
春咲きというか冬の終わりごろからよく見かけるようになったカルガモのペア。
最近見かけないな、と思っていたら、いつのまにか子沢山のファミリーになっていた。
お父さんはもう見かけない。

数えると10羽いて、小さなかわいらしい草笛のような鳴き声で、おしゃべりしながら行き過ぎる。
なんて愛らしい。
一生懸命写真を撮っていたら、橋の上を行く自転車二人乗りの親子連れ、お母さんが振り返って、
「あ!ほらみてごらん!赤ちゃんいるよ、カモさんの赤ちゃんだ!ほらほら!」
なんて興奮して子供さんに教えてあげている。
子供さんは小さかったので、あー、うー、ひや~、なんて指さしたり、笑ったり。

注目を浴びて焦ったのか、泳ぎ方を速めたファミリー。
そういえば去年もここで子育てしていたカルガモ一家があったけど、
はぐれたのか、中州で一休みしていた雛の近くでカラスがうろうろしていて、気をもんだ。
ぼんやりした子がよそ見していたり、離れたところで遊んでいたり、ということもあるかもわからないのだが、
今は10羽だけれど、見かけるたびに雛の数が少なくなることが、自然界の掟というか決まりのようなものなので、
仕方ないと諦める気持ちもありながら、無事にみんなが巣だってほしい、と願う気持ちがやはり大きい。

天敵に襲われることもなく、食べ物に困ることもほとんどなく、すごしやすい住まいで育つ人の子は、
奪われる命としてのカルガモの子らと比べて、はるかにずっと幸せであるといえると思うのに、
この国では多くの人が、自ら死を選び、生き抜くことができない現実があるのだよなあ。
何をもって幸せか、何をもって不幸せかということも大事だが、生きることもまた大事だ。
カルガモの雛たちと人間の子を一緒にしてはいけないが、ふと、そのようなことを考えた朝であった。
今はもう暑くて初夏のようになっているが、春先少し冷える日が続き、
このあたりの農家のみなさんもしばらく様子見で、田植えは控えていたようだった。
田起こしはしているのだが、なかなか水を入れず、しろかきもしないままだった。
ところが一昨日(このブログの日付の10~14日ほど前)の夜、ようやく近所の田んぼに水が入り、
その夜はたった一匹がしきりに鳴き続けていただけだったが、その翌日からは、大勢の蛙たちの鳴き声で、
夜の散歩はたいへん心地いいものとなった。
このあたりは田んぼが殆どなく、牛ガエルなどはいるのだが、水量や勢いが気まぐれな小川は、
小さな体の蛙の住まいには適さないようで、みんなこの田んぼめがけていっせいに集まってくる。
だからにぎやかなコンサートが毎晩開かれており、なかなかに楽しいのだ。
普段は魚といえばたまにニゴイを見かけるだけの、あまりきれいとはいえない小川にも、
何のかはわからないが、ゆるい流れの一部では、稚魚たちがうごめいており、
ああ、季節はどんどん変わっていってるのだなあ、としみじみ、感じる。
ただ、安定した流れを保たない、汚れたこの川で産卵する魚はほとんどいないので、
普段のこの季節に稚魚を見かけることはまれなのである。
時折銀色の腹を見せるその稚魚はあるいは蛙の子のおたまじゃくしかもしれなかった。
この間の大雨で、どこかの田んぼから流されてきたのかもしれない。
しばらくの間、嵐雨にさえならなければ、ある程度の大きさまでは、この川で育つだろう。
もしかしたら蛙になるまで育つかもしれない。
そうしたら、今年の夏の夜は、家にいながらにして、蛙の大合唱が聴こえるだろうか。
そうなれば、夫がうれしがるに違いない、そう思った。