最近、カホンとアコギを使った新たな音楽プロジェクトを考えています。メンバーはいないのでしばらくは一人ユニットです(笑)
高音域パートが欲しいなぁと思い、ソプラノのピアニカでも買うかなぁ、と思っていたのですが、そういえば、リコーダーとかどうかな?と思いつきました。
あまり子供時代の学習教材は残っていないのでダメもとで母に聞いてみたところ、まだ小学校の時のものが残っていました。
リコーダーはドレミファソしか出せないと思っていたのですが、運指により#とかも出せるようなので、いろいろと使えそうです。
それについてはまた後日改めるとして。
昔のリコーダーが出てきたことによるものか、ふとした時にいろいろな昔の思い出が湧き出してきて、それは良い思い出ばかりではなく、そして小学校の時のものだけではなく、成人してからのものなど芋づる式に溢れてくる感じだったので、ここしばらく少し鬱な感じでした。
(最近はあまり気軽に「鬱」って書けなくなってしまったけど、ちょっとした気の落ち込みとかをうまく表現する日本語ってないものだろうか。ロシア語では「トスカ」というらしいけど。)
よく、人形の髪が伸びるとか、物にも魂が宿る、みたいな話がありますが、私はお化けの類は見たことがありませんが、この「物」に付随した記憶というものは侮れないものがあるなぁと思ったのでした。
私は無意識にそういう記憶が思い出るままにしておいてしまっているようなのですが、そういう、あまり思い出したくないものを思い出さないようにしている人もいるのではないか。
どちらがいいのかは分からないけれども。
今回私が感じた心の歪みを、そのような人たちはどのように対処するのだろうか。
時々、心霊現象にあったことがある、という人に会うことがあります。意外と映画とかに出てくるような「いかにも」な人は少なくて、わりと朗らかな?くよくよしなさそうな人が多かったような気がします。
あくまでも私の受けた感じですが。
私はくよくよ悩む方なのでよく分からないのですが、そのような人たちはあまり嫌な記憶は思い出さないようにして、前向きな態度を保っているのではないか。想像だけど。
でも恐らく心が感じる歪みというものは同様なので、それが心霊現象として現れることによって、心がバランスを保とうとしているのではないか、とふと思いました。
まぁこれは私が思いついたわけではなく、ユング心理学ではよく言われることなのですが、今回ここまで「物」に付随した記憶が大きいものなのか、ということを身を持って体験したので、改めて書いておく気になりました。
お葬式、お盆やお彼岸といった行事も、あまり向き合いたくない記憶に向き合う機会を作ることによって、あまり怖い思いをしないで済むようにする、という昔の人の知恵なのかもしれないなとも思いました。
また一部の宗教家が、身の回りのものは最低限にして簡素に生活しようとするのも、そうした「物」が持つ記憶に煩わされないようにするためなのかもしれません。
ただ私は心霊現象そのものを完全に否定するわけでもありません。
質量エネルギーにとらわれない精神エネルギーというものもあると思うからです。
例えば、農作業について書いてある本。
この本に火をつければ、酸化することによって熱エネルギーを生み出し、少しの間、暖をとることができるでしょう。
しかし、そこに書かれている情報といえば、何十年、何百年、何千年という人類の祖先が試行錯誤してきた膨大なエネルギーが収められているのです。
「自我」というものも一つの精神エネルギーだと思いますが、一つの生命が終わることによって、そのエネルギーはどこへ向かうのか。
まぁ精神エネルギーに保存の法則があるのかどうかは分からないけれど。
高音域パートが欲しいなぁと思い、ソプラノのピアニカでも買うかなぁ、と思っていたのですが、そういえば、リコーダーとかどうかな?と思いつきました。
あまり子供時代の学習教材は残っていないのでダメもとで母に聞いてみたところ、まだ小学校の時のものが残っていました。
リコーダーはドレミファソしか出せないと思っていたのですが、運指により#とかも出せるようなので、いろいろと使えそうです。
それについてはまた後日改めるとして。
昔のリコーダーが出てきたことによるものか、ふとした時にいろいろな昔の思い出が湧き出してきて、それは良い思い出ばかりではなく、そして小学校の時のものだけではなく、成人してからのものなど芋づる式に溢れてくる感じだったので、ここしばらく少し鬱な感じでした。
(最近はあまり気軽に「鬱」って書けなくなってしまったけど、ちょっとした気の落ち込みとかをうまく表現する日本語ってないものだろうか。ロシア語では「トスカ」というらしいけど。)
よく、人形の髪が伸びるとか、物にも魂が宿る、みたいな話がありますが、私はお化けの類は見たことがありませんが、この「物」に付随した記憶というものは侮れないものがあるなぁと思ったのでした。
私は無意識にそういう記憶が思い出るままにしておいてしまっているようなのですが、そういう、あまり思い出したくないものを思い出さないようにしている人もいるのではないか。
どちらがいいのかは分からないけれども。
今回私が感じた心の歪みを、そのような人たちはどのように対処するのだろうか。
時々、心霊現象にあったことがある、という人に会うことがあります。意外と映画とかに出てくるような「いかにも」な人は少なくて、わりと朗らかな?くよくよしなさそうな人が多かったような気がします。
あくまでも私の受けた感じですが。
私はくよくよ悩む方なのでよく分からないのですが、そのような人たちはあまり嫌な記憶は思い出さないようにして、前向きな態度を保っているのではないか。想像だけど。
でも恐らく心が感じる歪みというものは同様なので、それが心霊現象として現れることによって、心がバランスを保とうとしているのではないか、とふと思いました。
まぁこれは私が思いついたわけではなく、ユング心理学ではよく言われることなのですが、今回ここまで「物」に付随した記憶が大きいものなのか、ということを身を持って体験したので、改めて書いておく気になりました。
お葬式、お盆やお彼岸といった行事も、あまり向き合いたくない記憶に向き合う機会を作ることによって、あまり怖い思いをしないで済むようにする、という昔の人の知恵なのかもしれないなとも思いました。
また一部の宗教家が、身の回りのものは最低限にして簡素に生活しようとするのも、そうした「物」が持つ記憶に煩わされないようにするためなのかもしれません。
ただ私は心霊現象そのものを完全に否定するわけでもありません。
質量エネルギーにとらわれない精神エネルギーというものもあると思うからです。
例えば、農作業について書いてある本。
この本に火をつければ、酸化することによって熱エネルギーを生み出し、少しの間、暖をとることができるでしょう。
しかし、そこに書かれている情報といえば、何十年、何百年、何千年という人類の祖先が試行錯誤してきた膨大なエネルギーが収められているのです。
「自我」というものも一つの精神エネルギーだと思いますが、一つの生命が終わることによって、そのエネルギーはどこへ向かうのか。
まぁ精神エネルギーに保存の法則があるのかどうかは分からないけれど。