モナリザを母にしようプロジェクト

モナリザを聖なる母にしようという
プロジェクトを立ち上げました。

モナ・リザは、親子が隠されている。そして、首はヨハネの首である。

2014-03-07 22:06:02 | 日記

※続きの文章です。
モナ・リザの顔の部分はダ・ヴィンチ自身であり、身体の部分は、母カテリーナの幻影をモチーフとしている。
上下で親子を示す。
そして、完成された女性像は、レオナルドにとっての最高のマリアである。
マリアの顔を、魂で見て、深遠なる奥の奥にキリストが隠されていた。
マリアの深い部分にイエス・キリストがいた…
表にマリア、裏にキリスト
これもまた、親子関係である。
ダ・ヴィンチは、モナ・リザにおいて
上下でも親子を描き、表裏でも親子を描いたことになる。それもまた、意図的な試みだったのであろう。
因みに首は、肩の部分の延長線でもなく、頭部からの自然な流れでもない。
首はヨハネの首を意識して描かれてある。
遠い昔、ヨハネは、王族を批判したが為に、首を切られた。
ヨハネの首を、その絵画のなかで、繋ぎ入れようとしたから、解剖学的には、間違っている角度を、意図的に描いた。それでも、そこにある人体があたかも肖像画だと人々に錯覚させてしまうように、首の下にシャドーをつけたのだ。
巧妙なる陰の入れ方により、間違った角度の首が、正常なるバランスの良い首に近い状態になる。
GREEの日記では、度重なる首へのこだわりの内容を書いた私であるが、事実、モナ・リザは微笑みよりも、首に謎が隠れていたと言えよう。





一番大切な事

2014-03-07 21:27:05 | 日記

いかに
モナ・リザ(ジョコンダ夫人)というタイトルが
ダ・ヴィンチが描いた、謎の微笑みを持つ女性にとって
似つかわしいミステリアスなネーミングであると
世の中の人が感じていようと…
ダ・ヴィンチ自信は
あの絵がモナ・リザ(ジョコンダ夫人)であることを認めてはいない。
一番大切な事は
制作者であるダ・ヴィンチの遥かなる想い。
あの絵は
ダ・ヴィンチが輪廻転生に寄せる儚くも美しい想いを心にえがき
それを形に現した絵画なのだから…
未来に表れた
ダ・ヴィンチの聖母…
聖母の受胎告知
一番大切なテーマが見失われてしまう。
モナ・リザであり続けるとそれは伝わらない。
モナ・リザ(過去に実際に生きていた一人の人間)は聖母ではないから
神の受胎告知は受けることが出来ない。

永遠なるmother(母)

2014-03-07 10:30:10 | 日記

以前書いたブログ記事を転写します。※文章を一部変えました。

タイトル

「永遠なるmother(母)」

一度、私は画集でコピーしたモナ・リザの顔をリッタの聖母の身体に貼り付けたことがある。
複雑だったその表情は赤ちゃんを抱いたお母さんの照れ笑いに変わった。
あの絵画は、やはりモナ・リザではない。
利権主義の邪気溢れる権力者の魂が、引き継がれ引き継がれして、崇高な宗教画である絵画は、別人の名前をつけられたまま変わることがなかった。
モナ・リザではないけどモナ・リザ
モナ・リザはモナ・リザ
永遠だったであろうモナ・リザというタイトル
だけど
そのタイトルに対し違和感を持ち続ける純粋なる魂の人達が、明日より明後日、明後日より明明後日と未来に向かって増え続けると私は信じている。
モナ・リザ新たなるタイトルに向けて!
未来では、あの絵画は、mother(母)であることが浸透するであろう。
国境や国籍に関係なく
どの宗教が一番だとか正しいとか、そんなつまらない論議など必要なく
現在も過去も未来も関係なく
あの絵画は永遠なる母として微笑み続ける。




モナリザは肖像画ではない。

2014-03-07 09:33:07 | 日記

以前書いたブログ記事を転写します。

タイトル
「モナリザは肖像画ではない。」

繰り返し繰り返し
何度も訴えよう。
そのうち
あまねく人々は
理解する。
いえ
もう既に
理解している人々は大勢いるのかもしれない。
現在、モナリザだと知られている絵画は
元々は、肖像画ではなかった。
ダ・ヴィンチは、神と人とを区別しない、画期的な絵画を描いた。
そう、その微笑む女性は、神にあらず人であり、人にあらず神である。
ダ・ヴィンチは、黄金比率を駆使して、微笑む女性を描いた。
絵画は、全て計算された絵画だ。
数学的、幾何学的な様々な理解と、宇宙の真理のもとで
描かれた、絵画は人々を魅了し続けた。
ただ、ただ
当時のキリスト教の枠組みから
かなりはみ出した絵画だったから
最高権力者のキリスト教の教皇たちからしてみれば
ダ・ヴィンチがした行為は、犯罪者に近いことだった。
だから
当時の最高権力者や、それを取り囲む貴族たちが
手を組み、様々な策略をして、、、
あの微笑む女性を
「肖像画」という
枠組みに、無理やり入れた。
ジョコンダさんは、その時代の波に、操られ、利用された。
ダ・ヴィンチは、元々
肖像画を描いてはいない。
ダ・ヴィンチは、数学的、幾何学的、理解を極め、宇宙の真理を現す
聖母を描いた。
その聖母は、キリスト教の枠組みに当てはまらず、キリスト教の理解には、当然当てはまる、真理を現す絵画だ。
その他、数多くの宗教を、
一つにまとめるような
要素も持つ。
「ワンネス」
現在、スピリチュアルブームが到来している為、この事を理解している人たちは、少なくない。
全ては、一つである。
神と人とは、本来
境界線などないのだ。
私とあなたに、境はない。
私はあなたであり、あなたは私である。
私ではなく
私たちという集合意識。
その拡大された
集合意識は
あの有名なモナリザというタイトルの
絵画の
「肖像画」という概念を外す。
元々、肖像画ではなかったのだから、、、
はじめに帰れば良いだけのことなんだけどね。
人々は、宇宙の真理の理解を深める。
真理は
理解が深まれば深まるほどに
あの絵画に
「肖像画」的要素を感じる者は
もはや、いないであろう。
※ほとんど、霊感で書きました。間違っていたら、ごめんなさい。