かんちがい

、かも知れないけど、思いついたことを書いていく、ヤマサキタカシの日記です。

「走れメロス」に感じた違和感

2021年10月02日 | Weblog
ここ最近は、活字を読んでいることが少し多くなりました。

少し先月は仕事が忙しくて、といっても民間の会社で全時間就労していた時とは比べ物にならないのですが、それでも割と余計なことをあれこれ考えながら仕事してしまうので、勝手にヘトヘトになって帰ってきます。

考えないようにすることも訓練すれば減らせるのかもしれませんが、まぁ今みたく週4で働いている分にはなんとか一週間の体力は持つので、自分はこういう感じなんだろうと半ば諦めながら受け入れるように努めています。

頭がこんがらがった状態で帰ってくるのですが、酒を飲んでも、そのこんがらがったものがそのまま底に沈んでいくような感じで、あまり疲れが取れるような気がしない。

そこで最近は、デスメタルなんかをよく聞いています。
デスメタルは、ヘビーメタルが究極に速くなったもので、ブラストビートと言う、スネアドラムが1拍子でズドドドドドドと刻む、普通に聞くとアホな感じのするビートが特徴の一つとなっています。

でもそれが割とこんがらがった頭には心地よかったりします。

といってもあまりにグロいのは苦手なので、あまりアルバムジャケットがグロくないのを聴いたりしています。
歌詞は…グロいのかもしれないけど、そもそも何て言ってるかわからないので(笑)あまり気にしていません。



ただ私は、音楽だけ聞く、というのができないんですよね。

運転しながら、とか、本を読みながら、とか、何かをしながらの方が聞きやすかったりします。

流石にアニメや他の動画を見ながら、というのはできなかったので、最近は本を読むことが増えたわけです。


そこで買って積んでおいた本に手をつけ始めたのですが、その中に「走れメロス」を含めた太宰治の短編集もありました。

「走れメロス」は教科書とかにも載っていたと思うので、恐らく皆さん一度はお読みになったことありますかね。
これからガッツリネタバレしていくので、もし嫌だという方はここでブログを閉じてくださいますようにお願いします。
あと、考察する上で「東京八景」と「人間失格」についても少しネタバレすることになりますので、ご承知ください。



まぁ内容知ってるし、子ども騙しの御涙頂戴だろうけど、短いし久しぶりにまた読んでやるか、ということになりました。

一応内容をおさらいしておきますか。

羊飼いの青年メロスは、妹の結婚式の準備のため村から市街へと出てくるのですが、そこで暴君ディオニスの圧政を目にします。正義感の強いメロスは王城にリア凸し、とっ捕まって死刑が宣告されます。しかしメロスは妹の結婚式があるので3日後に帰ってくるから一旦解放して欲しい、と言い出します。いやいやいや、お前なぁとなるわけですが、メロスはその市に住んでいた親友セリヌンティウスを人質に置いておくことを発案し、人間不信が暴政の一因となっているディオニスは、それもまた一興とメロスを解放し、メロスは真実の友情を証明するために走り出す…というお話でしたね。



これが、改めて読んでみると、意外と内容知ってても普通に面白く読めたんですよね。
太宰治の文章力なんでしょうか。

メロスが3日後になんとかギリギリ、親友が処刑される直前に刑場にたどり着くのですが、走りすぎて声が出なくて最初誰も気づかなかったりして、うおおお、めっちゃハラハラするやんけ!と内容知っててもドキドキしました。

そして、二人が一発ずつ殴り合ってから抱き合って嬉し涙を流すシーンでは、うおおおお!めっちゃいい話やんけ!と不覚にも私も泣いていました。
はい、子ども騙しとか言ってイキってすみませんでした。



しかし、問題はその後です。
引用してみますね。

「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも、歔欷(きょき)の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起こった。
「万歳、王様万歳」


…へ?
ここで一気に涙が引っ込みました(笑)
王様さぁ、なにちゃっかり仲間になろうとしちゃってんの?
群衆もさぁ、なに王様万歳とか言っちゃってんの?
え、この王様めっちゃ人殺してきたけど簡単に許されちゃっていいわけ?

となりました。

なぜ結末にこのようなシーンがつけられているのか、少し理解ができませんでした。
子どもの時は全く引っかからなかったシーンだったのですが。


ちょっと前まで私はYouTubeで、いわゆる「スカッと系」という動画をよく見ていたんですよね。

この「スカッと系」でいう「ハッピーエンド」は、人に迷惑をかけていた「悪役」が、その迷惑行為が自分に戻ってくる形で罰を受けて、その人と縁は切ったので今はもうスッキリしています!その人は今も苦労しているみたいですよ!みたいな感じが多いです。

最初は面白いなぁと思って見ていたのですが、毎日毎日見てると、流石にちょっとげっそりしてくる時もあるので、ほどほどに見るようにしています。

が、それにしてもちょっと「走れメロス」の結末は甘すぎりゃありませんかねぇ、太宰先生。



ドラゴンボールに関するブログでも書きましたが、「切り捨てる」ことがハッピーエンドとなる現代と、「取り込み融合する」ことがハッピーエンドとなる時代とで、感覚が違うのかもしれません。
どっちがいいとか悪いとかではないと思うんですけどね。

それが、私が子供の時にこのシーンを読んでもあまり引っかからなかった一因かもしれません。


太宰治の生きていた時代背景を考えるためWikipediaで調べてみると、1933年に「列車」でデビューし、1948年に自殺で亡くなっていますが、「人間失格」など亡くなる直前まで執筆はしていたようです。
日本が第二次世界大戦に突入していくきっかけとなった満州事変が1931年で、終戦が1945年ですから、第二次世界大戦まっただ中に執筆活動をしていた、と言えるかもしれません。
「走れメロス」は1940年に発行されていますが、その年は日独伊三国同盟が締結された年ということですね。杉原千畝がユダヤ難民に独断でビザを発行したのもこの年だったみたいです。

ということまでは調べてみたものの、ちょっとその時代の人々の感覚というのはどうだったのでしょうか。

まさか戦時中に、大らかな雰囲気はないとは思いますが…

最近YouTubeで岡田斗司夫さんのチャンネルだったり切り抜きを見ることが多いのですが、我らがオタキングはコロナ禍のことを「第三次世界大戦」と呼んでいるので、第二次世界大戦中も、やはり現代のような、殺伐とした雰囲気が漂っていたのではないだろうか、と想像だけはすることができます。

そういえば、「この世界の片隅に」というアニメ映画は、第二次世界大戦時の庶民の雰囲気を綿密な取材に基づいて描いたということですが、今になって考えると、コロナ禍の穏やかなようで重苦しい雰囲気と、少し似たものがあるかもしれないなぁと思いました。

あとは、真珠湾攻撃の前後で、日本国内の雰囲気もだいぶ異なるような気もしますし、勉強不足なので、想像妄想憶測はこれくらいにしておきます。



少し話がそれたかもしれませんが、というわけで、太宰治の生きた”時代”が「走れメロス」に与えた影響というのは、私の知識量ではちょっと分からないわけですが、彼の他の小説を呼んでいくうちに、少し思いついたことがありました。


暴君ディオニスは、太宰治本人なのではないか、ということです。


「走れメロス」は、まぁ現実にはほぼありえない話なので、太宰治の願望がかなり反映されたものだということは想像できますが、最大の願望が、人を信じられずに酷いことを繰り返してきた自分を許して欲しい、ということだったのではないかということです。

太宰治は、私はこれまで「走れメロス」しか読んでこなかったので知らなかったのですが、自分の身に起こったことを多少脚色を交えたりはするものの割りとそのまま小説風に書く、いわゆる私小説を多く残している作家さんのようです。

その中で「東京八景」と「人間失格」は、描かれている内容がかなり近いものだと思います。

「東京八景」は割りとストレートにそのまま書いている感じ。「人間失格」は主人公の名前も創作で、脚色多めに書かれている感じ。がします。

が、どちらを読んでも、太宰治のかなりヒドい私生活が垣間見えます。

ただ問題行動については本人も気づいている、というか本人が一番気にしていたような気もしますし、ものすごい罪悪感に苛まれている様子も見てとれます。



人から金を借りまくったり、薬物中毒になったり、自殺未遂を何度か起こしたりするうちに、半ば騙されるような形で「脳病院」今でいう精神科に入院させられてしまいます。

これがどうやら、相当ショックだったみたいですね。
当時の精神疾患に関する認識も、今とはかなり違うとは思います。

「人間失格」ではこの入院生活でタイトル回収されていたりします。

「東京八景」でも、同居していた女性に退院後次のように語っています。

「僕は、これから信じないんだ」私は病院で覚えて来た唯一のことを言った。
「そう」現実家のHは、私の言葉を何か金銭的な意味に解したらしく、深く首肯いて、「人は、あてになりませんよ」
「おまえの事も信じないんだよ」
 Hは気まずそうな顔をした。


このように、かなりの人間不信に陥っていたことが分かります。

人を信じられぬと言いながら親族や家臣をたくさん殺していた暴君ディオニスは、太宰治自身だったのではないか。
と思うのです。


しかしながら、太宰治の周りには、彼のことを見捨てようとしなかった人たちもいたようです。

作家の井伏鱒二は、師匠という立場だったようで、結婚などの面倒も見てあげていたようです。

また、「帰去来」と「故郷」には、もともと父親の御用達だったような人たちで、太宰治の面倒を見てくれている人が二人出て来ます。

彼らにとって太宰治に関わっていくことは、それほどメリットはなく、むしろデメリットの方が多かったと思うのですが、それでも付き合いをやめなかった、ということは、彼に人間的魅力があったのかどうか。

それはさておき、そんな自分を見捨てようとしない人たちのことが、太宰治はまぶしかったのではないか。
そして、裏切ってばかりの自分は、彼らから許されたかったのではないか。

暴君ディオニスのくだりから、そんなことが想像できました。



私はそれほど太宰治に詳しいわけではないので、間違っているところもあるかもしれません。

ただ、これから全タイトル読破してやろうとか、そういう気も今のところありません。

個人的には、「私小説」のスタイルは、あまり好きじゃないというのもあります。

そういえば中学だったか高校だったかの国語の先生で、
「日本文学は私小説ばっかりで、フィクションではないので西洋文学より劣っている」
みたいなことを言っていた人がいたような気がします。

まぁ私はそこまでは思いません。
おそらく民族というか文化の違いなんだと思います。

例えば、いわゆる「西洋料理」では生で魚を食べることはほとんどありませんが、和食ではお刺身が代表的なメニューの一つとなっています。

そんな感じで、実際の出来事について、煮たり焼いたりソースをかけたりして加工したものが「創作小説」で、さばいてわさび醤油を添えて出すのが「私小説」なんじゃないかと思ったりしています。

ただ私は登場キャラクターの裏の意味なんかをあれこれ憶測するのが好きなので、「創作小説」の方が好き、というだけだと思います。

料理としてのお刺身は大好きですけどね。

というわけで太宰治に関する考察は、いったんこれくらいにしておこうと思います。



別に心に決めてはいなかったのですが、月一回はブログを書いていこうと思い始め、なんだか1年が経ちました。

わりと飽きっぽい方だとは思うので、めちゃめちゃ頑張ってはいないけど、まぁそれなりに自分なりに頑張ったところもあると思うので、まぁよくやったと言ってあげることにします。

読んでくださる方々には大変感謝をしております。
ありがとうございます。

これからも辞める予定はないので、ダラダラと長いブログではありますが、気が向いた時などでも構いませんので、お付き合い頂けますと幸いです。


最後まで読んでくださりありがとうございました!!


使用したイラストは全て「いらすとや」さんのものです。

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