風評対策なく安全・経済性のみ議論
見直し求める漁業者「孫子まで漁のできる海を」
福島の漁師と考える--水産改革、処理水
川島 秀一
リアス・アーク美術館副館長、東北大学災害科学国際研究所教授など歴任。
著書「津波のまちに生きて」「海と生きる作法」
尾崎 洋二 コメント:真のリスクマネジメントの基本には「人間としての生命哲
学」が必要なのでは?と思わせてくれる論文でした。
「科学的」という形容のもつ、近代の西欧社会から生まれた「人間のみならず、あ
らゆる生命を尊重することを忘れた」思考法は、原子爆弾の開発、日本への投下に
つながったのでは?と思う私にとって、3.11の大事故を経験した日本がいまだに福
島において同じ過ちをし続けているのではと危惧しています。
3.11から9年を過ぎ、まもなく10年を迎える私たちにとって本当の復興というも
のを、福島の漁師の方たちの視点から考えることも必要かと思います。
------聖教新聞2月13日2020年より要点抜粋箇条書き--------------------
「公聴会を傍聴して」
2018年の夏の終わり、私は小野春雄さんと「福島第一原発で増え続けるトリチウム
を含む処理水について」の公聴会(富岡町)に参加した。
春雄さんが公聴会の発言者として応募した理由は、トリチウムの海洋放出によって
予想される、直接の利害関係者が出席しないだろうと予想されたからである。
案の定、漁師の発言者は他にいなかった。
春雄さんの主張は明快であった。
3人の子を漁師にしたからには、孫子の代まで漁の仕事をできるような海を守るこ
とであった。
定刻の終了時間が近づいたので、議長が閉会しようとしたとき、突然と春雄さんが
挙手をして立ち上がった。
「目の前の海で毎日、漁ができない苦しみが分かりますか!」という、現実の
「試験操業」に対するいら立ちと、さらにトリチウム水の海洋放出がなされた場合
の風評被害と、それによる漁の先細りの不安を訴え続けた。
「丁寧でなく強硬に」
このおざなりな公聴会が開かれた場所も、富岡のほかに、内陸の郡山と、東京電力
の恩恵を被っていた東京だけであった。
これで、「国民」から意見を聴いたことにしてしまうわけだが、その後も、福島県
を南北に挟む、宮城県や茨木県の沿岸部の都市では開かれなかった。
海は潮流とともに無限に動くものであり、昨年の8月には、韓国政府でさえ処理水
の「海洋放出」に危惧感を示していたが、”オカ者”中心の考えが、ここでも証明
された。
この3カ所の公聴会での住民のほとんどが、海洋放出に反対であったはずなのに、
どのような経緯と理由があったのか、今月(2020年2月)10日、処理水に関する
政府小委員会は、処分方法は海洋放出と水蒸気放出が現実的な選択肢であるとする
提言を盛り込んだ最終報告書を公表し、政府に提出した。
それは、どちらかというと海洋放出のほうが「利点」があるという内容であった。
誰が言い出したのかは分からないが、またもや「丁寧に」という、政治家や官僚
がよく口にだす流行語が、このときにも使われた。
地元自治体や農林水産業者への説明の提案に形容された言葉である。
福島の漁師は、もはや「丁寧に」という言葉は信じていない。
一昨年の11月6日に、政府は漁業権を地元の漁協や漁業者に優先的に割り当てる
規定を廃止する水産改革関連法を、短期間の審議で閣議決定しているからである。
地元の説明は後回しで、「丁寧」どころか「強硬」に推し進めてしまった。
「疑わしいものは残さず」
この水産改革と一体化したような、今回のトリチウム水の海洋放出の問題も、おそ
らく、これまでの経緯からうかがえるように、直接の被害者になる可能性のある漁
師の意見を聴くこともなく、進められるであろう。
この政府小委員会は、処理水を海洋へ放出することの安全性と経済的なリスクだけ
を議論しているが、風評対策については、何ら具体的な方策を立てていない。
「科学的」に安全であることと、それに対する風評被害は、まったく次元を異にし
た問題である。
むしろ「科学的」に説明しようとすればするほど、その欺瞞性に疑いをもつのは、
生活者の感情として当然のことである。
例えば、その海洋放出を「利点」とする選択理由の一つとして、海洋放出は、水蒸
気放出と比べ、希釈や拡散の状況が予測しやくす、モニタリングによる監視体制の
構築が容易であることが評価されている。
つまり、放出後も「監視体制」が必要な物質を海に流すことを明らかにしている。
また、風評被害はどちらの方法でも発生するものの、水蒸気放出は海洋放出より幅
広い産業に影響が生じ得ることも指摘している。
風評被害を予測して、それならば、比較的に数の少ない福島だけに我慢してもらお
うとも読める文脈である。
「科学的」という形容のもつ、近代の西欧社会から生まれた思考法は、どれだけ生
活者を裏切ってきたか。
事故などあり得ないと、「科学的」に喧伝されたのは、まずその原発であった。
逆に「科学的」に証明できないということで、チッソ水俣工場から海へ有機水銀の
たれ流しを放任し続けてきたのも、同じ日本国家である。
疑わしいものは、子孫に禍根を残さずという考えが、生活者の中に通底している限
り、「処理」水であっても「汚染」水としか思えないのが実情である。
福島の漁師たちは今、海洋放出の見直しを求めている。