絶対的幸福と相対的幸福(あんしん&安全) 全ての人間は尊厳を持っており、敬意と尊敬に値いします。

安全とはリスクが受容できるレベルより低いこと。
安心とは、リスクの存在を忘れることができている心理状態。

No.37 ジョー・オダネル氏の長崎原爆写真が伝えること 

2008年08月16日 10時23分19秒 | Weblog
ジョー・オダネル氏の長崎原爆写真が伝えること No.37


「生前、原爆投下に後悔の念をいっさいもらさず、胸を張ってその
決定を擁護していたトルーマン大統領は、ホワイトハウス付のカメ
ラマンとの私的な会話の中で、原爆の投下についてはその後どれほ
ど『心を悩まされたことか』と語ったことが明らかになっている」
と斉藤道雄さんは「原爆神話の50年」の著書となかで記述してい
ます。私はこのカメラマンは多分ジョー・オダネル氏だと思いまし
た。

 NHKが今年8月7日に放映したドキュメント番組「解かれた封
印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」を見終わったときそう思い
ました。

 番組での会話を再現します。
ジョー・オダネル氏
「大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。
 あなたは日本に原爆を落としたことを後悔したことはありません
か?」

 彼(トルーマン大統)は動揺し、顔を真っ赤ににしてこう言った。

「当然それはある。
 しかし原爆投下は私のアイデアではない。
 私は前の大統領から単に引き継いだだけだ」

 この番組は08年8月27日(水) 深夜 【木曜午前】0時45分~1時
34分 総合 で再放送されます。ぜひ見てください。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080807.html

 真珠湾を知ったときから日本人への復讐心に燃えたオダネル氏が
19歳の冬に海兵隊の写真記録班に入隊し、占領軍として原爆投下
後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、
軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。

 帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネ
ガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してし
まう。

 しかし晩年になった1989年、ある修道院で反核運動の象徴で
ある彫像に出くわしたことから、「原爆の悲劇を訴え母国アメリカ
の告発に踏み切っていきます。その彫像とは、原爆の被害者の写真
が貼り付けられている彫像でした。

 原爆投下を信じる周囲から非難の声をオダネル氏はたくさん浴び
ました。1990年自身の写した原爆写真展を行おうとしたが、ど
の施設でも拒否、自身の長崎での体験を本にしようと思ったが、3
5社の出版社からも拒否。

 今回の私の連載でも取り上げていたましたが、スミソニアン博物
館での展示にも予定されていたがキャンセルされた。

 彼の撮影した長崎の写真、それは原爆を正当化する退役軍人にと
っては"決して口には出してはならない真実"だった。そのために彼
はアメリカ中から非難され新聞の投書にも非難の声が聞かれるよう
になった。

 そのなかでひとつ、彼を擁護する投書があった。
「原爆が正しいと言っている人々は、図書館で世界の歴史をもっと
勉強してから意見を述べるべきだ。」と、書かれていました。
 
 それはなんと、当時23歳だった、ジョー・オダネルの息子タイグ
さんが書いたものだった。

 理解を得られぬ奥様からは離婚され、オダネル氏自身も原爆の後
遺障害で25回もの手術を行ったが、85歳の生涯を閉じた。

 なぜオダネルは、軍の規則に違反して写真を撮影したのか?なぜ
その写真を長年隠し、晩年になってトランクを開け母国を告発した
のか?

 その足跡を追う息子が、遺品の中に残された録音テープを発見し
た。そこには写真に秘められた過去と、真実を伝えざるを得なかっ
たオダネル氏の思いが告白されていた。

 以上が番組の内容です。

 オダネル氏がトルーマン大統領に本当に言いたかったことは、
まず、

「Please, do not misunderstand me, I am an American, I love
my country .」ここを前提として・・・


 「だからこそアメリカ国民として歴史の真実を見てくれ、知って
くれ!そして、おなじ人間として、兵士でもない、何の罪もない、
子どもたちや母親たち民間人の多くの人たちを国のために殺したこ
とは正当化できない、長崎での真実を伝える義務が私にはある」


「たとえ小さな一つの波紋でも真実である限りかならず日本から米
国という太平洋の対岸まで伝わっていく筈だ。いつか米国民も長崎
の原爆投下の真実を理解してくれる。全世界の誰でもが平和を実感
できる日が必ずくる」

 以上3項目ではないかと思いました。



歓乃喜 師弟 No.37(8/16 2008)
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No.36 トルーマン大統領の(原爆投下の)決定は正しかったのか?

2008年08月15日 10時10分32秒 | Weblog
トルーマン大統領の(原爆投下の)決定は正しかったのか? No.36

 本日は終戦記念日。被爆から63年目の広島・長崎をはじめこの
戦争犠牲になられたすべての方々に謹んで哀悼の意を表します。

 さて「トルーマン大統領の(原爆投下の)決定は正しかったのか」
という重いテーマに関して、私の未だ歴史研究を十分に踏まえないま
までの結論ですが、、やはり「核兵器は絶対悪」という普遍的人間
哲学が無かったがゆえに、「決定は重大な世界人類への犯罪」とし
て、私は「間違った」ものと考えています。

 斉藤道雄さんの、「原爆神話の50年」(すれ違う日本とアメリ
カ:中公新書)著書から引用します。

 「生前、原爆投下に後悔の念をいっさいもらさず、胸を張ってそ
の決定を擁護していたトルーマン大統領は、ホワイトハウス付のカ
メラマンとの私的な会話の中で、原爆の投下についてはその後どれ
ほど『心を悩まされたことか』と語ったことが明らかになっている。

 問題は、その悩みに込められた意味が何であったかをときほぐす
作業が、日本でもアメリカでも十分に行われていなかったことでは
ないだろうか」

 スミソニアンにおける原爆・展示会は、アメリカのマスコミや世
論によって大幅に後退します。1994年12月7日、ワシントン
市内のアメリカン大学で開かれた、このことに関する討論会の模様
を「原爆神話の50年」から引用します。

「ピーター・ブルート下院議員(スミソニアン糾弾で議会の動きの
リーダー役)
『いいですか、真珠湾攻撃があって、パターン死の行進があって、
沖縄が、硫黄島があって、そういう15年にわたる(日本)の侵略
で何百万という人が殺されたんだ。

 それはアメリカのせいじゃない、日本の侵略があったからじゃな
いか。だからあの戦争は終わらせなければならなかった、それも迅
速に終わらせなければならなかった。

 そしてトルーマン大統領が決定を下した。難しい決定だったが、
しかし正しい決定を下したのだ。戦争を終わらせる、アメリカ人の
命を救うという決定を』

 会場の半分を占める人々から盛大な拍手が起こった。
 ブルートの主張は、退役軍人だけでなく、アメリカ一般市民の心
情を反映したものだ。原爆がなければ戦争は長引き、恐怖の日本上
陸戦が行われ、その中で自分が、あるいは知り合いの誰それが死ん
だかもしれない、という思いだ。

 これに対してアンナ・ネルソン教授(アメリカン大学歴史学科教
授、中立的立場だが政治の介入を批判)は、澄んだ静かな口調で歴
史とは何かと問いかける。ここには、個人の記憶と歴史の混同とい
古典的な問題が含まれているのだ。

 『多くの人が(歴史的な)出来事に遭遇し、そこでたくさんのこ
とを見ますが、しかしそれは全体を見ているわけではないのです。
そして、まさに展示(の企画書)の中でもいっているように、私た
ちはしばしば、出来事から25年、あるいは50年たった後で、本
当に何が起きたかを知るのです。

 ・・・時がたち、長年人の目に触れなかった記録文書が出てきて、
そこから浮かび上がる当時の考え方がしばしばアメリカ人の目を見
張らせ、驚かせることがあるのです』

 カイ・バード(歴史家、原爆投下を強く批判)は、その例として
トルーマンの日記をあげる。
『退役軍人たちは前線にいて、上官から(日本)侵攻が行われると
告げられていた。そして突然原爆があって、数日後に戦争が終わっ
た。だから彼らが救われたと思うのは当然だ。
 
・・・しかし、1978年に発見されたトルーマンの日記では(ホ
ワイトハウスの)スタッフが皆、日本はもう降伏の過程にあると強
く信じていたことを示している。これは、原爆投下の決定について
全体の概念を変えてしまうのではないか』

 原爆が戦争を終わらせたというのが多くのアメリカ人の『実感』
であっても、それがそのまま『歴史』というわけではないのだ。

 中略

 アンナ・ネルソン教授、『(原爆投下についての)この論争を私
たちは決して終えることがないでしょう。それはこの先100年続
きます。しかしスミソニアンがいま、この問題を提起できないとい
う事態は、歴史を検証し、歴史を理解することを誇りとするこの国
で、また表現の自由を誇りとするこの国においておよそ容認するこ
とができない。これこそがなによりも歴史家を困惑させていること
なのです』

 一瞬水を打ったように静まり返った会場で、発言にうなずくいく
つもの頭が揺れていた。

 しかしブルートが語気を強める。
 『展示を見た子どもたちが、この国はなんてひどいことをしたん
だなんて思って出てくるような展示を、アメリカが侵略者だったな
んて、そんなひどい展示を許すわけにはいかない!』

 バードも同じように声を強めた。
 『政治家が歴史を教えるようになったら、この国はどうなること
か!』 」

 これらの議論を尽くし後、政治的な介入もあって?(ただし、民
意の反映として議員への要望を受けて)1995年1月18日、
「スミソニアンは原爆展を即時中止せよ」というアメリカ・リージ
ョンの最後通告が出されます。

 原爆展は原爆を投下した航空機であるエノラ・ゲイの展示となり、
被爆者の写真・遺品は、空軍協会の要求どおり一切が削除されまし
た。アメリカの戦後50年はこのとき、原爆投下をあくまでキノコ
雲の上(3万フィート上空からの景色)から見下ろしたままの50
年にしてしまいました。

  斉藤道雄さんは著書で「しかし、エノラ・ゲイ展示が歴史から
消えたといってもアメリカ社会から原爆投下をめぐる歴史論争が消
えたわけでない。いやむしろエノラ・ゲイの『歴史抜き展示』がス
タートした前後から、原爆をめぐるアメリカの論議はふたたび活発
になってきた」と述べています。



歓乃喜 師弟 No.36(8/15 2008)
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No.35 原爆投下の言い訳?原爆神話に潜むもの 

2008年08月14日 07時57分52秒 | Weblog
原爆投下の言い訳?原爆神話に潜むもの No.35

 「原爆がおとされなければ本土上陸作戦が行われ、多数のアメリ
カ兵が死んだろう、だから原爆はこれらアメリカ兵の命を救った」
というのが「原爆神話」です。

 このときの推定死者数について、斉藤道雄さんの、「原爆神話の
50年」(すれ違う日本とアメリカ:中公新書)著書から引用しま
す。

 「原爆は多数のアメリカ人の命を救ったという『神話』は、上陸
作戦が行われていれば多数のアメリカ人が死んだという仮定の裏返
しだが、仮にその議論を認めるとして、では『多数のアメリカ人』
とはいったいどれほどの数を指すのか、ここではそれが争点である。

 原爆論議の中では、この推定死傷者数が多ければ多いほど、それ
を『救った』原爆の意義が高く評価されることになるからだ。

 戦後のアメリカでは、推定し死傷者数が広く『50万人』とか『1
00万人』と信じられてきた。しかし実はこれは戦後になってトルー
マン大統領らが原爆投下の言い訳として言い出したことであり、この
言い訳を支える歴史的な根拠はない。

 大統領が言ったためにいつの間にかアメリカに定着した神話だが、
スミソニアンの企画書は歴史上の資料をもとにこの神話に挑戦した」

 斉藤道雄さんは、アメリカ高校生の歴史教科書を調べました。やは
り原爆神話は残されており、進歩的な教科書でも「何十万人」、残り
2冊の教科書では「ともに原爆が100万人の命」を救ったという記
述を発見します。

 100万人・原爆神話について、同著書から紹介します。
「この100万人神話は、実は戦争が終わった後の1947年、元陸
軍長官のヘンリー・スティムソンが原爆投下を正当化する必要から『
ハーパーズ・マガジン』2月号に寄稿した論文が発端となっている。

 スティムソンは戦後間もなく、原爆投下を疑問とする意見がジャー
ナリストのノーマン・カズンズらによって提起されたのに対して、戦
争中のトルーマン大統領の決定を支持・補強するために、その名も『
原爆投下の決定』という一文を書いて同誌に寄稿したのだった。

 この論文の出版に至る経過についてはバーンスタインら(歴史家)
が詳細な研究を行っているが、いまではこのスティムソン論文はかな
り明白な世論操作の意図を持っていたことがわかっている。

 中略

 しかしスティムソン論文は、戦時中の陸軍省の最高責任者が書いた
『原爆投下の公式見解決定版』として広く読まれ、戦後のアメリカに
たちまち定着してしまった。

 それがやがてトルーマン大統領の演説でも『50万人、100万人
の死傷者』などの形で引用され、原爆の使用を正当化する根拠となっ
ていたのである。

 もともとの引用に根拠がない上に、『死傷者』がしばしば『死亡者』
と誤解されるため、高校の教科書でも100万人が『命を救われた』か
のように解釈されることになってしまった」

 それでは実態の推定死傷者数はどうであったのか?原爆研究の泰斗、
スタンフォード大学のバーンスタインの研究では、「推定死傷者数は2
5万人ではなく、『6万3000人』となる。

 その根拠となったのは1945年6月18日ウィリアム・レーヒー提
督の日記の一節だった。この日ホワイトハウスで行われた最高作戦会議
について、レーヒーは次のようにその一部を記録している。

 『午後3時半から5時にかけて、大統領は統合参謀本部、陸軍長官、
海軍長官、マックロイ陸軍次官とともに、日本上陸の必要性と実現性に
ついて協議した。マーシャル将軍とキング提督はともにできるだけ早く
九州上陸を行うことを強く唱えた。
 マーシャル将軍の意見は、それにより被る死傷者は、作戦に必要と見
積もられる戦闘部隊19万人のうち6万3000人を超えることはない
との意見だった』

 中略

 そしてバーンスタインの見解に基づいて、スミソニアンは死傷者数を
下方修正するとアメリカン・リージョンに通告したのである。新発見に
もとづき、死傷者を6万3000人とするならば、死者は当時の戦闘で
死傷者の4人から5人にひとりだったから、1万5000人前後という
ことになる。

 それでは原爆は『1万5000人の命しか救わなかった』ということ
になり、原爆神話の核心である『100万人の命を救った』には遠く及
ばない」

 私にとって「絶対悪である原爆投下」におけるアメリカの原爆神話は
ここで崩れ去るわけですが、この作業をアメリカ国民自身が行っている
という点に私は注目しました。

 この事実提起されたのが1994年、それから14年経っています。
アメリカの高校生の教科書に歴史訂正が反映されるのは30年~50年
もかかると一般的にいわれています。現在のアメリカの教科書情報で「
原爆神話」の記述においてわかる方いましたら、ぜひ教えてください。


歓乃喜 師弟 No.35(8/14 2008)
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No.34 誰でもが平和を望んでいるのに・・・ 

2008年08月13日 11時03分46秒 | Weblog
誰でもが平和を望んでいるのに・・・ No.34

 私にとって「絶対悪である原爆」投下は必要だったのか?

 ワシントンのスミソニアン博物館で計画された「原爆展」につて
ても取材していた斉藤道雄さんは、この疑問に対して、「原爆神話
の50年」(すれ違う日本とアメリカ:中公新書)の著書の中で、
以下のように記述しています。

 「スミソニアンの学芸員たちは、1991年から基礎資料の収集
を行い、準備作業にとりかかっていた。こうした中で1993年に
はその基本的な考え方をまとめた内部メモが作られている。このメ
モを見ると当初の原爆展の構想がきわめて先鋭的なものであったこ
とがわかる。

 『広島と長崎:航空宇宙博物館における50周年の展示』という
サブ・タイトルの後にはこう書いてある。

 『核兵器の創出とその広島、長崎への投下は近年の人類史の中心
的な出来事であった・・・多くの問題が解決を見ないまま残されて
いる。
 
 半世紀後のいまも、日本に原爆を落とすことが必要だったかどう
か、また道義的に正しかったかをめぐる論争は続いている。

 広島と長崎を機に始まった核競争の現実と相克は、今日未だに解
決を見ない問題である』

 このため、博物館は原爆の投下について徹底的に学術的な再検討
を行いたい。なぜなら原爆に対する人々の見方は『しばしば限られ
た知識と、個人的偏見によって形作られている』からだ。

 提案は、こうした『限られた知識』の対極には「原爆を戦争犯罪
とみなす考え方」まであることを指摘している。もしこの文書が公
表されたものだったら、きっとこの「戦争犯罪」のくだりがきわめ
て強い反発を招いたことだろう。

 この内部メモで、私がいちばんスミソニアンの意気込みを感じた
のは、トルーマン大統領の原爆投下の決定を、『いわゆる原爆投下
の決定』と述べている部分である。
 
 『この展示は、かなりの部分が広島と長崎、そして1945年春
から夏にかけてのいわゆる”原爆投下の決定”を中心としたものに
なるだろう』

 中略

 50年前、大統領は原爆を他のオプションと真剣に比較検討した
上で、投下の決定を下したのだろうか?メモには、そうではあるま
い、という痛烈な批判が込められていた(注1)」

注1
「原爆の投下に関してトルーマン大統領が『投下せよ』と命令した
記録は残されていない。原爆の開発は前任者ルーズベルト大統領か
らの『引継ぎ』であり、はじめから原爆は『できたら使う』と考え
ていたためと思われる。

 このためアメリカ政府の中で誰が、どのような検討のもとに日本
への投下を決めたかは不明確な部分がある。

 しかしそのことをもって大統領は明確な決定をしなかったという
のは、『命令書がないからヒトラーはユダヤ人虐殺を指示しなかっ
たというのと同じことだ』(リチャード・ハリオン)という反論も
ある」

 原爆投下の必然性において、原爆投下をしなければ日本本土への
米兵上陸作戦(今となっては幻の上陸作戦)において100万人も
のアメリカ人の命が亡くなるという可能性を阻止できたという推測
(今となっては伝説)が当時あったそうです。

 次回はこの推測がどうして伝説になっていったのかを説明します。
原爆容認論(投下やむを得ず論)における、論拠の寄りかかりであ
る「原爆神話」の検証となります。



歓乃喜 師弟 No.34(8/13 2008) 
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No.33 平和認識の差はどこから? 

2008年08月12日 18時26分55秒 | Weblog
平和認識の差はどこから? No.33

「原爆神話の50年」(すれ違う日本とアメリカ:中公新書)著者
の斉藤道雄さんは、1994年1月から米国で取材を始めました。

 ニューメキシコ州の子どもたちが、広島の「原爆の子の像」の姉
妹像を作ろうと運動しているのを知って、斉藤道雄さんの取材は始
まりました。

「核兵器の廃絶どころか、多くのアメリカ人は核兵器のおかげでア
メリカはソ連との冷戦に勝ったと信じている。

 その冷戦の始まりを告げた広島、長崎への原子爆弾の投下は、被
災者には災難だったろうが、やむを得ない選択だった、災禍に咎が
あるとするなら、それはアメリカではなく、無謀な侵略戦争を始め
た日本政府・軍部こそが負うべきことではないか・・・。

 多くのアメリカ人の考え方の根底には、原爆の投下に対する疑問
や、その道義性を問う姿勢はなく、ましてやそれが間違っていたな
どと考えるのは、アメリカにあっては全くの少数派に過ぎない。

 広島と長崎、その50年の訴えにもかかわらず、縮まることのな
かったこのすれ違い。それはいったいなんだろうか?
 
 ロスアラモス(原爆を作り出した発祥の地)で、ワシントンで、
そして広島・長崎で取材するほどに、私の中でふくれあがった疑問
は『被爆者の訴えはどこにいってしまったのか』ということだった」

 このように斉藤さんは著書で、冒頭において述べています。

 私自身山陰地方の小都市から小学校低学年のとき初めて広島の
「原爆資料館」を訪れたときの衝撃は原体験となり、「核兵器廃絶
」というキーワードはその後学生時代を経て、社会人となっても、
消えることがないものとなりました。

 また「このような惨劇をもたらした、原爆投下決定の責任者は絶
対許せない」という想いが、私の当時の原体験としてかなり長い間
残りました。

 それ故長崎市・本島等市長の「核兵器は全人類を滅ぼす力を持っ
ている『絶対悪』であります」という宣言は、私の原体験を表現し
ているものとして、存在し続けています。


原爆投下は必要だったのか?


トルーマン大統領の(原爆投下の)決定は正しかったのか?


ソ連ファクターはどこまで影を落としていたのか?


最初の原爆投下地を東洋人である日本に選んだのは、
人種差別的な意味合いがあるのか?


 私が長年抱き続けていたこれらの疑問を、斉藤道雄氏はこの著書
において、日米間の「原爆問題認識のすれちがい」という悲しい現
状報告と共に、回答をしてくれています。

 
歓乃喜 師弟 No.33(8/12 2008) 

 


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No.32 平和を創り続けるであることが、幸福の条件

2008年08月11日 15時39分09秒 | Weblog
平和を創り続けるであることが、幸福の条件 No.32

 毎年、8月6日、9日、15日は、私にとって「戦争と何か?」、
「広島と長崎の原爆はなぜ投下されたのか?」、「平和を創り続け
るには?」というテーマを考えさせられる日々となります。

 戦争はまず弱い立場の方々の幸福への条件を根こそぎになくして、
悲惨にしていきます。子どもたち、母親たち、女性たち、障害者の
方たち等々・・・。

 「広島は焼けこげの街、灰の街、死の街、滅亡の街、累々たる死
骸は、無言の非戦論」(井伏鱒二・小説『黒い雨』)

 1945年8月6日、午前8時15分、一発の原爆が都市を消滅
し、一般市民約14万人の尊い命を奪った。このときから63年経
過して、広島の被爆者の方で原爆症で亡くなられた方=原爆死没者
数の方は累計25万8008人。被爆者の方々の原爆はまだ終わっ
ていません。

 「日本歴史の中における最大の凶事は、いうまでもなく大敗戦」
と作家の山田風太郎さんは言っています。私も同感です。

 大敗戦における凶事の中の凶事が、広島・長崎の原爆投下です。
広島の原爆死没者数25万8008人。この数字から皆さんは何を
想像されますか?

 破壊力、恐怖、理不尽さ、権力の愚かさ、戦争の悲惨さ等々・・

 1994年8月9日、長崎市の本島等市長は、49回目の原爆忌
で次のように長崎の「平和宣言」を読み上げました。

 「核兵器は全人類を滅ぼす力を持っている『絶対悪』であります。
このような非人道的、無差別大量殺戮兵器の使用が国際法に違反し
ていることは言うまでもありません」

 この宣言は私にとってはもっとく至極当然で、「核兵器=絶対悪」
というキーワードが反核運動のの生命線かと思います。毎年この季
節になると私はこの本島等市長の宣言を思い浮かべます。

 しかし、斉藤道雄氏の「原爆神話の50年」(すれ違う日本とア
メリカ:中公新書)を昨年手に入れて読み始めたとき、「原爆投下」
について、こんなにも「日本人とアメリカ人ははすれ違いの認識を
もっている」という現実を知って、愕然とした経験があります。

 「原爆投下」から「核廃絶」に向けての平和への努力においては、
「戦争」そのものの廃絶という人間哲学的な作業(絶対的な幸福とは
何かの思索)が、徹底的に必要と思い知った次第です。

 次回から「原爆における日本とアメリカのすれ違い」を連載して
いきます。


歓乃喜 師弟 No.32(8/11 2008)
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No.31 幸せになるためには絶対的なものを・・・

2008年08月08日 19時13分11秒 | Weblog
幸せになるためには絶対的なものを・・・No.31

 河野義行さんの「人を恨んだり憎んだりすることは、せっかくの
かけがいのない人生を、つまらないものにしてしまう」という言葉
は、私にとっては一生の財産となるものです。

 なぜ私にとっての財産になるかというと、私が絶対的な幸福を求
めているからです。他人や、周囲や、環境に左右されない、目先の
ことに一喜一憂しない、そういうところに絶対的な幸福の基準らし
きものがあるのでは?と私は思っています。

 松本サリン事件依頼14年間もこのことを身をもって実証された
河野さんのこの言葉は、そのまま信じるべき言葉であり、実践すべ
き言葉であると、私は捉えました。

 以前河野さんの奥様・澄子さんへの看護の模様をドキュメント番
組でみたとき、河野さんの落ち着いた、一貫として優しい表情が一
番強烈な印象として私には残りました。

 澄子さんの14年間の闘病生活を振り返っては、河野さんは「や
っぱり生きる意義を感じていたと思う。それは、自分がいつも妻に
『あんたは寝ているだけと思っているかもしれないけれど、実は家
族や私を支えているのは、あんたなんだよ』と言っていたので、彼
女の中では、生きる意義があって、命のギリギリまで燃やし続けて
くれた」と話していました。

 また、事件前の澄子さんの人柄を聞かれた河野さんは、「格安商
品が大好き。スーパーで肉が安いと3キロ、4キロと買ってくる。
子供にはやさしくて、おやつは妻がほとんど作って子供に食べさせ
ていた」と家庭でのエピソードを紹介してました。

 子供3人が小学生だったときに毎年行っていた家族のキャンプ旅
行が、鮮明に覚えている澄子さんとの楽しい思い出。心に残ってい
る言葉。それは、「パパー」と自分を呼んでいた澄子さんの声だと
河野さんはいいます。

 このような奥様への想いがあるが故に、第三文明社から河野さん
の著書「命あるかぎり」が出版されたとき、河野さんは「本書は今
年還暦を迎えた妻への感謝と激励の書である。
 
 本の中で私の少年時代の日々にも触れました。どんな悪さをする
子どもであっても無条件に受け入れ、守ってくれる親がいる限り子
どもは歪まない。

 殺伐とした現代の親子関係を考えるきっかけになれば幸いです」
とコメントしています。

 そして河野さんの結論「人は幸せになるために生まれて来たこと
を私は信じて疑わない」

 河野さんの「人を恨んだり憎んだりすることは、せっかくのかけ
がいのない人生を、つまらないものにしてしまう」という言葉の実
践が、絶対的な幸福を求める条件の一つとしてあるのではないかと
私は思います。


歓乃喜 師弟 No.31(8/8 2008) 
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人は幸せになるために生まれて来た。No.30 

2008年08月07日 19時43分26秒 | Weblog
No.30 人は幸せになるために生まれて来た。

 今年の6月27日、第三文明社から河野義行さんの著書「命ある
かぎり」が出版されました。丁度松本サリン事件発生から14年経
った当月当日でした。

 河野さんの奥様の澄子さんが亡くなられたのが、8月5日。何か
事件経過をおっていきますと、本の出版から奥様のことまで、感慨
深いものがあります。

 松本サリン事件の被害者、河野義行さん(58)の妻、澄子さん
が亡くなったことについて、オウム真理教から脱会した新団体「ひ
かりの輪」の上祐史浩代表は5日、「深い衝撃と悲しみを感じてお
ります。私たちの罪の重さを改めて強く自覚し、再び同じ過ちが繰
り返されないための総括や賠償などを通じて、いっそうの償いに努
めさせていただきます」とのコメントを発表しました。

  義行さんの代理人を務めた永田恒治弁護士は「事件は何の罪も
ない人間を無差別に巻き込み、その人生を大きく変えたという点で、
非常に許し難い。オウム真理教がただ憎いと言うだけではなく、な
ぜオウムがあのような事件を引き起こしたかという社会的背景をし
っかり見極め、それを根絶していく努力を続けていくことが重要だ」
と憤っていました。

 それでも河野さんは、奥様の14年間の闘病生活を振り返っては、
「やっぱり生きる意義を感じていたと思う。それは、自分がいつも
妻に『あんたは寝ているだけと思っているかもしれないけれど、実
は家族や私を支えているのは、あんたなんだよ』と言っていたので、
彼女の中では、生きる意義があって、命のギリギリまで燃やし続け
てくれた」と話していました。

 そして、松本サリン事件の実行犯らに対しては、「以前と変わら
ない。憎んだりする思いは今でも持っていない」と述べていました。

 著書「命あるかぎり」について、河野さんは「死と年齢とは関係
なく誰にでもやって来る。地位も財産も何の役にも立たないと、そ
の時人は思い知るのだ。

 人生で本当に大事なもの、それは今この一日一瞬を大切に生きる
ことだと思う。

 人を恨んだり憎んだりすることは、せっかくのかけがいのない人
生を、つまらないものにしてしまう。

 人は幸せになるために生まれて来たことを私は信じて疑わない」
とコメントされています。



歓乃喜 師弟 No.30(8/7 2008)
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河野義行さんに対するマスコミ犯罪 No.29

2008年08月06日 18時51分04秒 | Weblog
河野義行さんに対するマスコミ犯罪 No.29

今回は、 河野義行さんの対応が、何故に、たとえ犯人扱いされて
も、感情的になることはなく、終始落ち着いた態度で対処できたの
のだろう?というがテーマです。

 本日の日経新聞には、「同事件では、住民8人が死亡、多数が重
軽症となった。当初は原因がサリンと断定できず、周辺で犬が死ん
だり、植物が枯れたりしていたことから、第一通報者で薬品を扱っ
ていた河野さん宅が有毒ガスの発生源とみなされた。

 長野県警は義行さんから事情聴衆し、殺人容疑で自宅を家宅捜索
した。

 1年後の95年6月、オウム真理教による犯行と断定された後、
県警は河野さんに遺憾の意を表明。義行さんを容疑者扱いしたとし
て、日本経済新聞社など報道各社は謝罪した」
とあります。

 それにしても、当時一番ひどい報道をしていた週刊誌の宣伝が、
本日の日経新聞にでかく広告主の宣伝として掲載されているのも、
私には不思議な気がします。

「本当に謝罪するならこのような週刊誌の宣伝も拒否して欲しい」
というのが私の本音です。

 河野さんは「この事件をきっかけに、原理原則=法律が守られて
いない現状を痛感した。(逮捕されたわけでもないのに即犯人扱い
するマスコミ=原理・原則がわかっていないまま報道:筆者注)

 私は法律が絶対的に正しいものとは思っていない。しかし皆で決
めた以上は守らなければ、社会の秩序は維持できない。守ってこそ
の法律ではないのか」と発言しています。

 昨日の記者会見で、河野さんは「松本サリン事件の実行犯らに対
しては、『以前と変わらない。憎んだりする思いは今でも持ってい
ない』」と述べています。

 同じ思いを原理=原則が分っていないマスコミに対しても河野さ
んはお持ちかと思います。

 この河野さんの気持ち・心は何処からくるんだろう?というのが
私の最大の疑問であり、驚きです。

 次回・明日この続きを・・・


歓乃喜 師弟 No.29(8/6 2008)
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河野義行さんの妻、澄子さんの冥福を祈ります No.28

2008年08月05日 20時28分33秒 | Weblog
河野義行さんの妻、澄子さんの冥福を祈ります No.28

松 本サリン事件の第一通報者、河野義行さんの妻、澄子さんが
8月5日午前3時、長野県松本市内の病院で亡くなりました。

 60歳でした。死因は、サリン中毒による低酸素脳症が原因
の呼吸不全でした。澄子さんは平成6年6月、松本市北深志の
自宅で、オウム真理教が散布した有機リン系の毒ガス「サリン」
を吸って意識不明の重体となり、同市内の病院に運ばれました。

 その後、同市内の施設で、河野さんの看病を受けていました
が、意識は戻らないままの死亡でした。

 事件当時警察が当初、第一通報者、河野義行さんを犯人扱い
をし、マスコミがそのまま犯人扱い報道することに、私は疑問
を感じていました。

 当時の頃を、河野義行さんは「逮捕されたわけでもないのに、
私自身で無実を証明しろと迫ってきたマスコミ」と述べていま
す。

 その当時の河野義行さんの対応はたとえ犯人扱いされても、
感情的になることはなく、終始落ち着いた態度で対処されてい
たその一貫した河野義行さんの姿勢に、私は驚きもしました。

 犯人容疑も解けて、暫くしてから、河野義行さんが奥様・澄
子さんの看病をなさっている姿のテレビ・ドキュメント番組を
見たときは、感動しました。
 
 実行犯であるオウム真理教の方を、ひとつも恨んだり、憎ん
だりしない河野義行さんの看護の姿勢に、私は暫く考え込むよ
うにもなりました。

 14年にわたる奥様への看護された河野義行さん。
その奥様が亡くなられたという報道に接した私は、河野義行さ
んと奥様・澄子さんにたいして深く祈りを捧げたいと思ってい
ます。


歓乃喜 師弟 No.28(8/5 2008)
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