池澤 夏樹 「春を恨んだりはしない」-震災をめぐって考えたこと
from 中央公論新社 ¥1200 2011年9月初版
7章-「昔、原発というものがあった」P78
1
原子力は人間の手に負えないのだ。
フクシマはそれを最悪の形で証明した。
もっと早く手を引いていればこんなことにはならなかった。
2
エネルギー源として原子力を使うのを止めなければならない。
稼働中の原子炉はなるべく速やかに停止し、廃棄する。
新設はもちろん認めない。
それでも残る膨大な量の放射性廃棄物の保管に我々はこれから何十年も、ひょっとしたら何千年も、苦労するだろう。
3
科学では真理の探究が優先するが,工学には最初から目的がある。
この二つは、きっちり分けられなければならない。
原爆を開発したマンハッタン計画について、科学者は探求を止められなかったという弁明が後になされた。
しかし原爆は科学ではなく工学の産物である。
科学はそれに手を貸したにすぎない。
彼らは十万人の人間を殺す道具を、それと承知で、作ったのだ。
4
安全を結果ではなく前提としてしまうとシステムは硬直する。
勝利を結果ではなく前提とした大日本帝国が滅びたのと同じ過程を福島第一原子力発電所は辿った。
「原発の安全」は「必勝の信念」や「八紘一宇(はっこういちう)」と同じ空疎なスローガンだった。
5
安全は不断の努力によって一歩でも近づくべき目標、むしろ方位であるのに、それはもうここにあると宣言してしまった。
だから事故が起こった際のマニュアルも用意しなかった。
安全である以上そういうものを作るのはおかしいと外部から批判されるのを恐れたのだろう。
科学とは自然界で起こる現象とそれを説明する理論の無限の会話である。
現象を観察することで理論は真理に近づく。
安全を宣言してしまってはもう現象を見ることはできない。
6
原子力は原理的に安全ではないのだ。
この地球の上で起こっている現象が原子レベルでの質量とエネルギーのやりとりに由来するのに対して、原子力はその一つ下の原子核と素粒子に関わるものだというところから来るだろう。
材料工学はまだ原子のレベルの技術であり、そこでどう足掻いても核レベルの強度は得られない。
燃料棒の被覆としてジルコンは優れていたのだろうが、それでもメルトダウンは避けられなかった。
原子炉とは要するに容器と配管である。
絶対に漏れてはいけない高温高圧の固体と流体を入れる容器と延々と長い配管、無数のバルブとポンプ。
そういう構造物が地震で揺すぶられるというのは、正直な設計者にとっては悪夢ではなかったか。
そこで彼らは「大きな地震はないことにしよう」とつぶやきはしなかったか。