かんちがい

、かも知れないけど、思いついたことを書いていく、ヤマサキタカシの日記です。

クリスマスの意義について考える

2021年12月22日 | Weblog
のっけから甘えたことを言うようで申し訳ないのですが、最近、どうにもやる気が起こりませんでした。

まぁ普段からそれほどテンションは高い方ではないのですが、ここしばらくは顕著な感じでした。

ただ、原因がどうにも思いつきません。

最近は特に悩んでいる人間関係もありません。

「モルダー、あなた疲れてるのよ」と自分に言ってみても、師走だしまぁそれなりに、という感じで、あまりピンとはきません。

色々考えてみましたが、ふと寒くなってきたからかな、と思い、あ、これかも!と、なんかパズルのピースがはまったような気がしました。

そんな思いつきについて今回は書いていきたいと思います。


私、現在は関東に住んでいますが、大学時代は日本海側の雪国で過ごしておりました。

冬になると、どんよりとした天候の日が続き、なかなか青空を見ることができません。



確か、大学の先生が言っていたと思うのですが、冬は、朝起きたらとりあえず部屋の電気をつけろ、と。

なんでも、日照時間が少ないことによりうつ病のような症状を引き起こす「冬季うつ病」というのがあるということで、特に雪国育ちでない他地域から来た学生はなりやすいということだったと思います。


以前のブログにて「スマホ脳」という本についての感想を書きました。
簡単に言うと、人間には狩猟・採取生活時代の本能・体質が残されており、急速な社会の進歩についていけてないため、色々と歪みが出ている、という内容の本でした。

その中にうつ病に関しても述べている箇所がありました。

長期のストレスによりうつ病の発症することが多いわけですが、本来は、怪我や感染症のリスクから自分を遠ざけるため自身の行動を抑制する「免疫機能」としてうつ病があるのではないか、という説でした。


それを踏まえて展開させると、冬季うつ病というのは、狩猟・採取生活の中で食物の見つけづらくなる冬において、行動を制限することにより消費するエネルギーをより少なくするための本能の、名残なのではないか。

さらに簡略して言うと、一哺乳類としての本能である「冬ごもり・冬眠」に近いのではないか、と思いました。



冬季うつ病の特徴が、「過食」「過眠」であることも、よく似ているということができます。

やる気が出ない、というのは苦しいことですが、古い本能である、と考えると、少し安心というか、仕方ないのかなぁと、自分をそんなに責めなくてもいいのかなぁ、という気になります。

ただ上記のことは完全に思いつきで述べており、私は医者ではないので、実生活に影響が出るほど冬季のうつ症状で苦しまれている方は、受診を検討された方がいいかもしれません。


動物と言っても冬ごもりするものばかりではなく、冬にも活発に活動する動物もいますので、人間においても個人差はあると思います。

(個人的には、私は冬よりも夏が好きな人間です。)

とはいえ、一定数の人間は本能として冬は活動を少なくしたくなるものの、現代社会においては、冬も他の季節と同様に生活することを求められる、ということは言えるのではないかと思います。

ので、冬はなんとか自分の本能をだましだまし生活する必要がある。

そこに「クリスマス」はうまくはまったのではないか、とふと思いました。




ここでクリスマスの起源について調べてみますが、Wikipediaによりますと、クリスマスはキリストの降誕を記念する日、ということで、実際の誕生日は不明ということです。

なぜ12月25日になったのか、ということについては、古代ローマの太陽神を祝う冬至の祭りがローマ暦の12月25日だったので、それの影響を受けているという説が有力のようです。

なぜ太陽神を祝う祭りが、冬至、一年で一番日照時間の短い日なのか、ということについては、短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから、太陽神が「再び生まれる」日である、という信仰からきているようです。

私は太陽神を信仰していませんが、感覚としては、だんだん日が短くなると少し不安になり、冬至を過ぎて日が延びていくとホッとする、というのは共感できます。



昔のクリスマスがどのようなものだったかは分からないのと、実際に太陽神の祭りが影響しているのかどうかは分かりませんが、現代のクリスマスにおいては、冬至の頃の長い夜を明るく照らすかのような、イルミネーションが大きな特徴の一つとなっています。

個人的にクリスマスは(ボッチで陰キャということもあり)それほど好きなイベントではないのですが、闇夜を照らすイルミネーションに、心がホッとしてしまうのも事実です。

動物的な本能としては、短くなっていく日照時間に不安が増し、冬ごもりしたくなるところを、煌々と灯りをつけることによって、冬もなんとか生活して頑張りましょうと、お互い励まし合うような気持ちが、根底にあるのかもしれません。

キリスト教そのものはあまり根付かなかった日本において、クリスマスは根付いてしまった、という事実は、日本人の宗教に対する節操の無さだけでなく、「冬」に対する本能的な不安に訴えかけるものがあったためではないか、と思います。




話は少し逸れますが、日本の伝統的な正月においても、大晦日まで必死こいてお節を作って、正月は何もしないでそれを食べる、というのは、秋に食料をひたすら集めて冬はひたすら寝るという冬ごもりの名残なのかな、と思ってしまいます。

正月を「新春」というのも、もう春ですから冬ごもりはそろそろやめましょうね、という「お約束」のような気がしてしまいます。


ということで「冬ごもり」について考えてきましたが、冬はやる気が出ないものとして半ば諦めた方が良いのか、それともなんとか自分をだまくらかして活動的になった方が良いのか、難しいところですよね。

ただ、考えてみると、現在の日本社会において「冬だから」というだけの理由で食料が得られずに飢える、ということはほぼ無さそうです。
(無いとは言い切りませんが、もし飢えてしまうのであれば原因の多くは、冬以外の理由の方が多いと思います。)

というわけで、乱暴に言ってしまうと、現代人は「冬ごもり」をしなくても、生命には問題ないわけです。

できることなら、冬も活動的に過ごせるなら、それにこしたことは無いと思います。




私は心の病気の専門家では無いので、どうしたら良いかというのは、正直分かりません。

試しにこの前の土日にたまたま予定がなかったので、罪悪感に目をつむり、思いっきり引きこもってみたところ、今週はなんだか少し元気が出てきたような気はします。

まぁ人それぞれ違うでしょうし、その年々の状況でも違うかもしれません。

自分との対話が重要なのでしょうけど、自分が必ずしも正直とは限らない。

自分なりのやり方を見つけた時にはもう、おじいちゃんになっていそうな気もします。



というようなことをふと思いついたので、前から考えていたことも含めて、ちょっと突発的にはなりましたがブログを書いてみました。
まぁ僕ちゃんの想像妄想憶測なので、話半分に読んでくださいませ。



今年もあと少し。頑張っていきまっしょい。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!