげている。上掲の「指‐下其沼矛以画者、塩許々袁々呂々邇此七字以画鳴鳴云那志而」部分の「「画」は、狭義の訓字として、さし入れ、掻く、といった義に解するのが、「画」の本来的な字義、および「カク」の語義に沿い、文脈的にも意が適うと考えられる。」(42頁)としている(注8)。どうしてそのような用法が本邦に、太安万侶に生まれたかについては言及がない。
 漢土の「画(畫)」の、かぎる、の意には、文字を構成する線をかくことも含まれており、ひと筆で書くかぎりのことを示している。古事記の用例では、途中で水面から引きあげることなく一筆書きのようにかくことをしているという意味を表そうとして、「画(畫)」字を用いたと考えられる(注9)。説文に、「劃 錐刀を劃と曰ふ。刀に从ひ畫に从ふ。畫は亦声なり」とある。すなわち、筆で紙や木簡に字を書くことが想定されているのではなく、金属の「矛」を使っているのだから鏨で鉄剣に銘を掻き刻む際の槌打ちと削れる音、コ・コ・コ・キ・キ・キといった音に対して、海水だからコ・ヲ・ロ・コ・ヲ・ロになる、という考え落ちなのであろう。彫金で文字を刻む際に、一画を途中でとめて刃を浮かせたらきれいには仕上がらない。ヤマトコトバのカクの原義に当たれば、「掻」という字に最もわかりやすいところであり、それを個別具体的に記す際、海水を「掻」くとしたのではコヲロコヲロという音を表現することに遠いことに気づかされる。太安万侶の知恵が優っている。
 また、「「走就湯津石村」の「走」の意味は、漢語「走」ではなく、和語「ハシル」に帰すべきものと案ぜられる。」(44頁)としている。

 爾くして、其の御刀(みはかし)の前に著ける血、湯津石村に走り就きて成れる神の名は、石柝神。次に根析神。次に石筒之男神。〈三神〉(爾著其御刀前之血、走‐就湯津石村、所成神名、石析神、次根析神、次石筒之男神。〈三神〉)(記上)

 ヤマトコトバのハシルにはほとんど同義の語としてワシルがある。実際のところ、両語がどのように違うのか不明ながら、白川1995.の「はしる」の項に、「勢いよく早く進む。「す」は他動詞、下二段。」(615頁)とある。スピードを出して進むことで、そのような進み方をするものに馬がある。ハスの意味を「馳」といった字を用いることは彼此ともども意味の領域を同じくしていたからであると理解される。説文に、「馳 大いに驅す也」、「驅 馬の馳す也」とある。また、「走 趨る也」、「趨 走る也」とあって互訓である。しかるに、「走」と「趨」との違いは、字に見える「芻」であると思われよう。「芻」は説文に「刈艸也」とあり、刈り草、まぐさのことである。秣(まぐさ)を持ってきてばらまき、馬を解き放てば一目散にそこへ走って行って離れず食べている。そのさまは、頸動脈を切ったときに血がどっと出て飛び散り、どこかにくっついて血糊となって離れなくなるのと同じである。したがって、「血、走‐就湯津石村」とあることは、「趨」の意に近いけれど馬に限定されるものではないから「走」字が選択されている。そして、この話が「十拳剣(とつかのつるぎ)」と火の神「迦具土神(かぐつちのかみ)」の話であることを前提に思えば、鉄鍛冶の様子を示していて、「著其御刀前之血、走‐就湯津石村」は熱して赤くなった剣を金床石に打った時に熱鉄の破片が飛び散ってすぐに冷えて固まりつくことを謂わんとしているものだと理解される。説文ではつづけて、「走 趨る也。夭止に从ふ。夭止は屈むる也。」とある。走るときにあげた足が屈まるからとの説明らしいが、本邦の鍛冶師の姿勢に屈まりしゃがみ、座る姿勢をとることを含み述べようとの思惑が感じられる。「走」の訓にハシルがあるから援用している、といった簡便な整理で済む事柄ではない(注10)
鍛冶師(久保田米斎編『職人絵尽』風俗絵巻図画刊行会、大正6~7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014299/14をトリミング)

おわりに

 以上のように、筆者は、和化された字義を担う性質の「国訓」なる囲い込みにことごとく論難してきた。それでもなお漢字の字義との違いを述べ立てたい場合には、奥田氏も言及しかけているように、すべては「国字」であると捉え返せばよいのかもしれない。漢字などはなくて、すべてはヤマトコトバを表すための国字なのであると。
 ヤマトコトバにおける各語のカテゴライズの仕方と漢語のカテゴライズの仕方には共通するところが多いなか、たまに少しはずれたものがあっても特段に不思議がる必要はない。訓に紛らすということはなく、太安万侶の用字にきちんと考えめぐらされている(注11)。当時の識字能力あるかないか程度の人たちは中国人ではなく、無自覚無批判に学習指導要領の体現者に堕している学校の先生でもなかった。街に哲学者あり的な知恵ある人々によってヤマトコトバは記され始めたのであった。なぜなら、ヤマトコトバは、論理階梯を混雑させるほどに知恵ある自己定義をくり返している言葉であり、それを母語として慣れ親しんだ人たちが文字に落し込むことを企てれば、自ずとこじつけ思考に従った用字選択が起こると考えられるからである。語彙力において、その数の面ではなく質の面で、上代人は浅薄な現代人とは比べ物にならないほどゆたかなのであった。

(注)
(注1)新井白石・同文通考に、「国訓」は、「本朝ノ字詁、華言と同じからざる者有り。即ち方言也。世儒、㮣して以て乖誤と為(す)。亦通論に非ず。今定めて以て国訓と為(す)。」http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200018939/viewer/136とあり、「薄」をススキと訓じているような例をあげている。「凡例」に、「○国字トイフハ、本朝ニテ造レル、異朝ノ字書ニ見へヌヲイフ、故ニ其訓ノミアリテ、其音ナシ、○国訓トイフハ、漢字ノ中、本朝ニテ用ヒキタル義訓、彼国 ノ字書ニ見へシ所ニ異ナルアリ、今コレヲ定メテ、国訓トハ云フ也」とある点は、「もとより、ここで国字や国訓の定義が、中国の字書に見えるか否かを基準にしているのは、現実的な方策を述べているものであって、理論的にいえば、隙のあるものである。」(高橋2000.325頁)である。
(注2)整理、分類のために「字訓字」という用語まで持ち出されている。用語の定義は行われていない。佐野2020.によれば、「「字訓字」とは単漢字と複数の和訓からなる関係を包摂したもので、固定的な文字とことばの対応といった、いわゆる「正訓」「正字」以前の、表音に対する表語的な用法としてあるものを指す。……漢語の訓読上において複数訓が生じるという観察事実を踏まえれば、和語でむ漢字群を対象化する必要がある。漢語を翻訳・訓読した結果としての和訓を内包した漢字が「字訓字」である。」(54頁)と説明している。「原エクリチュール」(デリダ)のようなことを謂わんとしているのであろうか。いずれにせよ分析的思考がもたらされている時点で、形式的操作(ピアジェ)が行われていたことを前提としており、具体的操作でありつづけるこじつけ思考と相容れない。どうやってヤマトコトバを文字に落し込むかが焦点であったとき、整理は行われない。交通量が多くなって事故が起こってからでなければ交通整理はなされない。
(注3)猪熊本に、「塩許々袁々呂々迩」部分の「塩」をツチクレと忌詞流に訓んでいる(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438705/9参照)が、「塩垂」は「哭」の忌詞である。勘違いであろう。
(注4)新編全集本古事記(244頁)に、仲哀記の「阿蘇婆勢(あそばせ)」は何かをなさるの意味だから「遊」字では表せないために一字一音で表記されているかと推測されている。万葉集の例に、「国見あそばし〔國見所遊〕」(万3324)と、好きなことをして楽しむ意に用いられ、歌舞音曲は日常からの解放に資するものだからアソブ、アソバスと言っていたと思われる。英語の play の意味で「猶阿‐蘇‐婆‐勢其大御琴。」と言っていないと言い切れるのか、「日八日夜八夜以、遊也。」(記上)という例からして筆者には断定できない。なお、漢語の「遊」字には楽器を演奏する意味、play の意味はない。これも「国訓」ということになるが、漢土においては「遊」字は稀で、「游」字をよく用いる点も含めて検討されなければならない。後考を俟つ。
(注5)筆者は、ヒクという語の語源を定める仕事をしているわけではない。上代に、ヒクという語がどのように感じ取られていたかについて述べている。こと太安万侶の気持ちになってみているというばかりである。
(注6)奥田2016.に、「構造としてある、字訓字の訓字への転換は、実際、和語でよむ行為と和語を記す行為との幾重もの反復を伴ったと思われる。その反復には、よむ要請と記す要請とが、不可分のものとして混融していた。そこには、和語でよむために字義を理解した字もあったであろう。そして一方で、和語を記す要請は、漢語にはない。我が国のみに見られる国字を創出する基盤ともなった。」(50頁)とある。筆者はこの言辞の多くに平安時代以降の人間として賛同しながらも一抹の疑問を覚える。「和語を記す行為」は、記紀万葉に現在してある。では、「和語でよむ行為」はどこにあるのか。少し遅れて見られる訓点資料に見られるということなのであろうか。テストであれ、クイズであれ、今となっては漢字の読み問題よりも書き問題のほうがはるかに難しい。どのように説明したらよいのか考えられたい。
 奥田2016.の言うように、「義訓と「戯書」とは、漢語本来の字義とよみが有する意味が乖離し、かつ、一回的・非一般的に使用される訓字である典型的な義訓と、「文学的意図による用字選択の場」(蜂矢宣朗「いはゆる「戯書」について」、『境田教授喜寿記念論文集 上代の文学と言語』前田書店、一九七四年)の中で戯れの意識が認められる仮名である典型的な「戯書」との間に、義訓と「戯書」の双方の性質を併せ持つ例が存することによって連続的な様相を呈する。義訓と「戯書」の連続性は、義訓と「正訓」の連続性と同様、複合的な尺度の中で位置付けられる。」(101頁)とするのは穏当に思われるであろう。筆者はそもそも、記紀万葉に記されている文字群は、ヤマトコトバに漢字を当てたのであってその逆ではないのだから、すなわちそのことは、ヤマトコトバが書記を目的として編み出された言語ではなかったという大前提を十分に含み置かねばならないということと同じことなのだから、すべては“戯”書なのではないかとラディカルに考えているが、議論が先へ進まなくなるのでひとまず先行研究に従うことにしておく。
(注7)夏目漱石の例はよく知られている。松崎安子「言葉研究館 ことばの疑問 漱石の当て字にはどんなものがありますか」国立国語研究所https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-64/参照。
(注8)佐野2020.に、この箇所に「なぜ「掻」字を用いないのかという点が逆に問題とな」(56頁)るとしている。
(注9)「画(畫)」字部分、真福寺本では、前者は「𦘕」、後者は「書」に見える。
(注10)奥田2016.では、ほかに「読」、「骨」といった例もあげているが、すでに論じたことがあるので割愛する。「瀬」については別項とする。
(注11)有名な太安万侶の書記スローガンをきちんと受け止めなければならない。そもそもそのスローガン自体、どのように訓むのが正解なのかわからないほどに、「於文即難」である。

 然れども、上古(いにしへ)の時、言(こと)も意(こころ)も並(とも)に朴(すなほ)にして、文(あや)を敷(ほどこ)し句(ぬひ)を構ふること、字(ふみ)に於ては即ち難し。已に訓(よみ)に因りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音(こゑ)を以て連ねたるは、事の趣(おもぶき)更に長し。是を以て、今、或(ある)は一句(ひとぬひ)の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或は一事(ひとこと)の内に、全く訓を以て録(しる)せり。即ち、辞(ことば)の理(すぢ)の見え叵(がた)きは、注(しるべ)を以て明し、意の況(かたち)の解(さと)り易きは、更に注せず。亦、姓(かばね)に於て日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於て帯の字を多羅斯(たらし)を謂ふ。如此(かく)ある類は、本の随(まにま)に改めず。

 記序にあるこの文章は、ヤマトコトバを書くことの難しさを言っている。漢字を訓んで漢籍を読むことの難しさなど一言も言っていない。すべては書き問題なのである。いかなる状況下での書き問題かが理解されなくてはならない。和語による漢語の規定も、漢語による和語の規定もない、まっさらな状態であった。訓み方によって漢字を使って書き述べてみると「逮心」ということになると言っている。読み直してみて、どうも変だと違和感があると言っている。文字である漢字と言葉であるヤマトコトバ、それは音声言語であるが、その邂逅の時のことである。その後に漢字とヤマトコトバに結びつきが定着した段階から、その邂逅時のことを遡及して考えていくことは大きな誤りを侵しかねない。無文字文化を文字文化へと連続する前時代と捉えることが間違いであることは、算数を数学から理解、説明することができないことに似ている。

(引用・参考文献)
奥田2016. 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』塙書房、2016年 。(「『古事記』の表記─和化された字義をめぐって─」『萬葉』第153号、1995年3月。萬葉学会学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1995)
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋出版、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐野2020. 佐野宏「奥田俊博著『古代日本における文字表現の展開』」『萬葉』第229号、令和2年3月。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
高橋2000. 高橋忠彦「国訓の構造─漢字の日本語用法について(上)─」『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』第51号、2000年2月。東京学芸大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2309/13419

(English Summary)
It was a dystocia when ancient Japanese, Yamato-Kotoba, who had no characters, ideographically acquired the character Kanji. To reach a true understanding, we need to be present at the scene, and deductive retrospectives make the wrong decisions. In this paper, examining some examples of Kanji in Kojiki, we will notice that the previous way of thinking was beside the point.

忌部首黒麻呂作、万葉集巻16・3848番歌を考える─「誦習」しないとはどういうことか─

2021年05月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに

 万葉集の研究に民俗学を持ち込もうとする立場がある。万葉民俗学と呼ばれている。太田 2019.に、柳田国男、折口信夫、櫻井満、山本健吉、池田弥三郎、上野誠らの研究姿勢がまとめられている。筆者は、それらの議論に踏み入ることを躊躇う。民俗学というものが、「民俗学」なのか「民俗」学なのか不明だからである。一般的に言えば、民俗学とは、少し前の時代の当たり前の生活についてどのようなものであったか紹介するものである。時代で言えば、昭和、大正、明治、頑張って江戸時代ぐらいまでの暮らしについてが主たる対象とされている。近代に入って前近代に当たり前だったことが当たり前でなくなったためによくわからなくなったから、それを解き明かそうとするのが民俗学である。当たり前のことというところがミソであり、当たり前のことは記録としてとどめないから聞き書きするなどしてわかるようにするという学問だというのである。今日でも語学留学というのがあり、英語圏の地に行って英語に触れ、英語ができるようになるということをしている。これが「英語学」かといえば「英語」学のような気がする。英語圏の人は当たり前に英語で話し、当たり前に英語で考え、当たり前に英語で書いている。それを自らのものにしたからと言ってはたしてそれが学問なのかといえば、少し違うであろう。このことは、万葉集の歌についても当てはまる。 万葉集の歌が理解されればそれで良い。となるとこれは、「万葉学」ではなく「万葉」学なのである。文学の研究は書かれた作品がすべてであるといったご大層なテーゼは、「文学」か「文」学かといった素朴な疑問を抱く一般人の場合、無視して構わないであろう。「万葉」学に「民俗」学を持ち込むことの是非など問うても意味がない。

万葉集巻16・3848番歌の実態

 民俗学の知見に依ろうが依らなかろうが、具体的に万葉集の歌が理解できること、それだけが本願である。太田2019.が民俗語をフィールドワークして研究対象としているのは、巻16・3848番歌である。新編全集本萬葉集(④123頁)にて訓と口訳を掲げ、原文を追補する。

  いめうちに作る歌一首
 あらきの 鹿猪田ししだの稲を 倉にげて あなひねひねし が恋ふらくは(万3848)
  右の歌一首、忌部首黒麻呂いむべのおびとくろまろ、夢の裏にこの恋歌を作りて友に贈る。おどろきて誦習しようしふせしむるに、さきごとし。

 新開しんがいの 鹿猪田ししだの稲を 倉に上げ納めて ああひねひねし─恨めしいことだ わたしの恋は
  右の歌一首は、忌部首黒麻呂いむべのおびとくろまろがこの恋の歌を作って友に贈る夢を見た。目を覚ましてからその友に幾度も誦詠しようえいさせてみたら、そのとおりであったそうだ。

  夢裏作歌一首
 荒城田乃子師田乃稲乎倉尓擧蔵而阿奈干稲々々志吾戀良久者
  右歌一首忌部首黒麻呂夢裏作此戀歌友覺而令誦習如前
 校異:「々々」は西本願寺本に「干稲」、「令」は同じく「不」。
万3848番歌写本(いずれも京都大学附属図書館蔵、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、左:近衛文庫本万葉集https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008713(666/892)、中:尼崎本万葉集https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000126(27~28/42)、右:曼殊院本万葉集https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013506(635/849)をそれぞれトリミング)
 大系本萬葉集に、「黒麿が目覚めてから口ずさんでみたら、夢の中の歌そっくりであったとも、黒麿が夢の中で友人に贈ったところが、覚めて後その友人に読誦させてみたら、友人はこの夢の中の歌を現実に記憶していたという不思議さとも解釈できる。」(四150頁)と左注解釈のバイアスを示している。
 万葉集巻16は、「由縁有る歌、并せて雑歌」と題されてまとめられている。何か由縁あって歌となったものが集められている。この万3848番歌について、何かしら由縁があるその性質が理解されなければ、歌の内容がわかったことになっていないと考えられる。歌が歌われている内容は、その歌われている枠組みがわからなければわからないという意味である。背景という言い方があるが、図と地とをわけ隔てる額縁になるものが定まらなければ、何が歌われているか理解できない。「由縁有る歌」は、借景の庭のように見ることはできない。解釈にバイアスが生じている状況は、「由縁」たることが理解されていないのを露呈しているばかりである。枠組みと歌の内容の二つの次元でなるほどと了解される必要がある。
 左注に書いてある事の次第は、忌部首黒麻呂という人が、夢の中で歌を作ってそれを文字に書き、その書いた木簡、ないしペーパーを友のところに送りつけ、その友がびっくりしたというものであろう。左注に「覚」という字が使われているのは、その書いてあるものを「誦習」、すなわち、声に出して唱えようとした時に、「あらき田の……」という歌が再生されたのでびっくりしたということである。つまり、この歌の第一の眼目は、左注にある「覚」という一字である。夢の中に作った歌なのだから、夢から覚めてという意味と兼ねあわされて「覚」という字が使われていると考えられる。ヤマトコトバにサメルである。そしてまた、夢の中のことと現のこととの対比が、文字の中のことと声の中のことに対応している。その点を興じて、この歌は「由縁有る歌」として収められたと考えられないことはないが大しておもしろくない。
 左注の最後の「如前」の「前」が何を指すのか疑問である。通説では歌のことを指し、それが夢の中だから「前」とされていると決められているようであるが、そのような頭の中での構想、空想を期待した用字であるとは考えにくい。「如右」としない理由になっていない。「如前」は、近くではなくかなり「前」の箇所に当たると考えられる。すると、巻16に、次のような歌を繙くことができる。

  忌部首の、数種の物を詠める歌一首〈名は忘失せり〉
 枳(からたち)と 茨(うばら)刈り除(そ)け 倉建てむ 屎(くそ)遠くまれ 櫛造る刀自(とじ)(万3832)
  忌部首詠數種物歌一首〈名忘失也〉
 枳蕀原苅除曽氣倉将立屎遠麻礼櫛造刀自

 「忌部首」は忌部首黒麻呂のことかどうかは定め切れないが、仮にそうであったとしてみるとよくわかる。どうにも品のない歌である。「由縁有る歌」であるから深い意味が隠されているのかもしれないが、うんこは遠くでしろ、などと声に出して詠みあげる気にならない。同じく「倉」の歌だから、この歌が「如前」の「前」に当たるのであろう。すなわち、左注原文の校異は誤っていたのである。

  右歌一首忌部首黒麻呂夢裏作此戀歌贈友覺而誦習如前
  右の歌一首、忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)、夢の裏に此の恋歌を作りて友に贈る。覚(さ)めて誦(よ)み習はざるは、前(さき)の如し。

 歌を贈られた友は、興ざめして声を上げて誦み習わすことをしなかった。「覚」がサメルであるとしたことがここでも確かめられる。サメル(醒)の意に当たっている。読みあげなかったのは、文字の中のことと声に出そうとすることとが違うからではなく、完全に一致しているものだとわかったからであり、それと気づいてびっくり仰天している。そのびっくり具合をよく示すのが、四句目の「干稲干稲志」という表記である。

「ひねひねし」の検討

 ヤマトコトバの形容詞「ひねひねし」については、先行する注釈書に、①古びたさま、②恨めしい、の二つの説がある。上代の文献に「ひねひねし」という言葉は孤例なので意味が定めきらないから、新編全集本のように恨めしいといった不思議な解釈も可能となっている。 方言や民俗語彙の「ひね」を取り上げて、なにほどかわかった気になり、恨めしい、という語義があると捉えている(注1)が、これはありえない。
 一句目から三句目までの 「あらき田の 鹿猪田の稲を 倉にあげて」が四句目の「ひねひねし」を導く序詞であるとされている。「ひね」という言葉が「干稲」という文字で表されているところが夢→現への結節点なのである(注2)。単に干した稲に悪いイメージは付与されない。本邦の稲作は弥生時代早期以降、水田耕作が主である。この歌に示されている原文「荒城田」=「新墾田」も水田であろう。陸稲ではない。仮にそうだとしても構わないのであるが、稲作において、稲を刈り取ったら干す。「民俗学」によらずとも、これは当たり前のことである。現代でも、天日干しによく干された稲は上等のものとして高値で取り引きされている。いかに上手く乾燥させるか、それが米生産の最後の仕事である。湿ったままだとカビが生えたりして捨てるしかなくなる。
 「干稲」は、それがどんなに古くなろうが食べることはできる。今日のヒネという言葉の使い方に、新玉ねぎとヒネの玉ねぎという使い方がある。ヒネには新玉ねぎのみずみずしさはなくとも、保存が効き、ふつうに食べている。「民俗」学をするまでもない。「ひね」は時間的経過、また、時間的に経過したものを表すと考えられる。和名抄に、「稲 唐韻に云はく、稲〈徒皓反、以祢(いね)、早晩は和世(わせ)、晩稲は比祢(ひね)〉は𥝲稲也といふ。𥻧〈音は兼、漢語抄に美之侶乃以祢(みしろのいね)と云ふ〉は青稲白米也といふ。」とある。
 秋の早い時期に収穫されるものを早稲(わせ)、遅い時期に収穫されるものを晩稲(おくて)と呼ばれるものを、ワセ─ヒネの対比であるとしている。実際にそう呼ばれていたのか、源順ばかりがその年の新米をワセ、それ以降はヒネとただ思っていたのか不明である。新米は水分が多いから、炊くときに水加減は少なめにして炊くといい。消費側の人にとっての知識としてはそればかりである。すると、米の流通において、新米はおいしいと思われて、上流階級の富裕層に需要があり、特別視されていたことは想像に難くない。季節先取り的に“旬”のものが求められることは、今日でも例えばイチゴがクリスマスに新鮮に食べられることを目指して新品種が開発されているからも窺えよう。品種としてのワセ─オクテではなく、消費者の需要面でのワセ─ヒネの対比、炊く際の水加減の違いを名として捉えたものとみることができる。米の乾燥度合いをもって分類を試みて当てはめたと考えられる。
 日葡辞書に、「Fine. ヒネ(陳・古) 一年を過ぎた古い種子.」、「Finegome. ヒネゴメ(陳米・古米) Furugome(古米)に同じ. 一年, または, 二年たった古い米.」(233頁)などとあるのは、需給のだぶつきから備蓄米のことを言うようになり、晩稲のことをオクテと“正しく”言われるようになったものかもしれない。その結果、ヒネという語が、大人びてこましゃくれていること、ひねくれることといった意味にオーバークロスしていると考えられたのではないか。用字に「干稲」とある点を広義にとらえれば、和英語林集成に記されるように、「Hine ヒ子 老(furu) Old; not new or fresh: hine-gome, old rice; tane ga hine de haenu, the seed is old and will not germinate.」(161頁)ことはあっても、それを食糧とする限り食べられるのである。炊き込みご飯にすれば、古米であることさえ気づかない。
 したがって、「ひねひねし」は、時間的にとても久しく、が本来の意であると考えられる。民俗語彙から上代語を捏造してはならない。用例の乏しい語ほど単純な理解が望ましい。では、それがなぜ恋歌かといえば、通説と異なり、恋心が保存可能なように永久不変にあり続けているよ、という意味に取れるからである。忌部首黒麻呂という人は、少し歳を重ねているのかもしれないが、恋においてはまだまだ現役であると主張している。現役ではあるが、「種がヒネで生えぬ」ことはあるかもしれない。下品な歌を書いて贈られた友は、二度びっくりということで、醒めるように目が「覚」めることになっている。そうわかるのは、これが夢の歌だからである。寝なければ夢は見ない。忌部首黒麻呂は、老いらくの恋に若い女性と寝たのであろう。それを友に言ってきている。トモ(友・伴)とは、「鵜飼(うかひ)が伴(とも)」(記14、万4011)などというように同じような身分のものをいい、フレンドの意味よりも仕事仲間の同類のことを指している。鳥に使う場合、千鳥なら千鳥、鶴なら鶴、鶯なら鶯のことである(注3)

 藤原の 大宮仕へ 生(あ)れ付くや 処女(をとめ)が友は 羨(とも)しきろかも(万53)
 草香江(くさかえ)の 入江にあさる 葦鶴(あしたづ)の あなたづたづし 友無しにして(万575)

 万575番歌の例は、万3848番歌によく似ている。「あなたづたづし」が「あなひねひねし」に対応し、「友」のことが念頭にのぼっている。トモ(友・伴)とは、二人以上であることが用件である。複数が重なるから、「たづたづ」や「ひねひね」と重なったもの言いをして楽しんでいる。そして、万575番歌で「鶴(たづ)」は「友無し」で一羽である。他のどこかにいる「鶴」とは「たづ」違いなのである。一方、万3848番歌は、「友」は忌部首黒麻呂と同じく歳を取っていたために、忌部首黒麻呂のようには若い女性と性交したりしていない。同じ「ひね」でも違うのである。忌部首黒麻呂は滅多にない「乏(とも)し(ト・モは乙類)」い人になっていて、仲間として感情を共有する人物、「友・伴(とも)」ではなくなっている。万葉集の巻16は、「由縁有る歌」の集である。

原文「倉尓擧蔵而」の訓み

 新墾田(あらきだ)の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉にあげて あなひねひねし 吾(あ)が恋ふらくは(荒城田乃子師田乃稲乎倉尓擧蔵而阿奈干稲々々志吾戀良久者)(万3848)
埴輪(寄棟造高床倉庫、古墳時代、藤岡市白石稲荷山古墳出土、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0010476をトリミング)
 三句目はこの訓みで正しいのであろうか。字余りである。原文「倉尓擧蔵而」は、稲を倉にしまうことの謂いである。倉の機能は、「干す・仕舞う・守る」(安藤2010.)である。乾燥を保ちながら保存、保管する。寒暖差に結露が生じてはならないし、梅雨時に蒸れを生じてもならない。害虫やカビも困れば発芽も困る。高床のようにしておくのは賢明なことで、ネズミなどの害獣の被害を免れ、盗難に遭わないように鍵をかけることも必要である。「倉に蔵(つ)みて」、「倉に蔵(をさ)めて」、「倉に蔵(かく)して」、「倉に仕舞ひて」といった訓み方も候補であることが知れるが、いずれも字余りの解消とならない。解消には、次の例が参考になる。

  内大臣藤原卿の、釆女の安見児を娶る時に作る歌一首
 吾れはもや 安見児(やすみこ)得たり 皆人の 得(え)かてにすとふ〔得難尓為云〕 安見児得たり(万95)
 梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭(かざし)にしてな〔加射之尓斯弖奈〕 今盛りなり(万820)

 サ変動詞を「に為(す)と」(注4)、「に為(し)て」という形で用いている。同様に解すれば、次のようにとることができる。

 新墾田(あらきだ)の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉にして あなひねひねし 吾(あ)が恋ふらくは(万3848)

 「倉尓擧蔵而」で言いたいのは、高床に上げて干しながら仕舞い守ることである。「擧蔵」ということは、「倉」の機能を十全にすることを掲示している。つまり、「倉に為(す)」という言い方が行われたと考える。忌部首黒麻呂が若い女性を娶ったことの蓋然性が高くなってくる。

  夢(いめ)の裏(うち)に作る歌一首
 新墾田(あらきだ)の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉にして あなひねひねし 吾(あ)が恋ふらくは(万3848)
  右の歌一首、忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)、夢の裏に此の恋歌を作りて友に贈る。覚(さ)めて誦(よ)み習はざるは、前(さき)の如し。

 (大意)新しく開墾した田で、鹿や猪が出て荒らす田に実った稲を倉に上げて干して仕舞うように、ああ久しく続くものよ、私の恋は。
 右の歌一首は、忌部首黒麻呂が夢のなかでこの恋歌を作ったと言って友に贈ってきたもので、贈られた友は驚き、声を出して読みあげられなかったのは、以前、屎の歌でそうだったのに同じである。

 高齢の彼は、若い女性陣のところへ行って“開墾”している。当然ながら、若い男たちは「鹿猪(しし)」のように荒らし回っているとしている。そんな「田」に残った晩秋の「稲」を収穫して、自分の「倉」へ仕舞ったのである。「ひねひねし」が原文「干稲干稲志」とあるように、収穫に当たってきちんと乾燥をほどこしたということであろう。「種がヒネで生えぬ」ままに囲いこんだという含みがある。歌を贈られた友は、文字面を途中まで追っていったとき、目がぱっちり見開くほどの「覚」をおぼえたに違いない。適齢期の男性を「鹿猪」に譬え、同じく女性を「新墾田」だというのである。藤原鎌足が「安見児得たり」と、相手の名をあげて尊び喜んだのとは異質である(注5)。「とも(友)」よ、「ともし」いだろうと書いてきたのであるが、「ともし」の意の、好ましく思われる、羨ましく思われるという気持ちにはならない。同類を「とも(友)」と言うのに、人間相手でなくて動植物扱いの「恋歌」を歌うならそれは人間ではなく、動植物なのである。千鳥の友が千鳥、鶴の友が鶴であったようにである。品性を欠いている。結果、「覚而不誦習」となったのであろう。

もはや「友」ではないから「誦習」しない

 古事記の序文に「誦習」という語が登場している。「時に舎人有り。姓(うぢ)は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。為人(ひととなり)聡明(さと)くして、目に度(はか)り、口に誦(よ)み、耳に拂(はら)ひ、心に勒(をさ)む。即ち、阿礼に勅語(みことのり)して、帝皇(すめらみこと)の日継(ひつぎ)と先代(さきつよ)の旧辞(ふること)を誦み習はしむ。(時有舎人姓稗田名阿礼年是廿八為人聡明度目誦口拂耳勒心即勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代𦾔辞)」。稗田阿礼の「誦習」については、古来、暗誦説と訓読説を中心に議論されている(注6)。「誦口」とあるから「誦」は口に出して言うこと、唱えることであるとわかる。そして、「習」と続くのは、習慣的に同じに「誦」するからであるとわかる。もう一回言って、と頼むと、まったく同じに一字一句違わず、イントネーションもそのままに同じ調子で言ってくれる。ヤマトコトバに声に出して暗誦したことが稗田阿礼の「誦習」であったろう(注7)
 万3848番歌の「友」が「覚而不誦習」であったというのは、歌なのだから声に出して歌わなければならないところ、歌らしい雅さの欠片もなく、口にするのも憚られると「覚」ったということである。ふつうなら書いて贈られたら「誦」んでみる(注8)ものである。そうしなければ“歌”ではない。けれども途中で嫌になったからやめてしまった。「友」が以後も忌部首黒麻呂の“友”であり続けたか正確にはわからないが、親しき中にも礼儀と品位は保ちたいものである。忌部首黒麻呂には次の歌がある。

  忌部首黒麻呂恨友賖来歌一首
 山の端に いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が 夜は降(くた)ちつつ(万1008)
  忌部首黒麻呂恨友賖来謌一首
 山之葉尓不知世経月乃将出香常我待君之夜者更降管

 約束したのに「友」が来ないと、忌部首黒麻呂が恨み節を歌っている。深い交友の情を示すものと捉えられており、「賖」字は他に例がなく、名義抄に、「賖 音奢、オキノル、オソシ、ヒロシ、タカラ、クタレリ、ハルカナリ、ツト、トホシ、ユタカナリ、ユルシ、帯」とあることから、「遅く来るを恨む歌」と訓まれている。謝朓・和王主簿怨情詩に、「徒使春帯一レ賖」とあって、「善曰、賖、緩也。」と注されている。しかし、遅く来た時の歌ではなく、なかなか来ない、まだ来ていない時の歌である。ひょっとするともう来ないのかもしれない。大智度論・四十八に、「若聞賖字、即知諸法寂滅相、賖多秦云寂滅。」とある。「友」は煩悩の境地を離れて黒麻呂とはもう付き合わない気でいて来ることはないであろう。名義抄のオキノルは、代金をその場で支払わずに掛けで酒などを買うことをいうように、「賖」字は「除」に通じてオク(置・措)の意で選択されていると考えられる。一切経音義に、「賄賂 上音晦、下音路、韻詮云、賖帛也」とあり、「賖」は「除」に通じるとされている。「忌部首黒麻呂、友の、来るを賖(お)くを恨む歌一首(忌部首黒麻呂、恨友賖一レ来謌一首)」と訓んでおく(注9)
 「誦習」とは口に出して言葉にすることである。言葉にするとは事柄にすることと同じである。言=事であると考えるのが無文字時代に生きた人々の、言霊信仰の本来の姿である。言葉にしないとは事柄にしないこと、世の中にないことにすること、人でなしとは付き合わないことを態度として明瞭にすることである。その消息を伝えるのが万3848番歌であった(注10)

(注)
(注1)太田2019.による論考は、「ひねひねし」の語義について、方言などの事例をたくさんあげて、新編全集本萬葉集の解釈に対して検討を加えている。
(注2)「忌部首黒麻呂、夢裏作此恋歌友」について、黒麻呂が夢の中で友人に歌を贈ったという、夢の交感のようなことは考えにくい。古代の夢に関する考え方は今日のそれと違ってはかりしれないが、それを疑うのではなく、題詞と左注の関係として難がある。題詞は、「夢裏作歌一首」と簡潔である。夢の中で歌を贈ったとするのであれば、それが「由縁」となるに十分であるため、題詞は「夢裏作而贈友歌一首」とでも書かなければ体を成さない。題詞は歌のタイトルであり、歌の体裁、枠組みを決めるものとして与えられている。
(注3)古典基礎語辞典に、「とも【供・伴・友・朋】……このトモは、いつも主たる人のそば近くに寄り添って従う者の意を表す「供・伴」のほうが先に生じ、常にいっしょにいて、志や行動を同じくする者の「友・朋」の意を派生したものであろう。なお、上代の例では、「友・朋」のトモの中でも、部の意で使われているものが多い。部は、農民・漁民・特殊技能者たちから成り、自営的な生活を営んで、皇族・豪族に貢物をしたり、労力を提供したりしていた。このように常に行動を共にし、志を同じくしていた集団をいう。」(851頁、この項、我妻多賀子)とある。
(注4)カテニは、カツ(下二段)の未然形に否定のズの古形ニが接続して成立した語であるが、「難尓」という表記の常態化は、カタシ(形容詞)の語幹カタに助詞ニがついたもので、言葉の混淆コンタミネーシヨンを来しているとする解説が、大系本萬葉集(一360~361頁)にある。言葉は生き物で、使う人によっていかに認識されて使われたかを中心にして検討しなければならない。
(注5)殿のお手がついて子を授かったという場合も、大名家では側室として大切に扱われた。遊郭の女郎屋に軟禁されるのとは違った。
(注6)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。
(注7)西宮1997.参照。
 一時代前、アラビア語圏でのユネスコによる識字教育に、クルアーン(コーラン)が用いられていたことがある。人々は字は読めないがクルアーンは暗唱して覚えている。生徒が読本を読めないでもじもじしていると、先生が冒頭の単語を言ってあげると生徒はそれに続けてどんどん読み進めることができるという珍教育が行われていた。似たことは文字文化圏でも容易に起こり得る。中学一年生の英語の授業で He stays in the country. を、彼は田舎に住んでいます。と教えておいて、テストに、He stays in the county. を和訳しなさい、と出題すれば、大多数の生徒は授業のことをおぼろげに思い出して、彼は田舎に住んでいます。と解答して満足しているであろう。上代文学の研究者はそれら大多数と異なり、彼はその郡に住んでいます。と正答する優等生であるか、そうでなければならないと志向しているため、飛鳥時代のヤマトコトバの実相に近づくことができないでいる。
(注8)この「友」はこの歌を「贈」られてはじめて知っている。一続きの字列を初見して“歌”を歌として再現しようとしている。その作業が「誦習」に当たる。文字は読めないことはないが、書き方として正書法が確立しているわけではないから、口ずさんでみなければもとの言葉は蘇らない。一字を訓でよむのか音でよむのか、どこで句切れるのか、万葉集の原文を目にすれば暗号解読に同じと感じられよう。たどたどしく、音声言語であったヤマトコトバに直そうとしてみたところ、その内容は愚劣なもので、とてもではないが「誦習」、つまり、声にすることが二度となかったということである。言語が音声の形であるものと思われていた時代において、古事記における稗田阿礼の「誦習」は、自身が記憶していることを声に出して音声にすることであり、万3848番歌での「友」の「誦習」は、木簡上の暗号を声に出して音声にすることであった。筆者が、古事記「誦習」について訓読説を採らないのは、この「友」が「誦習」しようと思えばできたこと、つまり、訓読は字が訓めれさえすれば誰でもいつでも再現が可能である点にある。書いたものがすでにあるのなら、稗田阿礼に負わずとも、太安万侶が暗号的な文言を最初はたどたどしくとも訓んで「誦習」すれば良いことになるし、稗田阿礼にしか読めない古代文字を読んでいたという想定はさすがに証拠立てることができない。
(注9)万3848番歌に「干稲(ひね)」とあって、和名抄に「晩稲」をそう呼んでいたのは、万1008番歌の「賖」がオクに当たることと通わせていた末のことであると捉えることができる。万葉集書記者の選択的用字は、このような細部において見るべきものがある。
 影山2017.には、万3848番歌を万1008番歌とからめて「友」との深い意思疎通の表裏を見、「烏滸な交友のありかたを笑いの料として提示しているのではないか。 教養人としての実在が読者に喚起するのは、冷めた皮肉な笑いである。」(222~223頁)と締めくくっている。同性愛感情説(呉哲男)、中国文人の影響による交友の文芸説(辰巳正明)などとの指摘を踏まえたうえで、「説話的次元で意匠されている」(221頁)と落としどころを探り、題詞と左注とを一連の説明文であるとしている。同性愛の「友」が裏切られたと感じて付き合いを断ったとは考えにくい。「覚而不誦習前」の「前」が万3832番歌、屎の歌だからである。忌部首黒麻呂は続紀・天平宝字六年正月に内史局助になったとあり、“教養人”であったとされるが、教養と人間性は必ずしもリンクしない。
 同書では、万3848番歌の「左注原文のうち「令誦習如前」の「令」字を「不」に作る写本があり、それでは文意不明のため『萬葉代匠記』に「不」を衍文と処理したのだったが、現行テキストは大矢本・京大本および西本願寺本左傍書の採る「令」を本文と認めて異説がない。「誦習」の語義に不安を残すものの「暗誦を繰り返すこと」(小学館新編全集『萬葉集』)の意として大きく外れることはあるまい。」(214頁)で始まっていて、時に疑問を感じながらも前提を顧みることをしない。松岡1935.は、「令」はおかしいから「不」で解してみようとしている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213675/114)。
(注10)道徳的課題として現代にも通じるものがある。事ここに至って、「万葉学」でも「民俗学」でもなくて、人間とは何かを常日頃から考えていなければ歌の一つもわからないということが知れるであろう。「人間学」が必要なのではなく、「人間」学が求められている。

(引用・参考文献)
安藤2010. 安藤邦廣・筑波大学安藤研究室『小屋と倉─干す・仕舞う・守る 木組みのかたち─』建築資料研究所、平成22年。
太田 2019. 太田真理「フィールドから読む『万葉集』」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書院、令和元年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。(「忌部首黒麻呂とその友─巻十六第二部和歌説話の構想─」『叙説』第32巻、2010年3月。奈良女子大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/10935/1804)
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集9 萬葉集④』小学館、1996年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。同『日本古典大系7 萬葉集四』昭和37年。
西宮1997. 西宮一民「阿礼の誦習と安万侶の撰録」『古事記年報』第39号、古事記学会、1997年1月。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
松岡1935. 松岡静雄『有由縁歌と防人歌─続万葉集論究─』瑞穂書院、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213675/
和英語林集成  J・C・ヘボン編、松村明解説『和英語林集成』講談社(講談社学術文庫)、1980年。

(English Summary)
It is well known that there is the word "reciting continuously(誦習)" by Fieda nö Are(稗田阿礼) in the preface of Kojiki(古事記), but there is the same word for the note of one poem in Manyoshu, too. It is in the group of the name of "having good cause to tell so", Vol.16, and has not been completely examined and explained. In this paper, we use the method of frame analysis to get a closer look at the truth of the poem. Because it will irradiate the framework of what humans are, too.

稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─

2021年05月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 記序の稗田阿礼の人物評に及ぶ箇所は次のようにある。

 ここに、[天武]天皇すめらみことのりたまひしく、「あれ聞く、もろもろの家のてる帝紀すめろきのふみ本辞さきつよのことばと、すで正実まことたがひ、多く虚偽いつはりを加へたり。今の時にあたりてあやまりを改めずは、いくばくの年も経ずして其のむねほろびなむとすなはち、邦家みかど経緯たてぬきにして、王化おもぶけ鴻基おほきもとゐなり。かれおもひみれば、帝紀すめろきのふみえらしるし、旧辞ふることたづきはめ、いつはりけづまことを定めて、後葉のちのよつたへむとおもふ」とのりたまひき。とき舎人とねりり。うぢ稗田ひえだ阿礼あれ、年はこれ廿八はたちあまりやつ為人ひととなりさとくして、わたれば口にみ、耳にるれば心にしるす。
 すなはち、阿礼に勅語みことのりして、帝皇日継すめろきのひつぎ先代旧辞さきつよのふることならはしめたまひき。しかれども、とき移りかはりて、いまの事を行ひたまはず。(新編全集本古事記21~23頁)

 天武天皇のやりたかったことは、詔のとおり、乱れが生じてきている伝承の本当のところを見極めて、後世に伝えることである。そこで、聡明な稗田阿礼に言い伝えを誦習させたけれど、時代が変わって事業は未完のままであるという。伝承の乱れを「討覈」したとある点は、事業を継承した元明天皇の代に、「旧辞ふることあやまたがへるをしみ、先紀さきつよのふみあやまたがへるをたださむ」(同23頁)としたとあるに対応している。そして、太安万侶に、「稗田阿礼ひえだのあれめる勅語旧辞ふることえらしるして献上たてまつれ」(同23~24頁)という詔がくだったという流れになっている。
 これまでの解釈において、「度目誦口拂耳勒心」部分の「度目」について、大きく諳誦説と訓読説の二つがある。
 本居宣長・古事記伝には、「 レハ ニ ヨム ニとは、一たび見たる書をば、やがてソラにうかべて、よく諷誦ヨムをいふ、……「 ム誦‐ ミ ハとは、旧記フルキフミマキをはなれて、そらにヨミうかべて、其語をしばしば口なれしむるをいふなり、抑タヾに書には撰録シルサしめずして、先かく人の口にウツして、つらつら ミ習はしめ賜ふは、コトバオモみしたまふが故なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/47)とある。
 これが諳誦説の一つとされている(注1)ことについて、筆者は積極的に肯ぜられない。最初に書を見ているからである。
 山田孝雄・古事記序文講義は、「緊句」として次のように訓み、一度目にすると口で節づけて読み上げ、一度耳にすると心に刻んで忘れることがなかった、という意味に取っている。
 度 ワタレバ ニ ヨミ ニ
 拂 カスムレバ ヲ シルス ニ
 「目所一見輙誦於口耳所暫聞於心、」(文選・孔融・薦禰衡表)によるとし、「聞耳則誦、過目則不忘」(晋書・符融載記) ともあるとしている。語釈として、「【度目】 の語は殆んど過目と同義である。度は説文に通過の義とある。【誦】は……声に節つけてよむことである。声を出して読まなければ誦ではない。こゝは暗誦の意に重きをおくのである。【拂耳】は耳をかすめる事である。一寸こすつて行く、さつとさはる、一寸聞くこと、拂耳の例は見えない。……【勒】は刻也とある。心にしつかりきざみ込むことである。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1233223/85~86、一部漢字の旧字体を改めた)と解している。
 亀田鶯谷・古事記序解に、「勅語トハ、天皇親删ノ帝紀旧辞ヲ、阿礼ニ口授シ玉ヘルヲ云フ。古語拾遺ニ、上古之世、未文字、貴賤老少、口々相伝トアルモ、カノ神代欲里伊比都芸家良志ト詠セシ如ク、凡秘訣神伝ハ、必口伝スヘキハ、上古敦朴ノ神習ナルヘシ。説文ニ古故也。从十口。識前言者也。論語ニモ我欲言ナトアルハ、皆口々相伝ト云ル秘訣口授ノ古伝ナルヲ云フ。但天皇撰録ノ睿旨ニ出テタルヲ、阿礼カ誦習ニ入リシコトハ、討覈親删ステニ定リヌルコトナレハ、古道古辞ノ更ニ誤謬センコトヲ恐レ玉ヘルニ在ン。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772110/44~45、漢字の旧字体を改め、句読点を整理した)とある解が、諳誦説の真髄であろう。
 他方、訓読説は安易である。それが訓読説なのかは知らないが、新編全集本古事記は、「「目を渡れば」というので文字を読んだことが了解される。」(22頁)とする。けれども、「[文字ガ]目を渡れば[言葉ヲ]口に誦み、[声ガ]耳に払るれば[言葉ヲ]心に勒す」、すなわち、文字言語から音声言語へ、また、その逆への自由な翻訳を表していることになる。しかし、そうなると、識字能力があることになり、太安万侶を俟たずとも自ら筆記すれば事業は完成していたのではないか。万葉集や出土木簡に、多様な書記形態が知られている。「とき移りかはりて」とあるのは、文字の時代になって時代の要請が変わり、暗唱によっては事が完結しなくなったということであろう(注2)
 山田氏の指摘する文選・孔融・禰衡でいかうを薦むる表は、「…禰衡、年二十四、字は正平、淑質貞亮にして、英才卓躒たり。初め芸文に渉り、堂に升り奥を覩る。目一たび見る所、輒ち口に誦し、耳暫く聞く所、心に忘れず。性道と合ひ、思ひ神有るが若し。」という文章である。稗田阿礼の人物評には「聡明」とある。「聡明」の語は日本書紀に見られる。

 是に天皇のみをば倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそびめのみこと聡明さと叡智さかしくましまして、能く未然ゆくさきのことを識りたまへり。(崇神紀十年九月)
 「我が先皇さきのみかど大足彦天皇おほたらしひこのすめらみこと[景行]、聡明く神武たけくましまして、つぎてあたしるしを受けたまへり。(成務紀四年二月)
 わかくして聡明く叡智しく、貌容壮麗はなはだかほよくまします。かぞみことあやしびたまふ。(神功摂政前紀)
 天皇、幼くして聡明く叡智く、貌容美麗みかたちすがたうるはしくまします。をとこざかりいたりて、仁寛慈恵めぐみうつくしびまします。(仁徳前紀)
 天王すめらみこと昆支王こんきわういつとりの子の中に、第二ふたりにあたる末多王またわうの、幼年わかくして聡明きを以て、みことのりして内裏おほうちし、みづか頭面かうべを撫でて、誡勅いましむるみこと慇懃ねもころにして、其の国にこにきしとならしめたまふ。(雄略紀二十三年四月)
 我が気長足姫尊おきながたらしひめのみこと霊聖くしひさとあきらかにして、天下を周行めぐり、群庶もろひと劬労いたはり、万民おほみたから饗育やしなひたまへり。(欽明紀二十三年六月)
  [大錦下だいきむげ百済沙宅昭明くだらのさたくせうみやう為人ひととなり聡明く叡智しくして、時に秀才すぐれたるかどはる。(天武紀二年閏六月) 

 ヤマトコトバのサトシを書き記すのに「聡明」という熟語を用いている。耳目を以て神意を察しうることが「聡明」である。記には他に、「聡」字は「厩戸豊聡耳命」にのみ見える。単に暗唱や記憶の能力に長けていたに過ぎないものを、「為人ひととなり」とはいわない。稗田氏は猿女君の一族だから「為人」(人となり・人となる)と捩って皮肉ったと仮定できなくはないが、管見にして他にそのような例を見ない。また、文化人類学の知見から、記録手段を持たない無文字社会では、暗唱能力が優れている人は珍しいことではないのである。
 誤りを含んでしまっている伝承を正すことに関して、西郷2005.は、「何が正実で何が虚偽であるかを決める客観的規準のごときものがあったわけではない。ある意味では、すべての伝承はそれぞれ真実だといえる。伝承はその場に応じた変化を身上とする、したがってそこには、固定された権威は存しない。」(68頁)という。近代哲学の言い分である。簡潔にいえば、天武天皇の意向に沿う伝承、端的にいえば、天武天皇が覚えている伝承が「正しい」のである。「勅語」とは、教育勅語のように、長い文章でありながら天皇の発した言葉であり、聞いた方は丸暗記して諳んずることを強要されるものである。教育勅語の「夫婦相和し」を「夫婦は鰯」と聞いて、家庭の健康面、経済面に配慮されたものと受け取られたこともあった。すなわち、天武天皇の覚えていた伝承を丸ごと稗田阿礼に覚えさせた。和銅四年九月十八日の元明天皇から太安万侶への詔に、「稗田阿礼所誦之勅語旧辞」とあり、天武天皇の「勅語」した内容がこの箇所の「旧辞」そのものであったことを教えてくれている。上述の亀田氏は過不足なくその真相を語っている。
 そんな個人伝授を受けるに堪える資質は、「夫婦は鰯」などと受け取るときに誤解しない、また、誰かに伝えるときに誤解させない聡明さに他ならない。ヤマトコトバのサトシ(トの甲乙は不明)は、物事に敏感で、すばやく理解し判断できることをいう。「聡明」のほかに、「聡」、「明達」、「黠」などと記される。「さとあた」(神武前紀戊午年十一月)の例から、悪賢いこともサトシといったとわかる。語の構造は、(一)サ+ト(利・敏)シ、(二)サト(悟・喩)+シの二説ある。サトル(悟・智)には、「文献さとり」(仁徳前紀)、「通達とほりさと」(応神紀十六年二月)などとあり、文字を読むことが必須条件のように感じられよう。「度目誦口拂耳勒心」の通訓が正しければ、(二)説が有力となる。ただ、他動詞のサトス(覚・喩・諭)は、その連用形からサトシ(聡)が生まれたとするには語義が遠く、また、悪賢い義が派生する兆しも見えない語である。(一)説の可能性として、稗田阿礼の聡明さの具体例、「度目誦口拂耳勒心」を訓んでみる。
 「目」は、真福寺本には「日」とある。「度日」であれば、日を過ごす、生活する、の熟語の例がある。ただし、ここは対句ととるのがふさわしいと考えられており、「目」が適当とされている。すなわち、目・口・耳・心に、それぞれ聡明さが表れているということである。見る・言う・聞く・思うの機能において、尋常ならざる程度を示すはずである。「度」は、渡るの意以外に、忖度、諮度など、はかる意がある。「度目」は、品定め、鑑定する目をもっているということであろう。いま稗田阿礼は天武天皇の勅語を賜っている(注3)。言葉を目で受けるとは、天武天皇の勅語の際の表情やハンドアクションなどをきちんと理解しているということに当たる。「誦」は、後の文の「誦習」に直接関わる能力であろう。節付けて声をあげてよむことである。「誦口」は、その話しっぷりが相手にわかりやすいということを指す。「拂」は、記には、ふれる意で二箇所用いられるが、拂(払)暁、拂(払)拭とあるように、紀には、はらう意で用いられている(注4)。「拂耳」は、さまざまな訴えを聞いても、情報を払い分け、事の真相を明白にして聞くということである。「勒」は、抑勒とあるように、おさめる意がある。記序のなかにも、「勒于遠飛鳥」と用いられている。勒は、もともと馬具の面懸おもがいを指す。面懸は、轡をつなぐために馬の頭から両耳を出してかける革紐のことで、これにより馬を制御することができる。「勒心」は、疑念、邪念を持たずに心のなかにきちんとおさめる技量があるということである。
 以上から、稗田阿礼の聡明さ、それも勅語して覚えさせ、誦習させるに値する為人としての説明としての「度目誦口拂耳勒心」は、「目にはかり、口にとなへ、耳にはらひ、心にをさむ」と訓んで正しいと考える。目・口・耳・心という器官の働きの、それぞれ優秀な様子を示していると捉えられる。

(注)
(注1)倉野1973.193頁。
(注2)今日のスポーツの実況中継などでも、文字を読まずに口で上手に抑揚をつけながら話していてそればかりでわかるものであるが、テレビなどには字幕スーパーが映し出され、翌朝のスポーツ紙は文字を使って解説がほどこされている。
(注3)「特に天皇が阿礼に御自ら勅したまふたのである。」(山田孝雄・古事記序文講義、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1233223/86、漢字の旧字体は改めた。)
(注4)山田氏が触れながらとらない漢書・東方朔列伝に、「夫れ談は、目にさかひ、耳にもとり(拂於耳)、心にあやまちても、身に便なる者有り。或は、目によろこび、耳にしたがひ、心に快くしても、行ひにやぶる者有り。明王・聖主に有ること非ずんば、孰れか能く之を聴かん。」とある。「拂耳」は、諫言が耳に逆らうことを意味する熟語である。主語は「談」で一貫している。悖・拂・謬は類義語、説・順・快も同様である。記の「拂耳」をもとる意とすると稗田阿礼の聡明さの説明にそぐわない。

(引用・参考文献)
亀田鶯谷・古事記序解 亀田鶯谷著、中島慶太郎編『古事記序解』大関克、明治9年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772110
倉野1973. 倉野憲司『古事記全註釈 第一巻 序文篇』三省堂、昭和48年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第一巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
本居宣長・古事記伝 本居宣長著、本居豊頴校訂、本居清造再訂『古事記伝 乾』吉川弘文館、校訂第六版、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805
山田孝雄・古事記序文講義 山田孝雄『古事記序文講義』国幣中社志波彦神社鹽竃神社、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1233223

※本稿は、2012年5月稿について、2021年5月にデジタル資料を確認し、改稿したものである。

(English Summary)
The sentence "度目誦口拂耳勒心" in the preface of Kojiki expresses that Fiyeda nö Are was wise. From the notation "度目", there is an interpretation that he read by eye an already written text. This paper explains that the interpretation is incorrect. Since Emperor Tenmu's speech was only given to Fiyeda nö Are, it can be seen that he understood the meaning by looking at Emperor Tenmu's gestures.

お練り供養と当麻曼荼羅 其の二

2021年05月19日 | 上古・中古・中世・近世
(承前)
(注)
(注1)頭全体に大きなお面をすっぽりかぶった劇について、我々は真剣に取り扱ってこなかった。仮面一般のこととしてはこれまでにもいくつか論じられている。
 和辻2007.に、「[伎楽面の]顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面に自然のままの人に顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである。」(263頁)とある。筆者は、今日、ゆるキャラと呼ばれる被り物をしたご当地キャラクターに、和辻氏のペルソナ論とは別の意味合いを見る。ゆるキャラはイリュージョンであって、生身の人間と比較する対象に当たらない。観光の思い出に一緒に写真を撮れば、我々がどんなにいい笑顔をしても、おちゃめなピースサインを出しても、ゆるキャラが主役のスナップ写真でありつづける。我々は、まるで、行道の菩薩面を被った人を介添えする舎人の立場に立たされているようである。つまり、人は、伎楽面や能面、行道面、その他の被り物に、顔面の延長とは言えないものを感じている。化粧やプリクラの自動補正機能は、人間の顔面の延長である。したがって、オフ会やお見合いで、ふだんの顔やすっぴんの顔を見た時、落差を感じて当惑させられることがある。けれども、伎楽面などを被ることは、仮面が仮面であると予め納得の上のことである。儀式や演劇の舞台において、他界を含めた世界秩序が確認されているわけで、終わったからといって混乱することはない。化粧とコスプレは意味するところの次元が違うという見解は正しいのであろう。
 木村2000.に、「牧畜民であろうが、農耕民であろうが、超越的存在を意識する。しかし、その超越的存在に近づくに際して、農耕民は仮面を用いる。仮面は……中間的な存在であるから、ある意味では類概念だといえよう。つまり農耕民は仮面という類概念を媒介するのに対して、牧畜民はそういう中間項なしに、いきなり超越的存在に向かう。……農耕民にせよ、牧畜民にせよ、あるいは狩猟民にせよ、人間の集団が他界観をもつ、つまり死生観をもつことは、ある意味でかなり人類のユニヴァーサルな文化と考えていいが、その場合に、ユニヴァースな因子の一環として必ず出てくるのは、そういう超越的存在とどうやって行き来するかという問題である。その際に、農耕民は仮面を用い、遊牧民は現実の家畜を用いるわけである。したがって、私のいう類概念というのは、一種の媒介項であって、ある意味で役ないし役割の概念と考えられる。」(30頁)とある。美術評論の域を突き出た鋭い見解である。
 民族学の立場からは、吉田2009.に、次のようにある。

 地域や民族、さらには時代を問わず、世界の仮面に共通する特徴としてまずあげられるのが、ほかでもない、それが、人びとにとっての「外」の世界、言い換えれば人間の知識や力の及ばない世界、つまり「異界」の存在を目に見える形に仕立て上げたものだという点なのである。……アフリカやメラネシアにおける葬儀や成人儀礼に登場する死者の霊や精霊、動物を表す仮面だけではない。ヨーロッパでいえば、ギリシアのディオニソスの祭典に用いられた仮面から、現代のカーニヴァルや越年際に登場する異形の仮面や魔女の仮面に至るまで、また、日本でいえば、能・狂言や民俗行事のなかで用いられる神がみの仮面から、現代の月光仮面や仮面ライダー、ウルトラマンに至るまで、仮面は常に、世界の変わり目や時間の変わり目において、「異界」から一時的にやって来て、人とまじわって去っていく存在を可視化するために用いられてきた。そこにあるのは、「異界」を、「村」と区別される「森」に設定するか、「町」と区別される「山」に設定するか、「地球」と区別される「月」に設定するか、あるいは「銀河系」と区別される「別の星雲」に設定するかの違いだけである。確かに、入手できる知識の増大とともに、人間の知識の及ばぬ領域=「異界」は、村や町をとりまく森や山から、月へ、そして宇宙の果てへと、どんどん遠くへ退いていく。しかし、世界を改変するものとしての「異界」の力に対する人々の憧憬、「異界」からの来訪者への期待が変わることはなかったのである。(131~132頁)

 お練り供養で菩薩面を被って練り歩くとは、「浄土(あの世)」から「娑婆(この世)」へ来て再び「浄土」へ還る、異界からの来訪者を演じることである。異界に近しい適役は、生産年齢から外れたお年寄りか幼子である。附随する形で、各地で稚児行列も行われる。神に近しい存在と認められる。お練り供養の場合も、あの世という異界に近しい存在だから、年長者に委ねられて然るべきである。木村氏の指摘するように、仮面が超越的存在の類概念であること、吉田氏の指摘するように、異界の力を形にしたものであると捉えると、菩薩面を被ることとは、仏教的な世界観のなかで超人的存在を演じること、それはまさしく菩薩になるということである。
 和辻氏の議論を引く坂部2009.に、「〈ペルソナ〉としての〈わたし〉は、〈わたし〉─〈他者〉、〈主語〉─〈述語〉の分離的統一という構造、〈他者〉という述語による限定ないし刻印という、〈仮面〉の構造を、その根本において、もっている。このことは、精神分裂症を典型とするいわゆる人格の解体という現象において、いわば裏側から照し出すという形で、一層あきらかにたしかめられることになるだろう。」(91頁)とあるが、仮面という語の譬えられ方を考慮したうえで、慎重に検討されなければなるまい。コミュニケーション事典に、「現代人は様々な日常生活の状況に応じて〈仮面=人格〉を使い分けるという比喩的な意味で〈仮面〉ということばがよく用いられる.この〈人格〉の語源ペルソナも,エトルリア地方の死者にかぶせるマスクの呼名に由来するといわれる.しかし,具体的なものとして,儀礼や祭りに用いられる仮面の特徴は,日常生活とは異質な状況の中に〈出現〉してくる点にある.」(140頁、この項、渡辺公三)とある。譬えとしての「仮面」という用語を宛がう際、語が独り歩きしないように見極めなければならない。
 幸いなことに、社会学においては、アーヴィング・ゴッフマンが役割と自己像とについて興味深い検討を加えている。そこでは、「自己」という概念の上位概念に「個人」という語を当てている。ゴッフマン1985.に、「個人は、それぞれ一つ以上のシステムまたはパターンに関与させられており、したがって、一つ以上の役割を演じているというのが、役割分析の基本的仮定になっている。それぞれ個人は、いくつかの自己を持つことになり、それらの自己がどのように関係しあっているかという興味ある問題が生じてくる。役割についての伝統的なパースペクティブによれば、人間のモデルは、意味的な関連を互いに持たない、いくつかの役割からなる持ち株会社 holding company のようなものである。そして、われわれの新しいパースペクティブにおける関心事は、個人がこの持ち株会社をどのように経営していくかということを見い出すことである。」(91頁)とある。お練り供養において、菩薩の面を被って行道することは、菩薩という役割を担うこと、すなわち、その人が菩薩という会社を買収して子会社化することである。さて、この菩薩株式会社は、経営実態のない、それこそ仮面カンパニーである。富を産まない。役に立たない役である。そんな会社を傘下に置いて何が面白いのかと考えるのは、おそらく青二才の着想である。すなわち、逆に、生産性が高くてROEの高い会社、すばらしい役割を担っていると思っていた自己たちは、実のところ、あの世へは持って行かれないことに気づかされる。何を齷齪しているのか、不思議な悟りに導かれる。そのとき、いわば、人生の修練が起こる。人生というものを練り上げる。そのネリにもってこいの役割が、菩薩株式会社のCEOを兼務して橋を練り歩くことなのであろう。練れた人になるには、むろん、他の役割(自己)をきちんと果たしていなければならないし、一緒に歩く「舎人(とねり)」を買って出てもらえるだけの人望も必要である。
 人間が仮面(マスク)をつけて演じることの意味は逆説的である。仮面は、素顔との関係で短絡的に想定されるほど簡単なものではない。むしろ、逆に、お祭りで仮面をつけて演ずることによって、自己(セルフ)とは、実は世を忍ぶ仮の姿にすぎないのだという真実を、身をもって実感することができる。自己というものを相対化するテクニックの一つになり得るのである。日常の陥穽に重く埋没してのっぴきらならないと感じて心理的に落ち込んでしまわずに、多様に生まれ変わることは可能でありながら、“今”を選んで生きているのだと再確認できる絶好のチャンスである。すると、お練り供養でお面を被って練り歩くこととは、この世とあの世という宗教的な意味合いばかりか、自己と他者という社会的な意味合いをもっても、その境界を溶解させてしまう契機と位置付けられる。お練り供養に参加すれば、極楽往生が約束される、という平板な議論はもはや正解とは言えない。すでに極楽往生できてしまったと錯覚される点、何のことはないのだと思えてしまう点が重要なのではないか。張子の虎のような菩薩の種明かしが悟られるのである。自己=菩薩である。そして、そのお祭りの行われるれんぞ、お練り供養の日が、耕作のために水田にべったりとへばりつけられ始める前日であることの意味は深い。セルフをセルフケアし、予防注射の効果を継続させてセルフをセルフコントロールするには、一年のうちで最もかなった日である。れんぞに行かなければ、地道にしんどい田仕事に耐えられなくなり、収穫までこぎつけることができなくてトラレヌゾどころか、発狂してトラのように叫びお隣さんへ襲いかかるような転落人生が待っているのであった。お隣さんとしても困るので、レンゾには皆して当麻寺へ詣でようと誘いあったことであろう。
(注2)美術史的解説としては、大西2007.、金2015.参照。製作者の意図が必ずしも観覧者の受け取り方に一致しないことはよくあることであろう。本稿は、当麻曼荼羅とお練り供養がともに当麻寺に由縁としている謎について検討を加えるものである。
(注3)その昔、人々が綴織当麻曼荼羅を拝観したとき、それは図像としてとても大きなスクリーンに包まれるような思いがしたのではないか。阿弥陀浄土の世界のなかに入った感覚を懐いたかと感じられる。絵本について解説する志村2004.に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?「この絵本のどこが面白いの?」と問うと、「こんな世界にいきたいなぁ」とか「どうやったらここに行けるの?」など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に「こんな世界」を発見して、それに繰り返し見入っているらしい。」(40頁)、「絵本の世界像は、「地」に属する「図」をもつ「地」表現、つまりストーリーには直接絡まず「地」世界に属する活気ある事象をもつ「地」表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が「地」に属する「図」の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者自身の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった。」(57頁)と究明されている。
 この議論はそのまま、綴織当麻曼荼羅にも当てはまることであろう。綴織当麻曼荼羅は、絵本の特定の見開き1ページである。「こんな世界」とは阿弥陀浄土である。大きすぎるほど大きくて、そのにぎやかなパーティのなかに入りこんでしまう。お練り供養を伴えば、パーティ感はさらに高まる。きれいごとで言えば、聖衆倶会(しょうじゅくえ)の楽のまんまである。俗にいえば、舎人にエスコートされて、かしずかれてお酒を注いでもらっているほどにおもてなし感を味わえる。あの世の顕在化が起こっている。それに対して、当麻曼荼羅縁起のようなスクロールしてみる絵巻物は、絵本の見開き1ページのようなダイレクトさ、明解さがない。浄土が観想できるのであれば、後講釈のストーリーなど必要ないと思われる。綴織当麻曼荼羅の周囲に配されるコママンガ部も、人々が見たとして思うのは、それで、結局のところ、阿弥陀浄土とはどんなところなの? という問いに尽きるであろう。それが中心に大画面を成して織り成されている。視線が絵すごろくを進んで行って、あがりのところが中央の浄土パノラマである。
 この世からあの世への引っ越し、橋渡りを確かならしめて描く山越阿弥陀仏図や二十五菩薩来迎図は、布教をねらうための方便として作られた講釈がましい図像である。なぜなら、その図のなかに、観る者は立ち入ることができないからである。引っ越しのキャンペーンは、引っ越しをする人、臨終間際の人や病気がちの人には効いても、どんなに死亡率が高い時代であったとしても、その予定がない人には他人事であったろう。その点、綴織当麻曼荼羅は、お練り供養という行事とも重ねあわせて見るとすれば、あの世とは「こんな世界」で、いつ行っても構わないパラダイスだと思うことができる。譬えるなら、住む家はそのままに旅行(travel)に行く感覚である。今日、旅行を誘う観光地のポスターが、ただ美しくて魅力的に写されているのに似ている。ストーリーを含む図と含まない図とは異質である。志村氏の指摘する「図」(figure)と「地」(ground)の用語に従って誤解を恐れずに言うなら、当麻曼荼羅縁起や各種来迎図には「図」と「地」があるが、綴織当麻曼荼羅やそれを縮小コピーした当麻曼荼羅図は、近づいて見て周囲のコママンガ部が視界から外れれば、「地」しかない。実際に当麻曼荼羅図を見ると、コママンガ部は地味で縁模様のように背景へと消えていく。藤田美術館蔵当麻曼荼羅(鎌倉時代、13~14世紀)を見ると、「根本曼荼羅(394.8×396.9cm)の4分の1より少し小さい縮尺本であるが、原本の図様をよく伝える。金泥塗に裁金(きりかね)を重ねる諸尊がきらびやかである。」(サントリー美術館「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展(2015年)解説ボード)とおりである。真正面から見るより、下の方から見上げ拝むほうが、光線の具合で照り輝いてわかりやすくなっている。殿上に三尊のほか、三十三の菩薩が体をくねらせている。お顔とはだけた上半身は黄金色である。こんなに座れるかと思えるほどラッシュアワー並みの混雑である。長い髪を首の脇から後ろへ垂らし、宝冠を被っている。遠近法などはないから、殿上の菩薩ばかりクローズアップされて目に入ってくる。これぞ極楽浄土、スーパービュー極楽浄土である。
 人によって受け取り方は違い、好き嫌いの問題もあろう。あるいは、図像における源信派と証空派にわかれるものと言えるかもしれない。そして、当麻のれんぞ、当麻のお練り供養に参加する人たちにとっては、練り歩くこと自体がストーリーであって、それが「図」に当たり、自らが主役である。説明調の来迎図など見せられるよりも、極楽往生が叶うと信じることができたに違いあるまい。図様の作り手と見る側とが互いに交渉し合って、豊かな世界像が成立していると言える。
(注4)厩牧令の義解に、「謂。脳者、馬脳也。胆者、牛胆也。」と注されている。馬の胆嚢を取ることはないが、牛の脳を取ることは十分に考えられる。永瀬1992.に、鹿皮の脳漿鞣し技術が詳しく紹介されている。牛脳を用いるとし、さらには脊髄のほうが不純物が少なくて上等であったともしている(118頁)。
(注5)応神紀に「麋鹿」(応神紀十三年三月)とある。ほかに、「是の野に麋鹿甚だ多し。気(いき)は朝霧の如く、足は茂林(しもとはら)の如し。臨(いでま)して狩りたまへ。」(景行紀四十七年是歳)とある。和名抄に、「麋 四声字苑に云はく、麋〈音は眉、漢語抄に於保之可(おほしか)と云ふ〉は、鹿に似て大きく、毛斑ならず、冬至を以て角を解く者也といふ。」、新撰字鏡に、「麞 諸羊反、平、久自加(くじか)、又於保自加(おほじか)」とある。このオホジカが現在の何に同定されるか筆者は知らない。箋注倭名抄は、漢籍に当たっているばかりである。和名抄の、毛に斑点がないという記述はわからなくさせるとともにわかるようにもさせている。列島には現在、大きな鹿としては、北海道にエゾシカがいる。ホンシュウジカよりも体が大きいから、第一候補として挙げられる。体の大きさは、ベルクマンの法則により北へ行って寒くなるほど大きくなる。ただ、エゾシカも夏毛には鹿の子模様がある。とはいえ、アイヌの人たち、古墳時代や飛鳥時代の蝦夷(えみし)は、エゾシカの毛皮を使う際、目的は防寒用である。すると、毛の量の豊富な冬毛を好んだであろう。それをヤマトへの貢物にもしていたとすると、ヤマトの人は、エゾシカには斑紋はないと錯覚させるに十分であったろう。そして、和名抄に、冬至に角を解くとあるのは、春に自然と脱落することではなく、ヤマトでの“常識”、五月五日に袋角を薬猟して、同時に鹿の子模様の毛皮を鞣して手に入れる方法をとらず、蝦夷が冬場に肉や毛皮を目当てに狩ることを指しているものである可能性がある。角は別に骨角器として利用されたのではないか。特殊品としてトロフィーを製作し、それがヤマトにもたらされたということかもしれない。
織田東禹「コロポックルの村」(部分)(水彩・額装、明治40年(1907)、東博展示品)
 第二候補に、トナカイが挙げられる。トナカイは斑点が明らかではなく、しかも、オスの場合には角が冬に入ると落ちてしまう。クリスマスに角を生やしてサンタクロースを導いているのはメスである。シカの仲間でメスに角が生える珍しい例である。シベリアからサハリン北部、カムチャッカ半島に生息しており、アイヌの人たちは毛皮を活用してトナカイと呼んでいるから、それがヤマトへもたらされていたことがあった可能性がある。
村上貞助筆・北夷分界余話、文化7年(1810)、国立公文書館展示品)
 第三候補として、大陸のシカがもたらされた可能性もある。もともと、ニホンジカは、大陸から列島へ人為的に連れて来られたという説がある。大陸のシカが、本邦にふつうに見られるシカよりも大きいのかどうか、これまた不勉強でわからない。また、シフゾウかもしれない。
シフゾウ(Tim Felce (Airwolfhound) “Pere David Deer” at Woburn Deer Park, Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/P%C3%A8re_David%27s_deer)
 いま、人の頭が「麋鹿」の頭部で作ったマスク(トロフィーのようにしたもの)に入るかどうか、被れるかどうかを問題にしている。応神紀に記される日向の諸県君牛が被ったそれは、記述に「唯以角鹿皮、為衣服耳。」と明記されているから、木製や乾漆製の動物仮面ではなく、実際のシカの頭部付きの毛皮であったに違いない。正倉院などにその類のものは何ら見られないが、皮革製品はとても残りにくい。しかるに、諸県君牛は日向からの再訪途中で播磨まで来た時、淡路島で狩りをしていた天皇に見つけられている。宮崎県のほうにエゾシカやトナカイはいない。キュウシュウジカはホンシュウジカよりも少し小さい。古墳時代から飛鳥時代にどうであったかについては動物考古学の問題となる。筆者は、彼がそれ以前に宮仕えしていた時の賜物として、エゾシカかトナカイかシフゾウの全身毛皮かトロフィーを頂戴していたのであろうと推測する。大事な賜物だから、髪長媛を献上するに際しても被ってきたという話ではないか。ホンシュウジカ、キュウシュウジカのなかでも大きなシカのことを「麋鹿」と呼んでいる可能性がないわけではないが、景行紀の記事も、駿河でその地の賊が日本武尊を欺くために語られた事柄である。「気は朝霧の如く、足は茂林の如し。」などという形容が使われている。形容が過剰である。雄略前紀の、「鹿」狩りに連れ出して暗殺する際の誘い文句にも、「其の戴(ささ)げたる角、枯樹(かれき)の末(えだ)に類(に)たり。其の聚(つど)へたる脚、弱木株(しもとはら)の如し。呼吸(いぶ)く気息(いき)、朝霧に似れり。」とある。生きている姿を見たことがない大きなシカを「麋鹿」という言葉で表わしていると知られよう。以上から、「麋鹿」はエゾシカ、トナカイ、シフゾウなどである蓋然性が高いといえる。そして、「麋鹿」の頭部だけの剥製を目にしたヤマトの人は、慣れ親しんでいるホンシュウジカに当てはめて考えたとき、不自然に頭の大きなもの、すなわち、ネコ型にして大きな頭を持つ、トラについて伝え聞くことによく似ていると感じられたのではないか。
だだおしの赤鬼(あべのハルカス美術館「長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」展館外展示品)
 人は、人や擬人化可能性のある相手の特徴を顔に負っている。仮面の役目を強調するためには、頭部をすっぽり被うべく比重を大きくし、印象強くアピールする。神に近しい童子・童女の体型の化け物となる。頭にすっぽりと被る伎楽面の場合、5頭身になり動きも少なくなる。演技という面で制約が課されるが、存在自体が十分に演技である。それを目にしたヤマトの人たちにとって、伎楽の呉女や崑崙、酔胡従などは、いわゆるきもかわの唐様かぶれである。かぶっているからかぶれている。乾漆製のものなど漆にもかぶれている。だから頭部が腫れている。張りぼてである。言葉の上では理の当然の現象が起こっている。ゆるキャラは動きも緩く、子供っぽく感じられ、わざとらしい。伎楽では、聞き慣れない音楽に囃したてられ、ばかばかしいドラマが演じられる。見物客は、あれは異国のもの、ひょっとすると異界のもの、大げさで虎みたいなものと思ったであろう。騙されたと思ってお芝居を見ていればいい。それぐらいの適当さ、鷹揚さをもって受け取られたのであろう。お練り供養も騙されたようなものであるが、浄土教の思想や中将姫の物語など、いろいろな“心”まで複合させ、演技する人々の“心”のお芝居として永続したと考えられる。
(注6)白川1995.に、「四段。ねばり強さを与えるために、強い力を加えてきたえること。「ねやす」ともいう。糸・布・土・金属などの類に対して、加工するときにも用いる。またそのように、ものを強く握ることをいう。「ねり」はその名詞形。「ねりぎぬ」「ねりかね」はその加工したもの。「とねる」「くねる」「ひねる」はのちの派生語である。「ねらふ」は「ねる(徐歩)」の再活用形。気づかれないように、注意深く目的物をうかがうことをいう。」(594頁)とある。
(注7)tatemeoyaji2011様「20130302 浜松市動物園・アムールトラのミーの常同行動」https://www.youtube.com/watch?v=FFzJOrZNyag参照。
(注8)古代エジプトでは、紀元前2000年頃には、チターやライオンを狩猟や戦争に使うために飼っており、古代のインドでもライオンやヒョウ、トラ、ゾウが飼われていたとされている。Baratay and Hardouin-Fugier 2000.に、‘In the fourteenth century BC, the emperors of China collected animals from various regions and gathered them together in their palaces. In the ninth century BC, Emperor Wen-Wang established a park of 375 hectares ― called the Garden of Intelligence since it was thought of as a divine creation ― for hunting and fishing.’(17p)とある。Emperor Wen-Wangは、周の文王のことかと思われる。
 トラとはどのような動物であるかについて、ヤマトの人は朝鮮半島へ古墳時代にたびたび行っており、それで知ったと考える説も立てられよう。そこに、朝鮮語のタイラ→トラ説も立脚点を置くことができる。ウマがマ(馬)に頭音ウを冠して言いやすくした外来語であるとの考えにも近いものである。しかし、新しいヤマトコトバ、いわゆる和訓は、聞いた人がその“新語”を納得しなければならない。無文字社会ゆえの“頓智”があって分かり合えなければ、音声だけによる言葉は流通し得ない。外来語を記号変換のように利用できるのは、文字に慣れ親しんだ頭脳には容易でも、列島的範囲で決してピジン・クレオール的な環境下にはなかった人たちには難しいものと思われる。万葉語に「双六(すぐろく)」、「過所(くわそ)」といった漢語が見られ、朝鮮語であると確かにわかる語としては、紀に、「王(コニキシ)」、「王子(セシム)」、「太子(コヨシム)」ほか、官位に関する語が多くあるばかりである。それらは、特殊なればこそ面白がられて使われた例外である。
(注9)出口・竹之内・奥村・小澤2006.、出口2006.、竹之内・奥村・福永・向久保・実森・ジョンソン・本出2015.参照。
(注10)拙稿「舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。江戸時代のお練り供養で介添え人がついているさまは、歌川芳豊・大念佛煉供養(花暦浪花自慢のうち)に描かれている(大阪eコレクション「錦絵に見る大阪の風景」の「大念仏煉供養」http://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000007-00010229参照。)。
(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」参照。
(注12)『特別展 極楽へのいざない─練り供養をめぐる美術─』に載る菩薩面は、木造のものばかりである。お練り供養に用いられたお面は、時代的に言って乾漆のものはなかったと推測される。仏像の脱乾漆像も、八世紀までに限られる。筆者が乾漆技法にこだわるのは、ネルという語の二義性を統合的に把握する試みからである。副島氏の夾紵の解説に、中国で、「仏像を奉じて練り歩くための行道像」とあった。お練り供養の菩薩面のプロトタイプは、本邦では乾漆の伎楽面に求められるのではないかと推論している。伎楽面では、頭にすっぽりと被るタイプのお面に、法隆寺献納宝物の楠製は2㎏と重い。桐を使って軽くなるように工夫したもののほか、乾漆製によるものが正倉院や法隆寺に伝わっている。美術・工芸的研究は正倉院にて行われている。山崎・岡田2014.、山片2014.参照。実用・観念的研究は、“科学”ではないので進展に乏しい。
 乾漆像作成段階で、麻布製の漆塗りした張りぼてを一度切り離し、再び接合する際にペースト状の木屎漆は用いられる。当初、粘着力の強い麦漆で何層にも塗り貼りを繰り返していったん形が出来上がる。そのときの漆は接着剤とコーティング剤の機能を果している。原型であった塑土を掻き出したのち、新たに心木を入れて固定し、開口部を縫い閉じて木屎漆を塗る。それを“共練濃・共練粉(トネリコ)”とも呼べる「練物」を使って接合する。仕上げに必要なコーキング剤としての役割までプラスされている。ネリという言葉の素材が用いられることに、仏教に曰く因縁のある作業であるように感じられる。さらには、浄土教の練る行為とのつながりも見て取れる。それは、毛皮の仕上げの過程が、ヘラ(後に剪)を使ってタンパク質、膠質、脂質をきれいにこそぎ落とす作業が、鞣すという言葉で表されることと相同している。乾漆(夾紵)の技法も、漆を、ヘラや刷毛を使ってなめるように施したに違いあるまい。ねばねば感から、古語にナムという感覚であったであろう。
(注13)紙漉きにおいて、ネリという粘剤は重要とされる。増田2010.に、「粘剤の役割として、簀の水漏れ時間をコントロールすること、繊維同士の凝集を防いで分散を促し地合を良好にすることの、2点が指摘されているが、実験の結果からは、繊維層の簀上への定着にも大きな効果があることが確認できた。」(95頁)とある。紙を乾かす時に板に貼りつけ、剥がす時にも、ネリがあるのとないのとでは違いがあるのであろう。増田氏は、「漉桁の操作に関しては、東洋の手漉き紙では、簀の上を紙料水位が流れることにおいて共通しており、東洋に広く見られる技術的特徴と言える。しかし、漉桁枠を置いて、比較的長い時間紙料水を留め置いて揺動を繰り返して紙料水の流動を促し、良好な繊維配向を得ることについては、東洋の中でも日本に特徴的に見られる操作である。……現代の手漉き技術が奈良時代から連綿と続く技術であること、また日本の手漉き紙の特徴は、紙漉きの中でも特異的な、上枠にため込んだ紙料水を積極的に揺動させるところに、あると言えるのではなかろうか。そうであれば、この和紙の技術を揺動法即ち「揺り漉き」と呼ぶことを提唱したい。」(93頁)としている。
kougeihinjp様「漉く-越前和紙2/2」(https://www.youtube.com/watch?v=-f4ID_7NM1Uをトリミング)
 古代の紙漉きの技術について、溜漉きか流漉きかといった議論が行われている。言葉の感覚からすると、揺動させることで粘剤のネリがなくてもうまい具合に紙が漉ける技術は、熟練の技によるものであると想定することができる。つまり、漉桁枠の上手な動かし方は、練れた技術でネリである。漉桁枠を揺り動かすとき、簀上の繊維を確認するために顔を左右に面練るのは、溜漉きの技法かと思われる。紙漉きの漉枠の動きとトラのなわばり巡回活動、踊念仏のそれは、相似するということである。そして、熟練せずとも上手に紙漉きができる添加粘剤が見つかって、同じくネリと呼ばれ出したということであろう。同じことなのだから、同じ言葉で表す。言=事であるとする言霊信仰に適っている。なにしろ、ネリなる語は、ネル(練・錬)の連用形として成立していると考えられる。科学的に証明することはできないが、語学的には正しいと考える。推古紀に、紙と墨の伝来記事がある。

 十八年春三月、高麗の王(きし)、僧(ほふし)曇徴(どむてう)・法定(ほふぢゃう)を貢上(たてまつ)る。曇徴は五経を知れり。且(また)能く彩色(しみのもののいろ)及び紙墨(かみすみ)を作り、并せて碾磑(みづうす)造る。蓋し碾磑を造ること、是の時に始るか。(推古紀十八年三月)

 このときの技術がどのようなものであったかはわからない。墨を固めて形にするのに、共練濃=トネリコを使ったとすると、紙の粘剤にもトネリコを使ったかもしれないが、不明である。「并造碾磑」の碾磑が、水車による臼のことで、叩き潰すのに使われた可能性は残る。あるいは、むしろ、熟練の練れた技術を互換していしまう材料のことをトネリコと呼んで、タモという木から採れるので樹種の名もトネリコというようになったのかもしれない。

 「紙漉録」(大関増業編・止戈枢要(文化11年~文政5年))に、紙作りにおいて「ねり」を活用することが記されている。「又ねりといふもの布袋入、図のごとく船の片隅入置、折々志ぼり出しかき廻し、更に是に加減有事也。右ねりハ山より持来り上皮を削取、真ンの木と皮との間に白キ所有。其真白処を削取、袋ニ入、甚宜し也。木の肌山卯の木に類し卯の木に非ず。又作りねりと云あり。是ハ畑彼岸の比蒔置、其秋彼岸のごろ出来、もの也。花ハ夏中さくもの也。楮を入かき廻しねり袋の躰。」(寿岳2008.付録25頁)とある。
 トロロアオイの根によって作られるネリは、「作りねり」といい、山で採ってきた樹液由来のものは、「ねり」である。熟練者がその技量を以て首尾よく巧みにしなやかに作り上げること、それがネル(練)ことで、技術的に未熟な者でも、漉くときに入れると即席的に上手に漉ける魔法の粘剤、アンチョコ的な材料を、ネリと呼んでいたようである。

(引用・参考文献)
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※本稿は、2015年9月稿を2021年5月に加筆、改稿したものである。

お練り供養と当麻曼荼羅 其の一

2021年05月19日 | 上古・中古・中世・近世
 当麻寺は不思議な寺院である。伝来する仏像、遺物から七世紀後半に創始すると考えられている。塑造弥勒仏坐像を安置する金堂ならびに講堂が南面して建つ。その南に二つの塔があり、その間に門がありそうなもののその形跡はないという。向こう側は小高い山である。塔の相輪は八輪である。伽藍の東側の仁王門から入り、金堂などを通過して西進した先に現在の本堂、曼荼羅堂が建ち、綴織当麻曼荼羅を本尊とする。狭い伽藍に弥勒と阿弥陀の信仰が併存している。綴織当麻曼荼羅の発願者として中将姫伝説が伝わっているが、その実在は信じられていない。春には来迎絵、いわゆるお練り供養の行事が執り行われる。ここを発祥地としてお練り供養をする寺院が全国的に広がりはするが、その数は散見される程度である。
 本稿では、とりたてて宗教・宗派について検討することはない。用いられている言葉について理解を深め、当麻曼荼羅とは何か、お練り供養とは何か、その両者の関係性について一つの仮説を導き出すことを展望とする。

お練り供養についての現状認識と疑問

 お練り供養(迎講(むかえこう)、来迎会、迎接会(ごうしょうえ))がいつ頃から行われていたかについて、確かなところはわからない。文献としては、栄花物語(1024~1028頃)・巻第十五・うたがひに、「六波羅蜜寺、雲林院(うりむゐん)の菩提講などの折節の迎講などにもおぼし急がせ給ふ。」、大日本国法華経験記(1040~1044頃)・巻下・八三に、「弥陀迎接の相を構へて、極楽荘厳の儀を顕すせり。〈世に迎講と云ふ、〉」などとある。そして、古事談(1212~1215頃)・巻三・二七に、「迎講は、恵心僧都の始め給ふ事也、三寸の小仏を脇足(けふそく)の上に立てて、脇足の足に緒を付けて、引き寄せ引き寄せして啼泣(ていきふ)し給ひけり。寛印供奉それを見て智発して、丹後の迎講をば始め行ふ。云々」とある。これら文献と、仮面の残存物などから、発起人として源信の名が取り沙汰されている。關2013年a.は、「「迎講むかえこう」とは、後世「来迎会」「ねり供養」などと呼ばれる行事のもととなった野外・仮面・宗教劇で、恵心僧都源信(九四二~一〇一七)が始めた。……この[極楽往生の]一連の描写を脚本として演じたものが迎講であり、絵画化すると〝阿弥陀聖衆来迎図〟となる。迎講は、命が尽きてから極楽浄土で目が開くまでの不安に満ちた旅、この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅の予行演習として、ベストセラー作家源信が考案したと考えられる。」(134頁)と断定している。源信という仏教パフォーマンスのプロデューサーによって、お練り供養という行事が新規に作り出されたとするのである。さらに、關2013b.に次のようにある。

 [岡山県牛窓の]弘法寺の行事は、先に見た木版画などに「踟供養ねりくよう」と書かれていることから、この名称が使われている。おもしろいのは、地元の方々が、この難しい「踟」の字を普通に誰でも読めると思っておられることで、行事の時期には「踟供養」と書いたのぼりがそこここに立つ。私が知る限り、現在もこの字を使っている所はほかに無い。しかし、一般によく目にする「練供養」は実は当て字(同音の漢字を借りた仮借)で、「踟供養」か「邌供養」が正しいのである。「踟」は、〝たちもとほる〟〝ためらう〟、「邌」は〝おもむろ〟〝ゆっくり〟という意味なので、迎講のゆっくり歩くという行為を的確に表している。當麻寺の行事をはじめ、歴史的にはこのどちらかが使われていた。弘法寺の行事は、[彦根のひこにゃんやディズニーランドのミッキーのような一種の着ぐるみで]阿弥陀像が出御されるという点でも、伝統的に忠実だが、名称の点でも伝統を守っているのである。(97頁)
 大和では、この時期に、[當麻寺のほか]矢田寺や久米寺でも同様の行事が行われ、それらも「れんぞ」と呼ばれている。さらに、この時期に神社で行われる行事もれんぞと呼ばれており、れんぞは、春の野に出てお弁当を食べる農家の休日、と理解されていた。つまり、このような骨休めの時期に合わせて、人々を阿弥陀浄土へいざなう行事が定着したと考えられる。れんぞの語源は、折口信夫説の「練道」ではなく、「連座」説を支持したい。(90~91頁)
 源信は、……阿弥陀仏の一行があの世からこの世へ死者を迎えに来る「来迎」の有様を戸外で演じ、「往生」のためのよすがにしようとした。それが、「迎講むかえこう」である。ちなみに、同じテーマを絵画化したものが「阿弥陀聖衆しょうじゅ来迎図」、通称「来迎図」である。(92頁)
 源信が始めた頃の来迎劇は、主役の阿弥陀仏も、脇役の聖衆(観音菩薩や勢至菩薩をはじめとするもろもろの菩薩や比丘のこと。後世は二十五菩薩と呼ぶことが多い)も面をかぶり、仲間同士で演じ合うような小規模のものだったが、次第に専門の楽人が加わって楽器を演奏するなど、規模が拡大した。開催目的が、自分たちが往生を確信するためのイメージトレーニング、いわば臨終の予行演習から、布教へと変化し、娯楽性も加味されたのである。(92頁)
 面を付けて橋の上を歩くのは危ない上に、菩薩に扮装した人の中には、「お迎え」を願って参加された高齢者もおられ、みな介添え人に手を引かれている。(102頁)
(お練り供養、当麻寺、1990年代)
 筆者の疑問は言葉にある。ネリクヨウ、レンゾといった言葉は、どこからか、誰からか言われ出し、続いている。源信一人が創作して広めようとしたとすると、宣伝効果を考え、キャッチフレーズは端的に一言でまとめられたはずである。「迎講」と呼んだのか、「来迎会」と呼んだのか、「迎接会」と呼んだのか、それを民衆に理解させるために「お練り供養」と訳したのか不明である。お祭りのタイトル名があやふやということにはならないであろう。当初は仲間同士で行う小規模なものであったとあるが、何によっているのか不明である。また、誰がどのように大規模化させたのか、どのような史料があるのか不明である。
 他の文献では、今昔物語集(平安末期頃)・巻第十五、丹後国迎講を始めし聖人、往生せる語(こと)第廿三に、「[丹後の国の聖人、大江清定と云ふ其の国の]守(かみ)に値(あひ)て云はく、『此の国に迎講と云ふ事をなむ始めむと思ひ給ふるを、己が力一つにては難叶(かなへがた)くなむ侍る。然れば、此の事、力を令加(くはへしめ)給ひなむや』と。」、また、拾遺往生伝(1111頃)・巻下・二六、永観伝にも、「これより先、中山の吉田寺において、迎接(がうせふ)の講を修せり。その菩薩の装束廿具、羅縠(らこく)錦綺を裁(た)ちて、丹青朱紫を施せり。これ乃ち、四方に馳せ求めて、年ごとに営み設けたるものなり。」とあり、とても準備が大変なことを物語っている。フェスティバル実行委員会をたち上げて、首尾よく手配を重ねないと、なかなか滞りなくはできない大行事である。源信というお坊さんが考えて実施した、と一括りで語ることは難しい。古事談の記事は鵜呑みにすることはできない。
 ネリクヨウの漢字について、踟供養、練供養のいずれが適正な文字であるかと発想し、踟は、踟躕、たちもとほることを表すからそれが正しいという考えは、逆言すれば、迎講のゆっくり歩くという行為をしか名称が表現しておらず、他の含みを残さない物言いに陥る。地域差、時代差はあれ、それらの文字をいずれも使っていたのが史実である。そして、漢字を体系的に読めるわけではない一般民衆のことを考えれば、ネリクヨウという音こそが注目すべき課題であろう。
 レンゾという言葉に至っては、民俗宗教との習合や、民衆の知恵のもつれのようなことがあったと想定しなければ、およそ現れない言葉であろう。レンゾという風習にかぶさる形でお練り供養は行われたか、あるいは、人々がお練り供養をレンゾと言い当てたその呼称であるとして考察する必要がある。語源説は反証が不可能なため、何を言っても許されるが、「連座」とは同席に連なり座ることも指すものの、令義解・獄令・公坐相連条に、「凡そ公坐相連(くざさうれん)。〈謂はく、律に依る。同司、公坐を犯す者は、即ち四等連坐に為(つく)れといふ。〉」とある。皆で休めば怖くないという屁理屈をもって春の休日の名に選んだと考えるのはあまりにセンスが悪い。日本民俗大辞典には次のように解説されている。

 奈良盆地を中心にして行われる春先の農休みのこと。れんどとも呼ぶ。地域によって日が異なるが、大体三月から五月にかけての特定の一日を休みとする。たいてい、その地域の寺社の祭礼に合わせてれんぞの日が決まっている。たとえば法隆寺れんぞは三月二十二日、おおやまとれんぞは四月一日、神武さんれんぞは四月三日、三輪れんぞは四月九日、お大師さんれんぞは四月二十一日、矢田れんぞは四月二十三・二十四日、八十八夜れんぞは五月二日、久米れんぞは五月八日、当麻れんぞは五月十四日である。これらはすべて寺社の祭礼の日に因んで広域にわたり、農休みとしている。特に当麻れんぞは、当麻寺にて二十五菩薩が極楽堂から娑婆堂へ行列する来迎練供養らいごうねりくようと呼ばれる行事がある。れんぞということばは、一説にはこの練供養のなまったものではないかといわれる。このれんぞの日、親戚に御馳走したり、餅や団子をこしらえて持って行ったりする。また、嫁入りした者は、夫や子供を連れて里帰りもする。また、この日の餅を「れんぞの苦餅にがもち」とも呼び、これからいよいよ水田の苦労が待ち受けているためにこう呼ぶ。水田の耕作が始まろうとする一つの節目で、このようにれんぞということばで明確に水田耕作の開始を意識する地方も珍しい。(814頁、この項、浦西勉。)

当麻曼荼羅についての検討

 当麻寺に関しては、当麻曼荼羅がとみに特徴的である。本尊の当麻曼荼羅(浄土変相図・観経曼荼羅)は綴織りに織られている。中国唐時代、八世紀の伝来品である可能性が濃厚とされる。尾形2013.に、「當麻曼荼羅が綴織りであることを追確認し、織組織を二十倍のマイクロスコープで観察調査して、正倉院裂と比較することによって、中国中原の優れた技術で作られた渡来品であると判断した。この、絹糸遣いが優れている絵画のように精緻な大型の綴織りは、八世紀の末頃に中国で製作され日本へ将来されたと考えられる。」(244頁)とある。浄土教自体は、中国では晋代に、廬山の慧遠(334~416)による白蓮社に多数の信奉者を得ている。仏典では、無量寿経・阿弥陀如来四十八願、来迎引接願、観無量寿経・阿弥陀如来十六願に、九品来迎が記される。浄土教の考えを図解した綴織当麻曼荼羅将来以降、当麻寺に、今日見られるようなお練り供養が行われるようになったとされている。ただし、いわゆる「お迎え」というものについて、信仰心や真偽を問うこととは無関係に、単にお祭り好きがお祭というだけで参加するという側面も強いと考えられる。この世からあの世への“引っ越し”(橋渡り)に関心を集約させられるほど、浄土教的な考えが一般に根づいていた、換言すれば、民衆の大多数が浄土思想に洗脳されていたとは考えにくい。皆がどっぷり浸っていたのなら、逆に布教目的の来迎図は要らないことになる。
 むろん、浄土教の思想、「厭離穢土、欣求浄土」の考えは流行っていたと認められる。おそらく、法華経も華厳経も流行っていたのであろう。そうなると、流行り廃りの問題であるとも思われる。死ぬのが嫌であるとか、怖いとか、地獄へ行くのは勘弁してほしいというのは肌感覚としてよくわかるが、病気や怪我、災害が今日とは比べ物にならないほど日常茶飯事であった時代にあって、極楽へ行きたいとは願っても、それは行ければいいのであって、その途中の“引っ越し”(渡り方)に焦点が絞られる点が腑に落ちない。「この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅」とは、死出の旅路、冥途の旅(last journey)のことであろう。ヤマトコトバのタビ(旅・羈旅)の原義は、それを含むものではない。last journey が練り歩くような鈍行である点も疑問である。今日のお盆行事に、馬に乗ってはやく訪れ、牛に乗ってゆっくり帰るといった程度のことであろうか。
 我が国に伝来した仏教においても、阿弥陀仏による西方(さいほう)極楽浄土以外に、弥勒菩薩による兜率天(とそつてん)浄土、釈迦による霊山(りょうぜん)浄土、維摩居士による妙喜(みょうぎ)浄土、観音による補陀落浄土などといろいろである。なぜ極楽浄土がもてはやされたかについては、多くの議論が行われている。それらの観念を受け入れて信じたかどうかについて、何を以て信じていたことの証左とするのかは実は確かではない。奈良時代以降に発願した写経は多く残り、それによって功徳を積むことになったとの見解もかなり正しいのであろう。しかし、字の書けない庶民レベルでどうであったか、知る由のないことである。
 もともとの民俗宗教で他界観に近い形のものほど、民衆にはわかりやすくて受け入れやすかったと推測されるが、それがはたして「常世国(とこよのくに)」と呼ばれるものであったのか、また、常世国とはどのようなものか、それもまた不明瞭である。記では、「少名毘古那神は、常世国に度(わた)りき。」(記上)、「御毛沼命(みけぬのみこと)は、浪の穂を跳(ふ)みて常世国に渡り坐し、」(記上)、「名は多遅摩毛理(たぢまもり)を以て、常世国に遣して、ときじくのかくの木実(このみ)を求めしめき。」(垂仁記)などとある。「常世」としては、「常世の長鳴鳥(ながなきどり)」(記上)、「常世の思金神(おもひかねのかみ)」(記上)などともある。また、皇極紀三年七月条には、アゲハの幼虫を「常世の神」と崇めた似非宗教の逸話が載る。万葉集では、万650番歌の「大伴宿禰三依の離(さか)りてまた逢ふを歓ぶ歌一首」に、「常世国」、万1740・1741番歌の「水江(みづのえ)の浦島の子を詠める一首併せて短歌」に、「常世」、「常世辺(とこよへ)」とある。それらが、今日一般にいわれる“あの世”のことなのか、よくわからない。時間はかかっているが、還ってきてしまっているからである。

 田道間守(たぢまもり)、是に泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰(まを)さく、「命(おほみこと)を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠くより絶域(はるかくに)に往(まか)る。万里(とほ)く浪を蹈(ほ)みて、遥(はるか)に弱水(よわのみづ)を度(わた)る。是の常世国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以て、往来(ゆきかよ)ふ間に、自づかに十年に経(な)りぬ。豈期(おも)ひきや、独り峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(また)本土(もとのくに)に向(まうでこ)むといふことを。然るに、聖帝(ひじりのみかど)の神霊(みたまのふゆ)に頼りて、僅(わづか)に還り来(まうく)ること得たり。……」とまをす。(垂仁紀九十九年明年三月)

 多遅摩毛理(田道間守)の「往来」とは、journey ではなく、travel なのであろうか。これを脚本とした橋渡り行事は、管見にして不明である。行って還ってくる逸話には、お練り供養と共通点があるような気がしないでもない。
 五来2010.では、「迎講というのは、はじめは生きた人の長寿と健康と安楽死と、そして死後の往生を願うものであった。これが浄土教の浸透とともに死者の往生だけになり、近世・近代にはショー化してしまった。……大和の人々が「当麻のレンゾ」に物に憑かれたように集まっていくのも、この古い迎講の擬死再生に結縁して現世の幸福や来世の安楽をねがった、祖先以来の心意伝承にうながされたものと私は見ている。」(150頁)、五来2008.では、「従来、恵心僧都が始めたとか、丹後天橋立の普甲寺の僧がはじめたとか、二河白道が元であるとかいわれたこの儀礼も、その源は日本固有宗教の山岳信仰にある。たまたま当麻寺には当麻曼荼羅があったためにこれが浄土教化して、迎講の形をとったのである。しかしその宗教意識はあくまでも擬死再生で、いまも厄年のものが菩薩の衣装と面をつけて橋がかり往来すれば、厄が落ちるという滅罪信仰がある。これが平安時代には曼陀羅道にはいって蓮座に乗って坐り、光背を立ててもらえば、「往生した」という擬死儀礼を表現したとおもわれる。これを平安時代と推定できるのは、発見された多数の蓮座と光背が、平安中期または末期の様式をもっているからにほかならない。しかしここで光背が擬往生者の背に立てられたのは、むしろ山岳信仰で教理化された即身成仏の表現ではなかったかともおもわれる。」(67~68頁)としている。さらに、五来2013.には次のようなまとめがある。

 当麻寺には白鳳の仏像、天平の建築や曼荼羅があるのに、藤原時代の文献にあらわれない不思議な寺である。藤原時代に入れば外護者の当麻氏はおとろえたが、それに代る支持者がなければ、鎌倉時代まで存続することはできなかったであろうし、いわんや現在われわれがこの寺や曼荼羅を見ることはなかったであろう。その支持者はおそらく記録をのこさぬ聖(ひじり)や庶民であったらしく、その信仰の遺品とおぼしきいものが曼荼羅堂の屋根裏にのこっていた。それらは、平安中期と推定される立像用船型挙身光背六十面と、坐像用挙身光背十面と台座三十台ほどであった。これらには枘穴(ほぞあな)がないので仏像の光背や台座でないことはあきらかである。文字がついてないから、その形態や類似の儀礼から類推するほかはないが、これを当麻寺の迎講(むかえこう)と関連づけるならば、往生者または成仏者がこの上に坐る儀礼があったことを想定される。……平安中期の光背と台座は、橋掛りをわたって曼荼羅堂へ入った信者が、蓮台座に坐り、光背を立てられて往生者となる儀礼にもちいられたものであろうと思われる。これは逆修(ぎゃくしゅ)という儀礼に相当するもので、生きているあいだに一旦死んだことにして葬式供養をおこない、それから再生すれば、一切の罪穢は消滅して、健康で長生きするばかりでなく、死ねば往生疑いなしという信仰であった。私はこれを擬死再生(ぎしさいせい)儀礼と名づけているが、迎講では彼岸に極楽浄土がなければならないので、曼荼羅堂や阿弥陀堂がこれにあてられたのである。(43~44頁)

 この議論について、「常世国」との関係から魅力を感じるものの、その信憑性は定かでない。お練り供養の行列がもともと、本堂、娑婆堂のどちらを出発点にしてどちらを折り返し点にしていたのか、記録にわからない。
 いずれにせよ、諸々総合して考えると、源信一人の手によってお練り供養が創作されて人々の間に定着していったとする言説はやはり怪しいと言える。人々の価値観、世界観が一世代の間にドラスティックに変わる現代とは違い、また、カルト宗教でもなさそうなので、かりそめにも他界観を含んだ宗教劇がすぐに馴染んでいくとは考えにくい。生真面目な考察は何でもありの当麻寺にはそぐわないように思われる。お練り供養のような劇場参加型の村祭りを企画したら、面白いから来年もまたやろうということになった、という程度の自然発生的な経緯を含めて考えるべき事柄ではないか。何かしら人々に“受ける”ドラマと思われたから、お金を払ってまで演じたいと感じられたのであろうし、しらけることもなく連綿と続けられてきたのであろう。宗教哲学を大上段に振りかざして国分寺・国分尼寺跡が各国に残った、というのと異なり、なぜか列島のなかに点々と残っているばかりの不思議なお祭りである。人々に何が受けたのかが、探求されてしかるべき要点である。おもしろいと思われるに最大の特徴は、頭にすっぽりとお面を被ることにあるのだろう(注1)

当麻曼荼羅図をめぐって─ナムとしての理解へ

 当麻寺に関しては、宗派が真言宗と浄土宗の並立になっていることや、開山が聖徳太子の異母弟の麻呂古王と伝えられている点、金堂にはみごとな弥勒仏坐像が安置され、奈良時代建立の東塔、奈良~平安時代建立の西塔がそびえるなど、整理のつかない点が多い。本尊の綴織当麻曼荼羅は、観無量寿経を絵解きした変相図であるとされている(注2)。中央に阿弥陀浄土図、左端に韋提希婦人(いだいけぶにん)が釈迦に極楽浄土を願う物語(序分義)、右端に極楽浄土を阿弥陀如来を観想するための十三の方法(定善義)、下端に生前の行いによって分かれる九品九生の極楽浄土(散善義)ならびに縁起文が描かれている。唐代の善導(613~681)の著した観無量寿経疏の考えと一致するとされている。周囲にめぐらされたコママンガがそれを示している。主眼は絵解きにあるのではなく、阿弥陀浄土を観想するための曼荼羅である。すなわち、実際に死んでいく際に「お迎え」が来るところを表した阿弥陀来迎図、山越阿弥陀図、二十五菩薩来迎図などとは絵のモチーフが異なる。来迎引接の劇的な瞬間を描いて強くアピールするものではないのである。お面をかぶって行列して行うパフォーマンスと、直接にはつながらない曼荼羅ということになる。
 日本美術全集の解説文に、「日本では浄土教の広がりとともに、観経変の中でも九品往生の説話が大きく取り上げられて来迎図(らいごうず)として発展したが、やがて鎌倉時代に入り、浄土宗西山派の証空(しょうくう)(1177~1247)などがこの当麻曼陀羅の存在を大きく取り上げて宣揚し、図像解説書や『当麻曼陀羅縁起』なども作られて、再び大いに流布転写されるようになった。」(221頁、この項、百橋明穂)と指摘されている。縮刷版が出回った。お練り供養を跡づける来迎図と、当麻曼荼羅図とは、歴史的に見ても図像として別の流れである。来迎の考えに縛られることなく当麻曼荼羅は拝まれていたに違いあるまい(注3)。そこへにわかに迎講が行われることとなった。そう考えると、レンゾという言葉は蓮華座をいう「蓮座」説もありうることになるが、筆者の関心の中心は漢字音にではなく、ヤマトコトバの音にある。
当麻曼荼羅図と、その向かって左側の「樹下会」部分(鎌倉時代、14世紀、東博展示品、人見楽子氏寄贈)
 この当麻曼荼羅図をよくよくみると、とても四角い。周囲はコマ漫画である。人見楽子氏寄贈東博本(列品番号A-1141)の場合は、さらにその外側に結縁者の記名欄もあるが、右側途中で終っている。中央の一全体図は、智光曼荼羅や清海曼荼羅と呼ばれる浄土変相図の類種ではあるが、中央の阿弥陀三尊像の、まわりに控えている三十四菩薩像の描かれ方が気になる。たくさんの菩薩が描かれていてとても賑やかである。菩薩たちの姿は、三尊同様、お顔やはだけた上半身は黄金色に塗られている。綴織当麻曼荼羅の金糸使いを、金泥を使って模写したところが当麻曼荼羅図の新しさなのであろう。頭髪や着衣、輪郭、背景はそれに対比して暗色に描かれており、全体的にみると縦縞模様になっている。菩薩たち一躰一躰は顔を右に左に向け、また、上体までも傾けくねらせており、互いに話をしている様が動的に描かれている。倶会楽を表しているのであろう。その結果、三尊の周りを黄と黒の縦縞模様の頭を振り振りしているトラが周回しているように見えてくる。ヘレン・バンナーマンの『ちびくろサンボ』では、トラが椰子の木の周りを回ってバターができたという話になっている。
 当麻曼荼羅は、極楽浄土を観想するためにある。観想することで、極楽往生のよすがになると考えられている。さらに簡便にした浄土教の思想、信仰は、南無阿弥陀仏という六字名号(ろくじのみょうごう)を心に思い、口で唱えることである。念仏を行えば極楽往生できるとされている。「南無(なむ)」とは、それにつづける対象に、心から帰依して身も心もおすがりすること、帰命(きみょう)することである。霊異記・上・第三十に、「観音の名号と称礼して曰く、『南无(なむ)、銅銭万貫、白米万石、好き女(をみな)多(あまた)、徳施せよ』といふ。」とある。今日でも、お仏壇の前でナームーと手を合わせてお参りしている。この南無習慣こそ、一般民衆を含めた多くの人々にとって、日本浄土教の真髄ではないかと筆者は考える。すべてはナムの話なのではないか。
 ナムという語は、上代に、並(竝)の意と、嘗(舐)の意とがあった。並(竝)の用例は、万葉集に、「舟並(なめ)て」(万36)、「馬並て」(万239)、記に、「たたなめて」(記14歌謡)といった例が見られる。嘗(舐)の用例は、推古紀に「塩酢の味(あぢはひ)、口に在れども嘗めず。」(推古紀二十九年二月)などとある。当麻曼荼羅の菩薩たちは並んでいるし、宴会を催していて飲み食いしているようでもある。どうやら、ナムとは、酔っ払っているように頭を左右に揺らすトラ、それは、ネコの小さな体に大きな頭のついた動物についてよく表している言葉のようである。酒を嘗めるように呑み、肴を舌なめずりする。
ネコの水飲み(99girsl様「猫が水を飲む時の様子がよくわかる動画」https://www.youtube.com/watch?v=elEtwpWMNkIをトリミング)
 そしてまた、ナムという語は、皮をなめす(鞣・滑)という意味にも使われたのではないか。鞣し革の技法は、現在では薬品処理にて行われているが、のび2009.によると、「獣皮加工の要点は(イ)腐敗防止 (ロ)柔軟化 (ハ)収縮変形防止にある。化学的には皮蛋白(コラーゲン蛋白質組織)の安定化、すなわち①膠質の除去、②脱脂にあった。しかしながら……前近代日本の皮革業は、今日でいう語の正確な意味での鞣しは部分的にしか成立せず、専ら獣皮組成を物理的に加工(叩く・擦る・揉むの繰り返し)することをもって鞣しと呼んできた(「皮革業」『部落史用語辞典』)。これらをも鞣しと呼んでいいとすれば中世皮革の鞣し技術の一般的到達点は……板目皮[生皮(きがわ)]作りであったということができるのである。」(56頁)。「現在の視点をもって生皮と鞣革を峻別しておかなければならない。広義の鞣しを段階を追って示せば①腐敗防止 ②不可逆性(革が皮に戻らない) ③軟化処理 ④鞣製の四つがある。現実には毛皮と脱毛皮、染色工程なども不可欠なものとして加わるので、種々の組み合わせが起きるが、原理としては右の四段階を考えることができる。「生皮干皮」は①②段階を経たものと位置づけられる。またそれで当時の牛馬皮需要の要求に応えられるものであった」(273頁)とある。鎧に大量に使用される小札作りには、生皮を藍染め・燻し・漆塗りした。色付けのための二次加工が、結果的に皮の鞣し工程に含まれてしまうことになっていたとされている。
 仁賢紀、養老令や延喜式には次のようにある。

 六年の秋九月の己酉の朔の壬子に、日鷹吉士(ひたかのきし)を遣して、高麗(こま)に使して巧手者(てひと)を召さしめたまふ。……是歳、日鷹吉士、高麗より還りて、工匠(てひと)須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)等を献る。今、倭国の山辺郡の額田邑(ぬかたのむら)の熟皮高麗(かはをしのこま・にひりのこま)は、是れ其の後なり。(仁賢紀六年条)
 凡そ官の馬牛死なば、各皮、脳(なづき)、角、胆(い)を収(と)れ。若し牛黄得ば、別(こと)に進(たてまつ)れ。(養老令・厩牧令)
 牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛を除(おろ)すに一人、膚肉(たなしし)を除すに一人、水に浸し潤し釈(くた)すに一人、曝(ほ)し涼(さら)し踏み柔(やわら)ぐるに四人。皺文(ひきはだ)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、樫の皮を採るに一人、麹・塩を合せ和(か)ちて染め造るに四人。鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍(たなしし)を除し、浸し釈すに一人、削り曝し、脳(なずき)を和(か)ちて搓(たも)み乾かすに一人半。皂(くり)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟(くすぶ)るに一人、染め造るに二人。(延喜式・内蔵寮式)
 韉(したぐら)裏馬革〈表皮に准へ寮に在る者を用ゐよ〉。馬皮を熟す油〈枚別一合三尺、主殿寮に請へ〉。(同・左右馬式)
 革を作る料、油一合、塩三合、糟三升。(同・内匠寮式)

 小林1962.や前沢1976.、永瀬1992.、松井2003.に、脳漿鞣しの技術が行われていたことが述べられている(注4)。油鞣しもあったことが延喜式記事からわかる。何の油かは未詳である。
 筆者は、今、大きな頭をした虎の毛皮の鞣しについて考えている。脳漿鞣しが行われて脳が鞣しに使われた。そのことから推測すれば、頭骨ともども取られて空洞になった毛皮、虎のトロフィーができている。

頭の大きな被り物

 飛鳥時代のヤマトの人たちは、毛皮、皮革を利用している。応神紀に、鹿子水門(かこのみなと)の地名譚と日向(ひむか)の諸県君牛(もろがたのきみうし)の女(むすめ)髪長媛(かみながひめ)貢上譚との合体説話が割注形式で記されている。

 時に天皇、淡路島に幸して、遊猟(かり)したまふ。是に、天皇、西(にしのかた)を望(みそなは)すに、数十(とをあまり)の麋鹿(おほしか)、海に浮きて来たれり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右(もとこひと)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其(かれ)、何(いか)なる麋鹿ぞ。巨海(おおうみ)に泛びて多(さは)に来る」とのたまふ。爰(ここ)に、左右共に視(み)て奇(あやし)びて、則り使を遣して察(み)しむ。使者(つかひ)至りて見るに、皆人なり。唯だ角著(つ)ける鹿(か)の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰く、「誰人(たれ)ぞ」といふ。対へて曰(まを)さく、「諸県君牛、是れ年耆(お)いて、致仕(まかりさ)ると雖も、朝(みかど)を忘るること得ず。故、己が女、髪長媛を以て貢上(たてまつ)る」とまをす。(応神紀十三年三月)

 この記事を素直に読めば、角のついた鹿の頭部を含めた毛皮を被り着ていたということになる。地球は丸いから、岸から少しばかり離れると、海に少しばかり浮かぶ船の姿は見えなくなり、船上の麋鹿の上体の姿だけしか見えず、泳いでいるように見えたとして何ら不思議なことはない。動物の毛皮を剥いで、腐敗防止や軟化処理する鞣し技法が古くから行われていた。そして、諸県君牛という人は、「牛」は地方長官の「大人(うし)」の意であろうが、牛が麋鹿に代わることの面白さを逸話に含ませている。麋鹿とあるのは、第一に、ヤクシカのような小型の鹿の頭部では人は頭に被れないからであろうし、第二に、頭が体に比して大きかったことを示唆するものでもあろう。被り物の様子を指しているらしい。つまり、被り物のご当地キャラクターのようなものになっている。体に比して頭が大きくなっている(注5)
 ヤマトの人は、牛馬鹿などの死体から毛皮、皮革を作り出して利用している。人間は同じ動物の仲間と思いつつ、家畜として使役する。かわいそうな気持ちがあるから、六道に畜生道は下位に位置づけられている。ナームーという気持ちになる。言葉として適っている。ただ、鞣しに関しては、特殊技能集団の民俗語であるし、皮肉なことに、仏教の殺生の戒律との関係から、タブー視されたり、その職業が視される傾向があり、文献にほとんど見られない。新撰字鏡に、「啜 士悦反、入、又市𦭁反、去。嚼也、奈牟(なむ)、又阿支比利比(あきひりひ)」とある。
 皮を鞣すことは、別の語で、ネル(練・錬・煉)ともいう。このネルという語は、①絹・木・皮・金属をしなやかになめらかに使い勝手の良いようにすることと、②練り歩く意味とが兼ねて用いられている。鍛錬と徐歩との関係を一つの語に含めて了解する背景は、管見ながら、これまでのところ指摘されているようには見えない(注6)
 筆者は、トラ(虎)をもって、鍛錬と徐歩との通義を理解する。トラという動物は、本性としてなわばりを確かなものとするために、あの縦縞模様(動物学的には横縞)を揺らしながら、同じ道を行ったり来たりする(注7)。檻に入れられると狭いために他にはけ口がなく、常同行動と呼ばれる行動になる。ヤマトの人たちは、中国や朝鮮半島の人たちからトラの様子を聞き知っていたのであろうが、彼らのトラ観は、トラを檻に入れて観察したところによる点も大きかったと思われる(注8)。論語・季氏に、「虎兕(こぢ)柙(かふ)より出で(虎兕出於柙)」とあり、白川1985.に、「饕餮は虎を文様化した、左右の展開図である。……金文の図象に虎形を用いるものがあるのは、古く虎の飼養に関与した部族がいたのであろう。」(275頁)とある。万葉集には、「…… 韓国(からくに)の 虎といふ神を 生取りに 八頭(やつ)取り持ち来(き) その皮を ……」(万3885)、また、紫式部日記に、「宮は、殿抱きたてまつりたまひて、御佩刀(みはかし)小少将の君、虎の頭(かしら)宮の内侍とりて、御さきにまゐる。」とあって、産湯に浸かる時の無病息災のおまじないに、虎の頭の毛皮か張りぼてのようなものを使っている。
饕餮文甗(青銅、中国、西周時代、前11~10世紀、東博展示品、坂本キク氏寄贈)
 トラはネコの仲間であるが、頭と体の比率がネコよりも大きく感じられる。右に左に頭を振りながら、すなわち、オモネリ(阿、面+練)ながら往還する。縞模様の付き方が顔の部分と胴体とでは異なるので、お面を被っているように感じられる。お練り供養で二十五菩薩が、橋の上を獣道のごとく往還するのと対照される光景である。天武紀朱鳥元年四月条に、新羅からの調に、「虎豹皮(とらなかつかみのかは)」が入っている。輸入されて珍重されていた。トラの毛皮は見事なデザインである。敷物として、また、馬具の障泥(あおり)にもよく用いられた。行きつ戻りつするところから、きちんと帰って来られるようにとのお呪いの意味もあったのではなかろうか。続日本紀に、「文武(ぶんぶ)百寮(ひゃくれう)六位已下、虎・豹・羆の皮と金・銀とを用ゐて、鞍の具、并せて横刀の帯の端に飾ることを禁(いさ)む。」(霊亀元年(715)九月己卯朔日)とある。正倉院には、熊の毛皮で作られた障泥や、海豹(アザラシ)とされていたがそうではなくてネコ科のトラやヒョウではないかとの意見のある毛皮を使った韉などが残る(注9)
戟に逃げ惑う虎(画像石、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
虎の毛皮(犬追物図屏風、桃山時代、17世紀、東博展示品)
村上貞助筆、東韃地方紀行から「舩廬中置酒」(文化8年(1811)、国立公文書館蔵展示品。左上のクマ毛皮上の人物が間宮林蔵。ほか華人(?)はトラの毛皮に座る。)

トラという言葉

 虎(とら、トは甲類)というヤマトコトバは、トラという生物を実見しないままに名づけられている。毛皮の輸入品を目にし、どういう生き物であるか、その大きさ、鳴き声、生態を話に聞き、虎(コ)と伝えられたにも関わらず、ヤマトの人は、トラと命名している。語源をめぐっては苦しい解釈が行われている。吉田2001.に、「トラ(虎)は、朝鮮から中国周辺部にかけての大陸語で、それが日本に伝わり、古くいわれたタイラを和語で解釈するようになった。すなわち、獲物に忍び寄ってぱっと捕らえる猛獣をトラ(取ら)だと考えたのは、猫をトラといったり、蠅取りグモをトラといったりする地方があることからも類推できるという。朝鮮語起源の語に日本的解釈を施した二重構造の語源説を認めざるをえないであろう。」(173~174頁)とある。tiger → タイラ → トラ & 取ら、という説らしい。
 筆者は、トラ(虎)という語は、トネリ(舎人)同様、いわゆる和訓であると考える(注10)。名の由来としては、蕩(とら)かせるものとしてトラと名づけられたのであろう。トラク・トラカス(蕩)には、①ばらばらになること、金属などを高熱によって溶解すること、②惑わされて本心を失わせたり、心をやわらげてうっとりさせたり、舌に甘く感じておいしいときの形容にいう、の二義が挙げられている。ネル(練・錬・煉)に見た二義の兼ね合わせとよく対照している。新撰字鏡に、「仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留(わかる)、又止良久(とらく)」とあり、神武紀には意味深長な例が載る。

 初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。(神武紀元年正月)

 トラ(虎)は、銅鑼(どら)のように驚くほど大きな声を発し、凶暴に襲い掛かってくるが、ふだんは行ったり来たりを繰り返している。そして、ネコ型ロボット以上に頭が大きくて、左右に阿っている。酔っぱらいのことをトラと称するのは、通説にいう動物の名から取られた語ではない。酔っぱらいの左右に頭を揺らし倒しながら大声をあげてみたり、喧嘩っぱやくなったりすること、それは蕩(とら)けている状態である。酔っぱらいをトラという語に譬えたのが先で、それを後からよく似ていると伝えられたので動物のコ(虎)に当ててみたということであろう。左右にかしげている当麻曼荼羅の菩薩たちの描かれ方とは、大宴会の席の酔っぱらいとも、虎の皮毛の縦縞斑模様とも同じである。菩薩の肌の黄金色と、それ以外の暗黒色との縦縞が阿っている。そして、口のなかで味わうときに舌を使ってぐるぐるっと回す仕草をするのは、ナム(嘗・舐)でも、ナメス(鞣・滑)でも、トラカス(蕩)でもある。今日でも、とろけるマグロの大トロを、なめるようにして食べ、左手には酒杯を抱きながら、俗人は同じ口で、ナム(南無)と唱えて極楽往生を願っている。ナムの音は、嘗めるような口使い、舌使いで発せられる。お練り供養で菩薩のお面を着けるなり被るなりすると、頭の大きさが身体に比べて一回り大きくなる。気持ちまで大きくなってネコがトラになるわけである。そして、連なって、ナム(竝・並)ことになっている。すなわち、ナム(竝・並・嘗・舐・鞣・滑・南無)という語も、二義を兼ね合わせて成立している。食レポの起源は、お練り供養(迎講・来迎会・迎接会)にある。
 源氏物語・鈴虫に、「うしろの方に法花のまだらかけ奉りて」とあるマダラは曼荼羅の音便脱落である。法華曼荼羅は、霊山で法華経を説く会座を図示した図で仏菩薩が蓮華の開いた形に配されている。曼荼羅は斑(まだら)模様と見立てられているのであろう。推古紀二十年是歳条に、「斑白(まだら)」、「斑皮(まだら)」、「白斑(しろまだら)」とある。虎の毛皮は縦縞斑模様としてとても素敵である。和名抄に、「斑瓜 兼名苑に云はく、虎蹯、一名、貍首〈末太良宇利(まだらうり)〉は、黄斑文瓜也といふ。」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗名は字の如し、本朝式に斑の読みは万太(図書寮本名義抄により「不」字を「太」の誤りと見る通説に従う)良万久(まだらまく)〉は帷幔也といふ。」などとある。幔については、運動会や卒業式で用いられる紅白幕や、歌舞伎の定式幕のように、縦のストライプが続くものをいう。斑瓜という語は、新来のスイカに取って代わられてほとんど見られなくなっている。ほかには、地層や貝殻文、マダラカマドウマ、アサギマダラに垣間見られるものの、今日でも規制線に用いられるほどインパクトのある黄色と黒色の縞々は、虎柄を措いてほかにない。筆者は、両界曼荼羅図ほかにではなく、当麻曼荼羅図に黄色い菩薩の並み座る、あるいは来迎図に並み進む様子にこそ、マダラのマダラたる本質として虎の縦縞斑柄、虎斑(とらふ)を見出す。「とらふ(捕・捉)」である。本邦において、儀軌を離れて曼荼羅という言葉が多様に用いられた理由の一端は、マダラという音による連想にあるのであろう。
 お練り供養を行う日を、奈良盆地にレンゾといった。「久米レンゾ」(久米寺)、「釜の口レンゾ」(長岳寺)、「松尾レンゾ」(松尾寺)、「多レンゾ」(多神社)などが知られている。ラ行始まりの言葉が飛鳥時代に遡るとは通常説明しづらく、「練道」説、「連座」説、また、「蓮座」説があげられる。しかしながら、なお、頭音の脱落形かもしれない点を指摘しておきたい。漢語ではなく、ヤマトコトバに起源する可能性である。お練り供養は春の農休み一般を包含するものではないが、お練り供養から言葉が生れたと仮定するならば、怠け者の節供働きを戒めるところから生れたのかもしれない。すなわち、きちんと休まなければ、稔りの秋になっても穫るものもトラレヌゾと言って、トラを略してレヌゾとなり、レンゾに音便化した。掛詞の戒め語とする戯れである。稲架の様子は、遠目に見れば、トラ(虎)の縦縞模様に見える。大切なもののことをいう虎の子、すなわち、舎利(米粒を含んだ籾)を懐いている。筆者は、稲架はトネリコとの関係から、須賀の宮に垣根、釘貫と同様と見、仏教に伝え聞く欄楯の譬えではないかと提起している(注11)。その際、回廊化して櫺(連子)窓をもつようになったことも指摘した。レンジとレンゾは音がよく似ている。
稲架(キヌヒカリ、生田緑地。左へ進むトラに見える。)
アムールトラ(シズカ号、多摩動物公園)
旧山田寺回廊復元連子窓の様子(飛鳥資料館)
 我々はここに至って、重大な事実に気づかされる。当麻寺にはレンゾはあるが、レンジ窓がないのである。古代の大寺院、飛鳥寺、山田寺、斑鳩寺、また、白鳳期の東大寺、各地の国分寺に見られる回廊を持たない。金堂、講堂、二つの塔、鐘楼、山門を抱えながら、それを取り囲むべき回廊がない。山懐に抱かれるばかりである。これこそ、実は、当麻寺の最大の不思議さなのかもしれない。「伽藍(てら)」(孝徳紀大化五年三月・白雉元年二月)になっていないということである。その代わりと言っては何であるが、レンゾが行われることになって近在の人々は参集している。すなわち、レンゾが行われ始めたのは、語学的には、曼荼羅堂が建てられて当麻曼荼羅が祀られる以前からのことであったと考えられるのである。和名抄に、「櫺子 四声字苑に云はく、櫺子〈郎丁反、字は亦、櫺に作る。礼迩之(れにし)〉は窓の櫺子也といふ。考声切韻に云はく、欄檻及び窓の間子也といふ。」とある。虎の練り歩きのようなお祭りを行うのは、伽藍を囲まれずに囚われていなくてもそこがテラ(寺)であり、トラの養生地であると確かめることでもあった。
 当麻寺のお練り供養が春の水田稲作農耕の始まりの前日に行われるのは、秋の豊作、稲架の並んだ姿を二十五菩薩の連なりのうちに思い描いたということなのではないか。農作業の終わった翌日に実見できるものである。米粒を嘗めること、つまり、新嘗祭の予祝として、レンゾは存在したということになる。米は蒸して食べられていたのか、炊いて食べられていたのか意見が分かれているが、ジャポニカ種の粘り気のあるものの話で、バターの話に似てねばねばしていて、ナム(嘗)と表現されて然るべきものと感じられたようである。仏教の浄土信仰のパフォーマンス、お練り供養とは、欄楯、稲架ともに、内に舎利を秘めたものである。民俗の観念、知恵との合作であったらしい。状況から言っても、ひとり源信に負うものではなかった。当麻寺のそれに中将姫が出てきたり、弘法寺の迎講に阿弥陀仏像本体が動いたり、バリエーションに富むのは、それぞれの地方のそれぞれの人びとが、それなりの信仰、伝承、アイデアをもって適宜臨んできたことを示すものである。
 なお、奈良盆地の西の山に当たる信貴山の張子の虎については、その縁起が著名である。聖徳太子の毘沙門天の話である。時代的にすべて飛鳥時代に遡るもので、お練り供養とは別の思考、観念の産物によって虎が登場していると考えるのが穏当である。それでも、張子である点に関しては、共通点を見出すことができる。お面を被って歩くと介添え役「と練り」歩く結果となる(注10)。それとともに、そのお面は、軽量化が図られなければならない。自然と、張子、張りぼてが求められることになる(注12)。仏像の制作技法として、奈良時代を盛期として乾漆像が多く採用された。日本美術史事典の「乾漆」の項に、中国での乾漆技法、夾紵(きょうちょ)についての解説に、「夾紵像は石、塑、金属像と比べて軽量であり、そのわりに耐久性に富む。漢代以来の伝統的な夾紵技法が、仏像を奉じて練り歩くための行道像や皇帝の偉業を記念する等身像の製作に用いられたことは、目的にかなった合理的な技術の採用であり、これらに夾紵像発生の一因が求められよう」(216頁、この項、副島弘道。)とある。そして、日本の乾漆仏像の技法として、「この[法華堂金剛力士の乾漆像製作途中、その張子像の]表面を漆に細かい植物繊維(杉の葉をついた抹香かともいうが不明。現在ではヒノキの挽き粉を用いる)を混ぜてペースト状にした木屍冠に木屎漆(こくそうるし)を用いて塑形する。」(217頁)としている。
 ペースト状の木屎漆とは、ヤマトコトバで表現するなら、練られた漆ということになる。ねりかね、ねりぎぬ、などと同じである。新撰字鏡に、「錬 力見反、練字同、又鐗二字同。▲(金偏に㔫の下に日)也。冶金也。䤻也。祢利加祢(ねりかね)」、和名抄に、「練 蒋詞切韻に云はく、練〈郎旬反、祢利岐沼(ねりきぬ)〉は熟絹也といふ」とある。乾漆の仏像、伎楽面の充填材料に用いられている黒褐色の何かを混ぜた漆については、「これとよく似た性質をもつ充塡材料としては、東寺兜跋毘沙門天像、同観智院五大虚空蔵菩薩像、清涼寺釈迦如来像その他の中国から舶来されたの木彫像に多く用いられている「練物(ねりもの)」の例がある。……法隆寺伎楽面の製作年代が大陸からの影響力の強い時期であったことを考えると、それに用いられた漆地粉が、日本製の「練物」として新たに造り出された可能性も、一概には否定はできない。」(中里1994.256頁)とのことである。ネリモノといっても蒲鉾の類ではないが、よく似た感触があるから同じ言葉に収められている。言葉とは、そういうものである。
 他にも、紙を丈夫にするサイズ剤として、和紙には、ねりが加えられた。広辞苑に、「ねり【粘剤】和紙の流し漉くきのため、紙料に混ぜる植物粘液。繊維を均等に分散して漂浮させ、美しく強い紙を造るのに有効に作用する。粘液を抽出する植物は主としてトロロアオイとノリウツギ。」(2179頁)とある。このネリという粘剤の利用について、また、古代の紙漉き技術一般については、さまざまな議論がある(注13)
 いずれの場合も、特殊、魔法的なネリを加えることにより、材料は、人々の利用にとってしっくりきてすばらしいものに仕上がっている。つまり、仏像や浄土思想、行道面、お練り供養なども、よく練られた、巧みに構成された、うまくできたモノであり、コトであったことを語っている。現実の虎を知らないで済んでいる限りにおいて、それはまた、実際の死というものを誰も知ることができない限りにおいて、恐いぞと脅されて怯えてはいるものの、その正体たるや張子や正体をなくした酔っぱらいであって、まあ、そういうことならいいじゃないか、といった頓智話であると締めくくることができる。春のれんぞであの世の舎利を演技したり見物したりし、秋の稲架でこの世の舎利に出会える。それもこれも一緒に練り歩いてくれる舎人や、トネリコの木が畦道に側立っているおかげである。ゆたかな人生とは、ひょっとして、神仏よりもトネリに感謝しなければならないものかもしれない。張子や稲を干すように、気持ちも軽く生きて行くことを諭されているように感じられる。
(つづく)

舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─

2021年05月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
舎人とは

 舎人とねり(トは乙類)は、天皇や皇族に近侍する従者で、護衛、身辺の雑事に奉仕する。令制によって整備されたが、令外の舎人も置かれている。歴史書とされる日本書紀の記事に、トネリは、「舎人」(雄略紀十六年七月ほか多数)のほか、「帳内」(雄略前紀安康三年十月、顕宗前紀安康三年十月、孝徳前紀、持統前紀朱鳥元年十月)、「官者」(雄略七年八月)、「兵衛」(用明紀元年五月(つはものとねり)、天武紀八年三月、持統三年八月)、「左右兵衛(ひだりみぎのとねり)」(天武紀朱鳥元年九月)、「偽兵衛(かすゐのとねり)」(持統紀三年七月)とも記されている。大化以前の記事には、紀記述年代において、紀執筆者が修文、潤色したと説明されることがあるが、言い方(読み方)=声としてのことばが同じであるなら、字を知らない聞き手にとっては変わりがない。筆者は、当面、トネリは「舎人」と記される傾向の強いことから、「舎人」を中心に検討して突破口としたい。
 仁藤2005.に、「その[トネリの]用字は『漢書かんじよ』高帝紀上の顔師がんしの注に「舎人は、親近・左右の通称なり」とあるように、中国の古代官制の名前で、本来的には貴人の従者を意味しており、必ずしも大王の従者に限定される用語ではないことが確認される。」(168頁)とある。用字を以てして、中国で確認されるのか本邦で確認されるのか不明ながら、実情はその通りになっていることは記紀万葉の用例を見るとわかる。トネリという言葉(音)については等閑視して、令制の前後でどう変わったかといった視点を中心に、漢字表記を基準に古代史研究は進められている。しかし、飛鳥時代の人たちの大半は文字とは無縁に一生を過ごした。彼らにとってトネリという音こそが、その言葉について重要であり、トネリというものそのものを深く理解する糧であったはずである。文字を知らない人同士で話が通じるとは、トネリという音でともにわかり合えたということである。現代の研究者は黙読して漢字の形を見るという視覚偏重に陥っている。当時の人々の認識からはかけ離れていると言わざるを得ない。

さまざまなトネリ

 いわゆる舎人として記紀万葉で最も名高い人は稗田阿礼である。記序に、「時に舎人有り、姓は稗田、名は阿礼、年は是廿八」などと、「男はつらいよ」流に紹介されている。どんな人であるかは不明である。舎人の場合、名前で呼んで使い走りを命じたに相違あるまい。したがって、名前(通称)を持っていたことは事実であろう。ただし、それは舎人自身のアイデンティティを確かならしめるものではなく、また、使用人一同という際には名を記す必要もなくて記されない場合も多い。記紀の例を大雑把に分類すると、(a)総称として使われていて名前がない例、(b)名前を持つ例(「舎人」という姓を含む)、(c)舎人を養成、輩出するための「舎人部」の名称、(d)皇族の名としての舎人、といった分け方ができる。

(a)「舎人」(応神記、仁徳紀四十年二月、雄略紀五年二月、同十四年四月、皇極紀二年十一月、同三年正月、天智紀七年七月、天武前紀天智四年十月、天武紀元年五月是月、同元年七月、同十三年閏四月)、「近習舎人ちかくつかへまつるとねり」(仁徳紀十六年七月、武烈前紀仁賢十一年八月)、「大舎人おほとねり 姓字かばねなもらせり。」(雄略前紀安康三年八月)、「舎人等とねりども名を闕せり。」(同)、「左右舎人」(清寧紀二年十一月是月、顕宗前紀清寧二年十一月、仁賢前紀清寧元年十一月、天武紀十三年正月、天武紀朱鳥元年五月是月)、「大舎人」(斉明紀七年五月、天武紀二年五月、持統紀五年二月)、「左右大舎人」(天武紀朱鳥元年九月)
(b)「舎人、名は鳥山と謂ふ人」(仁徳記)、「舎人鳥山」(仁徳紀三十年九月)、「舎人中臣烏賊津使主」(允恭紀七年十二月)、「舎人迹見赤檮」(用明紀二年四月)、「舎人田目連」(皇極紀二年十一月)、「舎人新田部米麻呂」(斉明紀四年十一月)、「舎人朴井連雄君」(天武紀元年六月)、「舎人土師連馬手」(天武紀元年六月)、「舎人造糠虫」(天武紀十年十二月)、「舎人連糠虫」(天武紀十一年正月、同十一年二月是月)
(c)「長谷部舎人」(雄略記)、「河瀬部舎人」(雄略記)、「河上部舎人」(雄略紀二年十月是月)、「川瀬舎人」(雄略紀十一年五月)、「白髪部舎人」(清寧紀二年二月、継体紀元年二月)、「石上部舎人」(仁賢紀三年二月)、「小泊瀬舎人」(武烈紀六年九月)、「勾舎人部」(安閑紀二年四月)、「来目舎人造」・「檜隈舎人造」・「川瀬舎人造」(天武紀十二年九月)
(d)「舎人皇女」(欽明紀二年三月)、「舎人姫王」(推古紀十一年七月)、「舎人皇子」(天武紀二年正月)、「舎人王」(天武紀九年七月)、「皇子舎人」(持統紀九年正月)

 稗田阿礼は(b)に含まれよう。(b)の「舎人田目連」は「田目」が名でないなら(a)に近く、「舎人造糠虫」・「舎人連糠虫」は「舎人」を姓にしてしまっていて(d)に近い使い方といえる。(a)にわざわざ「闕姓字也」、「闕名」と注されているところからも、舎人とは、“人格”を認められていない存在であったことを示唆してくれている。高貴な人の側近くに仕えているにもかかわらず、人としては何者でもないのである。
 万葉集に例を見ると、歌中には、(a)「舎人」(万201・475・3324)、「舎人之子」(万3326)、「舎人壮とねりをとこ」(万3791)、題詞や左注などには、(b)「舎人吉年」(万152・492)、「内舎人大伴宿祢家持」(万475・1029・1037・1040・1591・3911・3913)、「内舎人縣犬養宿祢吉男」(万1585)、「内舎人石川朝臣広成」(万1600)、「大舎人安倍朝臣子祖父」(万3839)、「大舎人土師宿祢水通」(万3845)、「大舎人巨勢朝臣豊人」(万3845)、「若舎人部広足」(万4364)、「大舎人部千文」(万4370)、「大舎人部祢麻呂」(万4379)、「他田舎人大嶋」(万4401)、「檜前舎人石前之妻大伴部真足女」(万4413)、(d)「舎人娘子」(万61・118・636)、「舎人皇子」(万117・1683・1704・1706・1774)、「舎人親王」(万3839・4294)といった例が見られる。(b)の舎人の名の呼び方に、(c)の舎人部出身者のために「舎人部」となる例がある。

トネリという言葉

 トネリの語源説には、トノハベリ(殿侍)説(本居宣長)、トノイリ(殿入)説(大槻文彦ほか)などがある。古典基礎語辞典の「とねり【舎人】」の項の「解説」に、「トノ(殿)イリ(入)の約か(tönöiri→töneri)」(843頁、この項、北川和秀。)とあり、“解説”になっていないほどに未詳の語である。「殿」という語に関係があるのであれば、「殿人」などと記された例が1例ぐらいあっても良いと思われるが記紀万葉に例がない。オーソドックスな表記に漢籍の「舎人シャジン」を採っていることは、仁藤2005.にあるとおりである。中国で、官名として近侍の官、また、王侯貴族の左右に親近する者も指していたことは、芸文類聚に引文の記載となっている。舎は宮、屋の意である。倭での使い方と同様である。すると、トネリという言葉は、いわゆる和訓の類と考えられそうである。
王僧虔(425~485)筆・行書太子舎人帖(東博展示品)
 舎の字については、仏舎利とあるほどに仏教を思わせる。万葉集にある舎人の歌にも、ご主人様が亡くなったときの挽歌が見られる(注1)。仏教が関係するとすると、トネリのネリは「練り」で、ゆっくりと歩くことではないか。後述するお練供養は、仏のお面をかぶって右に左に顔を揺らしながら行進する行事で、当麻寺の聖衆来迎練供養会式しょうじゅうらいごうねりくようえしきがよく知られる。掛橋を二十五菩薩が渡るが、シテ役の観音・勢至菩薩は体を左右にねじりながら前を進む。すなわち、おもふ(面振)るに歩いて、右に左におもね(面練)っている。続く龍樹・地蔵・薬王などの菩薩の被り物をした人たちは、付き添いがついて一緒になって連れて行く。一緒に、with は、現代語に「と」である。古語に、助詞の「と(乙類)」で表す。よって、トネリである。

左:お練供養の観音・勢至菩薩、右:「練り」(「映画『天使のいる図書館』×葛城地域観光協議会特別ムービー◆練供養会式/當麻寺」https://www.youtube.com/watch?v=XdvFSKHdoxQ&t=57sをトリミング)
 「左右舎人」については、清寧~仁賢紀にモトコノトネリ、天武紀にヒダリミギノトネリと訓まれている。モトコ(ト・コは乙類)は、本(モト)+処(コ)の意で、側近をいい、「左右」でモトコヒトと訓む例(垂仁紀七年七月、景行紀十八年三月)もある。トネリの名称がつけられる前は、モトコヒトと呼んでいたらしい。ここに、いわゆる修文、潤色はないという説明になるであろう。そして、巧妙にトネリという語が作られたと考えられる。

トネリの役目

 側にいてかいがいしく世話を焼くことは、介添え役の役目である。介添えの介は後代の当て字で、古語に「掻き添へ」である。中古に、動詞カイソフ(カヒソフ)の例が見られる。「渡殿の口にかい添ひて、かくれ立ち給へれば」(源氏物語・空蝉)、「御髪長くうつくしうてかひ添へて臥させ給へり」(栄花物語・花山たづぬる中納言)などとある。近くに寄り沿う、近くに寄り添わせる、の義である。そこから介添え人の意となる。記紀にまでその意味を遡れば、八俣遠呂知やまたのをろち(八岐大蛇)の話に出てくる老人、足名椎あしなづち(脚摩乳)・手名椎てなづち(手摩乳)がいる。櫛名田比売くしなだひめ奇稲田姫くしいなだひめ)の足や手を掻き撫でて守ろうとしていた。

 かれ、声を尋ねていでまししかば、ひとり老公おきな老婆おみなと有りて、中間なかに一の少女をとめゑて、かきなでつつ哭く。(神代紀第八段本文)

 須佐之男命すさのをのみこと(素戔嗚尊)の指示のもと八俣遠呂知(八岐大蛇)は退治され、櫛名田比売(奇稲田姫)と結婚するに当たり、清々しいところ、須賀すが(清地)というところに宮を作る際、垣根讃歌が歌われている。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣ゑ(紀1)

 ふつうの家と異なるのは、垣が添えられている点である。宮には主人とその家族だけでなく、お手伝いさん、使用人の掻き添えが住む。宮の宮たるところは、建造物、住人ともに、カキゾヘを伴っている点にある。このように、二重の意味を背負っているからこそ、無文字文化であっても言葉が人々の間で互いに通じ合い、わかり合えた。なるほどと納得できるから、言葉が言葉として確からしく、誰にでも通用するのである。それが言葉というものの依って立つ論拠である。現代の“科学的”な思考法では、証明ができない(反証が不可能である unfalsifiable)ことをもってして、言葉については「説」が唱えられることはあっても、「論」がたてられることはないとされている。しかるに、上記のようななぞなぞ的レトリックをもって言葉が用いられていることがわかると、“科学的”正しさ以外の、“論理学的”正しさが証明されることとなる。これは、人類史において、言語を獲得してから続いてきたオーソドックスな思考法であったが、今から200年ほど前、近代になって滅ぼされ、片隅に追いやられた。科学が経験を越えたからである。家から外へ出て空を見上げるよりも、データ放送で天気予報を見たほうが当たるのである。筆者は、経験の復興を声高に叫ぶわけではない。近代の思考法は人類史において特殊であり、思考方法の一部が突出した結果にすぎず、実は矮小化しているかもしれないと危惧しているばかりである。上代にどうであったかについては、記紀万葉から資料集めが可能である。

トネリの活躍

 出雲八重垣の歌は、使われている言葉や説話の設定などから、八雲草やくもそう八重葎やえむぐら眇目すがめ僻眼ひがらめ藪睨やぶにらみなどが連想される(注2)。結論を言えば、目の悪い人には介添えが必要である。お練供養の菩薩の被り物を被った人には、介添え役がついていた。見えないからである。その介添えと同じ効果があるのは、目薬である。秦皮というトネリコの樹皮からとれる洗眼剤は、結膜炎など眼病に良いとされる。カテコール系のタンニン及びクマリン配糖体のクラキシンを含むので、煎じ液で眼を洗うと効果があるという。和名本草に、「秦皮 一名、岑皮〈楊玄操、梣に作る。字並びに士林反〉。一名、石檀〈蘇敬注に葉を以て檀に似る故に以て之れを名づくと云ふ〉。一名、樊槻皮〈仁諝に音は規。陶景注に出づ〉。一名、苦樹〈俗に味を見るに苦くして名、苦樹と。蘇敬注に出づ〉。一名、樊鶏〈仁諝に音義出づ〉。一名、昔歴〈雑要訣に出づ〉。一名、水檀〈忽然と葉開きて当に大水有り。故に以て之れを名づく。拾遺に出づ。〉和名、止禰利古乃岐とねりこのき。一名、多牟岐たむき」とある。淮南子・俶真訓に、「夫れ梣木しんぼく青翳せいえいやし、……此れ皆目を治す薬なり。(夫梣木已青翳、……此皆治目之薬也。)」とある。トネリコの名の由来に、樹皮を濃く煮詰めたものが膠と同様の性質を持つことによるとの説が古くから言われている。墨と混ぜて共に練ったことからトモネリコ(共練濃)→トネリコとなったというのである。なぜ共練粉や共練子(いずれもコは甲類)としなかったか若干の疑問が生ずるものの、語源について筆者は論じる立場に立たない。それでも墨は写経に必要なもので珍重されたから、トネリやトネリコは、上述の練供養に加え、仏教と曰く因縁のある言葉であることに違いはない。わかりやすい洒落として、飛鳥時代の人びとは言葉を理解していたのではないか。
 須賀の宮が完成したのち、記紀には追加記事がある。

 ここに、其の足名鉄神あしなづちのかみして、らして言ひしく、「汝は我が宮のおびとけむ」といひき。また、名を負はして、稲田宮主いなだのみやぬし須賀之八耳神すがのやつみみのかみなづけき。(記上)
 因りてみことのりして曰はく、「吾が児の宮のつかさは、即ち脚摩乳・手摩乳なり」とのたまふ。故、ふたはしらの神に賜ひて、稲田宮主神いなだみやぬしのかみと曰ふ。(神代紀第八段本文)

 紀一書第一・第二には、「稲田宮主簀狭之八箇耳いなだのみやぬしすさのやつみみ」とある。ヤツミミの意について、「「八耳」は、未詳。」(新編全集本古事記73頁)、「八は聖数をあらわし、耳は精霊の意で称号でもある。」(思想大系本古事記341頁)、「八箇耳は語義未詳。」(大系本日本書紀①95頁)、「「八箇耳」は八箇の精霊(霊々。」(新編全集本日本書紀①94頁)、「ヤツミミ・・・の名があるのは、ヤマツミ・・の子だからということになろう。」(西郷2005.②231頁)などとある。苦しい解釈をするか、解釈をせずに措くか、分かれている。

 目薬のもとになる秦皮が採れるトネリコは、田の畔に植えられ、稲架はざに用いられる。たくさんの枝が耳のようにそれぞれ出ているところへ木棒や竹竿を渡して稲をかけて乾燥させる。それがヤツミミの意味するところの一つであろう。さらに、お練供養でお面を被っていると、外の音も聞き取りにくいから、介添え役が耳の働きを担ってくれるということであろう。表面上は、使用人のくせして、お練供養でご主人様「とねり」歩くときには、歩きますよ、止まりますよと指図する立場に変わっている。
左:トネリコ、中:トネリコの稲架(新潟市様「満願寺のはさ木(新潟市秋葉区)」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/稲木)、右:トネリコのある風景(淡斎英泉(1791~1848)筆「岐阻道中 熊谷宿 八丁堤ノ景」、横大判錦絵、江戸時代、19世紀、東博展示品)
 浅野2005.に、「ハサバの稲架は平野に多くみられた畦に木を一列に植えて作られた立木稲架のキハサのことである……。キサハとして植えられる木は湿地に強いタモ(トネリコ)やハンノキが使われる。射水平野ではタガノキと呼んでるトネリコが植えられており、滋賀県の琵琶湖の木之本町ではハンノキとしている。タモとハンノキについて新潟県新発田市荒川では台風が来ても折れないのはタモで、ハンノキは太くていいのだが折れてしまって駄目だとしていた。」(120頁)とある。トネリコは野球のバットの材料にも用いられる。この稲架の場合、干している稲が主役で、トネリコは脇役、左右に控えるものである。したがって、モトコヒトはトネリコが大人になったトネリである。共練濃(共練粉)は脇役、煤が主役で墨は仕上がっている。

トネリと仏教思想

 仏教関連の話としては、浄土には七重の欄楯、つまり、垣根があるとされる。阿弥陀経に「又舎利弗、極楽国土、七重欄楯、七重羅網、七重行樹、皆是四宝、周匝囲繞。是故彼国、名曰極楽。」、観弥勒菩薩上生兜率天経に、「此摩尼光迴旋空中。化為四十九重微妙宝宮。一一欄楯万億梵摩尼宝所共合成。諸欄楯間自然化生九億天子五百億天女。」などとある。欄楯の原語は vedikā で、インドのストゥーパに欄楯がほどこされ、信者は参詣に当たりそのまわりを右回りに練り歩く。初期の浄土教徒はそれを七重と想像していたとされる。欄楯という言葉については、欄楯の二字をあえて区別すると、「「欄」はてすりの横木で、「楯」は縦の木をいみするのであろう。」(中村1988.696頁)とある。筆者は、縦横の関係よりも、縦にたつ柱に穴を横にあけて、柵にすべく貫が通されている点が重要であると見る。今のところ、管見では、ストゥーパと記紀における須賀の宮との親近性について論じられたものはない。七重の欄楯と八重垣や釘貫との関わりについても論じられていない。釘貫は、和名抄に、「欄額 弁色立成云はく、欄額〈波之良沼岐はしらぬき〉は柱貫なりといふ。」、和漢三才図会に、「欄額 按ずるに凡そ家は柱に孔をり、横木を貫て総柱を縫ふ者を欄額と曰ふ。仮令たとへば柱は経線たていとの如く、欄額は緯糸ぬきいと〈故に沼岐ぬきと曰ふ〉の如し。家、之れを為すに固し。」とある「貫」のある柵のことである。寺社や墓地によく見られる。
左:サーンチー塔の欄楯(Vidishaprakash様「ASI monument number」Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Sanchi)、右:擬木釘貫(中小河川の景観に配慮した防護柵)
 また、垣根と稲架とが見た目の様子以上によく似ているとの指摘もされていない。稲架は一見、垣根のようであるが、本来の目的は稲穂を干すためである。守られているのは米粒、すなわち、舎利である。欄楯のなかに仏舎利があって守られているのと相同している。ただし、稲架の横掛け方法は架すだけで貫ではない。本邦の場合、各地の寺院にある五重塔などは、金堂などとともに伽藍の一部を構成しており、欄楯は回廊へと意味合いを変化させているものの、れんじ(連子)窓を伴っている。それは、欄楯、八重垣、釘貫、稲架の影響を残しているものとも感じられる(注3)。神護景雲元年(767)、僧実忠によって東大寺南の朱雀路沿いに作られたという頭塔に欄楯がめぐらされていたか不明である(注4)
 以上から、舎人とねりという語は、仏教思想の伝来後に、本邦において作成された和訓であることが明らかとなった。須賀の宮へと展開する八俣遠呂智(八岐大蛇)の説話も、仏教思想の影響下、飛鳥時代前期にかけて創作されたものであると推測される。

(注)
(注1)万葉集巻第二に、「皇子尊の宮の舎人らのかなしび傷みて作れる歌二十三首」(万171~193)が載る。
(注2)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/21dc1a26b1fff042b89ad2c33aea8dce参照。
(注3)拙稿「お練り供養と当麻曼荼羅」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/cb8132d86f6c6c00a439a0e35ab17053ほか参照。
(注4)現在はフェンスがめぐらされている。今後の研究が俟たれるところである。

(引用・参考文献)
浅野2005. 浅野明『稲干しのすがた』文芸社、2005年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第二巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)2005年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想体系1 古事記』岩波書店、1982年。 
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1988. 中村元編著『図説佛教語大辞典』東京書籍、昭和63年。
仁藤2005. 仁藤敦史「トネリと采女」上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編『列島の古代史─人と物の移動─』岩波書店、2005年。

※本稿は、2015年9月稿を、2021年5月に改稿し、2023年7月に適宜ルビ化したものである。

(English Summary)
“Töneri”(舎人), which means servant, is an ancient Japanese word. At that time, it is thought that they communicated with the voice of “töneri”. Because they didn't have a letter. In this article, we consider how the word was felt during the Asuka period, instead of searching for etymology. Maybe “töneri” would have been perceived as “tö”(と), which means “with” + “neri”(徐歩), which means “parade”. Assuming to be parading together is consistent with many statements of Nihon Shoki. This approach is effective to get closer to the sensibility of ancient people, who would have lived in the cognitive world different from modern times.

「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」(万1068)の解釈の誤りについて

2021年05月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻第七の巻頭歌は、天を詠んだ歌として知られている。

   雑歌ざふか
  天を詠める
 あめの海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎかくる見ゆ(万1068)
   右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
   雑歌
  詠天
 天海丹雲之波立月船星之林丹榜隠所見
  右一首柿本朝臣人麻呂之謌集出

 大意は、「天の海に雲の波が立ち、月の船が星の林に漕いで隠れて行くのが見える。」(新大系文庫本235頁)といったものである。
 この歌は外国の方に好まれている模様である。英訳をいくつかあげる。
 ON the sea of heaven the waves of cloud arise,
 And the moon's ship is seen sailing
 To hide in a forest of stars. (Donald Keene)
 In the sea of sky
 The waves of cloud rise up,
 And the moon-boat
 Is seen rowing out of sight
 Into the forest of the stars. (Edwin A. Cranston)
 In the sea of heaven
 cloud waves rise and
 the moon boat sails
 into a forest of stars,
 then is seen no more (Janine Beichman)
 On the sea of heaven
 the waves of cloud rise,
 and I can see
 the moon ship disappearing
 as it is rowed into the forest of stars. (Hideo Levy)
 Cloud waves rise
 in the sea of heaven.
 The moon is a boat
 that rows till it hides
 in a wood of stars.(Peter MacMillan)
 そういう意味で通っている。天を海、雲を波、月を船、星を林に譬えて、月が天空を渡る様を壮大に描いているものとされている。類するものに次のようなものがあげられている。

 天の海に 月の船け かつらかぢ かけて漕ぐ見ゆ 月人つきひと壮士をとこ(万2223、「詠月」)
 春日かすがなる 三笠の山に 月の船出づ 遊士みやびをの 飲む酒杯さかづきに 影に見えつつ(万1295、(「旋頭歌」))
 月舟げつしううつリ霧渚むしよニ 楓檝ふうしふうかブ霞浜かひんニ(懐風藻、文武天皇「詠月」)

 懐風藻は漢詩集であり、万葉集はヤマトコトバをもとにする歌である。「月人つきひと壮士をとこ」は、月を擬人化して言った言葉である。

 夕星ゆふつつも 通ふあまを 何時いつまでか あふぎて待たむ 月人壮士(万2010、(秋雑歌「七夕」))
 天の原 きて射てむと 白真弓しらまゆみ 引きてかくれる 月人壮士(万2051、(秋雑歌「七夕」))
 大船に かぢしじ貫き 海原を 漕ぎ出て渡る 月人壮士(万3611、「七夕歌一首」)

 これらの例を前にして、万1068番歌の解釈には唐突感、違和感がある。何を詠んでいるかがわからない。漢籍の転用との考慮があるものの、典拠は不明とされている。
 問題は、「月の船」というからには三日月程度は厚みがなければならず、そうであるならかなり明るい。星は一等星、二等星といった見かけの明るさで比べられている。太陽は-26.8等級と非常に明るくて、昼間、他の星は肉眼ではほぼ確認できない。いわゆる「星」の場合、金星が-4.7等級、シリウスが-1.5等級と明るい。それらの明るさは天球全体で他の星を見るのにさして邪魔しないが、月が明るいと天体観測に支障が出る。満月なら-12.7等級、三日月でも-9.7等級ほどであるとされている。
 すなわち、月が星の群れに近づくと、星は見えなくなってしまう。「月」が「隠る」のではなく「星」が「隠る」ことになる。歌意が通らない。
 ハヤシという語の解釈に誤りがある。

 …… おほきみに  吾は仕へむ 吾が角は かさのはやし〔御笠乃波夜詩〕 吾が耳は 御墨のつぼ 吾が目らは すみの鏡 吾が爪は 御弓のはず 吾が毛らは 御筆みふみてはやし〔御筆波夜斯〕 吾が皮は 御箱の皮に 吾がししは 御膾みなますはやし〔御奈麻須波夜志〕 吾が肝も 御膾はやし〔御奈麻須波夜之〕 吾がみげは 御塩のはやし〔御塩乃波夜之〕 いぬるやつこ 吾が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申しはやさね〔白賞尼〕 申し賞さね〔々々々〕(万3885)
 つる 稚室葛わかむろかづ、築き立つる はしらは、家長いへのきみの 御心みこころしづまりなり。ぐる 棟梁むねうつはりは、此の家長の 御心のはやしなり〔御心之林也〕。…(顕宗前紀)

 「はやし」の意は、立派に見えるようにするもの、映えるようにするもの、いっそう引き立てるもの、栄えあらしめるもの、の意である(時代別国語大辞典595頁参照)。動詞「やす」の名詞形で、動詞は、はえあらしめる、もてはやす、ほめそやす、の意である(同596頁参照)。祭りのお囃子は盛り立て役である。白川1995.の「はやし〔林〕」の項に、「「やす」の名詞形。「生やす」は他動詞形であるが、自然にまかせて繁茂したところの意であろう。……「心の波夜志はやし」は「はやし」、「え」「はやる」「はやす」などみな同系の語で、さかんなさまをいう。」(630頁)と説明されている。
 したがって、「月」は「雲(の波)」に「隠」れて「星」が映えるようにしたと考えるのが妥当である。上にあげた万2051番歌に、弓月が、獲物を狙うために物陰に隠れることの譬えとして歌われていたのが類例とわかる。月の神である「月読尊」は「月弓尊」(神代紀第五段本文ほか)とも記されている。助詞「に」は目的を示す。二句目は終止形で句切れである。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
 君により ことしげきを 故郷ふるさとの 明日香の川に 禊身みそぎく(万626)

 天の海に 雲の波立つ 月の船 星のはやしに 漕ぎ隠る見ゆ(万1068)
 (大意)天の海に雲の波が立っている。月の船は星を映えるようにするために、その雲の波のなかへ漕ぎ隠れて行っているのが見える。
 On the sea of heaven cloud waves are rising.
 It seems like the moon boat rows and hides into them
 so that more stars could be seen well. (Ryohei Kato)
 月の船が雲の波立つところへ漕ぎ隠れていると見立てることは理解に難くない。このように解釈すれば、この歌の正体が何か理解できるようになる。七夕歌である。主演の二人は「織女たなばたつめ」(織姫星)と「彦星ひこぼし」である。今宵、月読壮士はお呼びでない。他の万葉歌との整合性も保たれている。当時の人が聞いてわかる歌である。今日的な解釈による誤読の上の“鑑賞”は、もともとの万葉歌とは別のところにある。

(引用・参考文献)
Donald Keene Donald Keene, 1940. THE MANYŌSHŪ. INTERNET ARCHIVE https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.182951/page/n139/mode/2up
Edwin A. Cranston Edwin A. Cranston, 1993. A WAKA Anthology Volume One: The Gem-Glistening Cup Translated, with a Commentary and Notes. California, Stanford University Press. p.236.
Hideo Levy リービ英雄『英語でよむ万葉集』岩波書店(岩波新書)、2004年、77頁。
Janine Beichman 大岡信著、ジャニーン・バイチマン訳『対訳 折々のうた』講談社インターナショナル、2002年、97頁。
Peter MacMillan ピーター・マクミラン『英語で味わう万葉集』文藝春秋(文春新書)、2019年、155頁。
飯島2018. 飯島奨「はやし・はやす─「乞食者詠」鹿の歌の「はやし」とは何か─」吉田修作編『ことばの呪力─古代語から古代文学を読む─』おうふう、2018年。
勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、2017年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。

(English Summary)
The poem of Manyōshū No.1068 is misinterpreted. Since the moon is brighter than stars, the moon cannot hide in the "forest of stars''. In ancient Japanese, the word "Hayashi" which was forest or woods, also meant to serve as a foil to something else. We can understand that they could see stars well when the moon hid in the cloud.

「八雲立つ 出雲八重垣」について

2021年05月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
「八雲立つ 出雲八重垣」歌をめぐって

 スサノヲ(須佐之男命・素戔嗚尊)は、宮をつくる場所を出雲国に求めた。スガ(須賀・清地)というところにたどり着き、宮を造って住もうとする。初め宮をつくっていた時に、そこから雲が立ち上っていた。そこで、記紀ともに一番歌として知られる「八雲立つ 出雲八重垣 ……」の歌を詠んでいる。

 かれ、是を以て、其の速須佐之男命はやすさのをのみこと、宮造作つくるべきところを、出雲国にぎたまふ。しかくして須賀といふ地に到りしてりたまはく、「あれ此地ここに来て、我が御心須賀須賀すがすがし」とのりたまひて、其地そこに宮を作りて坐しき。故、其地を今に須賀と云ふ。の大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ちのぼりき。爾くして御歌をみたまひき。其の歌に曰ひしく、
 八雲やくも立つ 出雲いづも八重垣やへがき 妻みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
是に其の足名椎神あしなづちのかみびて、「は我が宮のおびとれ」と告言りたまひき。また名を負せて、稲田いなだの宮主みやぬし須賀之すがの八耳神やつみみのかみなづけたまひき。(記上)
 しかうして後に、[素戔嗚尊すさのをのみこと、]きつつみあはしせむ処をぐ。遂に出雲の清地すがに到ります。清地、此には素鵝すがと云ふ。乃ち言ひて曰はく、「が心清清すがすがし」とのたまふ。此今、此の地を呼びてすがと曰ふ。彼処そこに宮を建つ。或に云はく、時に武素戔嗚尊たけすさのをのみことうたよみして曰はく、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣ゑ」(紀1)。乃ち相与とも遘合みとのまぐはひして、みこ大己貴神おほあなむちのかみを生む。因りてみことのりして曰はく、「吾が児の宮のつかさは、即ち脚摩乳あしなづち手摩乳てなづちなり」とのたまふ。故、ふたはしらの神に賜ひて、稲田いなだの宮主神みやぬしのかみと曰ふ。已にして素戔嗚尊、遂に根国ねのくにでましぬ。(神代紀第八段本文)

 「八雲立つ 出雲八重垣 ……」の歌は、盛んに雲が湧き立つ出雲国の八重垣、妻を籠らせるために、あるいは妻といっしょに八重垣を作る、その八重垣よ、といった意味である。和歌の嚆矢として名高く、新室寿ぎの歌であるというのが定説である。しかし、歌っている内容はなぜか垣根讃歌である。新築の家屋敷を褒めるならまだしも、垣根についてお上手を言うのはどういうことであろうか。須賀という地名とからめた清々しいという気分の表明もわざとらしい。この記事には、今日の我々には取っ付きにくい含意が巧みに込められているようである。
 「八雲立つ」は出雲を導く枕詞である。また、ヤツメサス、ヤクモサスという例も見られる。

 八芽刺やつめさす〔夜都米佐須〕 出雲建いづもたけるが ける大刀 黒葛つづらさはき さ身無しにあはれ(記23)
 八雲刺やくもさす〔八雲刺〕 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ(万430)

 「八芽刺す」は、ヤ(弥)+ツ(連体助詞)+メ(芽)+サス(生)から「」にかかって「出雲いづも」を導く枕詞であるとされている。また、水野1975.は、万430番歌の作者、「柿本人麻呂は第七世紀末から第八世紀初頭頃の歌人であるから、彼の歌中に出雲の枕詞として、「八雲立」と「夜都米刺」との混合形を見ることは、ちょうどこの時期が「ヤツメサスイヅモ」から、「ヤクモタツイヅモ」への過渡期であったのではないかと推測される。」(54頁)とする。枕詞は言語遊戯である(注1)。発想として混合があるかもしれないが、それぞれ確固とした言葉である。根拠を質されれば、それぞれに独立してきちんと解答できるように働いていると考えるべきであろう。
 ヤクモタツという枕詞については、雲がもくもくと浮かぶことについての類推が根強い。イヅモという地名に「出雲」という漢字を当てたことによって連想される枕詞に違いない。ただし、それだけの理由に限られるのであるなら、トクモタツ(十雲立つ)、チクモタツ(千雲立つ)といった言葉が作られてもかまわないはずである。そうはならずにヤクモに限定されている。そのわけは、ヤクモソウという薬草の名に関係するからであろう。山野の日当たりのよい場所に生えるシソ科の越年草である。茎は四角形で直立し、枝分れして1mほどに伸びる。8~9月頃、茎の上部の葉腋に淡い紅紫色の花を10個ほどずつつける。その名は、漢名の益母草を音読みしたものとされている。全草を乾燥させて薬草とし、妊婦の止血や乳脹れに用いられた。新婚さんの宮にふさわしい草である。別名をメハジキという。目弾きの意で、子どもがこの草の茎を折り切ってまぶたに当ててつっかえとし、目を剥く遊びをしたことに由来する。危ないので真似しないようにと注意喚起されている。目につっかえ棒をするから、マ(目)+セ(塞)、すなわち、見塞ませ間塞ませませ・まがきの遊びといえる。よって、ヤクモタツで始まる歌は、理の当然として垣根の話に展開していく。
メハジキ
 八重垣とあるのは、実際に八重に、あるいは、たくさんの垣根がめぐらされたというよりも、威力があって外敵が近づけないほどの垣根であるという意味を表している。上代における八重○○という表現としては、「八重蒼柴籬やへのあをふしかき」(神代紀第九段本文)、「八重雲やへくも」(万167)、「八重雲隠やへくもがくり」(万2658)、「八重席薦やへたたみ(八重席・八重疊)」(神代紀第十段本文、同一書第二、万3885)、「八重之隈やへのくまぢ」(神代紀第十段一書第二)、「八重言代主神やへことしろぬしのかみ(八重事代主神)」(記上)、「天八重雲あめのやへたなぐも(天之八重多那雲)」(神代紀第九段本文、記上)、「八隔浪やへなみ」(万4211)、「八重山やへやま(夜敝也麻)」(万1941・1945・4440)がある。植物名のヤエムグラ(八重葎)も「八重六倉やへむぐら」(万2824・2825)と記されている。

 思ふ人 むと知りせば 八重葎やへむぐら おほへる庭に たま敷かましを(万2824)
 玉敷ける 家も何せむ 八重葎 覆へる小屋をやも いもとしらば(万2825)
 いかならむ 時にか妹を むぐらの きたな屋戸やどに いませなむ(万759)
 葎ふ いやしき屋戸も 大君の さむと知らば 玉敷かましを(万4270)

 万葉歌のヤヘムグラはムグラに同じである。今日種子をひっつき虫として遊ぶアカネ科の越年草のことではなく、従来はクワ科に分類されていたアサ科の一年草の蔓草であるカナムグラのこととするのが定説である。新撰字鏡に、「䔧 牟久良むぐら」、和名抄に、「葎草 本草に葎草〈上の音は律、毛久良もぐら〉と云ふ。」、本草和名に、「葎草〈仁諝に音は律〉、一名葛律葛〈蘇敬注に出づ〉、一名葛勒蔓〈稽疑に出づ〉、和名毛久良もぐら」、名義抄に、「葎草 音律 ムクラ モクラ ハハコ」とある。モグラとムグラは音転である。カナムグラは雌雄異株で、葉は切れ込みのある掌状で対生、鋸歯が多く表面はざらざらしている。茎や葉柄に下向きの棘があり、樹木やフェンス、物置小屋などにつかまりながら高く伸びる。絡みついて繁茂し、蔓延すると棘もあって引き剥がすのに苦労する。欧米ではゴーヤのように遮蔽に用いることもあるが、我が国では、廃屋に絡んでさびれた情景を示すことが多い。
カナムグラ
 すなわち、万2824・2825番歌に見られるヤヘという語は、他のヤヘという語に同じく何重にも重なっていることを表す形容詞的な用法といえる。とはいうものの、今日カナムグラと同定されるムグラは、はびこり絡み合う様が尋常ではない。両歌に「珠(玉)」とあるのは、カナムグラの雌株がたくさんつける、ホップのような鱗片に包まれた穂からの譬えであるとされる。家の周囲に簡素な柵として杭を打っていたにすぎなくても、ひとたびカナムグラが繁茂すれば、それはまるで有刺鉄線を備えたような厳重な垣となる。警備保障会社と契約したかのごとく、垣根を八重分もめぐらしたほどに効果のある「八重垣」に同じことになる。そこでムグラは必然的にヤヘムグラと表現されるのである。
 動物の方のムグラとは、ムグロモチ、モグラモチ、ウグロモチとも呼ばれるモグラ(鼹鼠・鼴・土竜)のことである。語の連関は確かではないが、ともに線状に延びていく様相を示す。
左:モグラ塚の例、右:調査により可視化されたモグラ穴の実態(石膏部分)(東北地方整備局「「河川堤防の変状箇所(もぐら穴等)を計測できる技術」の要求性能に対する意見を募集」記者発表資料(平成30年11月26日)https://www.thr.mlit.go.jp/bumon/kisya/kisyah/images/73229_1.pdf、21頁。2023年11月1日閲覧)
 新撰字鏡に、「𧊏 牟久呂毛知むぐろもち」、和名抄に、「鼴鼠 本草に云はく、鼴鼠〈上の音は偃〉は一名に鼢鼠〈上は扶粉反、上声の重、字は亦、𪖅に作る、宇古路毛知うごろもち〉といふ。通俗に冬糞鼠、一名に𤣘〈音は冥〉といふ。兼名苑注に云はく、恒に土中に在りて行く、若し三光を見れば即ち死すといふ。」、名義抄に、「糞鼠 一名𤣘 ウクロモチ」、「鼴鼠 ウグロモチ」、「𪖅鼠 ウグロモチ」などとある。爪が丈夫に長く生えており、土を掻いて穴を掘り、土中のミミズや昆虫、その幼虫などを食べて生活する。目は退化して見えないとされている。光に当たると死ぬというのは俗説であるが、その死骸を地上で目にすることも多い。地上に現れたモグラは、ネコやイヌなどの天敵に攻撃されながら、独特の体臭のため食べられずに放置されていることが多いという(注2)。農作物自体を食するわけではないが、作物の根を傷めたり灌漑設備に害をなすため害獣とされる。天石屋あめのいはや天石窟あまのいはや)にアマテラス(天照大御神・天照大神)が籠るきっかけとなったスサノヲのいたずらは、次のようにある。

 ……勝ちさびに、天照大御神あまてらすおほみかみ営田つくりたはなち、其の溝をみ、亦、其の大嘗おほにへきこす殿に屎まりちらしき。(記上)
 時に素戔嗚尊、春は渠填みぞうめ畔毀あはなちす。(神代紀第七段一書第二)
 春は廃渠槽ひはがち、及び埋溝みぞうめ毀畔あはなち、又重播種子しきまきす。(神代紀第七段一書第三)

 畔離(畔毀・畔毀)、溝埋(渠填・埋溝)は、大祓の対象となるほどの大罪、国つ罪であった。

 ……更に国のおほぬさを取りて、種々くさぐさ生剥いけはぎ逆剥さかはぎ畔離あはなち溝埋みぞうみ屎戸くそへ上通下通婚おやこくなぎ馬婚うまくなぎ・牛婚・鶏婚・犬婚の罪の類を求めて、国の大祓おほはらへを為て、……(仲哀記)

 さらに、スサノヲが高天原から完全追放されるさまは次のように記されている。

 是に、八百万の神、共にはかりて、速須佐之男命に千位ちくら置戸おきとを負ほせ、亦、ひげと手足の爪とを切り、祓へしめて、神やらひやらひき。(記上)
 然して後に、諸のかみたち罪過つみを素戔嗚尊にせて、おほするに千座置戸ちくらおきとを以てして、遂にはたる。髪を抜きて、其の罪をあかはしむるに至る。亦曰はく、其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。已にしてつひ逐降かむやらひやらひき。(神代紀第七段本文)
 已にして罪を素戔嗚尊に科せて、其の祓具はらへつものはたる。是を以て、手端たなすゑ吉棄物よしきらひもの足端あなすゑ凶棄物あしきらひもの有り。亦つはきを以て白和幣しろにきてとし、よだりを以て青和幣として、此を用て解除はらへ竟りて、遂に神逐の理を以て逐ふ。(神代紀第七段一書第二)
 かれ、諸の神大きに喜びて、即ち素戔嗚尊に千座置戸の解除はらへを科せて、手の爪を以ては吉爪棄物よしきらひものとし、足の爪を以ては凶爪棄物あしきらひものとす。(神代紀第七段一書第三)

 祓においてはスサノヲは手足の爪やヒゲを切られている。この傷害、体罰によって、畔離、溝埋といった悪さをすることができなくなるということであろう。すなわち、頭の中での架空のことながら、モグラの力を削いで無力化してしまい、水田耕作上の害がなくなると考えたのである(注3)
ヒゲ字(真福寺本古事記(国会図書館デジタルコレクション)・左:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185374/21、中:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185374/17、右:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185383/25)
 記で太安万侶は、この箇所のヒゲに、「𩯭(鬢)」の字(左)を使っている。和名抄に、「𩯭髪〈髪根附〉 説文に云はく、𩯭〈卑吝反〉は頬髪なりといふ。……」とある。口ひげや顎ひげではなく、頬の横に生えたびんづらのことからモグラの洞毛のことを示そうとしたものかもしれない。他の記の例も確認しておく。

 ……速須佐之男命は、おほせらえし国を治めずして、八拳頒やつかひげ心前こころさきに至るまで、啼きいさちき。(記上)(注4)

 同じスサノヲの逸話でも、「頒」(中)が用いられている。説文に、「頒 大頭也、頁に从ひ分声。一に曰く、鬢也。詩に曰く、頒たる有り其の首」(注5)とある。
 
 然くして、是の御子、八拳𨲙やつかひげの心前に至るまで、真事まこととはず。(垂仁記)

 同様の形容のある垂仁記の本牟智和気御子ほむちわけのみこの箇所では、「𨲙」(右)で区別している(注6)
 アマテラス(天照大御神・天照大神)、ツクヨミ(月読命・月読尊)、スサノヲ(須佐之男命・素戔嗚尊)の三貴子分治の話では、スサノヲは、記に「海原」、神代紀第五段本文と一書第一に「根国」、第六に「天下あめのした」、第十一に「滄海之原あをうなはら」を治めるようにと定められており、混乱が見られる。海が登場する点については後に触れる。ただし、彼が泣いて行きたがったり、神やらいにやらわれたところは、記の「ははが国の根之堅州国ねのかたすくに」と同等の記述が行われている(注7)

 故、其の父母かぞいろはの二の神、素戔嗚尊にことよさしたまはく、「いまし、甚だ無道あづきなし。以て宇宙あめのした君臨きみたるべからず。まことまさに遠く根国ねのくにね(神代紀第五段本文)
 故、くだして根国をしらしむ。(神代紀第五段一書第一)
 故、其の父母、みことのりして曰はく、「仮使たとひ、汝此の国をらば、必ずそこなやぶる所多けむとおもふ。故、汝は、以て極めて遠き根国をしらすべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第二)
 是の時に、素戔嗚尊、年已にいたり。また八握鬚髯やつかひげひたり。然れども天下をしらさずして、常に啼きいさ恚恨ふつくむ。故、伊奘諾尊いざなきのみこと問ひて曰はく、「汝は何の故にか恒に如此かく啼く」とのたまふ。こたへてまをしたまはく、「やつかれいろはのみことに根国に従はむと欲ひて、只に泣かくのみ」とまをしたまふ。伊奘諾尊にくみて曰はく、「こころまにまね」とのたまひて、乃ちやらひやりき。(神代紀第五段一書第六)
 是に、素戔嗚尊、まをしてまをさく、「吾、今みことのりうけたまはりて根国にまかりなむとす。故、暫く高天原にまうでて、なねのみこと相見まみえて、後にひたぶるに就りなむと欲ふ」とまをす。(神代紀第六段本文)
 既にして諸のかみたち、素戔嗚尊をめて曰はく、「汝が所行しわざ甚だ無頼たのもしげなし。故、天上あめに住むべからず。亦葦原中国にもるべからず。すみやか底根之国そこつねのくにに適ね」といひて、乃ち共に逐降やらりき。……是に、素戔嗚尊、日神ひのかみに白して曰はく、「やつかれ更に昇来まうく所以ゆゑは、衆神もろかみたちやつかれを根国にく。今当に就去まかりなむとす。……当に衆神のみこころまにまに、此よりひたすらに根国にまかりなむ。……」とのたまふ。(神代紀第七段一書第三)

 新編全集本古事記の頭注では、州という字の表意する中州の意味合いから、「根之堅州国」の想定として地下はあり得ないと決めつけている。説文に、「州 水中の居るべきところを州と曰ふ。其の側を周繞す。重川に従ふ。昔、尭、洪水に遭ひ、民、水中の高土に居り。或は九州を曰ふ。詩に河の州に在りと曰ふ。一に州は疇也と曰ふ。各疇は其の土にて生りしなり」とある。地形学では、日本列島の川の中州には、マンハッタン島やシテ島などのような岩盤地質を基にしたものはないとされている。古代人もそれは当たり前のこととして、「堅州国」などという形容矛盾を行っておもしろがっている。わざわざそんな呼び名で示したい地形とは、州のようでありながら版築のような方法でき固めて作った垣(牆)状のものであろう。すなわち、説文の後半に記される疇、田圃の畔にほかならない。田圃はぬかるんでいてぐしゃぐしゃで柔らかいが、畔道は根を張ったように堅い。モグラをもとに創案されたスサノヲは畔へ行ったから、やがて、田の畔を壊したり、用水路を埋めるといった悪さをすることになる。話として辻褄が合う。このことは逆に、スサノヲという神格を架空造形した飛鳥時代当時の人々の観念を捉え返す契機になる。出雲のスガ(須賀・清地)での八重垣讃歌が考えあわされなければならない。
 白川1995.の「かき〔垣・墻・壁〕」の項には次のように説明されている。

 家の外まわりを限るためにめぐらしたものをいう。動詞「く」の連用形から名詞となる。垣の作りかたは、古くは「懸ける」「立て掛ける」という形式のものであったと考えられる。カールグレン説にかくの音から出ているとするが、「かくる」「かこむ」などと系列をなす語である。……えんせんに従う字。亘は建物にめぐらした垣牆のいわば平面形である。「かき」は「懸ける」「立て掛ける」、垣はそのめぐらした平面形からいうが、ともに区画する意がある。しようしよくに従い、嗇の下部は穀物の廩倉りんそうの形。しよう版築はんちくに用いるもので、築造のものを示す。へきは土壁。垂直に立てたものをいい、「かき」が「懸けるもの」であるのと語義が近い。へきは身をそばめること。それで偏平や垂直などの意をもつ。(208頁)

 ただし、カクという動詞としては、懸く、書く、掻く、画くなどはみな同根の語とされる。掻くという語は爪を立てて引っ掻くことがもとになっているようである。先端の尖ったもので字をカクのが書く、絵をカクのが画くであり、爪具をもって対象に引っ掛けることを懸くというのであろう。垣と爪との間に関連性、近縁性が見て取れる。
 新撰字鏡に、「籬 力支反、㭕也、垣也、竹柴等類垣は籬と曰ふ、志波加支しばかき、又竹加支かき」、和名抄に、「爾雅に云はく、墻〈音は常〉は之れを墉〈音は庸〉と謂ふといふ。李巡に曰はく、垣〈音は園、賀岐(かき)〉と謂ふといふ。」、「築墻 淮南子に云はく、舜、築墻〈都以加岐ついがき、一に豆以比知ついひぢと云ふ〉を作るといふ。」とある。めぐらせることによって、囲む機能と隠す機能が生ずる。縄張り、結界、障屏、占有、防護、防衛、また、隠匿、遮蔽といったはたらきがある。礼記・祭義に、「古は天子諸侯、必ず公桑こうさう蚕室さんしつ有り、川に近づきて之れをつくり、宮を築くこと仞有じんゆう三尺、棘牆きよくしやうして之れを外閉ぐわいへいす。(古者天子諸侯、必有公桑蚕室、近川而為之、築宮仞有三尺、棘牆而外閉之。)」とあり、芸文類聚にも記載がある。昔、天子諸侯の宮廷には必ず桑畑と蚕室が併設され、その周囲には高さが一仞三尺(約2m25㎝)の高さの垣がめぐらされ、垣の上にはいばらが植えられて鉄条網の役割を果たし、門は外から鍵をかけて閉ざしてあったという。中国では土塁を築いた上に障壁を設けている。説文に、「墉 城の垣也、土に从ひ庸声」とある。都市国家であった城の城壁や、万里の長城などのことである。用字形の木枠に土を入れ、杵で築き固めることを表す(注8)。ムグラが地面付近にお得意の爪をもって穴を掘ると、あたかも土塁、お土居のようなモグラ塚ができる。ウグロモツ、ウゴモツ、ウゴモルには墳という字が当てられる。墳の字には、(1)はか、はかのもり土、(2)おか、つつみ、がけ、きし、(3)す、なかす、しま、(4)大きい、高い、もりあがる、の義がある。(3)に中州の意味がある点により、上述の「根之堅州国」が、モグラの爪や八重垣と関連する事項であることが確認される。古墳が根の堅州国と関係があると一般に推測されているのは、モグラの所業によって間違いではないとわかるのである。

その他、由縁すること

 万葉集の巻十六の「由縁ゆゑある、并せて雑歌」が収められるなかに次のような歌がある。

 からたちの 棘原うばら刈りけ 倉立てむ くそ遠くまれ 櫛造る刀自とじ(万3832)

 これは、カラタチ→クラタチの言葉遊びから着想された歌であろう。カラタチはミカン科カラタチ属の落葉低木で、漢名を枳殻、枸橘、臭橘といい、樹高は2~4mほど、稜角のある枝に3cmほどの鋭い刺が互生する。葉も互生するがアゲハチョウの幼虫に食され、ほとんど残っていない樹もある。果実には種が多く、酸味と苦味が強く食用に適さないものの、花と果実の芳香は好まれた。また、鋭い刺のために、外敵の侵入を防ぐ目的で生垣によく用いられた。特に、イノシシ避けのために果樹園の周囲の垣として利用された。
 この歌が作られた「由縁」は、記紀ともに1番歌謡として知られる出雲八重垣の歌の言い伝えのことのようである。記紀1番歌謡の結句、「その八重垣」は、アクセントの違いをとぼけて、ソノ(園・苑)+ヤヘガキ(八重垣)をダブらせているようである。果樹園のための垣に打ってつけなのがカラタチである。礼記にあった棘牆の棘のあるものとしてカラタチが採用された。

 素戔嗚尊、乃ち教へて曰はく、「いまし衆菓あまたのこのみを以て酒八甕やはらめ。われ当に汝が為にをろちを殺さむ」とのたまふ。(神代紀第八段一書第二)

 木の実を使った果実酒の伝統は、列島に伝わっていない。なのにことさらに「菓」と指示があるのは、八重垣が果樹園を囲むものとして知られていたからであろう(注9)
左:カラタチの垣根(川崎市立日本民家園)、右:七支刀(「県民だより奈良」平成24年3月号http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2012/tayori2403/tyu_kan_yukari2403.htm)
 カラタチは、葉が落ちても幹や棘が緑のまま生き永らえる。枯れても立っているタチバナ(橘)である。棘が皮膚を剥くほどひどい茨になる。カナムグラの棘の多いことによく似ている。人工的なものでは、石上神宮に伝わる七支刀にもよく似ている。それは、唐太刀からたちで、「韓鋤からさひ」ともいう。

 素戔嗚尊、乃ちをろち韓鋤からさひつるぎを以て、頭を斬り腹を斬る。(神代紀第八段一書第三)

該当する箇所には次のような記述もある。

 素戔嗚尊、乃ち所帯かせる十握剣とつかのつるぎを抜きて、寸々きだきだに其の蛇を斬る。(神代紀第八段本文)
 其の蛇をりし剣をば、号けて蛇の麁正あらまさと曰ふ。此は今、石上いそのかみのみやす。(神代紀第八段一書第二)
 素戔嗚尊、乃ち天蠅斫之剣あまのははきりのつるぎを以て、大蛇をろちを斬りたまふ。(神代紀第八段一書第四)
 天十握剣あめのとつかつるぎ〈其の名は、天羽々斬あめのははきりといふ。今、石上神宮いそのかみのかみのみやに在り。古語に、大蛇をろち羽々ははと謂ふ。言ふこころは蛇を斬るなり。〉を以て、八岐大蛇やまたのをろちを斬りたまふ。(古語拾遺)

 大系本日本書紀に、「aramasa は karamasafi(韓鋤)と同じであろうという。」(97~99頁)とし、朝鮮半島由来であることを示している。ほかに、「呉の真刀まさひ」(推古紀二十年正月、紀103歌謡)とあるのも大きな剣をいうようである。また、記の山幸彦の話に、「佐比持神さひもちのかみ」とあるのは、「佩ける紐小刀ひもかたなを解」くとあって、匕首ぐらいの小刀のことをいうらしい。さらに、和名抄に、「鎛 国語注に云はく、鎛〈音は博、漢語抄に佐比都恵さひづゑと云ふ〉は鋤の属なりといふ。釈名に云はく、鎛は地をりて草を去るなりといふ。」とあるのは、農具の鋤(耜)のことで、スコップは穴を掘るだけでなく、垣の土塁を作る際の必須アイテムでもあった。鉄器が武具にも農具にもなる二面性を表している。このように、サヒという語は、大きいものにも小さいものにも、武器にも農具にも当てられる鉄器の刃物類を指す。上原1997.や、都出1989.によれば、農耕具においては、U字形鋤・鍬先が出現したことで、土掘りが省力化され、大規模な開墾が可能になったであろうと考えられている。
 つまり、韓鋤からさひは、死んだ母のいる根の国へと通じるために、穴を掘ることができる道具である。それは畔に穴を開けてしまうこともできれば、大規模な古墳を造営することも可能にした。カラと冠されるのは、大陸から新たに伝わった技術である鉄器だからである。朝鮮半島南部には、倭様の前方後円墳が見つかっている。人流があって、技術ばかりか造営物までも、海の向こうの朝鮮半島、特に加耶や新羅と結びつきがあることを物語っている。
 神代紀第八段一書第二に、草薙剣は熱田神宮に、十握剣は石上神宮に所在するとある。その石上神宮に現在も伝わるものは七支刀である。「久氐くてい等、千熊長彦ちくまながひこに従ひてまうけり。則ち七枝刀ななつさやのたち一口ひとつ七子鏡ななこのかがみ一面ひとつと種種の重宝たからを献る。」(神功紀五十二年九月)とある記事の七枝刀であると比定されている。全長74.8cm、銘文に、「泰□四年□月十六日丙午正陽造百練□七支刀□辟百兵□供供□□□□□□」(表)、「先世以来未有此刀百□王世□奇生聖音為□王旨造傳示□世」(裏)と記されている。長い剣の両側に、互い違いに枝が出ており、都合七つの先端を持つ刀である。全体は大きいが、ひとつひとつ小さな小刀がついているものといえる。鉄器ではあるが武器にはならず、かといって農具でもない。確かにヤマタノヲロチ(八俣遠呂知・八岐大蛇)を斬っていって、最後に体中の草薙剣に当たって欠け、一本だけ枝の数が足りず七本の枝とあれば、なぞなぞ話としておもしろい。現在ある七支刀を見ると、デザイン的には、刀の右側上にもう一つ刃が出ていてもいいような気がする。
 七支刀は装飾性が強く、実用に供さないとされているが、カラタチ・カラサヒという言葉をよく表している。無駄に立っていることで通るのを遮る効果のあるものである。カラには殻・空・柄・茎の意味がある。俗に唐紙と呼ばれる唐紙障子は、表面にきらびやかな唐紙を張っていかにも飾ってはいるが、なかが空洞の襖のことである。そのような虚仮脅しのものが立っていることで「ふ」ことができるのだから、垣と同じ意味合いを担っている。逆に、「さひづらふ」、「さひづるや」は、外国を表すアヤやカラにかかる枕詞で、言葉を喋っていても意味がわからず、まるで鳥が囀るようだからとされている。

 住吉すみのえの 波豆麻はづまの君が 馬乗衣うまのりごろも さひづらふ 漢女あやめをすゑて 縫へる衣ぞ(万1273)
 …… さひづるや 辛碓からうすき 庭に立つ 手碓に舂き ……(万3886)

 由縁ある歌としてあげた万3832番歌では、クラ、クソ、クシとク音が連続している。倉には鍵(鑰)が、屎には掻木かきぎがあり、櫛は掻入かきるものである。掻木は後に籌木ちゆうぎとも呼ばれる。櫛は、スサノヲがみづらにクシナダヒメ(櫛名田比売)を刺して実力を発揮した十握剣のことが念頭にあったとも想念される。爾雅・釈地・九府に、「中に枳首蛇有り。〈岐頭ふたつあたまの蛇なり。或は今江東に両頭の蛇を呼ぶ。越王約髪と為る。亦の名は弩弦といふ。〉」とある。八岐大蛇を斬るには都合が良いと思うのが頓智というものである。
 出雲八重垣の歌は、須賀という地の地名譚的な性格も担っている。スガの意味は、元来は、スク(透)+カ(処)、スグ(過)+カ(処)の意味ではないかと考えられている。筆者は、出雲という言葉(音)から、何時いつも、といった同音の言葉が連想されていっていると考えている(注10)。厳つ藻については、食用として藻を採集していたことが知られる。和名抄に、「藻 毛詩注に云はく、藻〈音は早、、一に毛波もはと云ふ〉は水中の菜なりといふ。文選に云はく、海苔の彙〈海苔は即ち海藻なり〉といふ。崔禹食経に云はく、沈む者は藻と曰ひ、浮く者は蘋〈音は頻、今案ふるに蘋は又大萍の名なり〉と曰ふといふ。」とある。タマモカル(玉藻苅)(万72・250・943・2721・3606)、タマモナス(玉藻成)(万50・2483・4214)、タマモヨシ(玉藻吉)(万220)といった枕詞があり、採取のさまも歌に詠まれている。

 打つを 麻続王をみのおほきみ 白水郎あまなれや 伊良虞いらごの島の 珠藻す(万23)
 塩干しほひの 三津みつ海女あまの くぐつ持ち 玉藻苅るらむ いざ行きて見む(万293)
 宇治河に 生ふる菅藻すがもを 河早み 取らず来にけり つとにせましを(万1136)

 第二例に見えるクグツとは、採った藻を入れる籠のことである。海人の使う魚籠類の呼び名としては、スガリ、たまり、おだ袋、さざえ袋などともいう。三貴子分治の話において、スサノヲが「海原」(記)、「滄海之原」(神代紀第五段一書第十一)を治めるように言われていた。海とのつながりは、厳つ藻を苅ることとから連想を働かせたもののようである。すなわち、厳つ藻なる出雲の地、真のイヅモ的なるところこそ、スガ(須賀・清地)という地名に表されるところなのである。
川藻
 そして、後者の何時も、の義には、道すがらというように、今も使うスガラが連想される。「過ぐ」と同源の語で、初めから終わりまで通すことをいう。万葉集に、「…… ぬばたまの 夜はすがらに ……」(万619・3270・3297・3732・4166)、「うるはしみ この夜すがらに ……」(万3969)といった例がある。夜という語とともに使われているのは、眇目すがめのことの連想からであろう。本論ではすでに、メハジキやモグラなど、目が不自由なことと関係する事項が登場していた。そして、わざわざスガという地に限定している。新撰字鏡に、「瞸 口甲反、入、一目閉、須加目すがめ」、「眺 刃予反、去、視也、望也、察也、与己目よこめ、又比加目ひがめ、又須加目すがめ也」、「眇 弥繞反、上、莫也、遠也、見也、須加目すがめ、又乎知加太目をちかため」、和名抄に、「眇 周易に云はく、眇にして能く視、蹇にして能く行くといふ。〈師説に眇は須加女すがめと読む。蹇は下文に見ゆるなり。〉」とある。眇目(瞟眼・僻眼)のことは、ヒガラ、ヒガラメ、ヒンガラメともいう。スサノヲは僻みっぽい性格で悪さばかり働いて、結局高天原から永久追放処分になっている。片方の目が悪いと、横眼、斜視、藪睨みになる。カナムグラは藪になる。すなわち、眼つきの悪いヒガラは枳の垣をたて、眼の見えないムグラは倉をたてるというのが、万3832番歌の「由縁」であろう。
 眇目のことは、またカヌチともいう。カヌチは金打、鍛冶職人を表すとされる。柳田1998.に次のようにある。

 
眇をカンチといふのは鍛冶の義であって、元此職の者が一眼を閉ぢて、刀の曲直をためす習ひから出たといふことは、古来の説であるが自分には疑はしくなつた。秋田県の北部では、カヂといふのは跛者のことである(一二)。恐らく足の不具なる者の此業に携はつた結果であつて、別に作業の為にそんな形を真似たからではあるまい。作金者天目一箇の名から判ずれば、事実片目の者のみが鍛冶であつた故に、眇目を金打かぬちと名けたと解するのが自然である。本来鍛冶は火の効用を人類の間に顕はすべき最貴重の工芸であつた。同時に又水の徳を仰ぐべき職業でもあつた。……(一二)東北方言集に依る。(451~452頁)

 鍛冶職の者は、目一個を神に捧げる信仰があったとされるのは、蹈鞴製鉄の実働として、火の温度管理に送風器の蹈鞴を使うため、火の色をどちらかの目で見るために、目が悪くなってやがて光を失うことが多いことから来るのではないかともしている。そんな鍛冶職人が作っていたのは韓鋤であったろう。
 八重垣をめぐらす建物とは、特別なものに違いあるまい。敵からの攻撃を防ぐための城、砦、櫓、大切なものを保管する宝倉ほくら、また、外国人の賓客を接待するたちなどが考えられる。城は古語にキ(乙類)、カラタチの木もキ(乙類)である。古代朝鮮語ではサシ、「刺し」と同音である。類似の枕詞にヤクモサスとあったが、カラタチ、七支刀も棘々していて刺すものである。砦はもともと取り手の意味である。取り手という語はまた、「相撲すまひ(ヒの甲乙は不明ながら動詞「すまふ」の連用形ならばヒは甲類)」取りのことも指す。同音の「住まひ(ヒは甲類)」とは、スガ(須賀・清地)に建ててクシナダヒメ(櫛名田比売・奇稲田姫くしいなだひめ)等とともに住む宮のことであろう。また、櫓とは、矢を納める倉のことである。宝倉にもある倉のクラと同音に「暗」があり、「めくら」のことと重なる。モグラは目が見えないとされている。
 また、館について、和名抄に、「舘 唐韻に云はく、舘〈音は官、字は亦、館に作る。太知たち。日本紀私記に無路都美むろつみと云ふ〉は客舎なりといふ。」とある。白川1995.の「たち〔館(舘)〕」の項に次のようにある。

 貴人や官吏などの宿泊する大きな建物をいう。館の字を用い、館はまた「やかた」ともよむ。もと軍営をいう語であったと思われ、「たて」と同系の語とする説がある。大きな楯をめぐらして軍営とすることから、のちその建物をいう語となった。また「むろつみ」という訓がある。……〔欽明紀二十二年〕に「館舎むろつみ」、〔皇極紀二年〕に「館室むろつみ」、〔敏達紀元年〕に「むろつみ」の訓があり、ムロ(室・窟)と関係のある語であることが知られる。「忍坂おさか大室屋おほむろや」〔記一〇〕は〔綏靖前紀〕に「片丘かたをか大窨おほむろ」とあるように、山の斜面に設けた巌窟がんくつ式の軍営であった。館に「むろつみ」の訓があるのは、館がもとそのような軍営の意とされていたことを示している。(464頁)

 ムロツミについては、別訓に、ムロツヤ、ムロツム、ムロツヒなどともある。壁が板張りや校倉ではなく、土壁を塗り込めたもので、貴族の住居や賓客の迎賓館に採用されていたような建物である。壁が堅牢で防火建築であれば、火矢を受けても楯だけが燃えて建物は残るのと同じ役割を果たし、軍営の用に適うのである。それと同じ効果の垣根としては、カラタチの生垣が建物から離れてめぐらされることが挙げられる。火矢の届くところまで近づくことさえできず、防衛線の要件に適するのである。
 以上、「八雲立つ 出雲八重垣」歌の垣根讃歌について、言葉の群れのからくりから縷々検討してきた。スサノヲのヤマタノヲロチ退治の話とは、盲蛇に怖じずという諺を集大成したようななぞなぞ話であるといえる(注11)。平板に言ってしまえば、朝鮮半島からの鉄器製作の技術流入について、包括的に物語説話に仕立て上げたものであった。それが、技術革新の世紀といわれる5世紀当初ばかりでなく、記紀の種本の天皇記・国記・本記の書かれた7世紀初頭の「今」へと継続的に受け継がれ、なおホットな関心事とされていたと思われるところに、無文字文化における史譚の道行きが知れて興味深い。

(備考)本稿は、記紀万葉など、上代に記された文献を読み解こうとするものであり、今日の社会的観点からは、その表現に不適切と思われる記述もあるが、上代語解読のための学術的観点から行っているものである。

(注)
(注1)廣岡2005.参照。
(注2)川田2009.参照。
(注3)民俗では、1月14~15日や節分、また、関東地方では、十日夜とうかんやに、土竜打ち、土竜脅しなどの行事が行われている。
(注4)モグラを捕まえてみるとよく鳴く。
(注5)詩経・小雅・魚藻の「魚在在藻 有頒其首」について、何と大きな頭だろうの意と解する説と、藻のところにいる魚が鯉や鯰の類で、「頒」はそのヒゲのことを言っているとする説がある。
(注6)𨲙の字は、諸橋大漢和辞典(⑪697頁)に、音はテイで義未詳とされている。
(注7)スサノヲは、イザナキ(伊耶那岐命・伊奘諾尊)の禊において生まれている。記では当初、海原を治めよと命じられながら従わず、駄々をこねて追放の旨の宣告を受けている。

 [伊耶那岐命いざなきのみこと、]次に、建速須佐之男命に詔ひしく、「汝が命は、海原うなはらを知らせ」と事依しき。(記上)
 爾くして答へて白ししく、「やつかれは、ははが国の根之堅州国ねのかたすくにまからむと欲ふが故に哭く」とまをしき。爾くして、伊耶那岐大御神、大きに忿怒いかりて詔はく、「然らば、汝は此の国に住むべからず」とのりたまひて、乃ち神やらひにやらひ賜ひき。(記上)

 記を一つの作品として捉えようとする新編全集本古事記の頭注に、通説を批判する形で次のようにある。

 
「妣」は亡母のこと、伊耶那美神を指すととるのが一般的だが、須佐之男命は身をすすいで成った神であり、父母から生れた神ではないから、なお不審が残る。少なくとも、妣=伊耶那美神だから根之堅州国=黄泉国だとする説は成り立たない。世界としての呼称が違うのであり、それは別の世界であることを明示する。……「根」は遠い果てを意味し、「堅州」は表記通り堅い州(中州)という意。「根」を地下の意とする説には従いがたい。地下だとすると州の説明がつかない。……[「此の国」ハ]葦原中国を指す。海原の世界に赴くことなく泣きわめいていたのである。(54~55頁)

 しかし、同書には、「[葦原中国トハ]黄泉国という他の世界とのかかわりから世界として呼び表すこととなる。その称には、生命力に満ちた(葦原)、中央なる(中)、国の側の世界という意味を込める」(47頁)ともある。すると、「此の国」から追放されたら「黄泉国」へ行ったようにも思われ、「根之堅州国」の「根」を地下のことと捉えるのが順当ではなかろうか。呼称の違いは特徴を言い表したものと考えられる。
(注8)白川1996.1567頁。
(注9)北原白秋作詞、山田耕筰作曲の「からたちの花」に、「…… からたちは 畑の垣根よ ……」とある。
(注10)拙稿「記紀万葉における「出雲」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/96226878ad05ea5bab34908c9f8315ea参照。
(注11)拙稿「ヤマタノオロチ退治譚の創作をめぐって」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7bf13c805777464fd3b9309fe91146d9ほか参照。

(引用・参考文献)
上原1997. 上原真人「農具の画期としての5世紀」『王者の武装─5世紀の金工技術─(京都大学総合博物館春季企画展展示図録)』京都大学総合博物館、1997年。
川田2009. 川田伸一郎『モグラ博士のモグラの話』岩波書店(岩波ジュニア新書)、2009年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
都出1989. 都出比呂志『日本農耕社会の成立過程』岩波書店、1989年。
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水野1975. 水野祐『古代の出雲と大和』大和書房、1975年。
諸橋大漢和辞典 諸橋轍次『大漢和辞典 第十一巻』大修館書店、昭和34年。
柳田1998. 柳田国男「一目小僧その他」『柳田國男全集7』筑摩書房、1998年。

※本稿は、2014年9月稿を2021年5月に改稿し、2023年11月にルビ形式にしたものである。

(English Summary)
The ancient Japanese originally didn’t have letters in Yamato Kotoba. When uttering a word, the words used before and after it had to be used in a way that defines the word in order to indicate that the word was correct. Words were used in a mutually constrained or double bind format. In this paper, we will explore a part of the word structure in the first poem of Kojiki and Nihon Shoki, which are said to be the beginning of Waka (Japanese poems).

万葉集のホトトギス歌について 其の二

2021年04月27日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)東1935.に、「集中でも初期の間は馬とか、鹿とか、鴨など手近のものや、狩猟の対象となつた実用的な動物が多く歌はれてゐたのであるが、漸次その末期に近づくにつれて、支那文学の影響を蒙り時鳥や鶯の鳴声を鑑賞する様になつて来たのである。」(227頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注2)以下、万葉集の原文に「霍公鳥」とあるものはそのままに、それ以外の用字については〔 〕に入れて追記する。
(注3)小池2001.は、霍公鳥という字面の「霍」に、雨の中鳴く鳥であることを含意したかったためかとしている。
(注4)荊楚歲時記逸文に、「三月三日。杜鵑初鳴。田家候之。此鳥鳴昼夜。口赤上天乞恩。至章陸子熟乃止。」とある。本邦の人がこれを見て「霍公鳥」と記すようになったとは考えにくいのは、「杜鵑」とあるからである。荊楚歲時記にはまた、「四月有鳥、名獲榖。其名自呼。農人候此鳥、則犁杷上岸。按爾雅云、鳲鳩鴶鞠。郭璞云、今布榖也、江東呼獲榖。崔寔正論云、夏扈趍耕鋤、即竊脂玄鳥鳴獲榖、則其夏扈也。」とあり、カッコウは「獲榖(クワクコク)」と自ら双声に呼んでいるとしている。
(注5)伊藤1998.に、「ホトトギスを擬人的に「名告り鳥」と呼ぶことが、遅くとも近江朝の頃には成り立っており、人々のあいだに一般の言葉として定着していたであろう……。……古くから日本人のあいだにあったこの「名告り鳥」の称に想を致し、「名告り鳴く」時鳥の表現に思い至ったのではなかろうか。地の言葉、口頭言語としてホトトギスについて言われ来った語「名告り鳥」がここではじめて「名告り鳴くなるほととぎす」という和歌表現に奉り上げられたのである。」(38~39頁)などとある。
(注6)集中には、雁が「名を告る」歌がある。
 ぬばたまの 夜渡る雁(かり)は おほほしく 幾夜を経てか 己(おの)が名を告る(万2139)
 この歌では、雁が名告っているが、それは、カリと鳴いていると聞きなして「雁がね」などともいうからに過ぎない。ただそれだけだから、雁が鳴いているさまを「名告り鳴くなる」とは表現しない。霍公鳥に「名告り鳴くなる」という定型化をもたらしている点に注目すべきなのである。「大伴」という人が「名に負ふ」として曰くある歌を歌っていても、その人のことを「名告り人」と言わないことに同じである。
(注7)山口2019.は、この訓にて解釈を展開している。
(注8)「「かくこふ」のところは掛け詞のように二重写しになっていて、私がこんなに貴方を恋い慕っている・・・・・・・・・・・・・・・・とう[ママ]いうことを、ホトトギスよ、あの方の所へ飛んで行って、『ふ、ふ』と鳴いて伝えておくれ。」という意味に解釈すべきもののように思われる。つまり、「霍公鳥」は「ホトトギス」と言われると同時に実体は「郭公鳥」そのものであり、「カクホフ」即ち「斯く恋ふ」と鳴く鳥なのである。こう解釈してこそ、この歌の意味も深くなり、ホトトギスが此所に登場してくる理由も、「霍公鳥」と書かれた意味も首肯できるというものである。」(18頁)とある。
(注9)「郭公」という漢字も、中国で古い用例が知られていない。集韻に、「𪇖鷜 鳥名、郭公也。」、元の李孝光・寄朱希顔二首の其一に、「会有行人回首処、両辺楓樹郭公啼。」と見える程度である。もともとカッコウには鳲という字を作っているのではないかとされるが、種の同定には至らない。
 木村1901~1911.に、「本集に霍公鳥とかきたるは、皇国にて名づけたる称にて漢名にはあらず、……公はかゝるものに添ていふ文字にて、鶯を黄公、燕を社公、布穀を郭公、蝍蛆ムカデを呉公……といふに同じ、又古此方にて漢名に準へて物名を製したる例は、胡枝子ハ ギを鹿鳴草といひ、梫木アセミを馬酔木などいへるなど是也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/874365/22、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注10)霍公鳥を、種としてホトトギスとカッコウとの総称としたり、混同しているとする見方があり、万葉集中の鳴き場所などからくみ取って見解をなしているものがある。今日の動物分類学をもって何を示そうとしているのか、言語学的立場からは不明である。
 ソシュール2013.に復刻されているが、丸山2014.からソシュールの発言を引く。「コトバについて哲学者たちがもっている、あるいは少なくとも提供している考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせるようなものである。すなわち、アダムはさまざまな動物を傍に呼んで、それぞれに名前をつけたという。……コトバの根拠は名詞によって構成されてはいない。……それにもかかわらず、〔哲学者たちの考えには〕コトバが究極的にいかなるものかを見る上で、我々が看過することも黙認する出来ないある傾向の考え方が、暗黙のうちに存在する。それは事物の名称目録という考え方である。
 それによれば、まず・・事物があって、そこから記号シーニュということになる。したがって、これは我々が常に否定することであるが、記号シーニュに与えられる外的な基盤があることになり、コトバは次のような関係によって表わされるだろう。

 ところが、真の図式は、a─b─cなのであって、これは事物に基づく*─aといったような実際の関係のすべての認識の外にあるのだ。」(130~131頁)。
(注11)室伏1966.に、「程時過ホトトキス(グ)」説がある(3頁)が、「程(ほと、ホ・トは甲類)」と「霍公鳥(ほととぎす、ホ・トは乙類)」は音が合わない。
(注12)拙稿「「信濃なる 須賀の荒野に 霍公鳥 鳴く声聞けば 時過ぎにけり」(万3352)について」参照。
(注13)記紀に載る文章をあげる。
 又、天皇、三宅連等の祖(おや)、名は多遅摩毛理(たぢまもり)を常世国(とこよのくに)に遣(つかは)して、ときじくのかくの木実(このみ)を求めしめたまひき。故、多遅摩毛理、遂に其の国に到りて、其の木実を採りて、縵八縵(かげやかげ)・矛八矛(ほこやほこ)を将(も)ちて来つる間に、天皇既に崩(かむあが)りましぬ。爾くして多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分けて、大后に献り、縵四縵・矛四矛を、天皇の御陵(みさざき)の戸に献り置きて、其の木実を擎(ささ)げて、叫(おら)び哭きて、「常世国のときじくのかくの木実を持ちて参上りて侍り」と白して、遂に叫び哭きて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今の橘なり。(垂仁記)
 九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守(たぢまもり)に命(みことおほ)せて、常世国に遣して、非時(ときじく)の香菓(かくのみ)を求めしむ。香菓 此には箇倶能未(かくのみ)と云ふ。今、橘(たちばな)と謂ふは是なり。(垂仁紀九十年二月)
 明年(くるつとし)の春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国より至(かへりいた)れり。則ち齎(もてまゐでいた)る物は、非時の香菓、八竿八縵(やほこやかげ)なり。田道間守、是に泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰(まを)さく、「命(おほみこと)を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠くより絶域(はるかなるくに)に往(まか)る。万里浪(とほくなみ)を蹈(ほ)みて、遥(はるか)に弱水(よわのみづ)を度(わた)る。是の常世国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以て、往来(ゆきかよ)ふ間に、自(おの)づからに十年(ととせ)に経(な)りぬ。豈(あに)期(おも)ひきや、独(ひとり)峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(また)、本土(もとのくに)に向(まゐでこ)むといふことを。然るに、聖帝(ひじりのみかど)の神霊(みたまのふゆ)に頼(よ)りて、僅(わづか)に還(かへ)り来(まゐく)ること得たり。今、天皇既に崩(かむあが)りましぬ。復命(かへりごとまを)すこと得ず。臣(やつかれ)生(い)けりと雖も、亦、何の益(しるし)かあらむ」とまをす。乃ち天皇の陵に向(まゐ)りて、叫び哭きて自ら死(まか)れり。群臣(まへつきみ)聞きて皆涙を流す。田道間守は、是、三宅連(みやけのむらじ)の始祖(はじめのおや)なり。(垂仁後紀九十年明年)
(注14)伊藤2009.に、「父草壁、弟文武、母元明が時の元正天皇にとっての亡き人。」(278頁)とある。
(注15)岩波文庫本新大系万葉集に、「一首の意味は判然としない」(145頁)とある。山口2017.は、「〈AヲBミ〉型のミ語法の場合、ヲの後に疑問あるいは詠嘆のヤが入ることは考えにくいから」(68頁)、訓み方を「本つ人 ほととぎすをば めづらしび 今も汝が来る 恋ひつつをれば」としている。ミ語法については、青木2016.参照。
(注16)「ことば遊び」という術語は言語学のいまだ確立途上の概念によるが、上代の「ことば遊び」はさらにその辺縁、あるいは極限に位置づけられるもので、これまで検討されたことはない。ほとんど研究対象とされていないなか、滝浦2005.は、ヤーコブソンにならって「あらゆることば遊びが遊びとしての相互行為性を有する限り,「指示的機能」の背景化の度合いに応じて,……「交話的機能」の機能レベルは上昇する.ここに,ことば遊び全体に共通のコミュニケーション論的機能を見ることができる.」(408頁)としている。ここではその滝浦氏の行論にあえて従って考えることにする。
 上代語であるヤマトコトバは、無文字時代にやりとりされた音声言語である。峠を越えた隣村の人とやりとりするためには、この「交話的機能」が大前提となっていなければならない。そのときはじめて言葉は「指示的機能」を有しうる。反対から言えば、ヤマトコトバは「ことば遊び」でなければ存立しえなかったのである。“伝え合う”行為は、“ともに遊ぶ”行為を条件としていた。そのことは、「言(こと)向(む)け和(やは)す」という言い方に最もよく理解されるであろう。なぜ言うことによって敵対勢力は和してくるのか。交話可能になって言葉に“ともに遊べる”ことができれば、ヤマトコトバを共有するものどうしとしてヤマトコトバ人としてアイデンティティを得て特権的な意識が育まれるからである。ヤマトコトバの生成動態段階と言ってよく、ヤマトコトバ圏の版図の拡大段階に一致する。その「ことば遊び」のコードは、ヤマトコトバの民に共有されるべき基礎的な伝承、すなわち、記紀に記されて残っている共通の記憶体系としての諸説話群を「百科事典的知識」として基にしている。その「ことば遊び」のルールは、言葉が一音、一義であるとする約束事に従っていた。現代人のような圏外の人からは、説話は秘儀的にみえるがけっして神話ではなく、新たに加わることとなった周縁地域の人々にとっても速やかに了解されうるものであった。説話自体が「ことば遊び」、なかでも「ゲーム型」に当たる〈なぞなぞ〉の上に成り立っていたからである。〈なぞなぞ〉がヤマトコトバの本質であり、「交話的機能」と「指示的機能」を両立させて最大化することにかなっていた。そのような状況下にあっては、滝浦氏の想定する語用論的な逸脱も、情報性の低減、欠如ももたらさない。
 滝浦2002.は、グライスが「会話者が(特別な事情がないかぎり)遵守するものと期待される大まかな一般原理」とする「協調の原理 Cooperative Principle」のもとに具体的な「格率 maxims」が置かれているとしていることを引き、次のように指摘する。「ことば遊びにおける格率違反は,何はともあれ言葉の流れそのものを撹乱することによって行なわれる違反である。それによって大文脈は背景に退くか,少なくとも一旦は宙吊りにされ,その分だけ情報の伝達性は(意味的にというよりもむしろ,端的に物理的に)阻害されることになる。つまり,その限りにおいて,ことば遊びは,多かれ少なかれ“本当に伝えない”のであって,その点ではまさしく,「合理的」ではないコミュニケーションの一形態であると言わなければならない」(90~91頁。滝浦2000.は、「ただし、《なぞなぞ》のような「論理」遊びはここでは除外して考える。」(23頁)と断っている。)。上代人の言語活動における「ことば遊び」はその限りではない。強いて格率違反であると捉えるなら、滝浦2002.が指摘する「グライスの論じたような「含み」を生み出す“見かけ上の格率違反”」であり、話し手は「協調の原理」を遵守しており、聞き手は、「発話の意味」と「発話者の意味」とがヤマトコトバの体系のなかに一致していることを目の当たり、耳の当たりにして、驚きをもって迎え入れざるを得なかったのである。
 ベイトソンの文脈に則していうところの滝浦氏のいう「ことば遊び」が、「これは遊びだ」というフレーミング(framing)においてのものであるとしている点からして、上代のヤマトコトバの「ことば遊び」はすでに虚を突いている。ヤマトコトバは「ことば遊び」であることを当初から前提としており、「ことば遊び」でなければ言葉ではないのである。ヤマトコトバの「ことば遊び」は単なる to play language ではなく、to play language that is played であること、メタ「ことば遊び」がヤマトコトバなのであった。ふだん使いの言葉が「遊び」であることをモットーとしているので、発言を取り消す気などさらさらなく、発せられた言葉はそのまま残されることを期待している。「交話的機能」と「指示的機能」、“伝え合う”行為と“ともに遊ぶ”行為を同時に成し遂げることが目途とされていた。話し手は言葉の字義をたゆまず再定義していく過程のなかに言葉を発していて、そこに生まれた新たな意味の含みが旧来の意味との整合性をその瞬間に理路整然と証明して見せるほどに気合いの入った発言にこだわっており、聞き手もそのつもりで本気で聞いていたのであった。すべての言葉は〈なぞなぞ〉のなかでやりとりされている。言葉と事柄との間の相即性を保ち、けっして違わないようにしていた様相について、筆者は「言霊」信仰と呼んでいるが、ヤマトコトバの生成者、創出者として生きていた彼らにとっては、発言に際しては慎重を期し、逆に言葉を手玉に取ることを目指して入れ籠構造をした言葉が飛び交っている。挙句に、今日の人ばかりか中古の人にとっても理解できない枕詞といった“言葉”の発表大会が、歌の歌われる場面においてくり広げられていた。発言、発語、発話に際しては、「ことば遊び」によって生ずる小文脈を大文脈との間の誤謬を意味的に調整することこそ、頭のひねりどころであったわけである。メッセージとメタ・メッセージとを行きつ戻りつする「遊び」、〈なぞなぞ〉の活動こそ、上代人の行っていたヤマトコトバの言語活動(「ことば遊び」)である。無文字時代、音声言語ばかりが言語なのだから、発し発せられる言葉はメタ言語的であることが常に意識の上にあって、今日的感覚とは異なる緊張状態が継続していたのである。
 「ことば遊び」の性質としてあげられる、「“伝えつつ伝えない”ことと“伝えないことにおいて伝える”こととの間を往復する運動」である点は、本稿にとりあげている万葉集のホトトギス歌がよく“伝えて”くれている。なお、コミュニケーション論の立場から上代のヤマトコトバとは何かについて定位しておく必要が求められるが、稿を改めて論ずることにする。
(注17)中西1983.は、「卯の花が咲くのといっしょに鳴くので、ほととぎすは一層愛すべきであるよ。名告り出るように鳴くにつれて。」(168頁)と訳している。
(注18)クロンキスト体系、新エングラー体系などによる。
(注19)ショウブについて、漢語の菖蒲、石菖、白菖蒲などの総称で、平安時代からそれをシャウブ、サウブと呼ぶようになっている。和漢三才図会(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569772/6)参照。
(注20)「倭文、此には之頭於利(しつおり)と云ふ。」(天武紀十三年十二月)とある。
(注21)荊楚歳時記に、「五月五日、謂之浴蘭節。四民並蹋百草之戯、採艾以為人、懸門戸上、以禳毒気。以菖蒲或鏤、或屑以泛酒。」などとあるが、藝文類聚に菖蒲の件は載らない。
 続紀・天平十九年五月五日条に、「太上天皇[元正]、詔して曰はく、「昔者(むかし)、五日の節(せち)には、常に菖蒲(あやめ)を用(もち)て縵(かづら)と為(す)。比来(このころ)已に此の事を停めぬ。今より後、菖蒲の縵に非ずは、宮中(うち)に入ること勿れ」とのたまふ。」とあって、菖蒲(あやめぐさ)を蘰にすることが一時期廃れていたところを見ると、節句―蘰―アヤメグサ―ホトトギスという結びつきは弱く、アヤメグサ―漢女―機織り―「ホト」「トギ」スという結びつきが強かったようにも見受けられる。また、大伴家持作歌が全12首中9首を占めており、万1955・4035番歌は同じ歌であるから、家持以外に歌ったのは山前王と田辺史福麿ばかりということになっており、汎用されていたのか不明である。以下に示す菖蒲蘰の作り方も、復古的な擬作なのかもしれない。藤原師輔・九暦・五月節(天慶七年)条に、「一、造菖蒲蘰之體、用細菖蒲草六筋〈短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、〉以短四筋当巾子・前後各二筋、以長二筋廻巾子、充前後草結四所、前二所後二所、毎所用心葉縒組等、」(大日本古記録https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/0901/0061?m=all&s=0055&n=20、漢字の旧字体は改めた。)とある。
 また、いわゆる「薬玉」とされるものが、万葉集の「玉(珠)」とどのように関係しているのか、疑問なしとしない。
薬玉(伊勢貞丈・貞丈雑記、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020574/viewer/56をトリミング)
(注22)靑木1971.に、漢書・楊雄伝第五十七の、「徒恐鷤繯之将鳴兮、顧先百草為不芳。」とある箇所の顔師固注に、「鷤、鴂鳥、一名子規、一名杜鵑、常以立夏鳴、鳴則衆芳歇。」とあるのによるとある。(e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101356&content_part_id=001&content_pict_id=012&langId=ja&webView=参照。)
 橋本1985.はその説をあげつつ、「なお、植木久行氏によれば家持を中心とする日本におけるほととぎす熱愛、ないしは憧憬の念は、六朝以来の中国の詩文の影響下に生まれたものではなく、万葉人独自の美意識によるものであるとしている……。」(204頁)と注している。植木1979.参照。
 なお、この題詞に見られる「暮」をクレと訓むべきかについては不詳である。
(注23)万葉集のホトトギスに関連する歌の中でどこまでがホトトギスという語自体にまつわるもので、どこからがホトトギスを自然景として見切っていったものなのか、峻別することはできない。作者に聞いてみなければわからないからである。一応の傾向として取り上げたばかりである。以下の歌はその分類上、分類しきれないままに積み残した。後考を俟つ。
 狛山(こまやま)に 鳴く霍公鳥 泉河 渡(わたり)を遠み 此間(ここ)に通はず〈一は云はく、渡り遠みか 通はずあるらむ〉(万1058)
  小治田広瀬王の霍公鳥の歌一首
 霍公鳥 音(こゑ)聞く小野の 秋風に 萩咲きぬれや 声の(とも)乏しき(万1468)
 言(こと)繁み 君は来まさず 霍公鳥 汝(なれ)だに来鳴け 朝戸(あさと)開かむ(万1499)
 霍公鳥 鳴きし登時(すなはち) 君が家(いへ)に 徃(ゆ)けと追ひしは 至りけむかも(万1505)
 霍公鳥 今朝の旦明(あさけ)に 鳴きつるは 君聞きけむか 朝宿(あさい)か寐(ね)けむ(万1949)
 慨(うれた)きや 醜霍公鳥(しこほととぎす) 今こそは 音(こゑ)の嗄(か)るがに 来喧(な)き響めめ(万1951)
 雨〓(日偏に齊)之 雲に副(たぐ)ひて 霍公鳥 春日を指して 此(こ)ゆ鳴き渡る(万1959)
 過所(くわそ)なしに 関飛び越ゆる 霍公鳥〔保等登藝須〕 多我子尓毛 止まず通はむ(万3754)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 今鳴かずして 明日越えむ 山に鳴くとも 験あらめやも(万4052)
(注24)ホトトギスという語を語るに、パラセームのなかにその意味を語ろうとしていたのである。ソシュール2013.にある、「おのおのそれ自体のために取りあげられた個別的記号という誤り。─あるいは、五〇〇の記号+五〇〇の意義だと思う誤り。─あるいは、「語とその意義」などと堂々と言い放ち、その語が[多くの語ないしパラセーム[parasème、特定共時的な体系内に共存する各辞項]]に取り囲まれていることをすっかり忘れているのに、言語の現象というものをほんの些細なことで示したと思い込んでいるその誤り。」(169~170頁)をおかしていなかったということである。

(引用・参考文献)
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東1935. 東光治『萬葉動物考』人文書院、昭和10年。
ベイトソン2000. グレゴリー・ベイトソン著、佐藤良明訳『精神の生態学 改訂第二版』新思索社、2000年。(原著:Bateson, Gregory. 1999. Steps to an Ecology of Mind: Collected Essays in Anthropology, Psychiatry, Evolution, and Epistemology, Reprinted with new “Preface” by Mary Catherine Bateson, University of Chicago Press, Illinois. )
丸山2014. 丸山圭三郎『丸山圭三郎著作集 第Ⅰ巻』岩波書店、2014年。(『ソシュールの思想』(岩波書店、1981年)初出)
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ヤーコブソン1973. ロマーン・ヤーコブソン著、川本茂雄監修「言語学と詩学」『一般言語学』みすず書房、1973年。(原著:Jakobson, Roman. 1966. Linguistics and Poetics, In Selected Writings Ⅲ, Mouton, The Hague.)
山口2017. 山口佳紀「古代の歌における時鳥の鳴き声」『論集上代文学 第三八冊』笠間書院、2017年。
山口2019. 山口佳紀「古代の歌における「ほととぎす」とは何か」『論集上代文学 第三九冊』笠間書院、2019年。

(English Summary)
Manyoshu has many poems about “fötötögisu(霍公鳥)”, the lesser cuckoo. Until now, it has not been possible to get to the core of why “Hototogisu” were so popular and used with other particler words. In this paper, we will explore that the ancient Japanese interpreted the sound of the word “fötötögisu” arbitrarily. And we will be able to perceive that they heard the word "fötötögisu" as call and response, from "fötö" to "tögi", and as the meaning that almost time has passed, "fötöfötö(殆) töki(時) sugu(過)". So, we will understand that they made their wits meaning into poems.

万葉集のホトトギス歌について 其の一

2021年04月27日 | 古事記・日本書紀・万葉集
霍公鳥(ほととぎす)という鳥

 万葉集で、ホトトギスは156首に歌われている。初期に少なく後期になるにつれて増え、なかでも大伴家持は一人で65首も詠じている(注1)。ホトトギスには、訓字として「霍公鳥」という特殊な文字が使われている(注2)。また、ホトトギスが歌われた歌には、他の一定の言葉とともに用いられる傾向がある。
 上代文学、なかでも万葉集のなかで、ホトトギスがどのようにイメージされていたかについて、これまでも少なからず研究されてきた。その際、ホトトギスという名前の語源について問う試みが行われている。鳴き声が、ホトトギと鳴くと聞いたからホトトギスというのだというのである。最後のスはウグイス、カラス、キギスなどのスと同類とされている。この点について検証することはできない。語源探求はどこまで行っても仮説の域を出ない。そもそもホトトギスという鳥が何時代にカテゴライズされたかなどわかろうはずがない。文字がなかった時代、記録されることはなかった。ものの考え方として、万葉びとにホトトギスという語がどのように導かれた言葉なのかを考えるべきであろう。そして、記録されている万葉集の用字に、「霍公鳥」とある点についての考証が求められる。彼らの語感に近づくことができるからである。
 中国に「霍公鳥」と書いた例はなく、本邦上代に作られたようである。「霍」は「靃」に同じで、説文に、「靃 飛ぶ声也、雨ふりて雙(なら)びて飛ぶ者、其の声靃然たり」とある。雨のなか飛ぶ鳥の羽音であるという(注3)。羽音と関連がありそうな歌としては次の歌のみあげられ得るが、意識した作であるようには思われない。

  霍公鳥と藤の花とを詠める一首〈并せて短歌〉
 …… 真鏡(まそかがみ) 二上山に 木(こ)の暗(くれ)の 繁き谿辺(たにへ)を 呼び響め 朝飛び渡り 夕月夜(ゆふづくよ) かそけき野辺に 遥々(はろばろ)に 鳴く霍公鳥 立ち潜(く)くと 羽触(はぶれ)に散らす 藤浪の 花なつかしみ 引き攀(よ)ぢて 袖に扱入(こき)れつ 染(し)まば染むとも(万4192)
 霍公鳥 鳴く羽触(はふり)にも 散りにけり 盛り過ぐらし 藤波の花〈一は云はく、散りぬべみ 袖に扱入(こき)れつ 藤波の花〉(万4193)

 「霍霍」の一義に声のはやいことを表し、「霍乱」ははげしい吐瀉をともなう病である。鳴いて血を吐くほととぎす、といわれるほど口の中が赤く(注4)、その鳴き声は早く、二羽がならび掛け合って鳴いているのではないかとも思われていたと推測される。なぜなら、雨が降ってならんで進むとき、我々は相合い傘の下に共に入っているからである。そのときの彼と彼女のおしゃべりは、心が弾むことを表して即座の受け答えとなっている。今日の鳴き声の受け取り方では、「テッペン」→「カケタカ」、「トッキョ」→「キョカキョク」と即答し、転調しているように聞こえている。すなわち、上代には、「ホト」→「トギ」と聞いたということであろう。
「霍公鳥」概念図

「ホト」→「トギ」
 万葉集に、ホトトギスを「名告り鳴く」と表現しているものがある。

 暁(あかとき)に 名告(の)り鳴くなる 霍公鳥〔保登等藝須〕 いやめづらしく 思ほゆるかも(万4084)
 卯の花の ともにし鳴けば 霍公鳥〔保等登藝須〕 いやめづらしも 名告り鳴くなへ(万4091)

 これらの歌で、「めづらしく」と形容されている点と、万4091番歌の解釈については後述する。
 ホトトギスがホトトギ(ス)と鳴く鳴き声からそう歌っている(注5)というわけではなく、ホトトギスどうしが「ホト」「トギ」と互いに名告り合っていると聞きなしたから、歌に機知として歌われている。そうでなければ、例えばカラスにおいて、カァと鳴くからカラスと命名されたと臆せられ、カラスを以て「名告り鳴く」ことにもなってしまうが、そのような表現は行われていない。ホトトギスばかりに「名告り鳴く」と表現される理由はそこにある(注6)
 そしてまた、恋の歌にもよく用いられている。

  大伴坂上郎女の霍公鳥の歌一首
 何しかも ここだく恋ふる〔幾許戀流〕 霍公鳥 鳴く声聞けば 恋こそまされ(万1475)

 この歌は、新編全集本萬葉集に、「第二句の原文「幾許恋流」とあり、ソコバク恋フルなどと読み、ほととぎすが鳴くのを妻恋故かなどと解する可能性もなくはない。」(313頁)とある(注7)が、「ここだく恋ふる」が正解である。「ホト」「トギ」と鳴き交わす即応性に、ホトトギスを恋の象徴と見て取っているからである。ラブラブな間柄を示されると、自らの片思いがいっそうつらくなると歌っている。

 大夫(ますらを)の 出で立ち向ふ 故郷(ふるさと)の 神名備山(かむなびやま)に 明け来れば 柘(つみ)のさ枝に 夕されば 小松が末(うれ)に 里人の 聞き恋ふるまで 山彦の 相響(とよ)むまで 霍公鳥 妻恋すらし さ夜中に鳴く(万1937)

 この歌も、「山彦の相響むまで」とあるように、ホトトギスの声が「ホト」と言えば即座に「トギ」と返ってくることを言っている。雌雄関係なく、異性の相手をツマという。シカの場合、雄の求愛の大声と雌の警戒声は音量が違い、呼応しているものでもない。ヒトの場合、なかなかホトトギスの鳴き声のように恋はうまくいかず、人は「物思ふ」ようになる。

 旅にして 妻恋すらし 霍公鳥 神名備山に さ夜更(ふ)けて鳴く(万1938)
 吾が衣 君に服(き)せよと 霍公鳥 吾れを領(うなが)す 袖に来居つつ(万1961)
 筑波嶺(つくばね)に 吾が行けりせば 霍公鳥 山彦響め 鳴かましやそれ(万1497)
 木(こ)高くは かつて木植ゑじ 霍公鳥 来鳴き響めて 恋益さらしむ(万1946)
 雨隠(ごも)り 物思(も)ふ時に 霍公鳥〔保等登藝須〕 吾が住む里に 来鳴き響もす(万3782)
 心なき 鳥にそありける 霍公鳥〔保登等藝須〕 物思(も)ふ時に 鳴くべきものか(万3784)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 間(あひだ)しまし置け 汝(な)が鳴けば 吾(あ)が思(も)ふ心 いたも術(すべ)なし(万3785)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴きて過ぎにし 岡傍(をかび)から 秋風吹きぬ 縁(よし)もあらなくに(万3946)

 次の歌では、「ホト」「トギ」の掛け合いを、「恋ひ死なば」「恋ひも死ね」との掛け合いへと比喩を連動させている。

 恋ひ死なば 恋ひも死ねとや 霍公鳥〔保等登藝須〕 物思(も)ふ時に 来鳴き響むる(万3780)

 間髪を入れずに「ホト」「トギ」とぺちゃくちゃ喋れるのは、二人がとても仲睦まじいことを表していると考えられる。むろん、それがかなっている状況であれば、わざわざホトトギスを持ち出すことはない。そもそも歌というものは、少し離れたところにいる相手に伝えるために声を張って歌うものである。ラブラブな関係で互いの距離が0cmにある時に歌は歌われない。言い換えれば、距離が離れて恋心ばかりが募る時、ホトトギスを以て歌にその気持ちを託するという設定が枠組まれることになる。

 故郷(ふるさと)の 奈良思(ならし)の岳(をか)の 霍公鳥 言(こと)告げ遣りし いかに告げきや(万1506)

 この歌では霍公鳥に伝言に行かせているという想定であるが、その鳴き声のラブラブな関係を前提としていて、実のところ「いかに告げきや」も何もあったものではないところに諧謔の楽しみがある。

 霍公鳥〔保等登藝須〕 此処(ここ)に近くを 来鳴きてよ 過ぎなむ後に 験(しるし)あらめやも(万4438)

 この歌で霍公鳥が来て鳴いてからの「験」とは、恋愛が成就するという意味である。時機を逸してはならないことは言うまでもない。

  更に霍公鳥の哢(な)くことの晩(おそ)みを怨みたる歌三首
 霍公鳥 喧(な)き渡りぬと 告ぐれども 吾れ聞き継がず 花は過ぎつつ(万4194)
 吾が幾許(ここだ) 偲はく知らに 霍公鳥 何方(いづへ)の山を 鳴きか超ゆらむ(万4195)

 万4194番歌では、霍公鳥が鳴いてほうぼうを渡っていると聞くけれど、自分ばかりは聞かずに恋は訪れずに季節はめぐってしまいつつあると言っている。

夜に鳴く

 男女の仲睦まじい関係を鳴き声に聞いているのだから、その声は、必然的に夜聞くことが求められるようになる。人類は年中無休、24時間体制で発情しうる動物ではあるものの、仲良し行動をとる姿態は寝る体勢であり、仲良し行動をとれば疲れるからその後は睡眠をとるのが理にかなっている。以下に夜に鳴く例をいくつかあげる。

 我が屋戸(やど)に 月おし照れり 霍公鳥 心あれ今夜(こよひ) 来鳴き響もせ(万1480)
 掻き霧(き)らし 雨の降る夜を 霍公鳥 鳴きて行くなり あはれその鳥(万1756)
 月夜(つくよ)吉(よ)み 鳴く霍公鳥 見まく欲り 吾れ草取れり 見む人もがも(万1943)
 今夜の おぼつかなきに 霍公鳥 喧(な)くなる声の 音の遥(はる)けさ(万1952)
 霍公鳥〔保等登藝須〕 こよ鳴き渡れ 燈火(ともしび)を 月夜に擬(なぞ)へ その影も見む(万4054)
 居(を)り明かしも 今夜は飲まむ 霍公鳥〔保等登藝須〕 明けむ朝(あした)は 鳴き渡らむぞ〈二日は立夏の節(とき)に応(あた)る。故、明けむ旦(あした)喧かむと謂へり。〉(万4068)
 明日よりは 継ぎて聞こえむ 霍公鳥〔保登等藝須〕 一夜(ひとよ)の故(から)に 恋ひ渡るかも(万4069)
 霍公鳥 夜喧(な)きをしつつ 我が背子を 安宿(やすい)な寝しめ ゆめ情(こころ)あれ(万4179)
 さ夜深(ふ)けて 暁(あかとき)月に 影見えて 鳴く霍公鳥 聞けばなつかし(万4181)

「斯く恋ふ」とは鳴かない

 ホトトギスがホトトギと鳴くのであれば、それ以外の鳴き声は基本的に排除されると考えなければならない。岩松1990.に、カクコフ(斯恋)と聞きなして、万葉集中に「斯く恋ふ」 と続く例があるとしている(注8)

 暇(いとま)無み 来ざりし君に 霍公鳥 吾れ斯く恋ふと〔吾如此戀常〕 行きて告げこそ(万1498)

 そこから、恋情を歌うのにホトトギスが持ち出されているのは、カクコフ(斯恋)と鳴いていると受け取っていたからであるとの主張を展開している。ホトトギスとカッコウが同類のものとして分け隔てなく把握されていたのではないかとしている。けれども、霍公や郭公という字は、旧仮名遣いで表せばクワクコウとなる。カクコフと音が続かない。
 「霍公鳥」という字面が「郭公鳥」と似ているのは、ホトトギス科の鳥で形状が似ていることから、それに似せて表記を意識して拵えられたとも考えられなくはないが、逆に「霍公鳥」をもとにして「郭公鳥」と書くようになったのかもしれない。新撰字鏡に、「鴞 為驕反、平、鸋鵊、保止々支須(ほととぎす)」、「郭公鳥 保止々支須(ほととぎす)」、和名抄に、「𪇖𪈜鳥 唐韻に云はく、𪇖𪈜〈藍縷の二音、保度々岐須(ほととぎす)〉は今の郭䲲也といふ。」、名義抄に、「時鳥 ホトヽギス」。「郭公 ホトヽキス」とある(注9)。和名抄の説明は、奈良時代のホトトギスが平安時代に「郭䲲(公)」などと記されるようになったことを示す、または、源順がそう認識していたというものである。今日カッコウと呼んでいる鳥は、奈良時代にカホトリ(容鳥・㒵鳥・杲鳥)、ヨブコドリ(喚子鳥・喚児鳥・喚孤鳥・呼児鳥)、平安時代にハコドリ(箱鳥)などと呼ばれていたようである。本邦で「郭公」を音読みした例としては、室町時代の伊京集になってクヮッコウと見られる。日本国語大辞典第二版に、「「かっこう」を「郭公」と表記するようになるのは近代に入ってからのことである。」(792頁)とある。ホトトギスとカッコウは鳴き声が異なり、別して呼び名があることは自然なことである。総称、ないし、雌雄の別と捉えていたといった特段の事情がない限り、無理に紛らせる必要はない(注10)
 一つの鳥の鳴き声を、ああも聞き、こうも聞きと言い立てては切りがないのである。解釈においてというよりも、当時その言葉を利用していた上代人の感性に迫ることができないという意味である。ホトトギスの鳴き声がホトトギと言うのであれば、その一声によって全て定義されるのでなければ、音声言語であるヤマトコトバとして、互いに理解し合えなかったと考える。反証する材料は足りている。万葉集のホトトギス歌にカクコフはこの一例に過ぎないこと、また、万葉集のホトトギス歌にカク(斯)の例はいくつか見られることである。長歌で「カク(斯)」と「霍公鳥」とが離れたところにある例を除くと次の例があげられる。

 霍公鳥 念(おも)はずありき 木(こ)の暗(くれ)の 斯くなるまでに〔如此成左右尓〕 何か来鳴かぬ(万1487)
 あしひきの 木の間立ち潜(く)く 霍公鳥 斯く聞きそめて〔如此聞始而〕 後(のち)恋ひむか(万1495)
 斯くばかり〔如是許〕 雨の降らくに 霍公鳥 卯の花山に なほか鳴くらむ(万1963)
 行方(ゆくへ)なく あり渡るとも 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴きし渡らば 斯くや偲(しの)はむ〔可久夜思努波牟〕(万4090)
  橘の歌一首〈併せて短歌〉
 かけまくも あやに畏(かしこ)し 皇神祖(すめろき)の 神の大御代(おほみよ)に 田道間守(たぢまもり) 常世(とこよ)に渡り 八桙(やほこ)持ち 参ゐ出(で)来(こ)し時 時じくの 香(かく)の木(こ)の実を 畏くも 遺(のこ)したまへれ 国も狭(せ)に 生(お)ひ立ち栄え 春されば 孫枝(ひこえ)萌(も)いつつ 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く五月(さつき)には 初花を 枝に手(た)折りて 娘子(をとめ)らに つとにも遣(や)りみ 白栲(しろたへ)の 袖にも扱入(こき)れ かぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉に貫きつつ 手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば 時雨(しぐれ)の雨降り あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅(くれなゐ)に にほひ散れども 橘の 成れるその実は 直(ひた)照りに いや見が欲しく み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐(ときは)なす いや栄映(さかは)えに 然れこそ 神の御代より 宜(よろ)しなへ この橘を 時じくの 香の木の実と 名付けけらしも(万4111)

 万4111番歌に、なぜ「霍公鳥」とカク(斯)とがともに詠み込まれていたか、その理由が明らかとなっている。万葉集中にホトトギスが橘とともに使われている例は後述するようにとても多い。橘が「時じくの香(かく)の木の実」と呼ばれていたことから、カク(斯)という言葉が取り沙汰されているのである。詳しくは後述する。万葉びとが通念として抱いていたのは、中国の伝説ではなく日本の説話であったと知れる。
 このような理解を敷衍させてわかるのは、万葉集に歌われる際、ホトトギスという言葉を使うに当たり、そのホトトギスという音が極めて重要なものであるということである。歌は口頭の文芸である。同様に、無文字時代の言語は口頭によるものでしかなかった。言葉の基本が音声言語なのである。ということは、ホトトギスという言葉が鳴き声によるとするならば、ホトトギと鳴いたとしか聞いていないということである。逆に言えば、ホトトギスという鳥がホトトギス(ホ・トは乙類、ギは甲類)と言うのであれば、上代の人はホトトギスの音をもとにしてすべてを了解し尽くさんとしていたということである。文字を持たなかった時代のヤマトコトバのあり方として当を得た捉え方であろう。
 すると、その語構成から、意味を読み解くことも行われていたと考えられる。それは正しい語源を繙くというものではなく、当時の人に受けとられた解釈のことである。皆がおもしろがって受け容れて共有する理解をかばかりなら、現代の若者言葉が大流行して広まることに似る。

ホト(殆・幾)+トキ(時)+スグ(過)→古(いにしへ)

 後の時代にホトトギスを「時鳥」と書いたように、ラブラブな時になるか、「物思ふ」時になるかに関わるとして、「何時(いつ)」と絡めて歌われることがある。

 神名火(かむなび)の 磐瀬(いはせ)の社(もり)の 霍公鳥 毛無(けなし)の岳に 何時(いつ)か来鳴かむ(万1466)
 朝霞 たなびく野辺(のへ)に あしひきの 山霍公鳥 何時(いつ)か来鳴かむ(万1940)

 万葉びとには、ホトトギスという言葉のなかにトキ(時)という語を読み取っていた。そして、彼らがホトトギスの語構成と考えた形は、ホト(ホトホト(殆・幾)の語幹、ホ・トは乙類)+トキ(時、トは乙類、キは甲類)+スグ(過)の約であったと考えられる(注11)。ホトホトは白川1995.に、「「ほとんど」の古い形。あることがらが実現しようとする寸前の状態にあること。まだ一歩だけ完全な状態に達していないことをいう。そのような状態にあることを、推測していうこともある。」(680頁)とある。

  鳥に寄せたる
 春されば 蜾蠃(すがる)なす野の 霍公鳥 ほとほと妹に 逢はず来にけり(万1979)

 この歌は、単にホトトギスの音をもってホトホトへと続く序詞にしているばかりであるが、万葉びとの関心は、言葉の音に注がれていると知ることができる。
 トギスは、トキスグの転訛(tökisugu → tökisug → tögisu)であろう。結果、ホトトギスという鳥の名は、ほとんど時は過ぎるという意味になる。その洒落の意味において、ホトトギスという言葉は興味深く迎え入れられたようである。アプリオリにホトトギスという言葉があり、それを万葉時代に独自の解釈を行って面白がって使い、意味の派生、展開を楽しんでいたということである。

 信濃(しなの)なる 須我(すが)の荒野(あらの)に 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く声聞けば 時過ぎにけり(万3352)

 この歌は、素戔嗚尊が清々(すがすが)しいと言った須賀(すが)の宮に準えた歌である。出雲ではなく信濃にあり、八重垣をめぐらせる宮があるようなところではなくて荒れた野である。これはいったいどういうことか。それをホトトギスが鳴いて教えてくれた。ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎる、と鳴いていて、なるほど時間は経過していて空間的にも離れたところにたどり着いたと気づかされた、と歌っている(注12)
 ホトトギスは、ほとんど時は過ぎるということだから、古いことを示す語とともに用いられている。早い例が「古(いにしへ)」である。

 古(いにしへ)に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 我が念(おも)へるごと(万112)

 この歌については、中国の蜀魂伝説と結びつける解釈が、はやく北村季吟・万葉拾穂抄(秋田県立図書館デジタルアーカイブズhttp://da.apl.pref.akita.jp/lib/item/00010001/ref-C-438484(10/59))から行われてきた。それに対し、山口2017.は鳴き声説をとる。筆者は、ほとんど時が過ぎる、という語構成解釈由来説をとっている。

  霍公鳥の喧くを聞きて作れる歌一首
 古(いにしへ)よ 偲(しの)ひにければ 霍公鳥〔保等登伎須〕 鳴く声聞きて 恋しきものを(万4119)
  霍公鳥と時の花とを詠める歌一首〈并せて短歌〉
 時ごとに いやめづらしく 八千種(やちぐさ)に 草木花咲き 喧く鳥の 音(こゑ)も更(か)はらふ 耳に聞き 眼に視(み)るごとに うち嘆き 萎(しな)えうらぶれ 偲ひつつ 争ふはしに 木(こ)の晩(くれ)の 四月(うづき)し立てば 夜(よ)隠(ごも)りに 鳴く霍公鳥 古昔(いにしへ)ゆ 語り継ぎつる 鶯の 現(うつ)し真子(まこ)かも 菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 娘子(をとめ)らが 珠貫くまでに あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八丘(やつを)飛び超え ぬばたまの 夜はすがらに 暁の 月に向ひて 行き還り 喧き響むれど いかに飽き足らむ(万4166)

 記紀万葉時代のホトトギスにまつわる「古(昔)(いにしへ)」話として代表的なものは、すでに触れた田道間守(多遅摩毛理)の話である。古ぼけた話という意味ではなく、去(い)にし方(へ)の意味を含んだ話である。常世国に橘の実を求め帰還してみると、時間は経過していて捧げるべき垂仁天皇はすでに亡くなっていた。ほとんど時は過ぎる状態が生じていた。完全に過ぎ去ったわけではないのは、田道間守自身が生きて帰っていて、用命は果たしていたはずであり、忘れられずに伝わっている話だからである。結局、田道間守自身は後追い自殺をしている(注13)。不老不死の実を手に入れても、悲しみに暮れて死んでしまうほどに人の命ははかないものであるということが、しみじみと感じられたことであろう。結局のところ、不老不死の実など、人間の性ゆえに手に入れることはできないのである。

 大和には 鳴きてか来(く)らむ 霍公鳥 汝(な)が鳴く毎(ごと)に 亡き人念ほゆ(万1956)

 この歌は、ナキ(鳴)とナキ(亡)との掛詞に過ぎないかもしれないが、垂仁天皇の御陵は奈良市佐紀にあって「大和」のことである。田道間守もその御陵で叫び哭いて自死している。

「本つ人」「語り継ぐ」「本霍公鳥」「本な」

 ホトトギスが渡り鳥として晩春から初夏に本邦に飛来し、鳴き始める季節に合わせたかのように橘の花は咲いている。だから、歌に歌い合せて不都合なことはなかった。橘などの植物とあわせる歌は後に記すが、その前に、田道間守のことを「本つ人」と詠んでいる歌を掲げる。

  先の太上天皇の御製(つくりま)せる霍公鳥の歌一首〈日本根子高瑞日清足姫天皇(やまとねこたかみづひきよたらしひめのすめらみこと)そ〉
 霍公鳥〔富等登藝須〕 なほも鳴かなむ 本(もと)つ人 かけつつもとな 吾(あ)を音(ね)し泣くも(万4437)

 万4437番歌は元正天皇の歌である(注14)。「本つ人」は古なじみの人、旧知の人のことであり、そもそもの話の初めの人、張本人の意味である。霍公鳥がほとんど時が過ぎることを意味するのと絡めて、常世、橘などと一緒に歌われるようになっている。その由縁を生んだ人が「本つ人」であり、しかも古くから語り継がれて来ている人なので、田道間守のことだとわかる。
 次の万1962番歌は訓みの問題も含んでいて、解釈が難しい歌であるとされている(注15)

 本つ人 霍公鳥をや めづらしみ 今か汝が来る 恋ひつつ居れば〔本人霍公鳥乎八希将見今哉汝来戀乍居者〕(万1962)

 倒置形を戻してみると次のようになる。

 本つ人、霍公鳥をめづらしみや、恋ひつつ居れば、汝が来る[ハ]今か

 「田道間守はホトトギスがたぐいまれにかわいいと思うからか、同じように恋い慕いながらいとおしんでいると、あなたは今にも来そうだ」の意ととっておく。田道間守の説話の中でホトトギスが登場したわけではない。何かのご縁があって結ばれていると田道間守は感じているという設定である。「めづらし」と言っているのは、不老不死のとても珍しい橘の実を求めて常世国へ探しに行っていたからである。たぐいまれであることから、目に入れても痛くないほどかわいいという気持ちが芽生える。幼ない子をかわいいと思う次元には二段階ある。一般的な意味と、自分の子や孫であるからかわいいという意味がある。よその家の幼子はかわいいとは思っても目に入れても痛くないとは思わない。心にたぐいまれに恋しいと思っていると、あなたが来るのはもうすぐ、今のことかと思われてくる、という意味である。
 次にあげる一番目の歌で「万代に語り継ぐ」と言っているのは、田道間守の話が語り継がれてきていることを承けている。二番目の歌も「語り継ぐ」と言っているが、もはや形骸化、ないしは、換骨奪胎している。

  霍公鳥を思(しの)へる歌一首 田口朝臣馬長の作
 霍公鳥〔保登等藝須〕 今し来鳴かば 万代(よろづよ)に 語り継ぐべく 念ほゆるかも(万3914)
  右は、伝へて云はく、一時(あるとき)に交遊集宴せり。此の日此処(ここ)に霍公鳥喧かず。仍りて件の歌を作りて、思慕の意(こころ)を陳(の)ぶといへり。但、其の宴の所と年月とは、未だ詳審(つまひらか)にすること得ず。
 霍公鳥〔保等登藝須〕 まづ鳴く朝明 いかにせば 我が門過ぎじ 語り継ぐまで(万4463)

 「本つ人」から「本霍公鳥」、「本な」という言い方も生まれている。

 あをによし 奈良の都は 古(ふ)りぬれど 本(もと)霍公鳥〔毛等保登等藝須〕 鳴かずあらなくに(万3919)
 旅にして 物思(も)ふ時に 霍公鳥〔保等登藝須〕 本(もと)な勿(な)鳴きそ 吾が恋まさる(万3781)

 「本な」は基づくところなく、の意である。ホトトギスと関係する事項、名告ることや、橘(時じくの香の木の実)、ほとんど時は過ぎることなどと無縁に、何のわけもなく、いたずらに鳴いてくれるな、というのである。もちろん、レトリックである。「本つ人」を思わせるように仕組んでいて、「旅にして物思ふ」とは「恋」する相手と離れている。「ホト」「トギ」と鳴き交わすことができない状態なのに、ホトトギスに鳴かれたら矛盾するだろう、と歌っている。

「片恋」「物思ふ」

 このように、そのラブラブ関係と対照的な片思い、旅の途上などの遠距離恋愛を歌うために霍公鳥が持ち出されることは多い。次の第一例は、たまに逢える喜びを歌っている。

 逢ひ難き 君に逢へる夜 霍公鳥 他時(あたしとき)ゆは 今こそ鳴かめ(万1947)
 霍公鳥 無かる国にも 行きてしか 其の鳴く声を 聞けば苦しも(万1467)
  沙弥(さみ)の霍公鳥の歌一首
 あしひきの 山霍公鳥 汝が鳴けば 家なる妹し 常に思(しの)はゆ(万1469)
 橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しそ多き(万1473)

 最後の万1473番歌は後述の万1472番歌に対しての、「大宰府大伴卿の和(こた)ふる歌一首」である。妻、大伴郎女を亡くした時の歌で、「片恋」は追慕の情を歌っているものと考えられる。田道間守の逸話に、田道間守が垂仁天皇に先立たれていて慟哭していたことに準えているものと考えられる。

 独り居て 物念ふ夕(よひ)に 霍公鳥 此ゆ鳴き渡る 心しあるらし(万1476)
 霍公鳥 いたくな鳴きそ 独り居て 寐(い)の宿(ね)らえぬに 聞けば苦しも(万1484)
 物念(おも)ふと 宿(い)ねぬ旦開(あさけ)に 霍公鳥 鳴きてさ渡る 術(すべ)なきまでに(万1960)
 霍公鳥 来鳴く五月の 短夜(みじかよ)も 独りし宿(ね)れば 明かしかねつも(万1981)
 旅にして 妹に恋ふれば 霍公鳥〔保登等伎須〕 吾が住む里に こよ鳴き渡る(万3783)
 我が背子が 国へましなば 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴かむ五月は 寂(さぶ)しけむかも(万3996)
 めづらしき 君が来まさば 鳴けと言ひし 山霍公鳥〔夜麻保登等藝須〕 何か来鳴かぬ(万4050)
 毎年(としのは)に 来鳴くものゆゑ 霍公鳥 聞けば偲(しの)はく 逢はぬ日を多み(万4168)
  四月三日に、越前判官(こしのみちのくちのじょう)大伴宿禰池主に贈れる霍公鳥の歌、旧(ふる)きを感(め)づる意(こころ)に勝(あ)へずして懐(おもひ)を述べたる一首〈并せて短歌〉
 我が背子と 手(て)携(たづさ)はりて 明け来れば 出で立ち向ひ 夕去れば 振り放け見つつ 念ひ暢(の)べ 見なぎし山に 八つ峯(を)には 霞たなびき 谿辺(たにへ)には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥 いやしき喧きぬ 独りのみ 聞けば寂(さぶ)しも 君と吾 隔(へな)りて恋ふる 砺波山(となみやま) 飛び超え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕去らば 月に向ひて 菖蒲(あやめぐさ) 玉貫くまでに 鳴き響め 安寐(やすい)宿(ね)しめず 君を悩ませ(万4177)
 吾のみし 聞けば寂しも 霍公鳥 丹生(にふ)の山辺に い行き鳴かにも(万4178)
  廿二日に、判官(じょう)久米朝臣広縄に贈れる、霍公鳥の怨恨(うらみ)の歌一首〈并せて短歌〉
 此間(ここ)にして 背向(そがひ)に見ゆる 我が背子が 垣内(かきつ)の谿(たに)に 明けされば 榛(はり)のさ枝に 夕されば 藤の繁みに 遥々(はろはろ)に 鳴く霍公鳥 吾が屋戸の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは怨みず しかれども 谷片付きて 家居(いへゐ)せる 君が聞きつつ 告げなくも憂し(万4207)
 吾が幾許(ここだ) 待てど来鳴かぬ 霍公鳥 独り聞きつつ 告げぬ君かも(万4208)

 次の二つの歌は、逢ってはいるけれど気持ちが通じずに話がはずまない風情や、逢って何を話したらいいかわからない気持ちを霍公鳥に託して歌っている。前者は、もう二人の関係は終わりを迎えるということ、後者は、先のことはわからないということであろう。

  霍公鳥の喧かざるを恨む歌一首
 家に行きて 何を語らむ あしひきの 山霍公鳥 一音(ひとこゑ)も鳴け(万4203)

「橘」「玉」

 「時じくの香の木の実」である「橘」、また、「玉」を詠み込んだ歌は多い。

 …… 朝さらず 行きけむ人の 念ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥 鳴く五月には 菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 玉に貫き[一云、貫き交へ] 蘰(かづら)にせむと ……(万423)
 霍公鳥 いたくな鳴きそ 汝が音(こゑ)を 五月の玉に あへ貫くまでに(万1465)
 我が屋戸前(やど)の 花橘に 霍公鳥 今こそ鳴かめ 友に逢へる時(万1481)
 吾が背子が 屋戸の橘 花をよみ 鳴く霍公鳥 見にそ吾が来し(万1483)
  大伴家持の霍公鳥の晩(おそ)く喧(な)くを恨みたる歌二首
 吾が屋前(やど)の 花橘を 霍公鳥 来喧かず地(つち)に 散らしてむとか(万1486)
  大伴家持の霍公鳥の歌一首
 霍公鳥 待てど来喧かず 菖蒲草(あやめぐさ) 玉に貫く日を 未だ遠みか(万1490)
 吾が屋前の 花橘を 霍公鳥 来鳴き動(とよ)めて 本(もと)に散らしつ(万1493)
 いかといかと ある吾が屋前(やど)に 百枝さし 生ふる橘 玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝に日(け)に 出で見るごとに 息の緒に 吾が念ふ妹に まそ鏡 清き月夜(つくよ)に ただ一目 見するまでには 散りこすな ゆめと云ひつつ 幾許(ここだく)も 吾が守(も)るものを 慨(うれた)きや 醜霍公鳥〔志許霍公鳥〕(しこほととぎす) 暁(あかとき)の うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて 徒(いたづ)らに 地(つち)に散らせば すべを無み 攀(よ)ぢて手折(たお)りつ 見ませ吾妹児(わぎもこ)(万1507)
 妹が見て 後も鳴かなむ 霍公鳥 花橘を 地に散らしつ(万1509)
  霍公鳥を詠める一首〈併せて短歌〉
 鶯の 生卵(かひこ)の中に 霍公鳥 独り生れて 己(な)が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺(のへ)ゆ 飛びかけり 来鳴き響もし 橘の 花を居散らし 終日(ひねもす)に 喧けど聞きよし 幣(まひ)はせむ 遠くな行きそ 吾が屋戸の 花橘に 住み渡れ鳥(万1755)
 霍公鳥 花橘の 枝(えだ)に居て 鳴き響むれば 花は散りつつ(万1950)
 霍公鳥 来居も鳴かぬか 吾が屋戸の 花橘の 地に散らむ見む(万1954)
 橘の 林を植ゑむ 霍公鳥 常に冬まで 住み渡るがね(万1958)
 霍公鳥 来鳴き響もす 橘の 花散る庭を 見む人や誰(万1968)
 橘の 花散る里に 通ひなば 山霍公鳥 響もさむかも(万1978)
 五月山(さつきやま) 花橘に 霍公鳥 隠(こも)らふ時に 逢へる君かも(万1980)
  霍公鳥を詠める歌二首
 橘は常花(とこはな)にもが 霍公鳥〔保登等藝須〕 住むと来鳴かば 聞かぬ日無けむ(万3909)
 珠に貫く 楝(あふち)を家に 植ゑたらば 山霍公鳥〔夜麻霍公鳥〕 離(か)れず来(こ)むかも(万3910)
  橙橘初めて咲き、霍公鳥飜(かけ)り嚶(な)く。此の時に対ひて、詎(なに)そ志を暢(の)べざらむ。因りて三首の短歌を作りて、欝結の緒(こころ)を散らさまくのみ
 あしひきの 山辺に居れば 霍公鳥〔保登等藝須〕 木(こ)の際(ま)立ち潜(く)き 鳴かぬ日はなし(万3911)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 何の心そ 橘の 玉貫く月し 来鳴き響むる(万3912)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 楝の枝に行きて居(ゐ)ば 花は散らむな 珠と見るまで(万3913)
 橘の にほへる香かも 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く夜の雨に 移ろひぬらむ(万3916)
 吾(あれ)なしと な侘(わ)び我(わ)が背子 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴かむ五月は 玉を貫かさね(万3997)
 …… 霍公鳥〔保等登藝須〕 声にあへ貫く 玉にもが 手に纏(ま)き持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かば惜し(万4006)
 我が背子は 玉にもがもな 霍公鳥〔保登等伎須〕 声にあへ貫き 手に纏きて行(ゆ)かむ(万4007)
  独り幄(とばり)の裏(うち)に居て、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて作れる歌一首〈并せて短歌〉
 高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 皇神祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥(ももとり)の 来居て鳴く声 春されば 聞きの愛(かな)しも いづれをか 別(わ)きて偲はむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥〔保等登藝須〕 菖蒲(あやめぐさ)〔安夜女具佐〕 珠貫くまでに 昼暮らし 夜(よ)渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし(万4089)
 霍公鳥〔保登等藝須〕 いとねたけくは 橘の 花散る時に 来鳴き響むる(万4092)
 …… はしきよし 妻の命の 衣手(ころもで)の 別れし時よ ぬばたまの 夜床(よどこ)片(かた)さり 朝寝髪 掻きも梳(けづ)らず 出でて来し 月日数(よ)みつつ 嘆くらむ 心慰(なぐさ)に 霍公鳥〔保登等藝須〕 来鳴く五月の 菖蒲(あやめぐさ)〔安夜女具佐〕 花橘に 貫き交(まじ)へ 蘰(かづら)にせよと 包みて遣らむ(万4101)
 霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の 香ぐはしき 親の御言(みこと) 朝暮(あさよひ)に 聞かぬ日まねく 天離(あまざか)る 夷(ひな)にし居(を)れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を 外(よそ)のみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 念ふそら 苦しきものを 奈呉(なご)の海人(あま)の 潜(かづ)き取ると云(ふ) 真珠(しらたま)の 見が欲し御面(みおもわ) 直(ただ)向ひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄えいまさね 尊き我が君〈御面は之れを美於毛和(みおもわ)と謂ふ〉(万4169)
 霍公鳥 来喧き響まば 草取らむ 花橘を 屋戸には植ゑずて(万4172)
  霍公鳥を感(め)づる情(こころ)に飽かずして、懐(おもひ)を述べて作れる歌一首〈并せて短歌〉
 春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を 聞けばなつかし 菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 貫き交(まじ)へ 蘰(かづら)くまでに 里響め 鳴き渡れども 尚(なほ)し偲はゆ(万4180)
 …… そこゆゑに 情(こころ)慰(なぐさ)に 霍公鳥 喧く始音(はつごゑ)を 橘の 珠に合(あ)へ貫き 蘰きて 遊ばむ間(はし)も ……(万4189)

 橘と明示されない「玉・珠」も、橘と絡めて考えられている。むしろ、タチバナの実は季節的に時季外れになっているから、縁語としてばかり機能しているとも思われる。

 霍公鳥 汝が始音(はつこゑ)は 吾れにもが 五月の珠に 交へて貫かむ(万1939)



 ホトトギスがどこで鳴くのかについては、屋戸(やど)や園(その)などのほか、蔭になっているところの例も見られる。万葉びとの「ことば遊び」(注16)からすれば、ホトトギスという言葉に、ホト(蔭、ホ・トは乙類)の意味を汲み取ったものと考えられる。物の蔭、山の蔭のところだと洒落を言っている。ホトが陰部を表し、それを玉門などとしていたことを思えば、橘の実、玉のことと通じていることになってなるほどと思える次第になっている。

 陰 今案ふるに、玉茎・玉門等の通称也とかむがふ。蔭也。其の陰翳在りし所を言ふ也。(和名抄)
 御陵(みはか)は、畝傍山の美富登(みほと)にあり。(安寧記)
 霍公鳥〔保等登藝須〕 懸けつつ君が 松蔭に 紐解き放(さ)くる 月近づきぬ(万4464)
 この歌で「紐解き放くる」と言っているのは、ホトトギスの音を、ほとんど時が過ぎたという解釈にさらに上塗りし、ホト(殆)にはホト(蔭)を、トキ(時)にはトキ(解、トは乙類、キは甲類)を重ね合わせ、愛し合っている喩えを「ことば遊び」に表現して楽しんでいる。
 もののふの 石瀬(いはせ)の社(もり)の 霍公鳥 今も鳴かぬか 山の常陰(とかげ)に(万1470)
 二上の 山に隠(こも)れる 霍公鳥〔保等登藝須〕 今も鳴かぬか 君に聞かせむ(万4067)
  霍公鳥を詠める歌一首
 二上の 峰の上の茂に 隠りにし その霍公鳥 待てど来鳴かず(万4239)

 これらの歌は、「山のみほと」に鳴くことを歌っている。なかでも最適な場所は、二つの山が連なり合った間の窪みのところであろう。

「卯の花」

 霍公鳥と卯の花との取り合わせは、万葉集中に16例ある。卯の花18首のうちの大多数が霍公鳥とともに歌われている。卯の花は植物学上、ウツギのことで、初夏から梅雨時にかけて咲き、霍公鳥の鳴く時期と合わさるというのであるが、ついて回るように用いられているのには、語学的からくりがあったとしか考えられない。言葉の上で共通点があるために好んで共に使われた。ホトトギスが「ホト」「トギ」と即答で掛け合うのは、互いに肯定し合っているからである。 yes yes のくり返しが行われている。ヤマトコトバに、 yes は「諾(う)」である。したがって、卯の花が登場している。季節的にも概ねマッチしている。そういう事情から歌われている 。すでにとり上げた例は除いて以下に示す。

 霍公鳥 来鳴き響もす 卯の花の 共にや来(こ)しと 問はましものを(万1472)

 この歌には、霍公鳥と関係があるのか不明瞭な左注がついている。「右は、神亀五年戊辰に大宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝す。時に勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣して、喪を弔ひ并せて物を賜へり。其の事既に畢りて駅使と府の諸の卿大夫等と、共に記夷(き)の城(き)に登りて望遊せし日に、乃ち此の歌を作れり。」とある。「城」は奥つ城を思わせ、墓所へ行ったという意にとれる。大伴郎女の実際の墓所である必要はない。そこで「駅使」と「府諸卿大夫等」とが、「共」にキ(記夷)のキ(城)(キはともに乙類)に登っていることになっている。そこがミソなのであろう。相和していることをカテゴリーミステイク的に歌に詠んでいる。すなわち、ホトトギスが yes yes 的に鳴くから卯の花が持ち出されている。次の万1474番歌は大伴郎女の歌であるが、そこにある「大城」はキノキと呼ばれていたということのようである。キノキだから「大城」と呼べるのである。きちんと追憶のために「共登記夷城」をしているとわかる。

 今もかも 大城(おほき)の山に 霍公鳥 鳴き響むらむ 吾れ無けれども(万1474)

 以前にあげた次の歌の解釈も自ずと正される(注17)

 卯の花の ともにし鳴けば 霍公鳥〔保等登藝須〕 いやめづらしも 名告り鳴くなへ(万4091)

 一句目の「卯の花」とある箇所は、卯の花がたくさん咲いていることを「鳴く」ことに準えてみていて、yes yes と言っていると捉えている。だから、卯の花と霍公鳥がともに鳴いているというのである。


  大伴家持の霍公鳥の歌一首
 卯の花も 未だ咲かねば 霍公鳥 佐保の山辺(やまへ)に 来鳴き響もす(万1477)
 皆人の 待ちし卯の花 散りぬとも 鳴く霍公鳥 吾れ忘れめや(万1482)
  大伴家持の、雨の日に霍公鳥の喧くを聞ける歌一首
 卯の花の 過ぎば惜しみか 霍公鳥 雨間(あまま)も置かず 此間(こ)ゆ鳴き渡る(万1491)
 霍公鳥 鳴く峯(を)の上(うへ)の 卯の花の 憂(う)きことあれや 君が来まさぬ(万1501)
 霍公鳥 鳴く音(こゑ)聞くや 卯の花の 咲き散る岳(をか)に 田葛(くず)引く娘女(をとめ)(万1942)

 この歌は、桜井2000.に「美しい歌」とされ、「農事とかかわることを暗示している歌のようだ。」(105頁)とあるが、見当違いであろう。これまでにもしばしば出てきたように、蘰(かづら)とのかかわりとして、つる性植物のクズが出てきている。またクズは、その這え延びる性質から、「…… 延(は)ふ葛の いや遠永く 万世(よろづよ)に 絶えじと念ひて ……」(万423)と歌われている。ホトトギスがほとんど時が過ぎるの意で考えられている限りにおいて、時間が長く経過したことを表現する比喩に植物のクズが用いられているばかりである。

 朝霧の 八重山越えて 霍公鳥 卯の花辺から 鳴きて越え来ぬ(万1945)
 五月山 卯の花月夜(つくよ) 霍公鳥 聞けども飽かず また鳴かぬかも(万1953)
 卯の花の 散らまく惜しみ 霍公鳥 野に出(で)山に入り 来鳴き響もす(万1957)

 この歌に、「野に出山に入り」と歌われているのは、中西1983.に、「落着きもなく」の意とするが、ホトトギスの鳴き声が「ホト」「トギ」の掛け合いであることの表現として言い換えている。

  問答
 卯の花の 咲き散る岳ゆ 霍公鳥 鳴きてさ渡る 君は聞きつや(万1976)
 聞きつやと 君が問はせる 霍公鳥 しののに濡れて 此(こ)ゆ鳴き渡る(万1977)

 これらの歌は、「問答」と題されている。あまり意味のない「問答」であるように思われているが、ホトトギスが「ホト」「トギ」という鳴き声のうちに問答をしているのだから、「問答」の歌なのである。論理階梯を行き来する敏腕さに着いていかなければ、無文字時代の音声言語が激烈に進化していたヤマトコトバの実勢を理解することはできない。

 …… 近くあらば 帰りにだにも 打ち行きて 妹が手枕(たまくら) 指し交へて 寝ても来(こ)ましを 玉桙(たまほこ)の 路はし遠(どほ)く 関さへに 隔(へな)りてあれこそ よしゑやし 縁(よし)はあらむそ 霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を 外(よそ)のみも 振り放け見つつ ……(万3978)
 藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携(たづさ)はり 出で立ち見れば ……(万3993)
 …… 嘆かくを 止(とど)めもかねて 見渡たせば 卯の花山の 霍公鳥〔保等登藝須〕 哭(ね)のみし泣かゆ ……(万4008)
 卯の花の 咲く月立ちぬ 霍公鳥〔保等登藝須〕 来鳴き響めよ 含(ふふ)みたりとも(万4066)

「菖蒲(あやめぐさ)」

 植物では菖蒲(あやめぐさ)も、卯の花同様に霍公鳥とともに用いられている。万葉集中に12例ある菖蒲(あやめぐさ)(〔 〕で付記したもの以外、原文で「菖蒲」とある)のうち、11例が霍公鳥とともに用いられている。次は唯一、霍公鳥とともに歌われていない歌であるが、霍公鳥が出てくる万4101番歌の反歌である。

 白玉を 包みて遣らば 菖蒲(あやめぐさ)〔安夜女具佐〕 花橘に 合へも貫くがね」(万4102)

 アヤメグサの語の由来は、メが甲類だから文目(あやめ、メは乙類)ではなく、漢女(あやめ、メは甲類)に負っている。岩波古語辞典に、「漢女(あやめ)の姿がたおやかさに似る花の意。」(63頁)とある。しかし、一般に、アヤメグサはサトイモ目の渋い花をつける植物であると同定されている(注18)。筆者は、アヤメグサと断っているのだから、草の部分を生活に利用したことを表していると考える。芳香が高いことから、節句に邪気を払うために用いられた。一方、ハナアヤメと呼ばれるものがある。花を見てそう名づけている。もともとの自生種は、今日、ノハナショウブと称されている。
 問題は、なぜ漢女(あやめ)の意味を植物の名前に当てたかである。漢女は渡来人の女性で、機織りが巧みな人のことであった。「漢機(あやはとり)」(雄略紀十四年正月)のことで、中国式の高機を操って見事な織物を織り上げていた。織りの組織として綾織りという織り方もあり、地に文様をつけることができた。特に綾織りでなくても、文様をつけて織られたものをよくよく見てみると、花弁の様子と似ていることに気づく。新式の織物のように模様がついていると見立てられたわけである。その結果、「菖蒲」の類を漢女(あやめ)と呼ぶようになったと考えられる。似た葉をした植物から少しずつ違う柄の花が咲くのがアヤメ属である。それらが今日のアヤメなのかショウブなのか検討する必要はない。漢女の手にかかれば、いろいろな地模様に織りあげてくれるからである。言葉の命名は、植物学の外にある。そして、同類の葉をつけるもので、香気が強くて節句に用いる素材として活用できる植物を、アヤメグサと呼び、「菖蒲」という字を使い慣わしていたと考えることができる(注19)
左:ノハナショウブ(ウィキペディア、Qwert1234様「ノハナショウブ」ウィキメディア・コモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:ノハナショウブ02_Iris_ensata_var._spontanea.JPG)、右:茶紫地四弁花入雲気文広東裂(経絣・平組織、正倉院所蔵、沢田むつ代「正倉院所在の法隆寺献納宝物染織品―錦と綾を中心に―」『正倉院紀要』第36号、2014年、55頁のNo.64図をトリミング。宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/36/pdf/0363039095)
 漢女が機織りをする作業には、本邦において従来行われていた機織りとは大きく違った。高機はメカニズムとして、大掛かりに経糸を上下に分離させ、行き交わすことができるようになっている。文様が生まれるようにあらかじめ経糸を準備(機拵え)しておけば、後は単純作業に織るだけで地に文様が浮かび上がる。その高機の操作にパタパタという音を立てる。だから機のことをハタと呼んだのであるが、絶え間なくパタパタと音を立てている。在来の地機で織った織物のことを倭文織(しつおり)(注20)というように、静かに織られていたのとは対照的である。高機の操作に熟練している漢機は、パタパタパタパタ連続して音を立てている。 間髪を入れずに受け答えしているさまに似ているから、ホトトギスの「ホト」「トギ」の即応にパラレルな関係であると見立てることができた。季節的にも、ホトトギスが鳴くのとアヤメグサを刈り取って五月五日の節句に用いるのとが概ね合致するから、歌に合されている。
 アヤメグサは邪気を払うものとして、5月5日に家の軒にさし掛けたり、身につけたり、薬玉のように作られたかと考えられている。「菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 玉に貫き」といった慣用表現で用いられている。香りが立って邪気を払うとされたものどうしが連なっているわけである。風習としては、もっぱら中国由来のことと考えられており、荊楚歳時記などに見られるとされている。高機などとともに本邦に伝わったということであろうか。今日、端午の節句に菖蒲湯を使う風俗に続いている(注21)
軒菖蒲(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574891/48をトリミング)
 ただし、どこまでが中国の風俗に由来したものであるかは不明である。橘は、田道間守が常世の国から持ち帰った不老不死をもたらす時じくの香の木の実であり、その際、「縵(かづら)」(垂仁記)にも作られている。その橘が万葉集に歌われる際、霍公鳥とともに用いられる傾向にあったのは、本稿に、両者が、ほとんど時は過ぎると言える存在だったからであると理解された。
 「菖蒲(あやめぐさ)」も、漢女が織りあげるのにはパタパタパタをくり返して、ほとんど時は過ぎている。機織りはとても時間がかかる。そのアヤメ、今日、ノハナショウブと言い当てられている植物だと思って刈り取ってきた葉のなかに、似ても似つかぬ蒲のような花序のものが混じっていた。何か違うのではないかと思っても、必要な知識は植物学にあるのではなく、実用に供すればよいだけだから、そのような葉については一括してアヤメグサと呼んでおけばそれで済むと考えたのであろう。これは頓智である。結果的に、ヤマトコトバに生きた人々に納得され、歌に霍公鳥とともに詠まれていると考えられる。すでにとり上げた例は除いて以下に示す。

 霍公鳥 厭(いと)ふ時なし 菖蒲(あやめぐさ)〔昌蒲〕 蘰(かづら)にせむ日 此(こ)ゆ鳴き渡れ(万1955)
 霍公鳥〔保等登藝須〕 厭(いと)ふ時なし 菖蒲(あやめぐさ)〔安夜売具左〕 蘰(かづら)にせむ日 此(こ)ゆ鳴き渡れ(万4035、重出)
 …… 霍公鳥〔保止々支須〕 来鳴く五月の 菖蒲(あやめぐさ)〔安夜女具佐〕 蓬(よもぎ)蘰(かづら)き 酒宴(さかみづき) 遊び慰(な)ぐれど ……(万4116)
  霍公鳥を詠める歌二首
 霍公鳥 今来鳴き始(そ)む 菖蒲(あやめぐさ) 蘰(かづら)くまでに 離(か)るる日あらめや(万4175)〈毛(も)・能(の)・波(は)、三箇(みつ)の辞(こと)を闕く〉
 我が門(かど)ゆ 鳴き過ぎ渡る 霍公鳥 いや懐かしく 聞けど飽き足(だ)らず(万4176)〈毛(も)・能(の)・波(は)・氐(て)・尓(に)・乎(を)、六箇(むつ)の辞(こと)を闕く〉

 これら二つの歌は、基本的な助詞を使わないで歌を作った歌であると注記されている。なぜそのような試みが行われたのか。やはりホトトギスの鳴き声が、「ホト」「トギ」ばかりで成り立っていると措定されていたことと関係するのであろう。ホトトギスに負けてはいまいと、助詞を省いて簡潔な言葉でどこまで立ち向かうことができるか、という諧謔である。

「藤波」

 霍公鳥とともに詠まれる植物としては、ほかに、「藤波(ふぢなみ)」がある。葛同様に蔓を伸ばす。ホトトギスが鳴く時期に花が咲き、蘰(かづら)にしたことから持ち出されているものと考えられる。房が波打つように見えるから「藤波(浪)」と表現することが多く、その複数の花房をつけた状態で採って蘰にしたのであろう。波は次から次へと間断なく押し寄せてくるものである。「ホト」「トギ」と間断なく鳴くホトトギスに由縁して、「藤波」という語が選択されているとわかる。すでに見た以外の例をあげる。

 藤波の 散らまく惜(を)しみ 霍公鳥 今城(いまき)の岳を 鳴きて越ゆなり(万1944)
 霍公鳥 来鳴き響もす 岡辺(をかへ)なる 藤波見には 君は来(こ)じとや(万1991)
 藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴くべき時に 近づきにけり(万4042)
 明日の日の 布勢(ふせ)の浦廻(うらま)の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも〈一は頭(かしら)に云はく、保等登藝須(ほととぎす)〉(万4043)
 藤波の 繁りは過ぎぬ あしひきの 山霍公鳥〔夜麻保登等藝須〕 などか来鳴かぬ(万4210)
 霍公鳥 飛幡(とばた)の浦に しく波の しくしく君を 見む因(よし)もがも(万3165)

 最後の万3165番歌は、「藤波」ではないが波のことを言っている。深く理解するに至っていないため、冒頭の霍公鳥を枕詞と解する説が有力視されている。

「木の暗(くれ)」

 また、ほとんど時は過ぎるとは、一日という単位で言えば日が暮れるという意味である。クレ(呉)の国から来た新技術こそ、「漢織」であると言いたいのである。日が暮れそうになると、機織りは一日の作業を終わらせる。見えにくくなると文様が揃わないからであり、明かりを灯してまでしないのは灯油がもったいないからでも、煤が出てはせっかくの織物が台無しになるからでもある。したがって、ホトトギスの歌では、ホトトギスは「木(こ)のクレ(暗・晩)」で鳴くように仕向けられている。

  霍公鳥を詠める歌一首
 木(こ)の暗(くれ)の 繁き峯(を)の上(へ)を 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴きて越ゆなり 今し来らしも(万4305)
 木(こ)の晩(くれ)の 夕闇なるに〈一に云はく、なれば〉 霍公鳥 何処(いづく)を家と 鳴き渡るらむ(万1948)
 多胡(たご)の崎 木(こ)の暗茂(くれしげ)に 霍公鳥〔保登等藝須〕 来鳴き響めば はだ恋ひめやも(万4051)
 木(こ)の暗(くれ) になりぬるものを 霍公鳥〔保等登藝須〕 何か来鳴かぬ 君に逢へる時(万4053)

「網」「夏」「初声」

 ホトトギスは後の時代に網鳥という言い方がされている。記録されている始まりは大伴家持の歌にあり、網をさしてホトトギスを捕まえるからであるとされている。網を使って捕まえてペットとして飼い、翌夏に初声を楽しむためであったと考えられている。

 霍公鳥〔保登等藝須〕 夜(よ)声なつかし 網ささば 花は過ぐとも 離(か)れずか鳴かむ(万3917)
 橘の にほへる園(その)に 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴くと人告ぐ 網ささましを(万3918)
 霍公鳥 聞けども飽かず 網取りに 獲りて懐(なつ)けな 離(か)れず鳴くがね(万4182)
 霍公鳥 飼ひ通(とほ)せらば 今年経て 来向ふ夏は まづ喧きなむを(万4183)

 玩弄する目的で捕まえていた。他の鳥、例えば文鳥などではなく、ホトトギスに限って網鳥と言われるに至っている。わざわざホトトギスに限って網を持ち出して歌い上げているのは、網という言葉が動詞アム(編)に由来しており、編むためには編み棒を両手に二本持って互い違いに交わすことをする。その交わし方が「ホト」「トギ」と即応する鳴き交わしに例えられるからではないかと考える。万4183番歌で、来年の夏(なつ)に一番に鳴くであろうとするのは、万4182番歌に、それが懐(なつ)いているからであるとすでに語られている。この点を強調するなら、ホトトギスが鳴くのは夏のことであると定まってくる。万3984番歌の左注に「霍公鳥者立夏之日来鳴必定」などとあるのは漢詩文の詠物詩の影響を受け、四季と結びつけてホトトギスを歌っているものと考えられている(注22)が、案外、駄洒落の延長に基づくのではなかろうか。そう考える理由は、歌を歌う大伴家持に漢詩文を理解する能力があったとしても、その歌を聞く側の、周囲にいる家人や召使いが何を言っているかわからなければたちまち狂人扱いされてしまうからである。

  大伴家持の霍公鳥の歌二首
 夏山の 木末(こぬれ)の繁(しげ)に 霍公鳥 鳴き響むなる 声の遥(はる)けさ(万1494)
  立夏の四月は既に累日を経て、由(なほ)未だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作れる恨みの歌二首
 あしひきの 山も近きを 霍公鳥〔保登等藝須〕 月立つまでに 何か来鳴かぬ(万3983)
 玉に貫く 花橘を 乏(とも)しみし この我が里に 来鳴かずあるらし(万3984)
  霍公鳥は、立夏の日に来鳴くこと必定(ひつじゃう)す。又越中の風土は橙橘の有ること希なり。此に因りて、大伴宿祢家持、感(おもひ)を懐(こころ)に発して聊かに此の歌を裁(つく)れり。 三月廿九日
  四月十六日に、夜の裏(うち)に、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて、懐(思ひ)を述べたる歌一首
 ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く音(おと)遥(はる)けし 里遠(どほ)みかも(万3988)
  廿四日は立夏の四月の節に応(あた)れり。此に因りて廿三日の暮(ゆふ)に、忽ちに霍公鳥の暁に喧(な)かむ声を思ひて作れる歌二首
 常人(つねひと)も 起きつつ聞くそ 霍公鳥 此の暁(あかとき)に 来喧く初声(はつこゑ)(万4171)
 月立ちし 日より招(を)きつつ うち偲(じの)ひ 待てど来鳴かぬ 霍公鳥かも(万4196)

 万4196番歌の「月」は、夏四月のことである。

景物

 以上のように、ホトトギスという語自体の特徴から万葉集の霍公鳥の歌を見てきたが、ヤマトコトバの「ことば遊び」以外の、景物として、あるいはとても思い入れを強くした対象としてホトトギスをみた歌もある。ただし、言葉の使い方、他の語との連動性については、それまで作られてきた歌を踏襲する傾向にあり、すでに多くの例をとっている(注23)

  大伴家持の霍公鳥を懽(よろこ)びたる歌一首
 何処(いづく)には 鳴きもしにけむ 霍公鳥 吾家(わぎへ)の里に 今日のみそ鳴く(万1488)
   霍公鳥を詠める歌一首〈并せて短歌〉
 谷近く 家は居れども 木(こ)高(だか)くて 里はあれども 霍公鳥〔保登等藝須〕 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまく欲(ほ)りと 朝(あした)には 門(かど)に出で立ち 夕(ゆふへ)には 谷を見渡し 恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず(万4209)

 万1488題詞の「懽」や、ホトトギスの声を聞きたくてたまらないといった偏愛ぶりなどは、個人的な感情の吐露に聞こえる。これまでに見てきた歌のあり方とは少しく違っている。ヤマトコトバに意味を圧縮させようとしてきた営みが、反対に解凍する方向へと向かう一端が窺える。人々の言語観が変化する片鱗を覗かせている。一語一語の言葉をそらで覚えることですべてを知恵として生きていた時代は幕を下ろし、文字文化に突入して記録によって伝える術を持つようになっていく。知識の時代の始まりである。ここに人々の言語活動は、その半身を麻痺させ始め、現在へと続くこととなった。

おわりに

 万葉集では、ホトトギスは、基本的に、その言葉(音)自体の「ことば遊び」をもって歌われている。そして、ホトトギス歌は、ホトトギスという言葉と関連する語ばかりで構成されることになっている。ホトトギス歌には、ホトトギス歌のための言葉のサプライチェーンがあったということである(注24)。このことは、我々が抱いている言語に対する感覚からすれば、計り知れない違和感をもよおすであろう。無文字時代の言語活動は、文字時代の今日までのものとは位相が異なるものであったことを教えてくれている。異文化であると言って過言ではない。そのことは、人類の可能性として、現代の文明とは違う道があり得たことをも示唆している。その可能性を今に見ることは、万葉集の歌を味わうに際して実は最も実りある鑑賞法なのではないかと考える。現代における万葉集の研究は、ともすればその万葉歌を、漢文学の影響を付会するための検索の基点に貶めてしまっている。「ホト」「トギ」の即答唱和や、ほとんど時は過ぎるの語釈に愉快を感じていた彼らの心を軽んじて、漢詩文にホトトギス歌の出典を求めても意味のないことである。「街に哲学者あり」(長田弘)に倣えば、街に歌詠みが多数あったほどに人々は言葉に生きていた。言葉に生きていた上代人の心性を顧慮せずにいては、ほとんど時は過ぎることになるのではないだろうか 。
(つづく)

記紀万葉における「出雲」とは何か

2021年04月18日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 今日までの研究で、いわゆる出雲神話は存在しないことが明らかになっている(注1)。古事記に載るスサノヲによるヤマタノオロチ退治の話は出雲風土記に載っていない。イナバのシロウサギの話は日本書紀にさえ載っていない。なぜそのような話が古事記に語られているかについては、天皇による支配を正統化させるべく物語が作られて所載されたためであると考えられるようになっている。ヤマト朝廷に服属した国々から神話や伝承を集め、統治の正統性を表す筋立てになるように取捨選択するとともに、内容の改変や再構成が行われたというのである。それでは、なぜ奇妙奇天烈な話に創られているかについては、これといって納得のいく回答が得られていないばかりか、その問いすら立てられていない。本稿では、「出雲」という語についての上代語のあり方を検討し、上代人の観念のありようを探ってその一助としたい。
 地名としての出雲は、言い伝えのなかで、記紀のなかでもはじめのほうに多く登場している。記の上巻、神代紀、また、崇神・垂仁・景行天皇時代に「出雲」と記された条は次のとおりである。

(1)イザナミの埋葬地
 故、其の、神避(さ)りましし伊耶那美神(いざなみのかみ)は、出雲国と伯伎国(ははきのくに)との堺(さかひ)の比婆之山(ひばのやま)に葬(はふ)りまつりき。(記上)
(2)イフヤサカのこと
 故、其の所謂(いはゆ)る黄泉(よもつ)ひら坂は、今、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂ふ。(記上)
(3)スサノヲの降臨地、クシ(イ)ナダヒメの養育地
 故、避(さ)り追はえて、出雲国の肥(ひ)の河上、鳥髪(とりかみ)といふ地(ところ)に降りき。(記)
 是の時に、素戔嗚尊(すさのをのみこと)、天(あめ)より出雲国の簸(ひ)の川上に降到(いた)ります。(神代紀第八段本文)
 素戔嗚尊、天よりして出雲の簸の川上に降到ります。(同一書第一)
 是の後に、稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだみやぬしすさのやつみみ)が生める児(こ)、真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)、出雲国の簸の川上に遷し置(す)ゑて、長養(ひだ)す。(同一書第二)
 両(ふたつ)の脇(かたはら)に山有り。……出雲の簸の川上の山、是なり。(同第三)
 遂に埴土(はに)を以て舟に作りて、乗りて東に渡りて、出雲国の簸の川上に所在(あ)る鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到る。(同第四)
(4)スガの宮の設営地
 故、是を以て、其の速須佐之男命(はやすさのをのみこと)、宮を造作(つく)るべき地(ところ)を出雲国に求めき。爾くして、須賀(すが)といふ地に到り坐して詔(のりたま)はく、「吾、此地(ここ)に来て、我が御心(みこころ)すがすがし」と、のりたまひて、其地(そこ)に宮を作りて坐しき。故、其地は、今に須賀(すが)と云ふぞ。(記上)。
 然して後、行きつつ婚(みあはし)の処を覓(ま)ぐ。遂に出雲の清地(すが)に到ります。清地、此には素鵝(すが)といふ。乃ち言ひて曰はく、「吾が心、清清(すがすが)し。」とのたまふ。此れ今、此の地(ところ)を呼びて清(すが)と曰ふ。彼処(そこ)に宮を建つ。(神代紀第八段本文)
(5)スクナビコナとの出会いの地
 故、大国主神(おほくにぬしのかみ)、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐(いま)す時に、波の穂より、天の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(かり)の皮を内剝ぎに剥ぎて、衣服(ころも)と為て帰(よ)り来る神有り。(記)
 自後(これよりのち)、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神(おほあなむちのかみ)、独り能く巡り造る。遂に出雲国に到りて、乃ち興言(ことあげ)して曰はく、……初め大己貴神、国平(む)けし時に、出雲国の五十狭狭(いささ)の小汀(をはま)に行到(ゆきま)して、飲食(みをし)せむとす。……(神代紀第八段一書第六)
(6)国譲りの問いの場所
 是を以て、此の二(ふたはしら)の神、出雲国の伊耶佐(いざさ)の小浜(をはま)に降(くだ)り到りて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き、逆(さかし)まに浪の穂に刺し立て、其の剣の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ゐ)て、其の大国主神に問ひて言ひしく、……(記上)
 二の神、是に、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)りて、則ち十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、倒(さかしま)に地(つち)に植(つきた)てて、其の鋒端(さき)に踞(うちあぐみにゐ)て、大己貴神に問ひて曰はく、……是の時に、其の子、事代主神(ことしろぬしのかみ)、遊行(ある)きて出雲国の三穂三穂、此には美保(みほ)と云ふ。の碕(さき)に在(ま)す。(神代紀第九段本文)
 時に二の神、出雲に降到りて、便ち大己貴神に問ひて曰はく、……(同一書第一)
 既にして二の神、出雲の五十田狭(いたさ)の小汀に降到りて、大己貴神に問ひて曰はく、……(同一書第二)
(7)オホクニヌシの御殿の設営地
 出雲国の多芸志(たぎし)の小浜(をはま)に、天の御舎(みあらか)を造りて、……(記上)
(8)出雲の神宝にまつわる話
 武日照命(たけひなてるのみこと)一に云はく、武夷鳥(たけひなとり)といふ。又云はく、天夷鳥(あめひなとり)といふ。の天より将(も)ち来れる神宝(かむたから)を、出雲大神(いづものおほみかみ)の宮に蔵(をさ)む。是を見欲し。(崇神紀六十年七月)
(9)ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)の経由地
 道路(みち)を知らずして、嶋浦(しまじまうらうら)に留連(つたよ)ひつつ、北海(きたつうみ)より廻(めぐ)りて、出雲国を経て此間(ここ)に至れり。(垂仁紀二年是歳分注)
(10)相撲の元祖、野見宿禰の故郷
 臣(やつかれ)聞(うけたまは)る、出雲国に勇士(いさみびと)有(はべ)り。野見宿禰(のみのすくね)と曰ふ。……是に、野見宿禰、出雲より至(まういた)れり。則ち当摩蹶速(たぎまのくゑはや)と野見宿禰と捔力(すまひと)らしむ。(垂仁紀七年七月)
(11)口のきけないホムチ(ツ)ワケノミコの縁故地
 如此(かく)覚(さと)す時に、ふとまにに占相(うらな)ひて、何れの神の心ぞと求めたまひしに、爾(そ)の祟りは、出雲大神(いづものおほかみ)の御心なりき。……故、出雲に到りて、大神を拝(をろが)み訖へて還り上ります時に、肥河(ひのかは)の中に、黒き樔橋(すばし)を作りて、仮宮を仕へ奉りて坐(いま)せき。爾くして、出雲国造(いづものくにのみやつこ)の祖(おや)、名は岐比佐都美(きひさつみ)、……(垂仁記)
 時に湯河板挙(ゆかはたな)、遠く鵠(くぐい)の飛びし方を望みて、追ひ尋(つ)ぎて出雲に詣(いた)りて捕獲(とら)へつ。(垂仁紀二十三年十月)
(12)神宝の検校
 屢(しばしば)使者(つかひ)を出雲国に遣して、其の国の神宝(かむたから)を検校(かむが)へしむと雖も、分明(わきわき)しく申言(まを)す者(ひと)無し。汝(いまし)親(みづか)ら出雲に行(まか)りて、検校へ定むべし。(垂仁紀二十六年八月)
(13)形象埴輪の製作人
 則ち使者(つかひ)を遣(つかは)して、出雲国の土部(はじべ)壱佰人を喚し上げて、自ら土部等を領(つか)ひて、埴(はにつち)を取りて人・馬及び種種(くさぐさ)の物の形を造作(つく)りて、……(垂仁紀三十二年七月)。
(14)ヤマトタケルの出雲征討
 即ち、出雲国に入り坐しき。其の出雲建(いづもたける)を殺さむ欲ひて、到りて即ち友(うるはしみ)を結びき。(景行記)

 (8)は、出雲大神の神宝を天皇が見たいと欲したときの記事である。対応をめぐって出雲側の主宰者に兄弟の内紛が生じている。兄は、「頃者(このごろ)、止屋(やむや)の淵に多(さは)に菨(も)生ひたり。願はくは共に行きて見欲し」と誘い出し、偽刀を作っておいて斬り合いして撃ち殺している。内紛は朝廷の知るところとなり、兄も誅された。出雲臣等はそのことに畏怖を抱き、出雲大神を祭らないことがあった。皇太子の活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に、小児の言葉を借りて諭す人がいた。小児に神が憑依しての言葉ではないかと進言している(注2)

 玉菨(たまも)鎮石(しづし)。出雲人の祭(いのりまつ)る、真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)。押し羽振る、甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし)。山河(やまがは)の水(み)泳(くく)る御魂(みたま)、静(しづ)挂(か)かる甘美御神、底宝御宝主。菨、此には毛(も)と云ふ。(崇神紀六十年七月)

 この文言から考えると、イヅモ(出雲)のことだからモ(菨=藻)が登場しているのではないかと気づかされる。説文に、「菨 菨餘也。艸に从ひ妾声」とある。アサザのこと、古語に「あざさ」(万3295)である。
アサザ(井の頭公園、2016年6月)
 水野1994.に、出雲厳藻説が提唱されている。

 やつめさす 出雲建が 佩ける大刀(たち) 黒葛(つづら)多(さは)まき さ身無しにあはれ(記23)
 八雲さす 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 奥になづさふ(万430)
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(記1)

これらの歌の枕詞の偏差について、「八雲立つ」と「やつめさす」の混合形として「八雲さす」があるとしている。そして、ヤツメ(メは乙類)は「弥津米(やつめ)」、すなわち、たくさんの海藻の義で、藻は古代人にとって神聖で呪的なものであり、出雲の国名の原義は「厳藻(いつも)」に由来するとする(注3)。筆者は、地名の由来を尋ねる立場には立たないが、多くの示唆を与えてくれるものである。
 出雲がメインテーマで出てくる最初の話の舞台は、「出雲国の肥(ひ)(簸)の河(川)上」である(注4)。「河(川)上」は、カハノヘ(ヘは乙類)とも訓む。

 河上(かはのへ)の ゆつ磐群(いはむら)に 草生(む)さず 常丹毛冀名 常處女煮手(万22、四・五句目の訓に疑義あり)
 河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は(万56)
 河上の いつ藻の花の いつもいつも 来ませ我が背子 時じけめやも(万491)
 川上(かはのへ)の いつ藻の花の いつもいつも 来ませ吾が背子 時じけめやも(万1931)
 …… 迦波能倍(かはのへ)に 生ひ立てる 烏草樹(さしぶ)を 烏草樹の木……(記57)
 可波加美(かはかみ)の 根白高萱(ねじろたかがや) あやにあやに さ寝てさ寝てこそ 言(こと)に出(で)にしか(万3497)

 くり返し言葉の多い歌が頻出する。川岸には左岸、右岸の両岸がある。二例目の椿は、硬い材を木刀のように使う武器とされた。手で握るところは鍔(つば)であるし、先の方もツバ(キ)である。両端ともツバである。それが両岸に連なっているから「つらつら椿」と洒落ている。顔を横顔として見た面(つら)も顔の両側にあるから、「つらつら椿」は「つらつら」を導いている。三例目のイツモは、何時も、常に、という意味と、水野説にある「厳藻(いつも)」の意、すなわち、河の水のなかで神威を受けたかのごとくとても盛んに茂っている藻のことを掛けている。四例目は、「烏草樹」、「生ひ立てる」をくり返している。烏草樹(さしぶ)はシャシャンボのことであるが、サシブの音がシブクサを思わせる。シブクサの別名は、ギシギシ(ギの甲乙不明)で、岸岸(キは乙類)を連想させるからであろう。五例目は、もと「河上」とあったものを読み違えて仮名表記したものであろう。
 藻が川床に繁茂していれば、「藻床(もとこ)」と言い表しうる。床(とこ)は常(とこ)の意味を強く持つ(注5)。安康紀元年二月条に、「荇菜(をみなめ)」とある。詩経・周南・関雎の「参差(しんし)たる荇菜は 左右之れを流(もと)む 窈窕たる淑女は 寤寐之れを求む(参差荇菜、左右流之、窈窕淑女、寤寐求之)」によるとされ、宮中に働く女性のことを表している。和名抄に、「荇 爾雅注に云はく、荇菜〈上の音は杏、字は亦、莕に作る。阿佐々(あざさ)〉は水中に叢生し、葉は円く、端に長短在り、水の深浅に随ふ者也といふ。」とある。崇神紀の「菨」に同じくアサザのことである。菨は翣に通じ、棺の羽飾りをもいう。左右のことは、垂仁紀ほかに「左右(もとこ)」とあり、モトコヒトとも訓んでいる。本処、許処の意で、もと、かたわら、側近くのこと、すぐに御用をかなえるために左右に控えている人である。左右両側に控えているのは、左右両岸があるのに同じで、三例目の「いつ藻」の花は、「いつもいつも」と重なる言葉を導いている。
 モトコは、喪床、つまり、亡くなった後に、亡骸を収める寝床である棺(柩)のこととも考えられる。永遠の眠りについているから、棺ほど常(とこ)なる床(とこ)はない。ヒツキ(ヒは甲類、キは乙類)は、日月と同音である。イザナキは黄泉国から帰還して禊ぎをする。左の眼からアマテラス(日神(ひのかみ))、右の眼からツクヨミ(月神(つきのかみ))が生まれている。左右(もとこ)の目は日月である。仏教では、日光・月光菩薩を脇侍とするのは薬師如来である。薬師はクスシと訓まれ、大国主神(大己貴神)とともに国作りをしたスクナビコナが薬の神として崇められている。その後の話にその正体を幸魂・奇魂であるとしている「奇し」も、クスシと訓む。
 したがって、出雲という地名の音は、喪の風景、および一対の事柄をイメージさせる。病気、医薬、葬送のこと、また、日月、陰陽、男女、閨房のための宮殿の話に出雲の地が設定されている。国生みの話において、イザナキとイザナミの交合の場面で、どちらが先に相手を「え」、つまり、素敵だという言葉を発するか、また、神代紀第四段一書第一では、左右のどちらから国の柱を回るかが重要な要素にあげられている。陰神が左から、陽神が右から回ったら蛭子(ひるこ)や淡洲(あはのしま)が生まれて失敗したため、天上に占いの教えを請い、反対回りにしたらうまくいって国生みが成功したことになっている。
 また、出雲の地は、国を譲るか否か、「否諾(いなさ)」を答えさせる場所になっている。「伊耶佐(いざさ)」(記上)、「五十田狭(いたさ)」(神代紀)とある。万葉集には「左右」(万1343)をカモカモと訓む例がある。ああでもこうでも、あれこれ、の意を表す。あれかこれかの二者択一を迫る場所として、出雲の地は設定されているわけである。
 スサノヲの話では、箸が上流から流れてきている。二本揃って流れて来なければ、それが箸であるとは確かめられないであろう。上流には、アシナヅチ・テナヅチという老夫・老女の二人がいた。二本がワンセットであることを強調する名前である。また、クシナダヒメを神聖な爪櫛に見立て、みずらに刺したともある。当時の髪型として知られる角髪(あげまき)(角子)は、左右二つに分けて両耳のあたりにわがねたものであった。
 「藻(も)」が「喪(も)」と関係があるなどありえようはずがないと捉えることは、「言語以前の一般的観念について語ること」であり、「牛の前に鋤をつける如き本末転倒である」(ソシュール)。そのことは、助詞「も」が、承ける語を不確実なものとして扱うことからもわかる。喪も藻? 藻も喪! という陳述にきょとんと納得せざるを得ない頓智が行われている。
 以上の検討から、イヅモ(出雲)という言葉は、記紀万葉において、それはすなわち、上代の人々の観念体系のなかにおいて、地名としてではなく、あるいは、地名に先んじて、イヅモ、イツモなる音がもとでくり広げられる意味の展開を示す言葉であるということができる。初めに言葉有りき、として語られている。このことは実は当たり前のことである。ヤマトコトバは誰によって用いられた言葉か。そしてその中心はどこの人であったか。紛れもなくヤマトに暮らしていた人、なかでもヤマト朝廷の人たちであった。ヤマト朝廷の人にとって、イヅモ(出雲)というところは、名前は知っているけれど実情を見聞したことはない。そのイヅモとは何かと問われれば、その言葉(音)があやなす意味でしか捉えることはできない。換言すれば、無文字時代のヤマトコトバとは、その音が荷っている意味合いを、音声ばかりで人々の間にやり取りするものであった。「出雲」神話が出雲地方に創られて伝えられたのではなく、イヅモ説話がヤマトコトバに音をもってヤマトに創られているのである。イヅモは厳藻でもあり、イツモという語を真にかなえるのは喪の床のことであると、今日の人の考えでは洒落にしか聞こえないことを、厳密な学としての論理学をもってそのとおりに考えていた。その論理展開にかなうように、説話の舞台として「いづも」地方が設定されているばかりなのである。記紀の説話に対するこれまでの態度は、転換させなければならない。

(注)
(注1)新谷2009.は、記紀に記される出雲神話を歴史上の出雲世界の実体の反映として、考古学的な発掘情報に求めるには方法論的に困難であると、常識的な見解を示している。
(注2)垂仁紀十年九月条にも、童女の言に、「言(ものもい)はず。唯歌ひつらくのみ」という歌の例がある。
(注3)この説は、上田1999.に正当に評価されている。
(注4)この「河(川)上」は、西宮1990.に「「上流」の意であることを明らかに示している。」(286頁)とし、「到出雲国簸川上所在鳥上之峯。」(神代紀第八段一書第四)とあるから確実といい、カハカミと訓んで正しいとしている。「まだ上に人が住んでゐて箸が流れてきたことを矛盾として咎めることはあるまい。」(同頁)とあって、本居宣長・古事記伝に、「河上は、加波之弁カハノベと訓むもアシからねど、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041627/222)なる注に答えたようであるが、管見にして誰が疑義を唱えたかわからない。日本書紀の古訓では、上にあげた神代紀第八段本文に続く箇所、「時、聞川上有啼哭之声。」の「川上」にカハノホトリニ(為縄本)という例が見える。
(注5)万22歌の四・五句目の原文に見られる対には暗示があるように思われる。

(引用・参考文献)
上田1999. 上田正昭『上田正昭著作集4』角川書店、1999年。
新谷2009. 新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』講談社、2009年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
水野1994. 水野祐『古代の出雲と大和 新装版』大和書房、1994年。

※本稿は、2012年9月稿を2021年4月に改稿、改題したものである。

(English Summary)
Kojiki and Nihon Shoki have several narratives set in Izumo (出雲) country. In particular, the famous story of defeating Yamata no Orochi (八岐大蛇, a big snake with eight heads) is called the Izumo myth (出雲神話). It is thought that the tales that had been handed down in the Izumo’s region were passed down and incorporated into Yamato's folklore. In this paper, we focus on the word (pronunciation) "idumo" (出雲) and reconsider how the meaning of the word was positioned in the idea system of the ancient Japanese, Yamatokotoba people. Because at that time they had no characters and words were sounds themselves. And we will understand that the place name "Idumö" was used as to imply things such as “always” (itumö: 常時), “thickly growing algae” (itumö: 厳藻), “coffin” (mötökö: 喪床). The word "mö" was “algae” (mö: 藻) and “mourning” (mö: 喪), “too” (mö: も (particle)). Maybe, that is similar to the relationship between “différence” and “différance”. We have to move into a new stage of thinking about what languages are.

万葉集における「色に出づ」表現について

2021年04月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集には、「色に出(い)づ」という慣用表現がある。記紀歌謡には見られない。恋の歌に用いられることが多く、「色」を景物の色彩と人間の顔色との掛け詞の意味に解されることが多い(注1)。しかし、態度や行動、言葉に表す意味の用例もあり、序詞的文脈で用いられることも多い。

 磐(いは)が根の こごしき山を 超えかねて 哭(ね)には泣くとも 色に出でめやも(万301)
 託馬野(つくまの)に 生(お)ふる紫草(むらさき) 衣(きぬ)に染(し)め いまだ着ずして 色に出でにけり(万395)
 あしひきの 山橘の 色に出でよ 語らひ継ぎて 逢ふこともあらむ(万669)
 謂ふ言(こと)の 恐(かしこ)き国そ 紅(くれなゐ)の 色にな出でそ 思ひ死ぬとも(万683)
 秋萩の 枝もとををに 置く露の 消(け)なば消ぬとも 色に出でめやも(万1595)
 …… 紐解かず 丸寝をすれば 吾が着たる 衣はなれぬ 見るごとに 恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜(よ)の 明かしもえぬを 寝(い)も寝(ね)ずに 吾れはそ恋ふる 妹が直香(ただか)に(万1787)
 外(よそ)のみに 見つつ恋ひなむ 紅の 末摘花(すゑつむはな)の 色に出でずとも(万1993)
 臥(こ)いまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく 色には出でじ 朝顔の花(万2274)
 恋ふる日の 日(け)長くあれば み苑生(そのふ)の 韓藍(からあゐ)の 花の色に出でにけり(万2278)
 さ丹(に)つらふ 色には出でず 少なくも 心のうちに 吾が念(おも)はなくに(万2523)
 色に出でて 恋ひば人見て 知りぬべし 情(こころ)のうちの 隠(こも)り妻はも(万2566)
 白真砂(しらまなこ) 御津(みつ)の黄土(はにふ)の 色に出でて 云はなくのみそ 我が恋ふらくは(万2725)
 あしひきの 山橘の 色に出でて 吾が恋ひなむを 止(や)め難(かて)にすな(万2767)
 隠りには 恋ひて死ぬとも み苑生の 韓藍の花の 色に出でめやも(万2784)
 紫の 我が下紐の 色に出でず 恋ひかも痩せむ 逢ふよしを無(な)み(万2976)
 暁(あかとき)の 朝霧隠(ごも)り かへらばに 何しか恋の 色に出でにける(万3035)
 …… さ丹つらふ 君が名曰(い)はば 色に出でて 人知りぬべみ あしひきの 山より出づる 月待つと 人には云ひて 君待つ吾れを(万3276)
 恋しけは 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出(づ)なゆめ(万3376)
 いかにして 恋ひばか妹に 武蔵野の うけらが花の 色に出(で)ずあらむ(万3376或本歌)
 安齊可潟(あぜかがた) 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出(で)めやも(万3503)
 ま金ふく 丹生(にふ)のま朱(そほ)の 色に出(で)て 言はなくのみそ 我が恋ふらくは(万3560)

 伊原2010.に、「多く相聞の歌の中で、秘めた恋情が顔色や様子にあらわれ、それと知られる、つまり明らかに人目に立つようになることの比喩として詠じられる、〝色に出づ〟がそれである。[万683・1993・3560・2523・2725・2976・395番歌]などで、これらは、紅・真朱(しゆ色)・丹(黄味を帯びた赤色)・黄土(黄─黄褐色)・紫等の、赤系統・紫系統の華麗な色彩、黄の鮮かな色彩で、恋の詠唱において比喩とするに相応しい、相手に好感を持たれ美しい新鮮な感を与えるものと考えられて選ばれたのであろうが、とくに、〝色〟としての意識を強く持っていると考えてよいようである。万葉では、このように、色彩と言うものへの関心、意識が強く、色彩が一首の中で大きな場を占める例が非常に多い。」(324頁)とある。
 怖くなって血の気が引き、顔が真っ青になることがあるが、そういうときに「色に出づ」という表現は使われない。恋心が表にあらわれる時に使うのがもっぱらである。赤系統の色が選ばれているのは、気持ちが明るくなることと関係している。アカシ(明)と同源の語であるアカ(赤)が選ばれている。アカシ(明)はアカシ(証)に義が通じている。証拠となってしまう色にして明らかであることを謂わんとしている。単純なことである。これまで、この点について指摘されていない。ただし、「色に出づ」という表現の問題はそこにばかりあるものではない。
 澤瀉1958.は、[自動詞にも他動詞にも使われる]「いづ」はいづれも「言に」「色に」「音に」「穂に」などにつゞいて、それは秘めた思ひの外にあらはれる場合であつて、意志の問題であると共に意志を超えた問題であるとも云へる場合である。恋人の名を口にしたり、顔を赤くしたりする事は、おさへられない事でもないが、またおさへきれない事でもある。……自他未分の状態とも云へる。」(194~195頁、漢字の旧字体は改めた。)と理解している。自動詞でもあり他動詞でもある「出づ」という語をうまく活用して、「色に出づ」という言い回しをしているのであると考えられている。けれども、最初に述べたように、「色」を顔色のこととばかりは考えられないとされている。
 駒木1976.に、「「色に出づ」は、思いを表面化・公然化・行動化させ、また人に知られるようになる様相を、顕著で鮮やかな色彩に置換した表現なのである。『萬葉集』の発想の分類で言うならば、寄物陳思歌ないし譬喩歌的発想がそれにあたる。草木が目立つ色の花や実をつけ、また鮮やかな色に染めあがるその具体的形相のなかに、人目を秘している恋の顕在化とそこに生ずる人間心情のあり方を重ね見る発想法こそは、まさしく萬葉的なものである。」(23頁)とし、「発想法としての序詞の構造を見すえ、……「色に出づ」 の意味的機能を考定すれば、「色」……は景物の色を指し、「色に出づ」は景物表現の述語として捉えられよう。それが下の心情表現に転換するとき、譬喩として恋情ないし恋愛の行動を指すことになるのである。」(25頁)とし、「この句[「色に出づ」]は序詞的文脈において成立したものであって、……〝そぶり・行動・言葉にあらわす(あらわれる)〟意とすべきではないか」(26頁)と結論づけている。
 「色に出づ」という表現の「色」が、顔色のことでないことはそのとおりであるが、この議論は自己撞着を起こしている。駒木1976.は、「この句は静止的な感情の発露(顔色・表情)を意味するのでなく、〝嘆く・そぶりにあらわれる〟などのより動的状態を指している」(22頁)としている。草木や花、実の着色が劇的に動的かといえば、人間は傍観者だからそのようには感じ取れない。映像の世紀である現代においても、花の場合、咲いて色づく様子は、100倍速ででも再生しなければ「色に出づ」とは表現できないであろう。 万葉びとは、例えば「末摘花の 色に出でずとも」(万1993)と言うとき、どのような気持ちをもって詠じているのか、理解できていないのではないか。

 吾が恋ふる 丹(に)の穂の面(おもわ) 今夕(こよひ)もか 天の川原に 石枕まく(2003)
 黄葉(もみちば)に 置く白露の 色端(は)にも 出でじと思へば 言(こと)の繁けく(万2307)

 前者は、恋しく思う人は、丹色が素敵な顔をして、今夜も天の川の河原で石を枕にして一人寝しているのだろうかな、と七夕の織女のことを歌っている。穂(ほ)は秀(ほ)と同根の語で、秀でて目立つところのことを指す。 わざわざ「色」という言葉を使わずとも、具体的な色調を示しさえすればそれで事足りるのである。
 後者は、黄色く色づいた葉の上に乗った小さな露には、黄色い色素が染み出すことはほとんどないけれど、そんなちょっとした色にさえもあらわれないように用心しているのに、人の噂がうるさくて嫌なことだと歌っている(注2)。白露に色移りはしないが、たとえあったとしてもその片鱗さえもわからないようにしているということを言っている。ハを導くために「黄葉」を使っている。わざわざ「色……に……出で」という形をとって、放っておいても恋心の表にあらわれる様を示している。
 これらの例からわかるのは、「色に出づ」という慣用表現は、一定のまとまりをもった言い方であり、その「色」が何を表すかと分析することでは、これ以上理解は深まらないということである。そこで、類例となる「出づ」に「……に」が冠する例、澤瀉1958.のあげている「言に」「穂に」「音に」について見ておく。第一例に明らかなように、「言に出づ」と「穂に出づ」は似たような形容として用いられている。

 言(こと)に出でて 云はばゆゆしみ 朝貌(あさがほ)の 穂には咲き出ぬ 恋もするかも(万2275)
 言に出でて 云はばゆゆしみ 山川の たぎつ心を 塞(せ)かへたりけり(万2432)
 …… 卯の花山の ほととぎす 哭(ね)のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 砺波山(となみやま) ……(万4008)
 めづらしき 君が家なる 花すすき 穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも(万1601)
 秋萩の 花野のすすき 穂には出でず 吾が恋ひわたる 隠(こも)り妻はも(万2285)
 はだすすき 穂にはな出でそ 思ひたる 情(こころ)は知らゆ 我れも寄りなむ〈七〉(万3800)
 …… 汝弟(なおと)の命(みこと) 何しかも 時しはあらむを はだすすき 穂に出づる秋の 萩の花 にほへる屋戸を ……(万3957)
 あしひきの 山川水の 音(おと)に出でず 人の子ゆゑに 恋ひ渡るかも(万3017)

 これらの意味は、言葉として出して、言葉になって出ると、穂として出すと、穂になって出ると、音として出して、音になって出ると、というように、自動詞・他動詞の区別なしに考えることができる。要するに、目立つこと、人目につくことを意識した表現である。「色に出づ」も同様なのであるが、万葉びとに一番好まれたのは「色に出づ」という言い方である。その点が肝要であり、慣用表現を整理する必要があるわけである。出る様は「色」も「言」も「穂」も「音」も同じだと考えていてはいけない。「色に出づ」は、「出づ」という自動詞・他動詞の両様性ばかりでなく、承ける助詞「に」の使いぶりが上手なのである。
 助詞「に」には、変化の結果(~になって)の意味のほか、比喩(~のように)の意味合いで受け取ることが可能である。

 〈変化の結果〉
 隠(こも)りのみ 恋ふれば苦し 瞿麦(なでしこ)の 花に開(さ)き出よ 朝な朝(さ)な見む(万1992)
 〈比喩〉
 …… 白栲の 衣袖(ころもで)干さず 嘆きつつ 吾が泣く涙 有間山(ありまやま) 雲居(くもゐ)たなびき 雨に零(ふ)りきや(万460)

 この用法までも含めて多様に解釈されるように、「色に出づ」という慣用句は構成されているのではないか。色になって出ると、色になって出ると、ばかりでなく、色のように出ると、色のように出すと、の意を含意しているということである。すなわち、染め物の次第をよく表している。「言」「穂」「音」が具体的な言葉(I love you.)、ススキの穂、水の音であったように、「色」という語も抽象的な言葉として考えられていたわけではない。そのうえまた、「色」が既定に存するものであるとも考えられていなかった(注3)。染め物において「色に出づ」ることは、一回一回のオーダーメイドであり、たいへんな労力と長年の勘に支えられたプロフェッショナルな流儀であった。紫色を参考にする。

 つぎに媒染(ばいせん)にうつる。椿は、生の樹の枝と葉を刈りとって、二、三日置く。それを然やして、白い灰の状態で保存しておく。染色をする数日前に、熱湯を注いでからよくかきまぜ、火の成分を十分に溶出させる。この上澄み液(灰汁(あく))にはアルミ分が含まれていて、紫を発色させる、つまり媒染剤の役割をするのである。その椿灰の灰汁を水に溶かして媒染の浴槽をつくり、紫根染を終えてよく水洗いした絹布を入れて、ゆっくりと繰る。三十分あまりのち、別の水槽でよく水洗いする。このような紫根染、水洗、媒染、水洗の工程を何日も繰り返すわけで、「深紫」にするには、私の工房では、少なくとも五~七日間を費やす。もちろん、毎日、新しい紫根を使って、朝から石臼で搗く、揉む、という工程を繰り返すのである。(吉岡2002.78~79頁)
 紫草の根を麻袋に入れて揉むと、名水の里である[大分県]竹田市の清らかな湧き水に赤紫色が広がる。山で採った椿の木を燃やし、その灰を媒染剤として使う。植物染は時間を要する。経験による勘とひたすら根気の手作業である。絹の糸綛(いとかせ)にゆっくりと色がついていく様子を、竹田の人びとも食い入るようにみつめている。三日目の夕暮れ、ようやく高貴な色にふさわしい濃紫があらわれた。緯糸(よこいと)だけでも四百株を使って染めたことになる。(吉岡2007.224頁)
紫染め
The plant from which purple dye is obtained is an endangered species. Mr Yoshioka works with farmers in Taketa to revive its cultivation.
Murasakisō (purple gromwell)
The colourant is contained in the roots.
Successful dyeing requires intimate understanding of the effect temperature and dye concentration. How the thread or close is dipped is also very important.
The whole range of purples can be made using dye extracted from just the one type of plant.
The colour obtained depends on the number of times the cloth or thread is dipps.(Victoria and Albert Museum, “In Search of Forgotten Colours - Sachio Yoshioka and the Art of Natural Dyeing” https://www.youtube.com/watch?v=7OiG-WjbCQA&t=11s(13:23~17:40)をトリミング、字幕文にはピリオドを付した。)

 食い入るように見つめたその先に「色に出づ」ることがある。助詞の「に」を、変化の結果ばかりでなく、変化するところを比喩とするという、二重のかかり方で用いられているのだと考えられる。

 託馬野(つくまの)に 生(お)ふる紫草(むらさき) 衣(きぬ)に染(し)め いまだ着ずして 色に出でにけり(万395)

 託馬野に生えている紫草を採ってきてものすごく手間暇かけて衣に染めた。うまくできたからしめしめと思っていた。なぜといって馬子にも衣裳、きれいなおべべで少しでも私のことをよく思ってもらいたいじゃないの。そんなことをずっと思いながら過ごしていたら、その衣をまだ着て見せていないのに、私の恋心はすでに表にあらわれてしまっていたんだということに気づいた。そりゃあ、染め物の時にうまく色が出たのだから。

 このように、「色に出づ」という比喩表現は、上代のファッションセンスに基づいた卓抜な表現であった。

(注)
(注1)時代別国語大辞典107頁。白川1995.に、「「しよく」は……色然・色斯しきしなどはみな驚き、昂奮する意であり、本来光彩などのことをいう字ではない。国語の「いろ」もいわゆる顔色・好色の意が原義であった。色は人の顔色の美好なることから、色彩の美の意に転じてゆくもので、その点は国語の「いろ」と同じである。」(137頁)とあるが、万葉集の例にそのような傾向は見られない。
(注2)万2307番歌は、「上に置く「白露」には、「黄葉」の色が映る。そこで「色」の比喩になる。」(多田2009.243頁)、「上二句は、「色葉にも出で」を導く序詞。「色葉」は、色づいた葉。恋心の現れた顔色を譬えとしての表現か。」(新大系文庫本万葉集225頁)、「色端」を「顔色の端」(伊藤2009.476頁)といった解釈のほか、「原文、諸本に「色葉二毛」とあり、宣長の誤字説による。「は・も」は強意。表に出すこと。例多数。」(中西1980.396頁)として、「於黄葉置白露之色二葉毛不出跡念者事之繁家口」ととり、「黄葉に置く白露のようには目立たせまいと思っているのに、」とする解釈も行われている。
 「色」という言葉について、上代の人の感覚が理解されていないように感じられる。衣に植物の色素を摺りつけて染めることも行われていた。

 鴨頭草(つきくさ)に 衣色どり 摺らめども 移ろふ色と 称(い)ふが苦しさ(1339)
 月草(つきくさ)に 衣は摺らむ 朝露に 沾(ぬ)れての後は 移ろひぬとも(万1351)
 住吉(すみのえ)の 浅沢小野の かきつはた 衣(きぬ)に摺りつけ 着(き)む日知らずも(万1361)

 植物の色素がそのまま衣に染まることを言っていて、上代の人たちは、衣類に発現するものとして「色」を感じ取っている。では紅葉(黄葉)した葉から赤や黄色の色素を抽出してそれを染め物に使えるかと言えば、ほとんどできない。真っ赤に色づいたモミジの葉を摺りつけても色は移らず、煮出せば赤い液はできるが、繊維に染めることはほぼ無理で、くすんだピンク色にしかならない。しっかり赤く染めたければ、紅花や茜などを使うのである。
 つまり、万2307番歌の、「黄葉に置く白露の色端にも出でじ」とは、「黄葉」が衣類を染めるのに全然役に立つ代物ではないし、ましてやその上の「白露」などまったく発色することはないと言っている。
 「色」の関心の中心はファッションであった。「色に出づ」という表現も、布や糸が染料の色に染まることをもって言葉にしている。
(注3)よく知られるように、古代語において、「色」として概念化されていたのはもとは4色に過ぎない。赤・黒・白・青である。現代に色名としてある名詞に、シを後接してそのまま形容詞となるものがもとからあった色の名であると考えられている。今日思われている赤・黒・白・青の色のゾーンとは異なり、「明(あか)し」/「暗(くら)し」の二項対立から赤と黒が認識され、また、「灼(しる)し」から白、そのほかバイオレット~ブルー~グリーンの領域は漠とした色として「青(あを)し」とする青の一語でまかなっていた。その後の段階で、染料や顔料の原材料の名から、どんどん新しい色名が生まれて行ったものと考えられている。それぞれの民族によって色の認識がそれぞれにあることについては、エヴァンズ=プリチャード1978.参照。このことは、ヤマトコトバに「色」というものがあらかじめ存在しているのではなく、人間が作っていっているという認識、「み苑生」に植物を植えることに始めて根気のいる作業をくり広げるものであるという実践感覚であったことを示唆している。

(引用・参考文献)
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版万葉集二 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
伊原2010. 伊原昭『増補版 万葉の色─その背景をさぐる─』笠間書院、2010年。
エヴァンズ=プリチャード1978. エヴァンズ=プリチャード著、向井元子訳『ヌアー族─ナイル系一民族の生業形態と政治制度の調査記録─』岩波書店、1978年。(平凡社(平凡社ライブラリー)、1997年、再出)(原著:Evans-Pritchard, E.E. 1940. The Nuer: a description of the modes of livelihood and political institutions of a Nilotic people, Clarendon Press, Oxford.)
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。(『普及版』昭和58年。)
駒木1976. 駒木敏「「色に出づ」考─慣用句と発想法─」『萬葉』第九十二号、昭和51年8月。学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir?s=%E8%89%B2%E3%81%AB%E5%87%BA%E3%81%A5&x=0&y=0
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店、2014年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
吉岡2002. 吉岡幸雄『日本の色を染める』岩波書店(岩波新書)、2002年。
吉岡2007. 吉岡幸雄『日本の色を歩く』平凡社(平凡社新書)、2007年。

(English Summary)
There is an expression “to appear in color” (いろづ) in Manyoshu. This idiomatic expression was interpreted as the complexion, but it has come to be considered more broadly to refer to exposure such as gestures and actions. It can be understood from the examples of Manyoshu, but the meaning of the word “color” (いろ) remains ambiguous. In this paper, we also pay attention to the usage of the particle "ni" (に). It becomes clear that the particle "ni" (に) was a combination of the two usages, such as "to become" and "similar to". “To appear in color” (いろづ) included both the process of color development and the result of color development. That is, it was a self-double-binded representation. We can understand that the ancient Japanese were deeply interested in dyeing clothing and that “to appear in color” (いろづ) was a metaphorical expression of dyeing.

人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について

2021年03月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
安騎野の歌

 万葉集、安騎野歌群は議論がかまびすしい(注1)。とりわけ、万48番歌は、その訓みから議論の対象となっている(注2)。次の万49番歌は、「時」という表現に新しさをおぼえるとして考察の対象となっている。短歌の構成は、全体として、時系列に従って展開されていると考えられている。本稿では、万49番歌の基本的な読解について検討する。
 はじめに歌群の原文と今日の一般的な訓読を示す。

  軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌
 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而
  短歌
 阿騎乃野尓宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念尓
 真草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曽来師
 東野炎立所見而反見為者月西渡
 日雙斯皇子命乃馬副而御猟立師斯時者来向

  軽皇子の安騎野に宿りし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
 やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて (万45)
  短歌
 安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寐も寝らめやも いにしへ思ふに(万46)
 ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)
 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(万48)
 日並(ひなみ)しの 皇子の命(みこと)の 馬並(な)めて 御(み)狩り立たしし 時は来向ふ(万49)

 万48番歌、「東野炎立所見而反見為者月西渡」については、どう訓んだら正解なのか永遠にまとまらないであろう。文字数が少なすぎる。一方、万49番歌は、上の通訓がほぼ定訓とされている。一句目と二句目のつづきを「日並(ひなみ)し 皇子の命の」とする説もあるが、大した違いではない(注3)

万49番歌の「来向ふ」

 今日、結句の「時は来向ふ」について、大風呂敷を広げた議論が通行している(注4)。しかし、単に歌を聞いただけで、皇統譜正統の皇子の再生、「日の皇子」再誕の奇跡、迫り来る時とそれを待ち設ける主体の心情の融合などといった壮大な意味合いを認めることはなかなかに考えにくい。「時は来向ふ」という表現は、諸解説書に、「……狩を催された、その季節がいよいよ来た。」(新大系本萬葉集47頁)、「…… 狩を催された 同じその時刻になった」(新編全集本万葉集53頁)、「……かつて狩場に踏み立たれた時刻は今まさに到来した。」(古典集成本萬葉集70頁)、「狩を催されたその時が、いよいよ迫ってくる。」(稲岡1997.40頁)、「……猟に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。」(伊藤1995.151頁)、「……今しも出猟なさろうとした、あの払暁の時刻が今日もやがて来る。」(中西1978.73頁)、「……御狩にお出かけになった時刻が今や迫って来る。」(古典大系本萬葉集35頁)、「……御猟を催された、その季節がやつて来た。」(澤瀉1957.327頁、漢字の旧字体は改めた。)などと訳されている(注5)。「時は来向ふ」という言い方において、「時」の用法として目新しく、新境地を開いたものであると考えられているが、はたしてそうなのであろうか。もしそうであるなら、ひとつの表現として後に引き継がれていくはずであろう。しかし、万葉集中にばかりかその後においても、特定の「時」が 「来向かふ」という表現は見られない。類例に次のようなものがある。

  霍公鳥(ほととぎす)を感(め)づる情(こころ)に飽かずして、懐(おもひ)を述べて作る歌一首〈并せて短歌〉
 春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響(とよ)め さ夜中に 鳴く霍公鳥(ほととぎす) 初声(はつこゑ)を 聞けばなつかし 菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 貫き交(まじ)へ 蘰(かづら)くまでに 里響め 鳴き渡れども なほし偲(しの)はゆ(万4180)
 霍公鳥(ほととぎす) 飼ひ通(とほ)せらば 今年経(へ)て 来向ふ夏は まづ鳴きなむを(万4183)

 季節には四季がある。万4180番歌に、春が過ぎたら夏が来るのは当たり前である。万4183番歌は万4180番歌の反歌である。テーマは霍公鳥であり、万葉時代から初夏の景物とされている。季節として夏しか眼中にない。今年(の夏)を経れば次は(来年の)夏に関心が向く。だから非常に適切な語の使い方として、「夏は来向ふ」、「来向ふ夏」と言っている。やってきて真正面に対峙する形で向き合うことになる。「来(き)向ふ」という語は、時代別国語大辞典に、「近づいてくる。迫りくる。」(246頁)、岩波古語辞典に、「(時季が)こちらに向って近づいて来る。」(372頁)と情緒的に釈すが誤謬を含んでいる(注6)。「向ひ来(く)」ではない。
 まったく当たり前のことを歌うために使われているのが「来向ふ」という言葉である。当然やって来ることを示すために用いられている。面と向かって真正面な状態になることを意味する「向ふ」を「来」に後付した言葉である。そういう言葉なのだからそういう使い方がふさわしい。万49番歌の「時」を、今日の諸説のように捉えて、気分ばかり一人歩きした解釈は差し控えなければならない。

武田祐吉氏の先見の明

 「来向ふ」という言葉が当然の推移を表すとすると、「時は来向ふ」という言い方は落ち着かない表現である。助詞の「は」は、取り立ての助詞とされ、その機能を「分説」と呼ばれている。助詞「も」を「合説」と呼ぶのに対比されている。「分説」とは、「は」が承ける事物を他物と区別して特立させることを指す。小田2015.があげている例を示す。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮[……]かなひぬ今(=他ノ時デハナク、今コソハ)漕ぎ出でな (万8)

 「今」という言い方は、他の時を排除して今こそは、という意味合いを含み持っており、素直に受け取ることができる。しかし、上の万4180番歌に、「春過ぎて夏(=他ノ秋ヤ冬デハナク、夏コソハ)来向ふ」という形は不自然である。「来向ふ」ことは自明の必然を表すのだから、春が過ぎたら次は夏に決まっており、秋や冬ではないとわざわざ言う必要はない。
 このことを万49番歌に確認すれば、理解に至らないことがわかる。「御狩り立たしし時(=他ノ時デハナク、出猟サレタ時ハ)来向ふ」と言い回すことは、「来向ふ」ことは必定の事柄でしかないから、承けていない他物と区別する必要がない。「時」と述べ立てることで、何を表したいのであろうか。
 万葉集の「時」の用例については、粂川1978.に網羅的な調査がある。「時は」と続く例は、「時には」(when)の意味で使われている例が多数ある。万292・423・892・929・1703・1809・2341・2852・3030・3036・3951・4231番歌である。そのほかには、「時は成りけり」(万439)、「時はしも何時もあらむを」(万467)、「時は経ぬ」(万469)、「時は今は春になりぬ」(万1439)、「時は過ぐれど」(万1703)、「時は過ぎねど」(万1855)、「時は来にけり」(万2013・3987)、「時は過ぐとも」(万3493或本)、「時はあれども」(万3591)、「時はあれど」(万3891・4301)がある。「時しは」と続く例としては、「時しはあらむを」(万585・3957・4214)がある。時間が経過した、その時に至った、そういう時がある、といった現代でもふつうに使う例ばかりである。
 そんななか、万49番歌ばかり異例中の異例の用い方であるとは考えられない。助詞の「は」によって取り立てて分説する機能は、「来向ふ」という必然を表す意味に不釣り合いである。
 再度原文を見てみると、西本願寺本などには「者」とある部分が、元暦校本に「志」と記されている(注7)。この「志」は顧みられなければならない。「御狩り立たしし時来向ふ」と訓む場合、この「し」は、やはり取り立ての助詞ではあるが、ただ単に取り立てているばかりで、他の事物を排斥する意味を持たない。同じく小田2015.のあげている例を示す。

 大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山 こもれる 大和うるわし(記歌謡30)

 この「し」の場合、「し」がない場合の「大和うるはし」でも意味は一応通じる。大和って素敵ね、とだけ歌っている。 同様に、「御狩り立たしし時し来向ふ」でも、かつて狩りをした時間がやって来て真正面に対する、と言っているまでであり、分説して他の「時」を考える必要がない。出猟なさった時が当然の流れとして顕在化した、ということは、平たく言えば、ちょうど時間となりました、と簡潔に歌っているものと理解されることになる。
 元暦校本の「志」字をとる見解は、武田1955.にすでに示されている。「時シ、諸本には時者とあるが、元暦校本に時志とあるのがよい。シは強意の助詞で、強く、時を指定する。草壁の皇子様が馬を並べて御猟におでましになった時節は、いま来たり向った。冬の季節の来たのをいう。この歌に至って、はじめて皇子の御名を出して、全篇のしめくくりとした。」(29頁)とある(注8)。ここで「冬の季節」と考えているが、筆者は、狩りが冬に限定されるとは決められない点を含めて、あたりが明るくなってきた時間帯のことを指すと考える。ちょうど時間となりました、というのが、聞いている人たちに一番わかりやすいからである。 周囲で聞いている凡人にもわかりやすくなければ、誰も聞きとどめることはなく、歌は歌われた瞬間に消えて滅ぶ。高邁な皇統思想を掲げられても、人だかりは散り散りになっていくばかりであろう。

万39番歌のおもしろさ

 (注4)に記したように、近現代の見方からすでに色々と解釈を広げてしまってきた。しかし、言葉の在り方としてありえない想定の上に仮構する形而上学は無意味である。万39番歌の表現のおもしろさは、むしろ別のところにある。

 日並(ひなみ)しの 皇子の命の 馬並めて 御(み)狩り立たしし 時し来向ふ(万49)

 「日並(ひなみ)しの皇子の命」というのは、この歌が歌われた現時点において安騎の野に狩りに出掛けて来ている軽皇子の父、草壁皇子のことである。諸説に一致している。この時点で、その草壁皇子は既に他界している。つまり、過去に草壁皇子も狩りに出掛けたことがあって、やはり野営して臨んでいたということであり、それとちょうど同じ光景が今ここに繰り広げている、それを歌っている。これまでの解釈にも行われているところである。
 筆者は、草壁皇子のことを「日並(ひなみ)しの皇子の命」と呼んでいる点に注目する。今日研究者に誤解されているように、日に並ぶというほどに皇統意識が高まめられているといったことではない。何を言っているのか。「日」に「並」ぶとか、「馬並めて」というように、並んでばかりいる。その並び方は行列を作って縦に並ぶのではなく、横並びの様を言っている。狩りの時に馬を縦列に進めても、獣は逃げるばかりだから、先頭の馬に乗る人しか弓を射ることができず用を足さない。

 遂に与(とも)に遊田(かり)を盤(たのし)びて、一(ひとつ)の鹿(しし)を駈逐(お)ひて、箭(や)発(はな)つこと相(こもごも)辞(ゆづ)りて、轡(うまのくち)を並べて馳騁(は)す。(雄略紀四年二月)
 即ち衣(みそ)の中に甲(よろひ)を服(け)し、弓矢を取り佩(は)かし、馬に乗りて出で行き、儵忽(たちまち)の間に馬より往(ゆ)き双(なら)びて、矢を抜き其の忍歯王(をしはのみこ)を射落す。(安康記)(注9)
 たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野(万4)
 石瀬野(いはせの)に 秋萩しのぎ 馬並めて 初鷹猟(はつとがり)だに せずや別れむ(万4249)

 万49番歌の歌の眼目は、並ぶことの機知にある。日並しの皇子が馬を並べていた、横並びでどんぐりの背比べ、当たり前のことを印象づけ、「御狩り立たしし」が当たり前に訪れた、と人麻呂は歌っている。つまり、狩りの時は当たり前に到来したこと、春が過ぎて夏が来るように必然的な時間の進展であると申し述べている。それを「来向ふ」と表現している。時という言葉に抽象性を認める余地はない。その時が向こうからやって来る(The time is coming from over there.)などと言っているのではなく、その時がとうとう訪れた(At last, the time has come.)と言い放っている。
 これは、時計を手にした人たちが思うように、まったく同時刻に狩りが行われたことを示すものではない。並んでいるのだから並んでいるのであって、同様に経過するのは至極当然のことである、と言っているまでである。あたりが明るくなってきて狩りが行われようとしている様について、言葉遊び的な使い方として、「並」ぶという言葉なのだから特段のことではなくて並のこと、ふつうのこととして、「時し来向ふ」と歌っている。
 ここに、反歌三首目の「月西渡」の指し示している意が理解されよう。月が西に渡っていったとき、反対に、東から日が出始めている。夜の鵜飼猟と違い、どんなに月光が明るかろうが、日の光に明るくならなければ馬を駆って狩りなどできないから、満月に近い日に安騎の野へ行ったとわかるのである。「月西渡」に対して、第四首は、「日東出」を意味していよう。そしてその結果、「日雙斯皇子命」の「日に並(配)(なら)ぶ」こととは、月のことを表していると悟ることができる。

「日雙斯皇子」はヒナミシノミコ

 神野志1992.に、「日雙斯皇子」はヒナミシミコと訓むべきで、特別な存在として位置づけられており、それはこの万49番歌に淵源があるとする。表記上、「日雙斯皇子命」(万49)、日並皇子尊(万110題詞・167題詞)、日並皇子(天平勝宝八歳六月廿一日東大寺献物帳)、日並知皇子尊(続紀文武・元明・元正前紀、天平元年二月甲戌)、日並知皇子命(続紀慶雲四年四月庚辰、天平宝字二年八月戊申)、日並知皇太子(続紀慶雲四年七月壬子)、 日並所知皇子命(万葉集巻第二目録、本朝月令所引右官史記)、日並所知皇子(七大寺年表所引竜蓋寺伝記)、日並御宇東宮(粟原寺娠盤銘)などとあるからという(注10)
 神野志1992.によれば、万49番歌の「日双斯」は、「日にあいならぶ」意の「ヒナミ」に、過去の助動詞「シ」がついたもので、草壁皇子の皇子である軽皇子が、人びとにあいだに正統な皇位継承者として意識されはじめた頃、人麻呂が独自に歌に詠みこんだものと推定しており、まだ正式な称号とみなすことはできないが、「日並」や「日並知」は、称号ないし諡号となっているとする。続紀で統一して用いられている「日並知」という表記は、多く皇位継承に関する記事に現れているから、その正統性を喚起しているのだという。その場合の「知」は「シラス」、すなわち統治の意と解されるべきもので、「日並所知」、「日並御宇」などは、さらにその意識が発展した表記と捉えている。
 しかし、続紀を記した文官が「好字」を使っていたことと、万葉集の当て字、戯書、万葉仮名の混在する状態とを同じ俎上に議論することはできない。ましてや、続紀に「日並知皇子尊」は皇統譜に現れるのが始めであり、正統性がどうということではなく、系譜を示すためにのみ現れている。
 ヒナミシノミコノミコトと呼ばれ始めた当初、人々の間でそれが通用したのには、当時の人々がみな納得に至ったからそう呼ばれ始めたことに違いない(注11)。当時の人々が常識として持っていた基本的認識がどのようなものであったかは、古事記や日本書紀から推し量ることができる。ヒナミと関わる事柄は、記紀の中で、「日に配(なら)」ぶ存在とある月神、いわゆる月読尊(つくよみのみこと)を指す(注12)

 次に月の神を生みたまふ。一書に云はく、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つくよみのみこと)、月読尊(つくよみのみこと)といふ。其の光彩(うるは)しきこと日に亜(つ)げり。以て日に配(なら)べて治(しら)すべし。(次生月神一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊。其光彩亜日、可以配日而治)(神代紀第五段本文)
 月夜見尊は以て日に配べて天(あめ)の事を知(しら)すべし。(月夜見尊者可以配日而知天事也。)(同一書第十一)

 月読尊もシラス(治・知)(注13)ことが求められている。すでに神代紀に「知」と書いてある。続紀で「日並知」と出てきて真新しいことは何もない(注14)
 草壁皇子のクサカベという言葉は、日下部とも漢字表記される。月は東に日は西に、と言われるのは、満月の月の出を表している。万48番歌の状況は、訓の定まりきらずとも、日は東に月は西に、であることに間違いはない。クサカを日下と書くことが知られていたら、日が下っていって現れる月のことが草壁皇子に例えていることは最初からわかっている。神代紀に記されるとおり、日に配(なら)ぶ存在だから、ヒナミシノミコノミコト(日雙斯皇子命・日並知皇子尊)ということですでに了解されていた(注15)
 神野志1992.が、万49番歌の「日雙斯皇子」はヒナミシミコと訓み、ヒナミシノミコとしない過去の助動詞の用い方、「日並(なみ)し」は、かつて日に並んだことがある、の意になる。万49番歌の状況は、日は東に月は西に、の真っ最中である。現況を照らし合わせて詠むのにふさわしいのは、過去のこととして突き放すのではなく、ヒナミシノミコノミコトという固有名詞の中に状況が隠れていることを示しているとするほうがふさわしい。すでに囁かれていた通称を人麻呂は持ち出して歌っているものである。歌を披露してから、ヒナミシとは、クサカベを日下部とも書くからで云々と説明していたのでは、興醒めしてしまう。そして、ヒナミシノミコという呼び名は、呼びかえた別称なのだから、草壁皇子に限って用いられた特別な称号と考える必要はない(注16)

おわりに

  筆者はまことに単純な解釈を開陳しているばかりである。先行研究にこれまで築き上げられてきた「時」に関する形而上学的解釈は忘れ去られなければならない。もし仮に形而上学が罷り通ると言うのであれば、どこかに後を引き継ぐ類例がなければならない。うまい表現が行われているのなら、聞いていた誰かが真似をしないはずはない。他に例を見ないでこの歌ばかりをもって、人麻呂の時間表現が先駆的であったと褒め上げてみたところで、それらはすべて虚構である。以上、万49番歌の訓読と解釈を正した。

(注)
(注1)この歌群に、何のために「軽皇子宿于安騎野」しているかについては、狩り、成年式、郊祭といったキーワードで説明されている。真偽は議論されなければならないが、歌をきちんと訓むことができていなければ何ら解決されないので後回しにし、後考に委ねる。
(注2)信頼ある議論として、佐佐木2004.をあげておく。
(注3)神野志1992.に、漢字表記を殊更にとりたてる議論がある。
(注4)多田2017.に、「第四反歌は、一夜を過ごしたあとの払暁の時が描かれる。「時は来向きむかふ」の「時」は、オモヒの呪力によって、向こう側の世界から引き出されてきた「古の時」を意味する。そこに亡き草壁(日並)皇子の姿がはっきりと浮かび上がる。しかも、その草壁の姿は、いままさに出猟しようとする軽の姿とも重ねあわされている。それは、軽を草壁の再生として捉え、即位の資格をたしかなものとするためだった。「日の皇子」再誕の奇跡を成就しようとするところに、この一群の歌の大きなねらいがあった。」(75頁)とある。
 伊藤1995.に、「[万48番歌に]追い継いで、
 日並皇子の命、あの我らの大君が馬を勢揃いして猟に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。(四九)
という第四首が詠まれ、一連がしめくくられることになる。亡き皇子が猟を踏み立てたかつての一瞬は、そのまま現身うつせみの皇子が猟を踏み立てる現在の一瞬と重なっている。「古」(父)の行為および心情と「今」(子)の行為および心情とがここで重なり、亡き皇子への追慕は完全に果たされたのである。追慕の達成は、軽皇子がすべてにおいて父草壁になりかわったことを意味する。その草壁は単なる皇子ではない。歌そのものがいうように、「日並皇子の命」、つまり日(天皇)に並ぶ皇子なのである。ということは、「み狩立たし時は来向ふ」とうたい納められた時、軽皇子は皇統譜正統の皇子である「日並皇子の命」そのものとして再生されたことを意味する。追慕の達成は、表現における新王者決定の儀式でもあった。ここには、幻視が事実を呼びこんでしまう、古代詩の壮絶な輝きがある。(151~152頁)とある。
 稲岡1991.に、「第四首目は、朝猟りに出で立つ時刻を待つ一行の敬虔な、しかもきびしい緊張感を伝える秀歌である。歌形はまことに単純で、一、二句には固有名詞がそのままとりいれられている。 ……日に並ぶ、すなわち天子と同格の皇子という、文字どおりの賛仰の心が強く印象されるばかりでなく、荒野にのぼる日のイメージさえも、それは喚起する。……結句の「来向かふ」は、たんに「来た」とか「来る」というのとは異なっている。或る時刻の到来を身に沁みて受けとめている気持ちが「来向かふ」にこめられ、過去の助動詞「し」の働きと相いまって、過去の時刻が現前のことのようにあらわされるのである。これをたんに、帰らぬ過去に対する嘆きの表現というのは当らないだろう。「み狩り立たしし時」は、まさしく今迫り来るのであり、人麻呂たちはその時に向きあっている。……「来向かふ」には迫り来る時とそれを待ち設ける主体の心情の融合した特別の表現性がある。……皇子の生前を「古」として想起する長歌および第一反歌から、草壁の出猟を現前のことのように歌う第四反歌まで、想起の深まりとともに、心情的には過去との隔たりを次第に狭める配列になっていることも注目すべきだろう。」(268~269頁)とある。
 伊藤1990.に、「第四短歌は、かつて一つのできごと(草壁の遊猟)をともに体験した集団が、以前と同じ場所(安騎野)で、同じ時刻(曙光さす時刻)に、そのおりにとったのと同一の行動を起そうとするさまを描いていることになる。これによれば、人麻呂たち=軽皇子の遊猟の供奉者たちは、現実と過去(草壁のとき)とがほぼ完全に重なりあった状況に直面していると言ってよい。こうした状況のもとで、あるいは、こうした状況を目のあたりにした体験に基づいて、「日並の皇子の命」の狩の時がいままさに到来せんとしているとうたうとき、人麻呂は、草壁と軽とがさながら同一人であるかのように観じていたものと考えられる。……安騎野の歌の場合もその例にもれないことは、第四短歌に「来向ふ」とあることによって明瞭になろう。「来向ふ」とは、あるものが我れの前方から(未来の方角から)我れのもとに到来して我れときあう(我れに直面する)ことをいう。「来向ふ」時は、かつて草壁皇子が遊猟したその時にほかならない。しかも、その時は、いままさに狩をはじめようとする軽皇子たちの前方、すなわち、彼らにとっての未来から、彼らのもとを訪れ、そこにおいて蘇生(反復)する。それゆえ、安騎野の歌は、第四短歌の時点で、未来の方角から過去を迎えいれていることになる。……したがって、安騎野の歌の時間構造は、「過去→未来」という流れをもつ時間と、「未来→過去」という流れをもつ時間とが絡みあう構造としてとらえられる。そして、この場合、「未来→過去」という流れをもつ時間のなかで未来から到来するものが、じつは過去(草壁皇子の遊猟の時)にほかならない点に留意するならば、その絡みあいのもと、安騎歌の歌の時間は、全体として、円環的な形態をとると言ってよかろう。」(190~192頁)とある。
(注5)「御狩り立たしし時」について、時刻ととるか、季節ととるか、二通りの考え方が行われている。
(注6)多田2010.に、「「来向ふ」は、こちらに向かってやってくる意。……季節が異界から訪れるものであることを意識。」(135頁)などとある。神仙思想によらず、季節はこの世にあるものとして何か不都合があるのだろうか。
(注7)影印は、佐佐木2004.6頁、武田1956.219頁、元暦校本萬葉集第一冊、元暦校本萬葉集〔巻第一〕参照。
(注8)武田1956.に、同じく元暦校本の「時志来向」をとりトキシキムカフと訓んでいる。「キムカフは来つて相対する義で、今や皇子の猟にお立ちになつた、その時節になつたというのである。亡き皇子の遺跡に来て、正に時を同じくした感慨を述べている。……【評語】……人麻呂は、草壁の皇太子の殯宮に奉仕しており、今その遺子である軽の皇子の出遊に御供して無量の感慨があり、ここにその作を成したので、その代表作の一である。」(219~220頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注9)この例は、馬を並べるように接近することで射殺したということであるが、馬を並べて進むことは狩りの時の常套行為だから、装って近づくことができたのである。
(注10)写本等により異動がある点については、新大系本続日本紀241頁参照。
(注11)遠山1998.は、「通称にあらざる表現として、「日雙斯皇子命」が草壁皇子を指すことができるためには、指示が受けてに了解されなければならない。了解は成立したと本論考の筆者は思う。」(240頁)とし、ヒナミシミコノミコトは「安騎野歌内において、誰と分かるように配されている」(246頁)というのであるが、電光掲示板に文字が記されて識字能力のある人たちが読んだものではない。
(注12)万167番歌の前の題詞に、「日並皇子尊の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首、并せて短歌(日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首〈并短歌〉)」とあり、万168番歌の前に、「反歌二首」とあって、二首目にあたる万169番歌に、「あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも」とある。「日」をもって天皇を、「月」をもって皇子を例えているとする説は古くからある。山田1932.に、「この「月」は上の「日」に対して皇子尊をたとへたるなり。而してかく月にたとへ奉ることは「日並皇子尊」と申し奉る意にもよくかなへり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117023/162)と指摘されている。
 神野志1992.はその点について、下注に「或本に、件の歌を以て後皇子尊(のちのみこのみこと)[高市皇子]の殯宮の時の歌の反と為せり。(或本以件歌為後皇子尊殯宮之時歌反也)」と異伝のあることから、草壁皇子ばかりか高市皇子までも「日並」に比喩されるのは不審としてオミットしている。割注を付けたのは万葉集に採録した人であろう。その人が言っていることは、別の本でこの歌は後皇子尊の殯宮の時の歌の反歌としている、と触れているに過ぎない。彼の判断で万167番の長歌の反歌であると認め、ここに記している。すなわち、「或本」に書いてあることは間違いだろうけれど、一応そういう本があったからここに書き留めておくというものである。草壁皇子を月に例えていることに賛同しているということである。
 なお、筆者は、万169番歌の「日」は太陽のことで、天皇のことを例えているものではないと考える。昼間に殯宮の祭祀が執り行われていることを詠んでいるばかりであって、日は照っているけれど月に当たるクサカベ(草壁・日下部)の皇子はお隠れになって惜しいことであると歌っているのであろう。「日並皇子尊殯宮之時」は、持統紀三年三月条に、「乙未に、皇太子草壁皇子尊薨(かむさ)ります。」とある直後のこととされ、天武天皇が亡くなってから皇后(後の持統天皇)が「臨朝称政(みかどまつりごときこしめ)す。」(持統前紀)ことをしていて、すぐに大津皇子の謀反事件のごたごたがあり、持統紀四年正月条に、「皇后、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。」と正式に即位している。天皇位が空位状態の時、天皇のことを例えて歌にするとは思われない。
(注13)「知らす」は「知る」に尊敬の助動詞「す」が付いた形の語である。「す」は奈良時代に四段活用で「知らす」も同様に活用する。「知る」という一つの言葉に、占有・領有・統治・支配の意と、認識・理解の意とが落し込まれている。古典基礎語辞典は、「意味的には隔たりがある」(622頁、この項、我妻多賀子。)とするが、白川1995.は、「「しる」は全体的に所有すること、「る」ことによってその全体を把握することをいう。「領る」ことは尊貴の人のなすところであるから、「令知しらす」という敬語的な形の語がある。……「知る」から「る」となったのか、「る」から「知る」となったのか、その両説に分れているが、漢字の字義においても、知・領にいずれも「知る」意があり、また支配する意がある。「む」とも関係のある語である。」(405頁)としている。
 神代紀第五段本文に、「其光彩亜日、可以配日而治。」とあるとおり、光がきちんと届いて対象が見えるから、「知る」ことも「領る」ことも可能なのである。不確定性原理の基のようなことが述べられている。領有の範囲を示すための占有のしるし(標)が見えないところは、領ることがまともにできないばかりか何が起きているか知ることもできない。
 すなわち、天照大神が天の下を領有するという発想は、太陽が光を届けるからであり、天照大神自身が世界を知るところとなり、ならばそのゆえに世界を領有するということにつながるということになる。論理哲学の循環論法のような申し述べがくり広げられている。その天照大神を天皇は祖先としているだから、支配者として国土を領有することになって当たり前であるとその正統性を主張することになる。詭弁ではないかとも考えられるが、「知る」という言葉の語義がそうなっている以上、ヤマトコトバの系から脱しない限り、循環論法に巻かれてしまう。律令以前の無文字社会における古代天皇制の正統性の主張はここにあり、それ以外に何ら付け足すところは存しない。
(注14)ヤマトコトバにシル、シラスという言葉が既に使われており、それを漢字でいかに表記したかということばかりである。万葉集には、「知る」の未然形シラに「斯良」(万794(2)・797・800・856・878・881・886・888)、仮名書きする記歌謡にも「斯良」(記22・44(2)・73)と用いられている。
(注15)クサカを日下と書くことについては、拙稿「日下」=「くさか」論」参照。
(注16)遠山1998.に、元興寺伽藍縁起に「日並四皇子」とあるのが敏達天皇のことを表していることを指摘し、「日雙斯皇子命」が草壁皇子に限られるものではないから通称ではないとする見解が述べられている。筆者は、クサカベを日下部とも書くことからヒナミシノミコと呼ばれたとした。敏達天皇は、紀に「渟中倉太珠敷尊」、記に「沼名倉太珠敷命」と記され、ヌナクラノフトタマシキノミコトのことである。ヌナクラノフトタマシキと聞いて思い浮かぶのは、ヌバタマノという枕詞である。ぬばたまは、黒い珠、黒いヒオウギの実のことかとも考えられており、「黒」「夜」「宵」「月」「夢」などにかかる。「夜」にかかるから関連する「月」にもかかると考えられているが、黒(くろ)と暗(くら)とはアクセントの相違から語源的に同根の語と言い切れなくとも上代に同系の語と捉えられていたであろう。丸いものが黒光りすることと丸いものが暗い中で光ることは同様の事柄であると認識されていたと考えたほうがわかりやすい。万葉集には、「ぬばたまの 夜渡る月」(万169・302・1077・1081・1712・2673・3007・3651・3671・4072)という慣用表現のほか、「ぬばたまの その夜の月夜」(万702)、「ぬばたまの 月に向ひて」(万3988)、「ぬばたまの 今夜の月夜」(万4489)といった例が見られる。
 すなわち、ヌナクラノフトタマシキを、ヌ(瓊、ニの母音交替形)+ナ(連体助詞)+クラ(暗)+ノ(連体助詞)+フト(太、美称)+タマ(珠)+シキ(敷、美称)のことだと理解した人が、それに似つかわしいものの代表として、黒真珠ではなくて月をイメージしてヒナミシノミコ(日並四皇子)と当てたということに他ならない。そのような呼び名が敏達天皇の存命中からあったか、今伝わる元興寺伽藍縁起の成立の上限が天平19(747)年までしか遡らないからその時期に付与されたか、そのいずれであるかと問われれば、知恵の豊かさや「日に配(なら)ぶ」のは月のこととしか考え及ばない人によると考えられるから、従前から囁かれていたものとするのが妥当である。
 ヒナミシノミコという呼び名は、草壁皇子に特別な称号ではないばかりか、柿本人麻呂の創作したものでもなく、おもしろおかしくある種陰口を叩いていたことがあったから、万49番歌を聞いた人々に瞬時に支障なく受け容れられたものである。歌は歌われるとともに消えていく一回性の経験にしてアウラ(ベンヤミン)を持っている。いま何と言った? と聞き直すことなく納得されなくてはならない。ヒナミシミコなる新称が門付け歌人の人麻呂によって歌われたわずか数秒をもってして、世の中に流布し始めるようになることなど、ありえようはずがないのである。

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時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。 
新大系本続日本紀 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系12 続日本紀 一』岩波書店、1989年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集 一』岩波書店、1999年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、平成6年。
武田1955. 武田祐吉『万葉集全講 上』明治書院、昭和30年。
武田1956. 武田祐吉『萬葉集全註釈 第3(本文篇 第一)』角川書店、昭和31年。
多田1990. 多田一臣「安騎野遊猟歌を読む―万葉歌の表現を考える―」『語文論叢』第18号、1990年10月。千葉大学学術成果リポジトリhttp://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900051977/
多田2010. 多田一臣『万葉集全解 7』筑摩書房、2010年。
多田2017. 多田一臣『柿本人麻呂』吉川弘文館、2017年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
遠山1998. 遠山一郎『天皇神話の形成と万葉集』塙書房、1998年。
土佐2016. 土佐秀里「夜の従駕者 : 赤人「吉野讃歌」と人麻呂「安騎野遊猟歌」の秘儀性」『國學院大學紀要』第54巻、2016年。國學院大學図書館https://opac.kokugakuin.ac.jp/webopac/TC01610674
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
西澤1993. 西澤一光「人麻呂「安騎野の歌」の方法―虚構の創出と時間の贈与―」『青山學院女子短期大學紀要』第47巻、1993年12月。青山学院大学・女子短期大学学術リポジトリhttps://www.agulin.aoyama.ac.jp/repo/repository/1000/836/
ベンヤミン1997. ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄・高原宏平訳「複製技術時代における芸術作品」『複製技術時代の芸術 ヴァルター・ベンヤミン著作集2』晶文社、1970年。
真木1981. 真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1981年。(岩波現代文庫、2003年、『定本真木悠介著作集Ⅱ 時間の比較社会学』岩波書店、2012年所収。)
山田1932. 山田孝雄『万葉集講義 巻第二』宝文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117023 

(English Summary)
No. 49, Volume 1 of Manyoshu, the last poem of the Akïno (安騎野) series created by KAKINÖMÖTÖ-nö-Fitömarö (柿本人麻呂), has been highly praised by manyo’ philosophers because of the unique expression “The time is coming from over there (時は来向ふ).” In this paper, by carefully looking at the wording and grammar of Ancient Japanese, Yamato-kotoba in the poem, it will be understood that all of these interpretations are not correct. Because the sentence is “At last, the time has come (時し来向ふ).”