晴旅雨旅

爺の前に道は無し。爺の後にも道は消えかけて…枯れた中年爺の独り言

チュニジア、イエメンそして・・・日本の老人

2011-02-19 08:40:46 | 政治
 自分の1年前のブログから・・・「イエメンのことを下調べしているうちにすっかり取りつかれてしまった私はもう止まらない。一人で行くことになった。ただ、他の日本人も行こうと思う人は少なく、現地空港に迎えに来ていたガイドは、にこにこしながら、『オキャクサンサンヒトリデス、ヨロシク』と英語で言った。日本語ツアーは、無かった。こうして、トヨタランクルでドライバーも含めた3人男連れのすっ飛びツアーは開始された・・・」
 
 わずか1年後、チュニジアに始まった中東の激動はエジプト、イエメンの独裁政権を瞬く間に倒し、アルジェリア、ヨルダン、モロッコ、シリア、オマーン、サウジアラビア…あろうことかペルシャ・イランの民衆をも起ち上がらせ、さらに遠く東アフリカにも及び、ウガンダも現大統領長期独裁支配下の選挙結果次第では、どうなるかわからない、とロイターは報じている。今日は、既に犠牲者の出ているバーレーンも、死をも恐れないアラブの人々は銃や催涙ガスが待ち受けている集会場を目指すという。

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 ウガンダの首都・カンパラには10年ほど前に訪れた。コウノトリの仲間・ハゲコウが歓迎してくれた。
(ハゲコウは小さな人間のあかちゃん程なら楽々と運べてしまうような体格の持ち主で、両翼をひろげバッサバッサと頭上すれすれに飛びまわる。この世のものとは思えないほどグロテスク・カラフルで、今になっても悪い夢に出てきそうだ。しかし、もう一度会いたい気持ちにさせてくれる、不思議な存在感がたまらない)。

 思えば、自分が中東やアフリカに惹きつけられるのは、美しくも厳しい自然の中で、それがどうした?などというそこに暮らす人々の存在感にあるのだろう。逆に、日本のことなんて全くと言ってよいほどに知らないし知ろうともしない人々だが、私にしてみれば、一人の薄汚れた初老の貧乏旅行者でも一応存在感は示せる。そこでは、互いに無視しない。無視し得ない。自分は外国人であることを利用し、利用され、甘え、すがって旅を続ける。そこに住む人々は、ドルやらユーロやらを介したサイフを潤してくれる通過者として、ヒマつぶしの見世物として、一瞬を楽しむ・・・

 まあ、日本では到底味わえないぐちゃぐちゃした感触の味わいが忘れられない。勿論、そんな“非日常”が“日常”になってしまったら、慌てて逃げ出す。旅だから許される。
 
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 中東の、まさしく銃口が自分に向けられた状況で、あのアラブのひげ面達がこぶしを天高く突き出している。そんな像を目にして、私の中では、そこに至る彼等の怖れと怒りと絶望と勇気と未来への夢が交錯する。
 翻って自分の日常は、というと、切ない。すっかりほころびの出た教育システムの末端で、そこに関わる誰もがこれではダメだ、と感じつつも小出しの改革案の中でもがいている。もがくしかできない。
 そうこうしているうちに、いよいよ公務員改革が現実のものとなり、人々の予想をはるかに超えたスピードで変わり始めた。給与も人員も劇的に下降し始めた。何よりかつてイメージしていた退職金制度が揺るぎ、分割支給が始まった。つまり、退職時に「退職金」は出ない!のだ。
 これは、実質トータルで支給される給与は同じとしても、心理的には大変化だ。退職金や年金で社会的弱者である老人になっても人間としての尊厳は保たれる、というコンセンサスが崩れるのだ。
 これは、私達老人の入り口にさしかかった者には、中東の銃口が向けられたような恐怖感すら感じることだ。
 過去の懺悔も未来への信念も夢も持たない私達、芥川龍之介作「蜘蛛の糸」のような絶望感がまたジワリッと深まってきた。

螺旋的あたらしい自分…大ナゴヤ大学授業レポート 生物部

2011-02-14 21:30:54 | 大ナゴヤ大学
大ナゴヤ大学授業レポート 生物部
文責:河辺正太郎
2011年2月12日(土)13:30~16:30
前川 みどり ミドリサン ●生物部 カメラ
田中 エリミ エリミ ●生物部 リーダー・受付
澤田 佳代 カヨチャン ●生物部 ビデオ
河辺 正太郎 チョウロウ ●生物部 レポート
前田智絵 チエ ●生物部 当日サポート
<地球の生物部>
私とあの人も、地球という生態系でつながっている。 チョコレートもいろんな生物からできている…。 そうだ!生物部的ラブレターを作ろう!

【講師の先生】
・阿部 健一(地球の生物部 部長)
・平井 秀和(地球の生物部 副部長)
・石川進一郎(名古屋市在住 小学生)
教室:名古屋テレビ塔内会議室

[レポート]
13:00 授業開始前 (セントラルパーク久屋大通地下ギャラリー) 
ミニ美術館・博物館を思わせるギャラリー。展示してある生物部の作品に見入っている生徒。道行く一般の方も立ち止まって熱心に見ていく人も多い。
・電気のいらない「つぶや木」…通りすがりの人のつぶやきを掲示
・生物多様性ポスター…一目で訴えかけるもの、立ち止まって見てくれることを意識
・スコップサプライズ…イギリスのゲリラガーディニングを参考にした鉢植え
・ピンブローチ…生物多様性をテーマに
・地球生物部とは…発泡スチロールなどを使わず段ボールなどの廃材を用いた掲示物による案内
・写真…スコップサプライズのときの様子をプロの秦義之氏が写したもの
・求む育ての親…賞味期限切れとなった市販の種を持ち帰ってもらう
・のぞ木見…主体的に「見る」ことを求めた掲示…昆虫など小動物をモデルにした紙工作。
授業の中でその秘密が明かされ,皆びっくり。
・生物部ポスター…生物部の活動のアッピール

などそれこそ多様・充実したもので、何よりもその人を惹き付けるデザイン性に驚かされた。知らず知らずのうちに「生物部ワールド」の虜となっていく。

13:30 授業開始
 リーダーから授業予定と注意事項の伝達の後、阿部生物部部長と平井副部長によるギャラリー展示の説明と生物部の紹介が行われた。人を引き付けることを意識してポスター等を制作したことも知らされ、通りすがりの人に目を向けさせ、「伝える」ことを主目的とすることの重要性を知らされた。また、ただ眺めるだけでなく、主体的に見てもらうための工夫も同時に大切なこととして意識して制作していることも伝えられた。
 様々な工夫を凝らして制作され展示された作品の説明を受けているうちに、生徒さんの表情に授業への期待と不安が高まっていく。

14:00 テレビ塔内の会議室へ移動。
 テレビ塔内へ入ることに興奮される生徒さん達も多かった。
 初めに施設の簡単な説明の後、恒例の30秒自己紹介。18名の生徒さん全員が終わるころにはみな緊張も緩み、なごやかな雰囲気が漂う。
 まず、作品制作に先だって、石川進一郎君(9歳)がお手本を示す。
 同伴したお母さんの話によると、進一郎君は紙に描かれた線をたどってハサミで切るのは苦手で嫌いだったとのこと。ところが、彼は図鑑でカブトムシの図にしばらく目を凝らして見入ったかと思うと、二つ折りにした色画用紙にハサミを入れていく。なんの下書きもせず、一心に切り進んでいく。数分が経過、彼は切り取ったものを器用に折り重ね、あっという間にリアルなカブトムシを完成させた。驚くほどに精密だ。触角や足の隅々まで妥協を許さない出来栄え。なにより一枚の紙だ。切り離してもいない。当然、接着剤も使っていない技は、この場面を目撃していなければ到底信じられない。まるで手品を見ているようなひとときであった。
 阿部部長の話によると、進一郎君の制作の根底にあるのは「見る」こと。丁寧に対象を見ることだ。逆に我々は普段、本当に見ているのかどうかが問われた気がした。我々はともすると対象を頭で考えて「見て」いるのではないか。その対象の本質を素直に受け入れるのではなく、巷で伝えられる事前知識に左右されたものの見方・考え方から「見て」判断していないだろうか…そんな怖れを私は持った。 

14:40阿部部長(デザイン)、平井副部長(コピー)からの話
デザインやコピーについて考えるときのポイント(後述)をお話していただいた。また、次の参加者による実技の中でも、ときおり全体に向けての説明を随時していただいた。

15:00 「大切な人へのラブレター」をテーマにしたカード制作の説明、制作開始
テーマは,広い意味での「ラブレター」であり,対象はだれでもいいが,その人のことを思い浮かべたりコミュニケーションをとるつもりで取り掛かったりするとうまくいくことが多いそうである。
また,初めから気負って難しいことを書こうとするよりも,簡単なコピーから始めると素直に自分の気持ちを引き出し,やがて,アイディアも徐々に膨らんでくるとのアドバイスを先生方からいただいた。まずは自分の気持ちの整理ということであろうか。
それでも上手くいかない場合は,ともかく紙を切ったり折ったりして,無計画でよいから始めてしまうことらしい。そんな中で前述したようなことを頭に思い浮かべていると,デザインの神様が舞い降りてくるそうだ。
とはいっても,早々に取り掛かる人もいれば,いつまで経っても考え込んでしまう人も居た。それでも,隣の人を覗き込んだり,会話を楽しんだりしながら徐々に形になっていく。信一郎君も自分でお気に入りのものをつくりながら楽しく賑やかに取り組んでいる。


16:05 制作発表
 さて,ようやく全員がほぼ完成し,作品発表の時間になった。
 家族への感謝を伝えるもの,ペットへの思いを表したもの,また,未来の自分へのメッセージを込めたものなど一人一人が必死に思いを表現しようとした力作がそろった。皆照れながらも,自分の作品の善し悪しよりも思いを周りの人にも知ってもらいたいという意欲で溢れ,何とか分かってもらおうと言葉を必死で選んでいるが,一人当たり発表30秒以内に収めるのは難しそうだ。しかし,作品の出来栄えに自信は無くても,思いの深ささや大きさには誇りを持ちたい,そんな気持ちが伝わってきて会場にお互いの健闘をたたえ合う温かい空気が流れる。
 
16:25 講師からの付け足し
・制作キット方式にするか迷った。キットによる制限を加えることによって表現に集中でき,却って豊かな作品を生むこともある。
・デザインやコピーを体験することにより,この仕事の大変さを分かってほしい。

≪レポーター感想≫
① 子ども,そして大人
二つに折り曲げた色画用紙にまるで手品のようにハサミが入り終わったかと思うと,まさし
く“生き物”が生まれてきた。 そして,彼のお母さんの言葉は私に衝撃だった。
「引いた線を辿るのは下手だし好きではないので,そのまま何も描かずにハサミで切り始めます。ただ,虫などは細かいところまで実に根気よく眺めています。」
 私は学校の教員だ。しかも,小学校。進一郎君と同世代の子を担任持つことも多い。はたして,今まで自分はこうした才能溢れる子に接して,どんな接し方,言葉かけ,環境整備をしてやれたであろう。「普通」に育てることばかりを意識して,数多くの子どもから表現する喜びを奪い,持てる力を「大人の常識」の範囲内に押し込んでいなかっただろうか。冷や汗が流れる。

② 表現に制約を加えると,却って世界が広がり,アイディアも生まれる(アイディアの神様が
降りてくる)とういのは新鮮であった。考えてみれば,例えば俳句・短歌のように字数の制限が一文字一文字に魂を込めるかのような優れた表現を生んでいる。相手を限定し,伝える内容も限られると確かに具体性が伴って取り組みの抵抗感が減る。
 そして,表現本来の目的は,相手に自分の思いを伝えるということであろうから,相手にどう受け取ってもらえるか,相手の視線に立つことによって自ずとデザインのアイディアも湧いてくる…つまりは“つながり”,ネットワークなのだ。ネットワークの間隙に表現が存在し,表現を具現化する手段がデザインなのだ。そして,そのデザインの在り方が,逆にネットワークの在り方を決定し,創造していくものなのだろう。
 私達の暮らしの中にデザインが深く根を下ろし,生き方に強い影響を及ぼしている。とはいえ,人々は多忙だ。デザインにうつつをぬかす暇など…と人は言う。でも,こうした混迷した時代だからこそ,私達は自らの運命を人に委ねるわけにもいかない。自らの人生は自らで描くしかない。今まさに,生き方そのものをデザインすることが現代人に求められているのだろう。