晴旅雨旅

爺の前に道は無し。爺の後にも道は消えかけて…枯れた中年爺の独り言

今夏も青春18で東西南北へ

2016-08-29 15:15:10 | 旅行
この夏、お馴染み「青春18切符」
¥11,850.-で5日間のJRフリーライドで、東は埼玉、西は神戸と文字通り“青春”鈍行の旅だった。

高校、大学の同級生らと酌み交わした酒、そして嫁いだ娘やその孫との記念撮影など、十分に利用した。
例年なら5日全部は使わず、残りを金券ショップに割り引いて売るのだが、気楽な無職の日々の故に毎日が日曜日。そんな私とは真逆に、猛暑の中、汗水たらして働く皆さん、本当にスミマセン。

5回目のインドネシア旅行

2014-07-30 10:26:52 | 旅行

1979年、初めての海外旅行はバックパッカーとして東南アジアを2ヶ月間うろついた。


ジャカルタへはシンガポールから飛行機で入ったが、当時は「地球の歩き方」はまだ発行されておらず、バンコク市内で購入した欧米バックパッカーのベストセラー「South East Asia on s Shoestirng 」を片手に、この日本大使館近くまで来た記憶がある。
当時は、周囲を威嚇するような佇まいだったが、今はかろうじて“仲間入り”させてもらっているかのようにちょこんと一等地に立っている。但し、相変わらず警備は厳重で、”要塞”そのものだ。

このジャカルタからうだるような蒸し暑い中を長距離列車に揺られてジョグジャカルタへ向かった。冷房なんか勿論無しで、列車内は地元の人で超満員。生きたままの鶏なんかがうるさく鳴いたり、赤ちゃんがおっぱい欲しくて泣いたり、コーヒー売りの少年が「コピ(コーヒーにインドネシア語)、コピ、コピ…」と大声を出して車内をかき分けたり、真ん前にデンと腰掛けた大柄なドイツ人2人が大汗を流しながらドイツ語でずーとしゃべり続けていた…

26歳の誕生日は、スマトラ島の3泊4日ノンストップ長距離バスの中で迎えた。川の水でマンディ(水浴び)、歯磨きした日々は、もう35年前のことか。


北アフリカの春

2011-09-17 22:44:36 | 旅行
【大義名分】
 アラビア語学留学中の次女を訪ねる、という大義名分…を掲げて訪れたチュニジア、加えてエジプト、そして何故かエチオピア。









【北アフリカの春】
 実は、この春TVを賑わせた民主化運動・北アフリカの春、未だ血が流れ続けているシリア、リビア、そして2年前に訪れたイエメンなどの空気を吸ってみたくなった。茶の間でビール片手にTVのスイッチをひねることに飽き飽きしていたからに他ならない。アルコールが入れば入るほどに、カイロのタハリール広場の若者の熱気が自分を包み込んだ。単なる野次馬根性で韓ドラ追っかけおばさんと大して相違は無い、のだが。



【フィフィさんのブログに載った】
 以前から愛読?していたエジプト人タレント・フィフィさんのブログへ、投稿した自分のコメントを引用して頂いた。
http://ameblo.jp/fifi2121/entry-11004979263.html

【名古屋は世界一?】
 予想に反してカイロは、我が寓居の在る名古屋より過ごしやすい気がした。日中の暑さは40℃近くはあるが、夜はそれ程でもない。暴走族も居ない。

【タハリール広場】
 数十万のデモ隊が集結し、ムバラク大統領を退陣に追い込んだ聖地・タハリール広場は思いのほか平穏であった。勿論、機動隊や兵士が装甲車などで武装して警戒にあたっている。でも、どこかある種の希望が漂っていた(というのはおそらくは私の得て勝手な抱負がそう見させる、のだろうが)ともいえよう。人々の表情は、間違いなく日本や前年訪問した欧州とは異なる。明るい、のだ。殊に、欧州の人々の表情からは、笑みがあったとしても、静的な微笑み以上ではなかった気がした。





【断食】ラマダンは、やはり断食がこたえた。確かに外国人である我々は堂々と食していればよいのだろうけれども、気弱な私は食べない自由さを選びがちだった。帰国直後に東京で会った長女に「お父さん、ちっちゃくなっちゃったね…」と同情されたが、何故かちょっぴり嬉しく思えた。


チュニスから南ヨーロッパへ

2011-01-03 11:27:17 | 旅行
<チュニスから南ヨーロッパへ>
 妻と海外旅行することは度々あるのだが、娘を伴ってというのは彼女達が幼い頃を除いては殆ど無かった。だから、今回、チュニジアの首都チュニスでアラビア語を学ぶ次女を現地に訪ね、そのついでに南ヨーロッパを廻るということは、いつもの自分の旅のペースとは違っていた。
 そんな中で、やはりいくつかハプニングがあって、自分としては十分楽しめたのだが、同行する者にはあまり経験のないことであって、戸惑うことも多かったようだ。どうも私は自分が思う以上にマイペースらしい。つまり利己的・わがままだということ。今まではそのように指摘されても否定する余裕があったが、今回のことでそういった指摘がもしかしたら正しいのかも、と思い始めた。どうやら自分が楽しいことは、必ずしも人にとってはそうでない、というあまりにも当たり前すぎることにようやく気付き始めたらしい。このことこそが、利己的である動かし難い証拠ではあるが…。
 スペイン・グラナダ市内を深夜、レンタカーでホテルを捜しながら道に迷ったこと。バルセロナの地下鉄車中でのスリ団との一悶着。イタリアのGenova(ジェノバ)へ行くつもりが、老眼のためかoとeを読み違えてスイスのGeneva(ジュネーブ)空港に降り立った件。やっとの思いで旅の終わりに再訪したローマで、ネット予約したホテルが詐欺まがいなため不安な夜を余儀なくされたこと…等々。確かに、もしこれが自分にとって他の人の行いならば、許さないであろう。
 そんなドタバタな日々で、2週間近い旅程を費やした割には量・質共にとても豊かとは言えない旅行であった。旅を楽しむ技術は、日常生活を豊かに送る術を有していなければ決して身につくものではない。同じ時間と空間を豊かに過ごすことができるかどうかというのは、その個人史の質に左右される。
 残念ながら、貧しさは引きずり、豊かさは受け継がれる。それは物質的なものだけではないことに、生活を送る中で厳として気付かされる。単にお金に代表される物質的なものなら克服できそうな気もするが、長く何世代にも引き継がれてきたものの大きさにたじろぎ、心のどこかで諦めている。
 今回の旅の中で得たことは次の二つ。一つ目は、そんな貧しさと豊かさの乗り越え難さを改めて確認できたこと。二つ目は、しかし、それをそのまま受け入れてそこから日々を送ることしか許されておらず、そんなどうしようもなく当たり前のことを私は初めて「知った」こと。これに尽きる。






イエメンの一人ツアー

2010-01-05 23:37:00 | 旅行
アラビア半島サウジアラビアの南、イエメンに行くことになったのは、次女がアラビア語を大学で専攻しており、留学先としてイエメンに行きたいと言ったことがそもそものきっかけだった。あまり日本人が訪れないところへ行ってみるのは、海外旅行フリークとしてはごく当たり前のこと。おまけに、最愛の娘と一緒なのだ。
ところが、昨今の治安の状況から、次女はイエメンを避け、さっさと妻と共に安全なチュニジアに下見に行ってしまった。
イエメンのことを下調べしているうちにすっかり取りつかれてしまった私はもう止まらない。一人で行くことになった。
ただ、他の日本人も行こうと思う人は少なく、現地空港に迎えに来ていたガイドは、にこにこしながら、「オキャクサンサンヒトリデス、ヨロシク」と言った。こうして、トヨタランクルでドライバーも含めた3人男連れのすっ飛びツアーは開始された。


街で会った幼児達。もう少し大きくなると女の子はベールの下に顔を隠してしまう。


ジャンビーアはイエメンの男たちのシンボル。勇ましい音楽に合わせ踊った。


紅海に面した港の魚市場にて。


イエメンの男たちの愉しみ№1「カート」の取引。