絶対的幸福と相対的幸福(あんしん&安全) 全ての人間は尊厳を持っており、敬意と尊敬に値いします。

安全とはリスクが受容できるレベルより低いこと。
安心とは、リスクの存在を忘れることができている心理状態。

No.45 教育って何だろう  

2008年08月26日 21時05分19秒 | Weblog
教育って何だろう  No.45

トルストイの民話から、 私自身の「教育」についての反省です。

 自宅に帰っても、仕事のことから思考が離れず、子どもから話か
けられても、妻から近所話しをされても、上の空で聞き流したこ
とがありました。いちばん大事な人は、今隣にいる人なのに。

 なすべきことは、どんなことであっても、懸命に今隣にいる人の
言葉を聴くことであったのに。

 そしていちばん大事なときは、「今という瞬間」なのに過去の仕
事のことが気になって過去ばかりを漠然と考え「今」を大切にしな
かった。
 
 本当にこんなことが多くて、果たして自分の子どもや部下たちを
尊敬して、可能性を開こうとしたのか?希望や理想を育てようとし
いていたのか?

 子どもや部下にたいして、ついつい「所詮子どもだ」「生意気だ」
という感情をもったことが、そういえばかなりあったのではないだ
ろうか?

 信じるべきかけがえのない身近な存在なのに、私の力量の狭さで、
信じきれないまま、つい「こうしてはいけない」「ああしろ、こう
しろ」と言い過ぎた部分も多々あったのでは?

 多分、子どもや部下にたいしてもこのようなことをしてきた私は
しらずしらずのうちに友人や知人にたいしても同じことをしてたの
ではないか?とも思い至りました。


 指示や命令的な管理だけでは外圧的で、内発的な尊厳や、生きる
力や、創造性や、豊かな心を育むことはできません。

 教育の語源はエデュケートといって「引き出す」ことなのですが、
内発的な、自主的なものを引き出すべきでした。

 目先の効率だけを考えて短絡的に外圧的なかかわりだけで済まそ
うとするのは、間違っていることにも気づきました。

 「今を大切にする」ために、「今隣にいる人を大事にする」ため
に、目先に見えるものだけに幻惑されず、子どもや部下の見えない
「命」をじっくりみつめていくことが、同じ過ちをしないためにも
必要かと思いようになりました。

 それでは、どうのようにして「命」をみつめる努力をしたらいい
のでしょう?やはり深く子どもや部下にたいして、そしてこれから
隣にいるであろう他人にたいして、自分なりに祈ることではないか
と考えるようにもなりました。

 もっといえば「自分自身」にたいしても「もう私は何歳になった
んだから、この年齢でいまさら」と外側だけの姿で決めつけないで、
自分自身の「命」をみつめよう、そうでないと他人様の「命」をみ
つめることなんてできないのでは?と思うようになりました。

 「まず自分自身の『命』を教育しなければ」というのが、遅きにい
っしましたが、やっとたどりついた私の本音です。



歓乃喜 師弟 No.45(8/26 2008)

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