最近、少しずつゴジラシリーズを第1作目から順番に見ています。
ようやくデストロイアまできました。
コンプしたら個人的に面白かった作品をまとめてみようと思っています。
そうして見るうちに、ふと思いついたことがあったので、ちょっと考えをまとめてみようと思います。
「キングコング対ゴジラ」(1962年)を見ていた時に、高島忠夫さん演じる主人公が南の島に調査に向かい、そこで現地の島民と遭遇します。
現地人と言っても、どう見ても日本人が肌を褐色に塗って演技しており、令和の現代では、いろいろ確認を取らないと、気軽に地上波で再放送もできないんじゃないかな、というような感じです。
まぁそれは一旦置いておいて、上陸後に調査団は敵対的な島民に取り囲まれてしまうわけですが、そこでタバコを渡したり、ラジオを聴かせたりして、おぉすげぇ!みたいな雰囲気になって、調査団は良好な関係を築くことに成功する…という感じです。
このシーンを見たときに、これってなんだか最近のアニメの「異世界転生もの」の展開に少し似ているなぁと、ふと思いました。
ファンタジーな異世界に転生した主人公が、現代の技術や知識を使って無双する、例えばマヨネーズ作って異世界人を感動させて…みたいなやつです。
そう考えると、1960年代の人たちにとって南の島の未開の地に住む人達は、もちろん「土人」などと呼んで見下すところもあったことは否定できませんが、もしかすると、現代のアニオタにとってのエルフとかケモ耳娘とかの「異世界人」のような位置付けだったのではないかなぁと思ったりもします。
エンターテイメントは「現実逃避」を提供するという側面もあると思うので、「異世界」も大きな要素になってくると思います。
しかし、令和の現代では、かつての未開の部族の人たちの方がむしろスマホやSNSを使いこなしていたりして、「異世界」感は薄れてきてしまっていると思います。
そこで、創作物としては、「異世界」をファンタジーな世界に求めざるを得なかったのかなぁ、と、近年の「異世界もの」のアニメの多さを見ても思います。
そしてエンターテイメント・創作の世界だけではなく、現実の人生においても、手の届きそうな異世界、こちらは「新世界」とでも呼んだほうがいいのかも知れませんが、これについても変遷してきたことが考えられます。
こちらは現実逃避というよりは、期待感、という感じかも知れません。
年代ごとに分けて考えてみますが、もちろんスパッと切り替わるわけではなくて、グラデーション的に変わっていくものなので、10年程度の振り幅はあるものとご了承ください。
1960〜70年代においては、「新世界」は東京であったと考えられます。
戦後まもない頃の集団就職などは、地方では食うのに困ったりという現実問題もあって少々悲壮感も漂ったりしていますが、わたしの両親が上京してきた70年代前半などは、東京で一旗あげてやろうというような若者が多くいたのではないかと思います。
金田一耕助とかを見てみると、やはり戦後まもなくは東京と地方の隔たりを感じるところもありますし、いわゆる「火サス」などで地方の観光地を舞台にしたサスペンスドラマが人気を博していたことなどを考えると、エンターテイメントとしても「地方」に対して異世界感が残っていたのかも知れないなぁと思います。
80〜90年代における「新世界」は、アメリカだった考えられます。
アメリカ横断ウルトラクイズの「ニューヨークへ、行きたいかぁぁぁ!!」は、子供ながらワクワクしたことを記憶しております。
この頃のヒット曲も、とりあえずサビは英語にしとけ!みたいな風潮はあったかも知れませんね。
この頃のゴジラ映画においても、戦闘機に乗る主人公が、「了解!」とか「発射!」ではなく、「ラジャー!」とか「ファイヤー!」とか言うことが多いような気がします。
90〜2000年代における「新世界」は、東南アジアなどのいわゆる発展途上国だったような気がします。
この頃はアメリカとかヨーロッパに旅行するよりも、バッグパック一つで東南アジアやインドなどを旅行することがカッコいいとされていたような気がします。
ビジネスにおいても、この頃から100円ショップなどが増えてきて、安い中国製品が大量に出回るようになってきたり、したような記憶もあります。
2000年代以降の「新世界」は、インターネットであると考えられます。
アフィリエイトなど、ほぼほぼインターネットだけで完結できる方法で、お金を稼ぐことができるようにもなりました。
インターネットゲームのMMOが流行し、有名どころで言えばFF14やドラクエ10など、ゲームの世界に没頭するあまり、トイレに行く間も惜しんでバケツで用を足すようなネット廃人が話題になったりもしました。
しかし、2020年代では、ネットのゲーム世界においても楽園は存在せず、現実社会と同様に、いやそれ以上にギスギスした社会となってしまっているかもしれません。
また、ユーチューバーで一山当ててやろうと動画投稿したところで、「レッドオーシャン」と呼ばれたりもするように、大海に一滴を落とすようなものですし、仮に運よくバズったとしても、一回バズった程度では特にその後の人生に何ら影響を及ぼすわけでもありません。
最近の「新世界」を考えると、半周回って、60年代の逆というか、地方なのではないか、とも思います。
ネットを利用した仕事をしながら田舎でのんびり暮らす、という生活スタイルに惹かれる若者たちは多いかもしれません。
住む家なども提供し町おこしとして積極的に誘致活動をする自治体もあるようですし、ちょっと方向は違いますが、ソロキャンプなどが流行しているのもその一端なのかもしれません。
が、田舎特有の因習などにより、悪い面も顕になってきているようです。
(因習が単純に悪いという意味ではなくて、移住者とのトラブルといったネガティブな面ということで)
キャンプ用に山を買った人がトラブルに巻き込まれて…とか、田舎暮らしユーチューバーが地元民から嫌がらせを受けた、なんて話も聞きます。
(もしかしたら双方に言い分はあるのかも知れませんが)
エンターテイメントとしては、「ガンニバル」とか、洋画では「ミッドサマー」など、閉ざされた村、独自の掟により引き起こされる事件を扱った、ネガティブな面を強調したものが多くなってきたような気がします。
こうして考えると、今、現代の「新世界」はどこなのだろうか。
AIだろうか。
仮想空間だろうか。
ターミネーターとかのSFのせいだとは思うけど、どうにもワクワクする感じは、しない。
これが、今の閉塞感の一因ではないかと思うのです。
私は今40代のおっさんなので、いわゆる「若い」とき、10代、20代の時は、先に述べたように、外国に行けば何か良い人生を送れるのではないか、というような、個人ではなく、社会全体としての、期待感があったと思います。
実際に外国に行くかどうかは別として。
しかし、今、社会として、「新世界」はどこなのだろうか。
ない、よなぁ。
これは、今の10代、20代の若者にとっては、相当気が詰まる思いがするのではないでしょうか。
とはいっても、ある程度歳を重ねてくると、この世に「楽園」などは存在し得ない、と思えてしまいます。
どんな「新世界」であっても、必ず「影」を持ち合わせている。
今の若者は、老人の境地に無理やり立たされてしまったようなものかもしれません。
ユング心理学者の河合隼雄先生が、「こころの処方箋」の中で、いつも若々しくてエネルギッシュな人は、心の新鉱脈を掘り当てている人だ、ということを書いていました。
自分なりにゲーム用語を使ってまとめると、人間は現実的に、HP(物理エネルギー)だけでなくMP(精神エネルギー)も消費しながら生きている。
MPを補充することを怠ってしまうと、イライラしていたり、無愛想な人間になってしまったりする。
しかし、世の中にはいつも元気ハツラツ、という人たちがいる。
彼らは、「心の新鉱脈」を絶えず探し続けることで、MPを補給しているのではないか…
というような内容です。
残念ながら、物理的な「新世界」はどうやら限界を迎えつつあるようです。
(まぁある日突然、宇宙人が来訪したりしたら別ですけど)
しかし、自分なりの、ワクワクするもの、「新世界」を見つけられる人は、たえず若々しく生活を送れるのかもしれない。
例えば、人間、一人一人も、一つの「社会」「宇宙」であると言えるので、恋愛は一つの新世界との出会いと言えると思います。
ひと昔前の芸能人などは「芸の肥やし」などと言っていたように、絶えず新しい恋を追い求めていれば、常に「新世界」のワクワクする気分を得られるので、若々しい気持ちを保つことができるのかもしれません。
ただ、現代の社会では、許されることではないようですし、家族など周りの人間にとっては迷惑きわまりないことでしょう。
何か、周りも幸せになるような、趣味であったり仕事であったり、自分なりの「新世界」「新鉱脈」を絶えず見つけることができれば、いいんでしょうね。
自分自身のことを考えてみると、音楽とは長い付き合いというか、付き合いは長いわりにちっとも上達はしないのですが、音楽が心の中に占めてきた割合というのは、多いような気がします。
しかし、若い頃のように、「このバンドの音楽ってどんな感じなんだろう?」とか「このジャンルの音楽ってどんな感じなんだろう?」みたいな、ワクワクする感じは、残念ながら、なくなってしまったような気がします。
もちろん、歌っているときは楽しいし、友達と演奏している時も楽しいのですが、ふと、オレって音楽好きなのかなぁと、思ったりすることもあります。
ここから「新世界」「新鉱脈」を見つけられるかどうかが正念場、というと大げさかも知れませんが。
とりあえずここ数ヶ月は、5月に発売される「ゼルダの伝説ティアーズ オブ ザ キングダム」を楽しみに生きてきたような感じです。
日々を生き抜くにはささやかな楽しみも必要ですが、ここらでドカンと大きな、楽しいことを見つけられたらいいなぁと思う日々です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ようやくデストロイアまできました。
コンプしたら個人的に面白かった作品をまとめてみようと思っています。
そうして見るうちに、ふと思いついたことがあったので、ちょっと考えをまとめてみようと思います。
「キングコング対ゴジラ」(1962年)を見ていた時に、高島忠夫さん演じる主人公が南の島に調査に向かい、そこで現地の島民と遭遇します。
現地人と言っても、どう見ても日本人が肌を褐色に塗って演技しており、令和の現代では、いろいろ確認を取らないと、気軽に地上波で再放送もできないんじゃないかな、というような感じです。
まぁそれは一旦置いておいて、上陸後に調査団は敵対的な島民に取り囲まれてしまうわけですが、そこでタバコを渡したり、ラジオを聴かせたりして、おぉすげぇ!みたいな雰囲気になって、調査団は良好な関係を築くことに成功する…という感じです。
このシーンを見たときに、これってなんだか最近のアニメの「異世界転生もの」の展開に少し似ているなぁと、ふと思いました。
ファンタジーな異世界に転生した主人公が、現代の技術や知識を使って無双する、例えばマヨネーズ作って異世界人を感動させて…みたいなやつです。
そう考えると、1960年代の人たちにとって南の島の未開の地に住む人達は、もちろん「土人」などと呼んで見下すところもあったことは否定できませんが、もしかすると、現代のアニオタにとってのエルフとかケモ耳娘とかの「異世界人」のような位置付けだったのではないかなぁと思ったりもします。
エンターテイメントは「現実逃避」を提供するという側面もあると思うので、「異世界」も大きな要素になってくると思います。
しかし、令和の現代では、かつての未開の部族の人たちの方がむしろスマホやSNSを使いこなしていたりして、「異世界」感は薄れてきてしまっていると思います。
そこで、創作物としては、「異世界」をファンタジーな世界に求めざるを得なかったのかなぁ、と、近年の「異世界もの」のアニメの多さを見ても思います。
そしてエンターテイメント・創作の世界だけではなく、現実の人生においても、手の届きそうな異世界、こちらは「新世界」とでも呼んだほうがいいのかも知れませんが、これについても変遷してきたことが考えられます。
こちらは現実逃避というよりは、期待感、という感じかも知れません。
年代ごとに分けて考えてみますが、もちろんスパッと切り替わるわけではなくて、グラデーション的に変わっていくものなので、10年程度の振り幅はあるものとご了承ください。
1960〜70年代においては、「新世界」は東京であったと考えられます。
戦後まもない頃の集団就職などは、地方では食うのに困ったりという現実問題もあって少々悲壮感も漂ったりしていますが、わたしの両親が上京してきた70年代前半などは、東京で一旗あげてやろうというような若者が多くいたのではないかと思います。
金田一耕助とかを見てみると、やはり戦後まもなくは東京と地方の隔たりを感じるところもありますし、いわゆる「火サス」などで地方の観光地を舞台にしたサスペンスドラマが人気を博していたことなどを考えると、エンターテイメントとしても「地方」に対して異世界感が残っていたのかも知れないなぁと思います。
80〜90年代における「新世界」は、アメリカだった考えられます。
アメリカ横断ウルトラクイズの「ニューヨークへ、行きたいかぁぁぁ!!」は、子供ながらワクワクしたことを記憶しております。
この頃のヒット曲も、とりあえずサビは英語にしとけ!みたいな風潮はあったかも知れませんね。
この頃のゴジラ映画においても、戦闘機に乗る主人公が、「了解!」とか「発射!」ではなく、「ラジャー!」とか「ファイヤー!」とか言うことが多いような気がします。
90〜2000年代における「新世界」は、東南アジアなどのいわゆる発展途上国だったような気がします。
この頃はアメリカとかヨーロッパに旅行するよりも、バッグパック一つで東南アジアやインドなどを旅行することがカッコいいとされていたような気がします。
ビジネスにおいても、この頃から100円ショップなどが増えてきて、安い中国製品が大量に出回るようになってきたり、したような記憶もあります。
2000年代以降の「新世界」は、インターネットであると考えられます。
アフィリエイトなど、ほぼほぼインターネットだけで完結できる方法で、お金を稼ぐことができるようにもなりました。
インターネットゲームのMMOが流行し、有名どころで言えばFF14やドラクエ10など、ゲームの世界に没頭するあまり、トイレに行く間も惜しんでバケツで用を足すようなネット廃人が話題になったりもしました。
しかし、2020年代では、ネットのゲーム世界においても楽園は存在せず、現実社会と同様に、いやそれ以上にギスギスした社会となってしまっているかもしれません。
また、ユーチューバーで一山当ててやろうと動画投稿したところで、「レッドオーシャン」と呼ばれたりもするように、大海に一滴を落とすようなものですし、仮に運よくバズったとしても、一回バズった程度では特にその後の人生に何ら影響を及ぼすわけでもありません。
最近の「新世界」を考えると、半周回って、60年代の逆というか、地方なのではないか、とも思います。
ネットを利用した仕事をしながら田舎でのんびり暮らす、という生活スタイルに惹かれる若者たちは多いかもしれません。
住む家なども提供し町おこしとして積極的に誘致活動をする自治体もあるようですし、ちょっと方向は違いますが、ソロキャンプなどが流行しているのもその一端なのかもしれません。
が、田舎特有の因習などにより、悪い面も顕になってきているようです。
(因習が単純に悪いという意味ではなくて、移住者とのトラブルといったネガティブな面ということで)
キャンプ用に山を買った人がトラブルに巻き込まれて…とか、田舎暮らしユーチューバーが地元民から嫌がらせを受けた、なんて話も聞きます。
(もしかしたら双方に言い分はあるのかも知れませんが)
エンターテイメントとしては、「ガンニバル」とか、洋画では「ミッドサマー」など、閉ざされた村、独自の掟により引き起こされる事件を扱った、ネガティブな面を強調したものが多くなってきたような気がします。
こうして考えると、今、現代の「新世界」はどこなのだろうか。
AIだろうか。
仮想空間だろうか。
ターミネーターとかのSFのせいだとは思うけど、どうにもワクワクする感じは、しない。
これが、今の閉塞感の一因ではないかと思うのです。
私は今40代のおっさんなので、いわゆる「若い」とき、10代、20代の時は、先に述べたように、外国に行けば何か良い人生を送れるのではないか、というような、個人ではなく、社会全体としての、期待感があったと思います。
実際に外国に行くかどうかは別として。
しかし、今、社会として、「新世界」はどこなのだろうか。
ない、よなぁ。
これは、今の10代、20代の若者にとっては、相当気が詰まる思いがするのではないでしょうか。
とはいっても、ある程度歳を重ねてくると、この世に「楽園」などは存在し得ない、と思えてしまいます。
どんな「新世界」であっても、必ず「影」を持ち合わせている。
今の若者は、老人の境地に無理やり立たされてしまったようなものかもしれません。
ユング心理学者の河合隼雄先生が、「こころの処方箋」の中で、いつも若々しくてエネルギッシュな人は、心の新鉱脈を掘り当てている人だ、ということを書いていました。
自分なりにゲーム用語を使ってまとめると、人間は現実的に、HP(物理エネルギー)だけでなくMP(精神エネルギー)も消費しながら生きている。
MPを補充することを怠ってしまうと、イライラしていたり、無愛想な人間になってしまったりする。
しかし、世の中にはいつも元気ハツラツ、という人たちがいる。
彼らは、「心の新鉱脈」を絶えず探し続けることで、MPを補給しているのではないか…
というような内容です。
残念ながら、物理的な「新世界」はどうやら限界を迎えつつあるようです。
(まぁある日突然、宇宙人が来訪したりしたら別ですけど)
しかし、自分なりの、ワクワクするもの、「新世界」を見つけられる人は、たえず若々しく生活を送れるのかもしれない。
例えば、人間、一人一人も、一つの「社会」「宇宙」であると言えるので、恋愛は一つの新世界との出会いと言えると思います。
ひと昔前の芸能人などは「芸の肥やし」などと言っていたように、絶えず新しい恋を追い求めていれば、常に「新世界」のワクワクする気分を得られるので、若々しい気持ちを保つことができるのかもしれません。
ただ、現代の社会では、許されることではないようですし、家族など周りの人間にとっては迷惑きわまりないことでしょう。
何か、周りも幸せになるような、趣味であったり仕事であったり、自分なりの「新世界」「新鉱脈」を絶えず見つけることができれば、いいんでしょうね。
自分自身のことを考えてみると、音楽とは長い付き合いというか、付き合いは長いわりにちっとも上達はしないのですが、音楽が心の中に占めてきた割合というのは、多いような気がします。
しかし、若い頃のように、「このバンドの音楽ってどんな感じなんだろう?」とか「このジャンルの音楽ってどんな感じなんだろう?」みたいな、ワクワクする感じは、残念ながら、なくなってしまったような気がします。
もちろん、歌っているときは楽しいし、友達と演奏している時も楽しいのですが、ふと、オレって音楽好きなのかなぁと、思ったりすることもあります。
ここから「新世界」「新鉱脈」を見つけられるかどうかが正念場、というと大げさかも知れませんが。
とりあえずここ数ヶ月は、5月に発売される「ゼルダの伝説ティアーズ オブ ザ キングダム」を楽しみに生きてきたような感じです。
日々を生き抜くにはささやかな楽しみも必要ですが、ここらでドカンと大きな、楽しいことを見つけられたらいいなぁと思う日々です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。