かんちがい

、かも知れないけど、思いついたことを書いていく、ヤマサキタカシの日記です。

ニーチェが超えたかったものを考えてみる

2023年11月11日 | Weblog
ここのところ、本の感想はインスタグラムの方で短めに投稿していたのですが、今回は長文になりそうなのでブログの方に書こうと思います。

「史上最強の哲学入門」「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(著:飲茶)という本を以前読みまして、そこで気になった人の著作を読んでいこうと思っていて、墨子やルソーといった人が面白そうだなと思ったのですが、手始めに一番気になったニーチェを読んでみることにしました。

ということで今回はフリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」(訳:森一郎)を読んだ感想を書いてみようと思います。



ニーチェといえば「神は死んだ」という言葉で有名ですが、読んでみて、この人ほど切り取られた言葉が一人歩きしてしまっている人も、そうそういないのではないかと思いました。

実際に内容に触れてみると、繊細な人が精一杯、力強く生きようと足掻き、もがいた痕跡という感じの、非常に美しい作品だと思いました。

なるべく言葉については丁寧に読んでいき、意味のわからないところは無理に理解しようとせずに、詩を読むような感じで、言葉自身が持つイメージに頼りながら読みました。
というと、ちょっと盛ってしまったかもしれません。長い作品なので、集中力が切れて、多少斜め読みしてしまった箇所もありました。

それでも、ニーチェ本人が意図していた意味かはわかりませんが、読んでいると結構、わかるなぁ、と共感できる箇所が多くありました。



最初に読んでいて思ったのは、これってナウシカ(原作版)じゃね?と思いました。

「風の谷のナウシカ」(原作版)は非常に好きな作品なのですが、ナウシカが最後のクライマックスで下す決断が、いまいち個人的には理解できないところがありました。
なんでそういう考えになるん?という感じでした。

でもニーチェの考えを通した後だと、「墓の主」が意味していたものとか、駿さんがお話の裏で伝えたかったことなどが、おぼろげながらわかるような気になり、あぁ、なるほどねぇ、そりゃそうなりますわ、と分かったようなつもりになりました。

ていうか、宮崎駿さん、相当ニーチェ好きなんだろうなぁ、と思っていたところ、答え合わせの機会は早く訪れました。



この本を読み始めた頃に、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」がまだ映画館で公開されていたので、見に行ってみました。

あまり大きなネタバレは避けたいと思いますが、「大おじ様」というキャラが、発狂してしまったという設定や、キャラデザインもニーチェそのままで、思わずニヤリ。としてしまいました。



「ツァラトゥストラはこう言った」という本は、大雑把に言うと、ツァラトゥストラという人物が旅したりしながら様々な人たちと話したり体験したりするというお話なのですが、いわゆる「物語」のように明確な起承転結があるわけでもなく、エンターテイメントとして面白いかというと、個人的には面白いとは言えません。

ネットなどでは賛否両論のようである「君たちはどう生きるか」についても、ただひたすらに美しくはあるものの物語としてはよく分からない、という似たような構成という印象を個人的には受け、宮崎駿監督はもしかしたら自分なりの「ツァラトゥストラはこう言った」を作りたかったのではないか、と思ってしまいました。

どうしても「風の谷のナウシカ」(原作版)と「君たちはどう生きるか」を比較しながら観てしまいましたが、宮崎駿さんも82歳になられたということで、若い頃と比べて丸くなったところもあり、変わらないところもあり、などと考えていたら、クライマックスでは泣いてしまいました。
(といいながら今調べてみたら、ナウシカ(原作版)が完結したのって駿さんが50代の時だったんですね…)

ただ、宮崎駿さんの天才たるゆえんは、そいういった哲学的なものを一般民衆が楽しめるエンターテイメントまで落とし込めていたところだと思うので(鈴木敏夫プロデューサーの力もあるのかもしれませんが)、「君たちはどう生きるか」については、嫌いではないけど面白くはなかったなぁ、という感じです。
まだ一回しか見てないのでアレですけど。

ニーチェ研究をしている人が「風の谷のナウシカ」や「君たちはどう生きるか」を解説したら、面白いものになるかもしれませんね。
もしかしたら、既にやっておられる方もおられるのかもしれませんが…
実は、ブログのネタについては、基本情報以外の情報は、書き上げるまではあまり調べないようにしています。
宮崎駿研究の第一人者、岡田斗司夫さんの評論もまだ見ていません。


「ツァラトゥストラはこう言った」に話を戻したいと思いますが、「神は死んだ」という当時としてはかなり強烈であっただろう言葉は出てくるものの、何となく書き方は聖書にかなり影響を受けているような気がします。

全体的には新約聖書の福音書を意識して書かれているのは間違いないと思いますし、旧約聖書の預言書のような雰囲気を感じるような気もします。
それがオマージュなのか、揶揄なのかは分かりませんが。

ただ読んでいると、ニーチェが否定したかったのは「神」そのものではなかったのではないかなぁ、という気がしてきました。

実際、神は「いない」とせずに「死んだ」としたところに、ニーチェの神に対する複雑な心境が見えるような気がします。



読んでいた頃に、YouTubeでボーッと動画を見ていたところ、キツネの家畜化に関する実験のゆっくり動画がおすすめに出てきたので、なんとなく見てみました。

ロシアの遺伝学の研究者が、人になつきやすいキツネを選んで交配させていったところ、性格が温和な個体がかなりの割合で生まれてくるようになり、そのような個体は顔つきや体型まで柔らかい感じになっていった、ということです。

でも、あれ?これって人間の歴史も同じなんじゃね?
人間は自分達で人間という種を家畜化してるんじゃね?というのが「自己家畜化」という考えです。

例えば、ネコについて考えてみると、ネコと一口に言っても色んな性格の個体がいますが、警戒心が強くて人前に出てこないネコを人によっては好きという人もいるだろうと思いますが、一般的にはフレンドリーで好奇心旺盛なネコの方が好まれる傾向にあると思います。



これは人間の性格についても同じで、人間社会においても、警戒心が強くて人見知りな性格の人よりも、フレンドリーでコミュニケーションの取れる人の方が好まれる傾向にあり、これは言い方を変えれば犬とかネコの「家畜化」と同じなのではないだろうか、ということのようです。



宗教、特に「組織化された宗教」が教えとして説く理想的な人格というのは、平和で、穏やかで、やさしい、あえて悪く言うと「家畜化」されたものが多いような気がします。

ニーチェ自身の文を引用すると、
「じっさい今日では、ちっぽけな人間どもが主人になってしまった。彼らがそろって説いているのは、従順であり、謙遜であり、利口さであり、勤勉であり、気配りであり、ほかにも延々と続くちっぽけな徳目である。」

これだけを読むと、失うものが無いために自暴自棄になる弱者男性、すなわち「無敵おじさん」のような(私も片足くらいはつっこんでいるかも)、どうなってもいい、世界など滅びてしまえという思考パターンなのかと思ってしまいますが、ニーチェの文面からはそのような印象を受けることはありません。

というよりは、人間って、もっと上を目指せるでしょ?「超人」になれるでしょ?と言いたかったのではないかと思います。


わたしもクリスチャンとして育てられましたが、宗教組織において「うまく」やっていける人というのは、やっぱり見た目が良くて人当たりのいい人が多いような気がしたことも確かでした。

もちろん、「組織」として運用するのに、コミュニケーション能力が高い人が重宝されて然るべしと思いつつも、西暦1世紀当時のユダヤ社会において爪弾きにされた弱者のための宗教としてキリスト教は誕生したはずなのだけどなぁ、となんとなくモヤモヤしたものを感じたりします。

これほど多種多様な生物たちがうごめく自然界を創造した存在が、穏やかで平和な画一的な人格を持った人間のみを望んでいるのだろうか、とふと疑問に思ったりもします。

もちろん、誤解していただきたくないのは、穏やかで平和な人格が良くないということではなくて、問題はバランスです。

どんな人間も心に闇を抱えていると思いますが、その闇から目を背けたまま、うわべだけ平和なふりをした社会でいいのか、と思うのです。

といっても闇にばかり目を向けていても闇に取り込まれてしまうこともあると思うので、これまたバランスです。



訳者あとがきのところで、「永遠回帰思想」についても触れられていましたが、そこのところは今回は私にはちょっと読み取れませんでした。
次にまた再読する機会があるかどうかはわかりませんが、その時の課題にしようと思います。

ただ、現代社会、特に日本においては宗教の力が弱まりつつあると言えると思うので、ニーチェの思惑通りに事は進んだと思いきや、今度は「ポリコレ」という、ともすると宗教よりも厳しくうわべだけの規律に人々は縛られるようになり、永遠回帰思想を裏付けてしまっているのかもしれません。


最後に、今回読んでいて一番面白かった箇所を引用します。
「オズオズと、恥ずかしがり、不器用に、まるで飛びそこなったトラのように、そんなふうにあなたがたが忍び足で去ってゆくのを、あなたがた、高等な人間よ、私はしばしば見た。出たサイコロの目が悪くて、あなた方は失敗したのだ。
しかし、あなたがた、賭博者よ。それがどうしたというのだ。あなたがたは、賭けをして遊び、笑い飛ばすことを、つまり、どのように賭けをして遊び、笑い飛ばすべきなのかを、学ばなかったのだ。われわれはいつだって、大いなる嘲笑と賭博のテーブルに就いているのではないか。
それに、あなたがたが大きなことに失敗したとしても、だからといって、あなたがた自身がー失敗だったのだろうか。それに、あなたがた自身は失敗だったとして、だからといってー人間が失敗だったのだろうか。では、人間が失敗だったとしてーそれもよし、それで結構だ。」

2021年の流行語大賞のトップ10に「親ガチャ」という言葉が入ったそうですが、「上司ガチャ」とか「国ガチャ」とか、自分の力ではどうしようもできない要素があることは事実です。
私自身も、あまり今の人生がうまくいっているとは言えないと思うので、過去のいろいろなことをふと思い出して、恨み始めて、しばらく出られないことなどもあります。

でも、結局、自分に回ってきたカードなり牌なりを使って、一番良い手で上がれるようにやりくりするしかないんだよなぁ、と思うようになりました。

オーラスの最後までに、もしかしたらいい牌が引けることもあるかもしれない。

と、麻雀のルールを知らない私が言ってみました。


最後に、もしニーチェに詳しい方がこのブログを読んでおられて、その引用と考え方は違うよ、みたいなことがあれば、コメントで優しく教えていただけますと幸いです。


ということで、「自己家畜化」について興味が湧いたので、次はその本について読んでみようと思います。
もしかしたらインスタグラムの方で短めに感想を書くだけになるかもしれません。


今年の夏は暑かったですが、個人的にはそれほど暑いのは嫌いではないので、結構8〜10月くらいは調子良かったのですが、ここ最近日が短くなって少しずつ寒くなっていくと、冬眠の準備を始めたくなってしまうのか、調子悪くなってきました。

なんとか冬の時期も活動的に過ごしたいところですが、なんとかならないものでしょうか。


ではでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。



「ツァラトゥストラはこう言った」
フリードリヒ・ニーチェ
森 一郎 訳
講談社学術文庫


男冥利に尽きる

2023年08月14日 | Weblog
暑い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

わたし個人としては、それほど暑いのは嫌いではないので、わりと調子はいい感じです。



今回は、日に日に女性が強さを増していくように感じる現代社会について、ふと考えたことを書いてみようと思います。




先日、といっても2ヶ月くらい前だと思いますが、「アオラレ」という映画をなんとなく見ていました。

ちょっと荒っぽく女性にクラクションを鳴らされたことにブチギレたラッセル・クロウが、どこまでも追いかけていくというお話でした。



まぁ映画としては、めちゃくちゃ面白いわけではないけど、つまらないというほどでもない、という個人の感想でした。

ただ、ラッセル・クロウがブチギレた背景として、ここ何年かのアメリカでの白人労働者の立場の低下、ということが描かれていました。
働いても働いても豊かにはならず、すぐにクビにされたりすることもあり、また家族からは疎まれるお父さん、という設定です。

以前のブログでも少し取り上げたところです。
「蜘蛛の糸」から分断社会を考察する - かんちがい


ただ、急にふと、映画「カラーパープル」が思い浮かびました。
アメリカではついぞ100年前、いや50年前とかは、黒人であり、女性であるという立場は、非常に弱いものだったんだよなぁ、と思い出しました。



スピルバーグ監督の隠れた名作ですね。

子どもの時だったか若い時だったか、だいぶ前に見たっきりだったので、また見返してみることにしました。

冒頭部分は本当に見てて辛かったので、10分ほど見てはアニメ「けいおん!」を見て癒される、ということをしていたら、先にけいおん!12話の方を見終わってしまいました。

ただ、主役の女の子が成長してウーピー・ゴールドバーグになると、少しコミカルな部分も出てきたりして、多少は見やすくなりました。

結構忘れてることも多くて、そういえばクソ旦那の役はダニー・グローバーだったなぁとか、ちょい役でローレンス・フィッシュバーン出てたのか、とか、気の強いおばちゃんソフィア役はオプラ・ウィンフリーだったのか、とか新たな発見もありました。

子ども心に一番印象が強かったシーンがあって、それがラストシーンだとずっと記憶していたのですが、見返すとその後も結構話が続いていて、記憶もあてにならないなぁと思いました。


20世紀初頭の黒人女性の立場というものは相当に弱かったようですが、21世紀初頭の現代ではかなり強くなってきていると見受けられます。
ミクロな視点から見るとまだまだ苦労することも多いのかも知れませんが、リトルマーメイドの主役だったりアメリカ副大統領だったりに黒人女性が抜擢されたりするなど、立場としては一般的には強くなってきているのではないでしょうか。

日本においても、アメリカとはもちろん文化や人種的な背景は異なりますが、50年前とは比べ物にならないくらい女性の立場が強くなってきているように感じます。

おじさんたちは、ちょっと間違えると、セクハラ!とかキモい!とかくさい!と言われてしまうのではないかと、ビクビクしながら暮らしている人も多いのではないでしょうか。



わたし自身も、独身の低収入で40代半ばのおっさん、ということで、日本の社会カースト的にはかなり低い層であることから、なんとなく肩身の狭い気持ちがしています。

もちろん自分のこれまでの選択による結果ということもあるのですが、ただそれと同時に、社会にいらない存在になってしまった気もして、イライラした気持ちを抱えていたことも事実です。



でも今回、ふと、女性や子どもたちが苦しむような社会よりも、おっさんたちの肩身の狭い社会の方が、まだ「良い社会」と言えるのではないか、と思いました。

女性や子どもが楽しく暮らせるのなら、多少おっさんの肩身が狭くても、「男冥利に尽きる」ってものかも知れない、と思ってしまいました。

そう考えると、心の中の重いものが、スッと軽くなったように感じました。

今の自分の中から、このようなある意味「宗教的」な考えが出てくるとは、少し自分でも驚きました。

最近は哲学入門の本を読んでいるのですが、このような「人のためなら自分が苦しんでも構わない」という考え方は、ニーチェが否定したもののようで、人は自分の幸せをあきらめてはならない、というのが超人思想というもののようなので、そのうちニーチェをちょっと掘り下げてみようかなと思っています。


女性の立場が強くなったとは言っても、それは全体的な印象のことで、ミクロな視点に限らずとも、まだまだ女性は苦労することも多いと思います。

軒並みな言葉しか出てきませんが、誰もが幸せな社会というものはなかなかに難しいですね。




あとがき

カラーパープルを見た後、元気なウーピーが見たいと思い、「ゴースト」を見ました。
何度見ても、銀行に行くシーンで爆笑します。
でも、今見ると、オダ・メイ(ウーピー)が一番映画の中では活躍してるよなーと思いました。
しかも無償で。

書いてたら、優しいパパを演じているダニー・グローバーもちょっと見返したくなってきたかも。


上で少し触れましたが、そういえば「ぼっちざろっく」は見たけど「けいおん!」は見てなかったな、と思い、見ていました。

アニ豚ホイホイって感じのアニメでしたが、まぁわたしもアニ豚の端くれなので。
(むぎちゃんかわいい)

名作、とまでは言えないような気はしますが、見ていて楽しい作品でした。

ぼざろはアジカンがモチーフになっているということで、けいおんもモデルのバンドとかいるのかなぁと思って調べてみたら、なんとP-MODELがモチーフになっているみたいですね。
平沢進 → 平沢唯 みたいに。
ご本人がツイートしたことがあって、平沢進けいおん見てるのかよ!って話題になったこともあったみたいです。
ただ、楽曲的にはガールズポップって感じでした。


もうここまでくると、自分がアニ豚であることを認めよう。と思い、ガルパンを見てみることにしました。
まぁ女の子がなんでミニスカで戦車乗るのかというツッコミはごもっともという感じですが。
いやーでも面白かったですね。一気に見てしまいました。
今さらながら、

「ガルパンはいいぞ」




ではまた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。



ゴジラ映画おすすめ5選

2023年07月12日 | Weblog
夕飯はだいたい一人で食べるのですが、その時に、竹内力さんが主演されている「難波金融伝 ミナミの帝王」を、一作目から少しずつ見ていくのが日課になっていました。
年のせいか、話がお決まりの展開の方が気軽に見られるような気がします。

その29作目で、螢雪次朗さんがゲスト出演をされている回があって、そういえば、久々に「ゼイラム」見たくなったなぁと思って見てみると、やっぱり面白い作品でした。

なんか他にも螢雪次朗さんが出ている作品見たいなぁ〜と思ってググると、平成ガメラ三部作に出演されているということで、そういえば平成ガメラ見たことなかったなぁと思って見てみると、結構面白かったです。

金子修介監督が手がけたゴジラ作品は一度見たことがあり、少し説教くさいというか、思想が強めというか、のような感じがして、個人的には申し訳ないのですがあまり好きではなかったのですが、ガメラでは多少説教くさくなっても、「まぁガメラは正義の味方だからなぁ」と、なんだかあまり違和感がない感じで、すんなり見ることができました。

それで、そういえばゴジラシリーズ、ちょこちょこは見ているけれど全作品は見たことなかったなぁ、とふと思い、1作目は見たことがあったので、2作目の「ゴジラの逆襲」から、見ていないもの、記憶に残っていないものを順番に見ていくことにしました。

なにげない思いつきで始めたものの、最近は集中力が続かないことと、また全てのゴジラ作品が必ずしもめちゃくちゃ面白いというわけではないので、結構大変でした。
飽きたらお休みして他の作品を見たりもしていたので、結局半年弱かかってしまいました。
しかし、何のために見ているのかわからなくなりながらも、ようやくゴジラシリーズの全作品を網羅することができたと思います。
と書いた後で、今年のアニメのちびゴジラは見ていないことに気づきましたが、もう許して…

ということで、ゴジラシリーズの中で私が個人的に面白かったと思うものを5作品、挙げたいと思います。
あくまでも私個人の感想ということと、今後自分の中で順位が入れ替わることもあると思うので、2023年7月現在において、ということでご了承ください。



第5位 GODZZILA(アニメ映画3部作)

©︎TOHO CO.,LTD.

このブログを書こうと思うまで知らなかったのですが、ネットの反応を見ると、ゴジラファンからは結構低評価な作品という感じを受けました。

わたしの場合は、ゴジラファン以前にアニメファンなので、脚本を虚淵玄さんが担当されているということで、おお、これは期待できるかも、と思って視聴したような記憶があります。

どうみても敵わない相手をどうやって倒すか、みたいなところは「アルドノア・ゼロ」を彷彿とさせる感じでしたし、問題のメカゴジラとキングギドラに関しても、概念から考え直してみました!みたいな感じは「魔法少女まどか☆マギカ」に通じるものがあると思いました。
「魔法少女まどか」は、キャラデザインに似合わぬトラウマ展開が話題になることが多いですが、「一つだけなんでも望みを叶えてもらえる」というお話を概念から考え直した、というところが秀逸だと思っています。

個人的には好きなアニメゴジラ3部作ですが、でもやはりゴジラシリーズにおいては変化球ということで、5位とさせていただきました。


第4位 ゴジラ ファイナルウォーズ


中二、というより小五のような展開が続き、ゴジラにマトリックスとインディペンデンス・デイを合わせてみたような内容は、大声で好きと言いづらいところもあるのですが、やっぱり好きですねぇ。

ゴジラシリーズを制覇した後では、あぁ、ここも過去作のオマージュだったのか、と気づいたりし、「最後の」ゴジラ作品にふさわしい、お祭り感あふれる作品と思います。(後にシン・ゴジラが制作されるわけですが)

あと、北村一輝さんとドン・フライさんがいい味出してますね。この二人が出ていなかったら、もしかしたらこの順位に入れてないかも、ってくらい存在感があります。

モンスターX登場からの展開も、何度見てもワクワクしますね(笑)

男の子はこういうの好きよね、という作品だと思います。




第3位 ゴジラ(第1作目)


え、なんでファーストゴジラが3位なの?と思われた方もおられると思います。
まぁ、1位だとありきたりかなぁ、と思って、逆張りしてみました。

終戦から9年後の作品ということで、人々の戦争についての記憶もまだ鮮明に残っていたのでしょう。
ゴジラが都市を襲う時に一般市民が逃げ惑う姿は、後のゴジラ作品では台風などの「災害」から避難する感じなのですが、このファーストゴジラについては、市民の死生観も「戦争」を感じさせるところがリアルだと思いました。

「プライベート・ライアン」よりリアルな戦争描写、「バタフライ・エフェクト」よりも切ないラスト、というと、ちょっと盛ってしまったかもしれませんが、まごう事なき日本映画の名作だと思いますので、まだ見ていないという方はぜひご覧ください。
ただちょっと重いので、私個人としては、何回も見返す気にはならないところがあります…




第2位 ゴジラ×メガギラス G消滅作戦


手塚監督の3作品は好きで、以前からDVDで何回も見ていました。

手塚作品の魅力は、「普通に面白い」というところだと思います。

「普通に」というと良くない印象なのかも知れませんが、ゴジラシリーズにおいては結構難しいことのように感じます。

先に挙げた「ファイナルウォーズ」なんかもそうなのですが、メイン視聴層が子どもといういうこともあり「えええー、そうはならんやろ」という展開が多く見受けられてしまいます。
まぁそんな展開も嫌いではないのですが(笑)

手塚監督のゴジラ作品に関しては、もちろんフィクションなのですが、違和感のある設定や展開は少なく、丁寧に作られている作品、という印象を受けます。
といっても平坦な内容というわけではなく、ハラハラドキドキ展開も盛りだくさんです。

中でも、「ゴジラ×メガギラス」は特に完成度が高いと思うので、ここで挙げさせていただきました。
冒頭8分の、田中美里さんの「あ”あ”あ”あ”ああああーっ!!!」だけでご飯3杯はいけると思います。

メガギラスとはストーリーはつながっていませんが、「ゴジラ×メカゴジラ」「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ東京SOS」の2部作品もなかなか面白いと思います。

ゴジラがしっかりと悪役をしているところも手塚作品の魅力です。




第1位 ゴジラ(1984年)


記憶に残っている中では、初めて通して見たゴジラ映画で、ゴジラ関係なく映画館で初めて見た映画じゃないかな、と思います。
1984年ってことは私が5歳の時ですかね。
下敷きを映画館で父に買ってもらったような記憶があります。

今回、一度見たことのある作品は見返してはおらず、この作品は成人してからも何回か見ているのですが、なんとなく見返してみました。

すると、今回見た作品の中では、一番面白かったように感じました。
1984年当時の「シン・ゴジラ」を作ろうとしていたのではないか、という気がします。
まぁスーパーXなどの近未来要素はありますが。

当時は「AKIRA」や「北斗の拳」とか「風が吹くとき」など、終末をテーマにした作品が多かったように思いますが、この映画も、核爆弾により夜の空が真っ赤に染まるシーンなど、終末を描いた作品ではないものの「終末感」がなんとなくあり、子どもながらに怖かったのを覚えています。

ラストで小林桂樹さん演じる総理大臣が涙を流すのですが、子どもの頃は理解できなくて父に聞いたら、「大人になればわかるよ」と言われたような覚えがあります。
実際、大人になって見ると意味はわかるようになったと思います。
しかし、40も半ばに差し掛かった今見ると、かえってちょっとやりすぎの演出なんじゃないかと思うようにもなりました(笑)

そんな、いろんな思い出が付随していることもあるのかもしれませんが、私の中ではこの作品を、今回は1位とさせていただきます。


結局、前からDVD持っていた作品が主にランクインしてしまいました。
以前、ディアゴスティーニで東宝特撮映画特集をやっていた時に、ちょこちょこ買っていたのものです。


次は、全く期待しないで見たところ、意外と面白かった作品を二つ挙げておきたいと思います。

・「ゴジラの逆襲」
第1作目のわずか1年後に公開されており、ここからは憶測なのですが、社会派映画として作ったものの意外に子どもたちに人気が出てヒットしてしまい、新たな怪獣も追加していっちょ儲けてやるか、という映画なんでしょう?と勝手に想像していました。
ですが、いざ見てみると意外とストーリーはしっかりしているように感じ、第1作目が日本に残っていた市民の目線から見た戦争を描いたのに対し、第2作目は戦地に赴いたパイロットたちの目線から見た戦争を描いているような気がしました。
あと、もし怪獣たちを体長20センチの小動物としてケージなどで飼えるとしたら、アンギラスを飼うと思います。

・「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」
個人的にはミニラがあまり好きじゃないこともあり「ゴジラの息子」っていうタイトルはないわ〜とか思って、絶対つまらないだろうと思っていました。
が、南国の無人島で気象実験を行うチームの心理描写が、隊員の一人が暑さやストレスなどでおかしくなっていったりするなど、やけに子ども向けの映画にしてはリアルで、第2次世界大戦で南方へ派兵されていた人たちも、こんな感じだったのかなぁとか想像したりしました。
イェーイといつも陽気だったイメージのある高島忠夫さんですが、今作では、少し神経質な隊長役をされているのも興味深いと思いました。


ということで、今回はこの辺りにしておこうと思います。

今朝、なんとなくスマホを見ていたら、山崎貴監督のゴジラ映画の新作「ゴジラ-1.0」のティザービジュアルと特報が解禁されていました。

わたしは濁らない「ヤマサキ」で、志のつく「貴志」なので、ほぼ同姓同名という感じで、親近感だったり親近憎悪?だったりを感じる方なのですが、特報を見た感じでは結構面白そうでした。

11月3日に公開ということで、映画館に行くかどうかはわかりませんが、ぜひ作品は見てみたいと思います。


ではでは。




「異世界」の変遷から現代の閉塞感について考察する

2023年04月27日 | Weblog
最近、少しずつゴジラシリーズを第1作目から順番に見ています。
ようやくデストロイアまできました。
コンプしたら個人的に面白かった作品をまとめてみようと思っています。

そうして見るうちに、ふと思いついたことがあったので、ちょっと考えをまとめてみようと思います。


「キングコング対ゴジラ」(1962年)を見ていた時に、高島忠夫さん演じる主人公が南の島に調査に向かい、そこで現地の島民と遭遇します。
現地人と言っても、どう見ても日本人が肌を褐色に塗って演技しており、令和の現代では、いろいろ確認を取らないと、気軽に地上波で再放送もできないんじゃないかな、というような感じです。
まぁそれは一旦置いておいて、上陸後に調査団は敵対的な島民に取り囲まれてしまうわけですが、そこでタバコを渡したり、ラジオを聴かせたりして、おぉすげぇ!みたいな雰囲気になって、調査団は良好な関係を築くことに成功する…という感じです。

このシーンを見たときに、これってなんだか最近のアニメの「異世界転生もの」の展開に少し似ているなぁと、ふと思いました。
ファンタジーな異世界に転生した主人公が、現代の技術や知識を使って無双する、例えばマヨネーズ作って異世界人を感動させて…みたいなやつです。

そう考えると、1960年代の人たちにとって南の島の未開の地に住む人達は、もちろん「土人」などと呼んで見下すところもあったことは否定できませんが、もしかすると、現代のアニオタにとってのエルフとかケモ耳娘とかの「異世界人」のような位置付けだったのではないかなぁと思ったりもします。

エンターテイメントは「現実逃避」を提供するという側面もあると思うので、「異世界」も大きな要素になってくると思います。

しかし、令和の現代では、かつての未開の部族の人たちの方がむしろスマホやSNSを使いこなしていたりして、「異世界」感は薄れてきてしまっていると思います。

そこで、創作物としては、「異世界」をファンタジーな世界に求めざるを得なかったのかなぁ、と、近年の「異世界もの」のアニメの多さを見ても思います。


そしてエンターテイメント・創作の世界だけではなく、現実の人生においても、手の届きそうな異世界、こちらは「新世界」とでも呼んだほうがいいのかも知れませんが、これについても変遷してきたことが考えられます。
こちらは現実逃避というよりは、期待感、という感じかも知れません。

年代ごとに分けて考えてみますが、もちろんスパッと切り替わるわけではなくて、グラデーション的に変わっていくものなので、10年程度の振り幅はあるものとご了承ください。

1960〜70年代においては、「新世界」は東京であったと考えられます。
戦後まもない頃の集団就職などは、地方では食うのに困ったりという現実問題もあって少々悲壮感も漂ったりしていますが、わたしの両親が上京してきた70年代前半などは、東京で一旗あげてやろうというような若者が多くいたのではないかと思います。
金田一耕助とかを見てみると、やはり戦後まもなくは東京と地方の隔たりを感じるところもありますし、いわゆる「火サス」などで地方の観光地を舞台にしたサスペンスドラマが人気を博していたことなどを考えると、エンターテイメントとしても「地方」に対して異世界感が残っていたのかも知れないなぁと思います。

80〜90年代における「新世界」は、アメリカだった考えられます。
アメリカ横断ウルトラクイズの「ニューヨークへ、行きたいかぁぁぁ!!」は、子供ながらワクワクしたことを記憶しております。
この頃のヒット曲も、とりあえずサビは英語にしとけ!みたいな風潮はあったかも知れませんね。
この頃のゴジラ映画においても、戦闘機に乗る主人公が、「了解!」とか「発射!」ではなく、「ラジャー!」とか「ファイヤー!」とか言うことが多いような気がします。

90〜2000年代における「新世界」は、東南アジアなどのいわゆる発展途上国だったような気がします。
この頃はアメリカとかヨーロッパに旅行するよりも、バッグパック一つで東南アジアやインドなどを旅行することがカッコいいとされていたような気がします。
ビジネスにおいても、この頃から100円ショップなどが増えてきて、安い中国製品が大量に出回るようになってきたり、したような記憶もあります。

2000年代以降の「新世界」は、インターネットであると考えられます。
アフィリエイトなど、ほぼほぼインターネットだけで完結できる方法で、お金を稼ぐことができるようにもなりました。
インターネットゲームのMMOが流行し、有名どころで言えばFF14やドラクエ10など、ゲームの世界に没頭するあまり、トイレに行く間も惜しんでバケツで用を足すようなネット廃人が話題になったりもしました。

しかし、2020年代では、ネットのゲーム世界においても楽園は存在せず、現実社会と同様に、いやそれ以上にギスギスした社会となってしまっているかもしれません。
また、ユーチューバーで一山当ててやろうと動画投稿したところで、「レッドオーシャン」と呼ばれたりもするように、大海に一滴を落とすようなものですし、仮に運よくバズったとしても、一回バズった程度では特にその後の人生に何ら影響を及ぼすわけでもありません。


最近の「新世界」を考えると、半周回って、60年代の逆というか、地方なのではないか、とも思います。
ネットを利用した仕事をしながら田舎でのんびり暮らす、という生活スタイルに惹かれる若者たちは多いかもしれません。
住む家なども提供し町おこしとして積極的に誘致活動をする自治体もあるようですし、ちょっと方向は違いますが、ソロキャンプなどが流行しているのもその一端なのかもしれません。

が、田舎特有の因習などにより、悪い面も顕になってきているようです。
(因習が単純に悪いという意味ではなくて、移住者とのトラブルといったネガティブな面ということで)
キャンプ用に山を買った人がトラブルに巻き込まれて…とか、田舎暮らしユーチューバーが地元民から嫌がらせを受けた、なんて話も聞きます。
(もしかしたら双方に言い分はあるのかも知れませんが)

エンターテイメントとしては、「ガンニバル」とか、洋画では「ミッドサマー」など、閉ざされた村、独自の掟により引き起こされる事件を扱った、ネガティブな面を強調したものが多くなってきたような気がします。



こうして考えると、今、現代の「新世界」はどこなのだろうか。

AIだろうか。
仮想空間だろうか。

ターミネーターとかのSFのせいだとは思うけど、どうにもワクワクする感じは、しない。


これが、今の閉塞感の一因ではないかと思うのです。

私は今40代のおっさんなので、いわゆる「若い」とき、10代、20代の時は、先に述べたように、外国に行けば何か良い人生を送れるのではないか、というような、個人ではなく、社会全体としての、期待感があったと思います。
実際に外国に行くかどうかは別として。


しかし、今、社会として、「新世界」はどこなのだろうか。

ない、よなぁ。


これは、今の10代、20代の若者にとっては、相当気が詰まる思いがするのではないでしょうか。


とはいっても、ある程度歳を重ねてくると、この世に「楽園」などは存在し得ない、と思えてしまいます。

どんな「新世界」であっても、必ず「影」を持ち合わせている。

今の若者は、老人の境地に無理やり立たされてしまったようなものかもしれません。



ユング心理学者の河合隼雄先生が、「こころの処方箋」の中で、いつも若々しくてエネルギッシュな人は、心の新鉱脈を掘り当てている人だ、ということを書いていました。

自分なりにゲーム用語を使ってまとめると、人間は現実的に、HP(物理エネルギー)だけでなくMP(精神エネルギー)も消費しながら生きている。
MPを補充することを怠ってしまうと、イライラしていたり、無愛想な人間になってしまったりする。
しかし、世の中にはいつも元気ハツラツ、という人たちがいる。
彼らは、「心の新鉱脈」を絶えず探し続けることで、MPを補給しているのではないか…

というような内容です。



残念ながら、物理的な「新世界」はどうやら限界を迎えつつあるようです。
(まぁある日突然、宇宙人が来訪したりしたら別ですけど)

しかし、自分なりの、ワクワクするもの、「新世界」を見つけられる人は、たえず若々しく生活を送れるのかもしれない。

例えば、人間、一人一人も、一つの「社会」「宇宙」であると言えるので、恋愛は一つの新世界との出会いと言えると思います。
ひと昔前の芸能人などは「芸の肥やし」などと言っていたように、絶えず新しい恋を追い求めていれば、常に「新世界」のワクワクする気分を得られるので、若々しい気持ちを保つことができるのかもしれません。
ただ、現代の社会では、許されることではないようですし、家族など周りの人間にとっては迷惑きわまりないことでしょう。

何か、周りも幸せになるような、趣味であったり仕事であったり、自分なりの「新世界」「新鉱脈」を絶えず見つけることができれば、いいんでしょうね。



自分自身のことを考えてみると、音楽とは長い付き合いというか、付き合いは長いわりにちっとも上達はしないのですが、音楽が心の中に占めてきた割合というのは、多いような気がします。

しかし、若い頃のように、「このバンドの音楽ってどんな感じなんだろう?」とか「このジャンルの音楽ってどんな感じなんだろう?」みたいな、ワクワクする感じは、残念ながら、なくなってしまったような気がします。

もちろん、歌っているときは楽しいし、友達と演奏している時も楽しいのですが、ふと、オレって音楽好きなのかなぁと、思ったりすることもあります。

ここから「新世界」「新鉱脈」を見つけられるかどうかが正念場、というと大げさかも知れませんが。


とりあえずここ数ヶ月は、5月に発売される「ゼルダの伝説ティアーズ オブ ザ キングダム」を楽しみに生きてきたような感じです。

日々を生き抜くにはささやかな楽しみも必要ですが、ここらでドカンと大きな、楽しいことを見つけられたらいいなぁと思う日々です。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。



Colaboの問題からMMTとサブカルチャーを考察する

2023年01月03日 | Weblog
新年明けまして、おめでたい方もそうでない方も、今年もよろしくお願いいたします。

普段はあまり政治や社会のネタは取り上げないので今回は書くかどうか迷ったのですが、年末年始とダラーっとしている中で、今ネットを賑わしているいわゆる「Colabo」の問題について、なんだかちょっと個人的な考えがまとまりそうだったので、書いてみようと思います。

ここで述べることはあくまでも私の憶測や考えでして、私は特に何かの専門家ということはありませんので、読んでいてお気に障る点がありましたら、あーなんか変なこと言ってる奴がいるなぁとスルーしていただければ幸いです。


私は家にテレビがなく、ニュースなどは主にインターネットを通して見ているのですが、それによるとテレビ・新聞などでは不思議なほどこの件は報道されていないということなので、念の為簡単に問題の概要を述べてみたいと思います。
情報量が多すぎるので、今の私の認識では、となります。

マンガやアニメをこよなく愛するアカウントネーム暇空茜さんという方が、以前萌えキャラを使用した地域活性化プロジェクトが炎上したことをきっかけに、炎上の中心的存在となっていた仁藤夢乃さんという方が運営している女性保護の団体「Colabo」について調べてみると、不可解な点があるということで指摘し始めたところ、相手側も誹謗中傷だということで抗議したりと、バッチバチの争いが起きているということのようです。

この点について触れている数少ない「大手メディア」の中で、下の動画が個人的にはなんとなく一番わかりやすいかなぁということで、詳しく知りたいという方はご覧になってみてください。
ただ、ちょっと前の動画なので、今ではもう少し事態が進展しているところもあるのと、「ひまそら」というのが正しい読み方のようです。




普通の一般人であれば、弁護団から提訴されたりしてしまうと引いてしまう所ですが、暇空さんはかつて最高裁まで裁判を戦って勝った経験と、個人としてもかなり資産をお持ちのようで、またカンパもかなりの額が集まっているということ、そして高いIQを武器に、一歩も引かない姿勢を見せています。

かつてはガーシーさんが国会を変えてくれるんじゃないか、というような期待感がネットではありましたが、議員に当選されてからは、YouTubeをBANされたことも影響しているのかもしれませんが、あまり目立った活動が伝わってこない、ということで失望しつつあるところに、新たなヒーローが登場しネット界が沸いている、という印象を受けます。

魔王が少年を叩き潰そうとしたら、実はその少年のステータスはカンストしていて…みたいな厨二展開がリアルで繰り広げられているような感じ、とでもいうのでしょうか。
まぁ暇空さんは40代の男性ということですが。

ただ、暇空さんのトゥイートを追ってみると、彼は「自分の好きなマンガ・アニメ作品」を守ることには全力を注いでいますが、ネット内の「ワイら底辺層」の味方というわけではないようなので、その辺を勘違いしてしまうと、後々勝手に失望することにもなってしまうかもしれないなぁ、と、ふと思いました。まぁ個人の感想です。


個人的にこの騒動について思うことは、私も非正規職員として補助金に関わる仕事を一部しているのですが、完璧には仕事をこなせないこともあり、あぁ、あそこはもうちょっとこうしておけば良かったかな、と思ったりすることもあるので、「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」ということわざからすると、あまり、どちらかの側について応援する、ということはできないかなぁという感想です。

もちろん自分の懐が潤ったり、誰かの便宜を図ったりは決してしていません。

もしColaboに不正が実際にあった場合、特に不正確の「不正」というよりも不正義とかの「不正」が実際に行われていた場合は、しかるべき処置がとられるべきだとは思います。


そして、今回の騒動をきっかけに、日本の「補助金」などの制度については、東京都を含め、大きな変化がこれからは生じていくかもしれません。

コロナのパンデミックが起きて、国民一人につき10万円を配られたあたりから、「MMT」という言葉をよく聞くようになりました。

まぁ私はそんなに詳しくはないので、ここではその説明は特にしないことにします。

「MMT」に関しては、失敗小僧さんという方の考察が個人的にはしっくりきて、それは「日本はMMTを既に実施してきた」というものです。
私には細かい理論のところは分かりませんが、体感的に、あ、なんかそれなら分かるかも、という感じです。

日本は借金がたくさんあるのになぜ潰れないのか、という理由に、いざという時に国の借金は国民総資産で返すことができるから、ということを聞きますが、それってまさにMMTの「国の借金は国民の資産」という理論そのままではないのかなぁと思ったりもします。捉え方が逆というだけで。

ちなみに、日本の借金は2022年度末の予測で1,029兆円になるとのことですが、国民の総資産は2020年末で1京1,892兆円ということです。
結構、総資産あるんすね。もっと国の借金とカツカツくらいなのかと思ってました。

政府債務残高対GDP比をみてみると、日本は世界で見ると堂々の第2位なのですが、1位ベネズエラ、3位ギリシャ、4位スーダン、5位エリトリアといった国と比較すると、あくまでも印象ですが日本は裕福のような気がするので、「国の借金は国民の資産」というMMTの理想がうまくいってしまった稀有な例なのかもしれません。

2ページ目の方です。
世界ランキング「国の借金」トップ30…政府債務残高/政府債務残高対GDP比|資産形成ゴールドオンライン

もちろん、日本が裕福なのは貧しい諸外国から巻き上げてきたという面もあるのかもしれませんが、ちょっとここでは一旦置いておきます。
また、これ以上借金を増やしてもいいのかどうかという問題は、インフレ率とかちょっと私にはよく分からないのでここでは触れないことにします。


世界で見ると裕福な日本ですが、国民一人一人について見てみると、いわゆる「バラマキ」という形で配分が行われることが多かったので、直接恩恵を受けていない人々にとっては、不公平を感じることもあるかもしれません。

業務委託の仕方がちょっと杜撰だったのではないか、文字通り「ばら撒き」だったのではないかということで今回は東京都についても指摘が行われているようです。

暇空さんの中では決着点があるようですが、参戦者も多くなり騒動としては彼一人の問題ではなくなりつつあり、この問題がどのように終結するのか、ちょっと私には想像ができません。

ただ、恩恵を受ける人が偏ってしまうという意味で「バラマキ」の効率は良くないと思いますが、「バラマキ」により日本の経済が回ってきた一面もあると個人的には思うので、全面戦争の先にはさらにガチガチな社会が待ち受けているような気もしてしまいます。

もちろん、あんまり杜撰すぎるのも問題だとは思いますが。

補助金よりも減税すればいい、と言う意見をお持ちの方もいらっしゃるようですが、何か良い方法があるといいなぁと思います。


オタク文化はサブカルチャーであると思いますが、以前はサブカルチャーは「物理的に」住み分けができていたような気がします。
上野のあのあたりにはえっちな映画館がある、とか、萌え絵がバーンと貼ってあるのは秋葉原、みたいな感じだったと思います。

しかし、オタクという「埋蔵金脈」を秋元康が掘り当ててしまったので、金になるオタク文化というサブカルチャーが、公共の場にも姿を現すようになってしまった、という悲劇があるのかもしれません。
(オタクが金になる、っていうことで、ドルオタとアニオタは違う、とかは一旦置いといてね。)

そう考えると、萌えイラストなどに腹を立てる人がいてもまぁ仕方がないような気もします。

音楽で例えれば、デパートとかスーパーのBGMで灰野敬二さんが流れているようなものでしょう。
ちょっと重すぎるかな。平沢進さんにしておこうか。

暇空さんとしては先に攻撃してきたのはあちら側だ、という見解のようですが、あちら側からすると、先にオタク文化の方が公共の場を侵略してきた、という意識なのかも知れません。知らんけど。

もし、お互いに純粋な気持ちのみで争っているのだとしたら、どちらも悪くなく、悪いのは秋元康ということになります(違う)。

最近、なんとなくアニメ版の「蟲師」を見返していて一人で泣いたりしていたのですが、「蟲師」も人間と蟲が不幸にも接触してしまったために起こる切ない物語という感じなので、今回の件もサブカルチャーが公共の場に出てきてしまったために起きた悲劇なのかもしれない、と感じてしまいました。

まぁ本当に裏側に大きな組織や国家等がいるのかも知れませんが、どちらにしても、サブカルチャーは後ろめたいくらいがちょうどいいのではないかなぁ、と思うと同時に、かといって息の根を止める勢いで弾圧されるとそれは反発を招くでしょう、と思ったりします。


蟲師の第12話でぬいという女性蟲師の「おそれや怒りに目をくらまされるな。皆、それぞれが、あるようにあるだけ。逃れられるものからは、知恵ある我々が逃れればいい。」というセリフは、ちょっと考えさせられるなぁと思います。

時には戦わなければならないこともあるかもしれませんし、「皆、それぞれが、あるようにあるだけ。」なのだと思います。



なんだかはっきりしない結論で申し訳ございませんでした。
甘い考えですができるならば誰も傷つけたくないなぁと思うので、これでも、推敲などなんだかんだ書き上げるのに2日ほどかかりました。

最後まで読んでくださってありがとうございました!