※以前書いたブログを転写します。
タイトル
「ピントずれの解釈をされた絵画」
小学生の頃の私にとって、モナ・リザと頬杖をつく女は、世界中で知らない人がいないってゆうくらい有名な作品という認識があった。
生きているうちに、私はこの二作品の本物を観たいと思っていた。
年齢を重ねるにつれ、私はモナ・リザに関しては、認識を強めたが、頬杖をつく女に関しては、何の情報も得られないままだった。
過去で有名だったのか?未来で有名になるのか?はたまた私の感覚そのものが間違いだったのか?
いづれにせよ私は、フェルメールの眠る女に巡り会った。
眠る女という作品は、ファジィ(曖昧)が重要なテーマだった。眠っているか?眠っていないのか?それを推理するのに面白みを持つ作品であった。
はじめからタイトルを眠る女とされたなら、ファジィ(曖昧)に意味を持たない。普通に頬杖、怠惰を示すポーズ、居眠りと解釈されてしまう。
一方、モナ・リザ(※真実はモナ・リザではないが)の重要テーマは未来、聖母、受胎告知である。
ジョコンダ夫人の肖像画だと解釈されてしまったが為に、人々は最も重要なことを見逃していたのだ。
絵画にとってタイトルは本当に大切だと思い知った。
仮にある作者が描いた題名のない一作品があったとして、もしもその作者が亡くなった後の世の人が、全くピントずれの解釈をしたタイトルになった場合、その作者や作品が有名になればなるほど、世の中の人は、間違った固定観念を植え付けられていることなど知る由もなく、そのタイトルを持つその作品に酔いしれることになる。